創作に対する姿勢を、いま一度考え直したい。
「もしさっき間食をしていなければ」
「もし逆の性別に産まれていたら」
「もしあと五年で世界が滅ぶとしたら」
生きている中で無数に存在する「もし」の話は、創作者であれば、特に物書きであれば一度は考えたことがあると思います。小説は現実世界の中で生じた不満を手軽に解消する手段の一つであるという側面を持っていて、だからこそ創作者である私たちは「もし」の話を作品の中に散りばめておく必要があると感じます。
上では適当に三つの「もし」を挙げましたが、特に二つ目なんかは考えたことがある方も多いのではないでしょうか。物書きに限らず、です。例えば筆者は男ですが、来世があるとしたら女の子になりたいなと思います。生理や妊娠、出産など、女性特有のことは男性の身体を持っている以上経験しようがなく、想像することしかできません。そしてこれらのことは、想像だけでは分かり合えないところも多いと感じます。筆者の場合、男にしては体力がなさすぎ、体格もまた然り、趣味嗜好や共感脳寄りな感性も昔から女の子寄りなところがなくはないので、生まれた時に設計間違えられたんじゃねえかな、と思うこともまた理由だったりするのですが。それは置いといて、「もし」の話が想像以上に身の回りに多くあることは、少し考えれば分かります。最近この「もし」の話、より踏み込むと並行世界の話を意識しながら、作品を書くことが増えました。
最近筆者は、「物書きを続けた結果、何が得られるんだろう」と考えることがあります。
もちろん「物書きは常にエンターテイナーであるべき」という信条も筆者にはあって、読者を楽しませるためには、まず提供者たる自分が書くことそのものを楽しむことが大事、という考えがあることは前提として。筆者はもともとそんな高尚っぽいことを考えてこの創作の世界に飛び込んだというわけではありません。手を使って文字を書く、という行為そのものが好きで、それが話を作るのも好き、という要素と組み合わさった結果、小説を書くことが最適解なのではないかと思い、pixivを始めたところからスタートします。初期は単純に自分が楽しめればそれでよく、また頭に思い浮かんだアイデアを具現化し、小説という形に残して頭の中から排除することで精一杯でした。物書きを始めたのは高校生の頃、ここ小説家になろうでの活動を始めたのは大学生になってからですが、この場所に来てから1~2年ほどは、そうでもしなければ本来の勉強を頭に入れることができないとすら思っていました。筆者のツイッタープロフィール文には「アウトプットがモチベ」という言葉を掲げており、他のちゃらんぽらん物書きを量で圧倒することで、否が応でも認知させるという意味も込めていますが、頭がパンクしそうだからとにかくアウトプットしたい、という純粋な(?)気持ちもあったのです。このような、とにかくがむしゃらに作品を出しまくっていた時期を「第一期」とするならば、今は「第二期」に入ってしばらく経った、と言うべきでしょうか。
筆者が思う自分の創作フェーズの「第二期」は、「信念を込める、信念を問う」といったところでしょうか。これはオリジナリティとは何か、という自問をこじらせた結果であるとも言えます。「第一期」から「第二期」に移り変わったのはいつか、と問われれば、これは明確に「2019年4~6月、長編第6作『絶望捜査官』を執筆していた時期」と答えることができます。
この作品がどんなものかを簡単に説明しますと、絶望を抱くことが悪とされた世界で、絶望を裁く者=絶望捜査官を主人公とし、葛藤や希望と絶望の紙一重さを描いています。自分で言うのもなんですが、これは性善説的な人間であれば、まず思いつかないような題材だと思います。この頃から「人間の醜さ」「ディストピアな世界観」「静かな狂気」など、いわゆる鬱展開につきものな要素が筆者の作品に多く登場するようになります(もちろん例外はありますが)。元から筆者は作品ごとにそれほどテーマを意識して設けて書くような物書きではなかったのですが、この『絶望捜査官』以降、意識しなくとも各作品に重苦しいテーマが付随するようになりました(しつこいですが、もちろん例外の作品もあります)。そして暗く重苦しいテーマや展開がはまりやすい、「人類滅亡後の世界」、すなわちポストアポカリプスの世界観を好むようにもなりました。極端な話をすれば、感情的にも理性的にも動き得る、すなわち作者にとっても時折予想外の動きをする「人間」という存在そのものが、作品展開の進行上邪魔になるんですね。時々はそういう予想外も欲しいけど、いつもは要らないというところです。
正直、筆者はある程度、人間という種族ほど醜悪さの肥溜めから醸成されたものはいないと思っているような人間なので、滅ぶべきだとまでは考えなくとも、まあ滅んでも因果応報、仕方ないだろうなという思考回路があります。例えば人生に絶望し、無差別に人を殺める犯罪が恐ろしいことに時々ニュースになりますが、そのようなことをしようとは到底思えません。幸い筆者はすごく恵まれたと思える環境で育ち、世間に理不尽に不満をぶつけるような価値観はないので、犯罪を犯したときに背負うリスクを考えて恐れます。これを読んでいるあなたも含め、大多数の人間がそうでしょうが、そのような恐れなどもろもろが「倫理観」という形で表に出てくるのだと思います。
ちょっと頭がいいふりをしすぎて何を言っているのか分からなくなってきましたが、この考え方はいわゆる「痛い」「厨二病」そのものです。大真面目にこの考え方一本で生きているような人間であれば、とっくに先述のような醜い犯罪行為に走っているでしょう。ちょっと理性を保ちつつこんな考えを持っているから、第三者は「痛い」「厨二病」と揶揄できる余裕があるのです。ただ、どれだけ揶揄されようと、これは創作者に必要な資質だと思います。なぜならこれくらい壮大な観念を持っていなければ、新しく世界観や登場人物を一から作り出すことはできませんから。そして、人間が醜いことそのものは否定しようのない事実なので、創作者が作品の中で「読者に現実を叩きつける」ためにも必要な思考回路だと思います。よく小説をはじめとする創作物は「読者に束の間の現実逃避をさせるアイテム」だと言われますが、筆者は必ずしもそうでなくともいいと思っています。むしろ、時々は現実の残酷さ、人間という存在のどうしようもなさを突きつけることで、我に返らせることも必要だと考えます。そしていわゆる「なろう系」が素晴らしい現実逃避の手段であり、日々の生活に疲れた人々を楽観的にさせる現代社会の必需品であるならば、「非なろう系」と位置づけて読者に考えるきっかけを与え、深淵に引きずり込むような作品もまた必要でしょう。筆者はそういう作品を多く紡いでいきたいと思っています。
つらつらと語ってきたこれまでのことをまとめると「筆者は性悪説で作品を書き連ねている」になってしまうのですが、まあそれでもいいと思っています。もちろん性善説で世の中を渡り歩けるのであれば、それに越したことはありませんが、現実はそんなにうまく行かないので。そして筆者がこの性悪説と、もう一つ軸として意識しているのが、「並行世界論」です。仮面ライダーシリーズをはじめ、世に出ている様々な作品で登場するこの並行世界、という概念ですが、現実世界で誰も並行世界だと確信できるものを見たことがない以上、並行世界がどんなものなのか、そこにどんな理論があるのか、明確な正解はありません。並行世界を論ずる人の数だけ正解があってもおかしくありません。自分もそんな一つの解を、一連の創作活動によって提唱できればいいなあ、と考えています。
実はこの「最初はただ書くのが楽しいのを原動力にしていたが、だんだん信念を込めるようになってきた」流れは、R18の方でもやっています。つまり筆者は物書きをするにあたって、どのみちこの運命から逃れられなかったのではと思うのです。いつまでも厨二病のような発想を持っておきたいという気持ちと、自分の書く文章が稚拙とはまた違う幼稚性があるのではないか、という怯えとが共存する事実は、理解してもらえる方も多いと思います。そのどこか幼稚なのではないかという思いを、深いテーマ、問題提起によって覆い、包み込む。それが完了し、また創作に対する思想が一段階昇華された時、筆者の創作は「第三期」に移行できるのではないか。その時にはまた新たな気持ちで、もっと書きたいものを書けるのではないかと、考えています。
もちろんそのためには下地として、様々なインプットが必要であることは言うまでもありません。インプットを意識的に行うかどうか、その是非はここでは問いません(個人的には興味を持ったものや日常生活から得られるもので十分だと思っていますが)。ですがそうして、自分なりの哲学を、この物書きという趣味の中で確立し、示していければいいなあと考えています。
結局一言でまとめると「自分語り乙」なのですが、ここまで読んでくださってありがとうございます。これでちょっとは、自分の思考の整理になったかもしれません。なってないかも?