第31話 魔晶石
霧に包まれた峡谷、白霧の峡谷と呼ばれるそれは赤龍の顎門と並ぶ魔境である。
世界を拒絶するかのような真っ白な霧に包まれたその地の謎を解き明かした者はいない。
真っ白な霧が濁り始めたのがいつ頃からなのかは誰も知らない。
ただ、気がつけば真っ白な霧が灰色になっていた。
白霧の峡谷に関しては情報が少ない。
一度立ち入った者で帰ってきた者が居ないからだ。
一度ロープで繋ぎ立ち入った者もいる。丸一日経っても戻ってくる様子のないため、待った者が試しにロープを引くと途中で切れていたのだ。
幾人かがそれを試みたが、皆一様に同じ結果だった。
以来、白霧の峡谷には恐ろしい魔物が住んでいるともっぱらの噂だ。
以来、立ち入る者はなくなった。
調査に向かおうと言い出す者もいない訳ではない。五花国の調査団が訪れた事もあったが、周辺調査だけして、決して立ち入らぬよう厳しく言い含め、あっさりと引き上げて行った。
結局のところはお手上げなのだ。
そんな峡谷に黒い瘴気が漏れ出す呪印の刻まれた結晶を持ち込んだ複数の人間がいた事など知る者はいない。
倒れ臥し、白骨と化した手に握られて放置されている事など、誰も予想はできない事だっただろう。
立ち入る筈のない峡谷を男が一人、しっかりとした足取りで歩いていた。
緩く癖のある髪を一つに束ね、流した前髪から覗くのは縦長の瞳孔を持った深紅の瞳、額には左右不揃いの不格好な赤い角。
それは鬼人の男だった。
人間の成人男性よりも一回り大きいが、鬼人の中では華奢な部類に入る。
整った容貌は冷たさよりも鋭さが先に立ち、どこか近付き難い雰囲気がある。
稀に綺麗と評されるが、そこに女のようななよやかさはなく、年齢に見合った精悍さが男らしさを引き立てる。
旅装の腰からは剣が覗いてはいるがその身を守るのは最低限の要所のみを覆う革製の防具だけだ。
男の足は結晶の前で止まった。
瘴気を吹き出す先端に足を掛ける。
軽く力を加えるだけで、それなりの強度を持つ結晶は支えとなっていた骨ごとあっけなく砕け散った。
人間ならば難しいそれも鬼人の膂力を持ってすれば容易い。
欠片に刻まれた呪印に男は眉を顰め、踏み躙る。
それだけで結晶は空気に溶けるように消えてゆく。
見覚えの黒い襤褸を纏った白骨死体を忌々しげに見下ろした。その指に嵌められた指輪は帝国の暗部の符号だ。
「下らん物を……」
男は吐き捨て踵を返す。
ヴェスト王に言われた数は回収した。
サンプルは数が揃えばそれでいい。
多くある必要はないのだ。
§
一寸先は闇、という言葉がある。
東の地で使われる言葉であるが、白霧の峡谷にはまさにそれが当てはまる。
もっとも、闇ではなく真っ白な霧ではある。
どれだけ歩いても先が見えない。
足元も見えない。
彼女が言うにはこの霧は酸の霧であるらしい。
ひどく弱いものであるが、奥へと進むごとに強くなる。
最初は些細な肌荒れから始まり、痒み、痛みを伴い爛れ、神経すら蝕んでゆく。
そうして動けなくなった者の末路が襤褸を纏った白骨死体だ。いずれは骨も溶けて消えるらしい。
そんな場所を平気で歩けるのは単にフェイの加護のお陰だ。どういう理屈かはわからないが、ザイに触れた霧はただの水になるらしい。
黒の森と言い、本当にとんでもない場所ばかりを巡っている。
視界を遮る程の濃い霧に辟易しながらもザイは迷いない足取りで進んだ。
そうしてしばらく進むと視界が開けた。
焚き火を前に女が座っていた。
黒髪黒瞳の美しい娘だ。
ザイに気付いた娘の表情が綻び、愛らしい笑みを見せた。
「おかえり」
鈴の鳴るような声にザイの鋭さが和らいだ。
「ただいま」
§
黒の森、赤龍の顎門、黄土の荒地、黒鉛の峡谷、紺碧の大森林。そして無色の聖泉
シナリオでキーとなる地がその6つ。
追加シナリオとしてあったのが不死者の聖堂、大鰐の毒沼、静謐の大広間。
私が2年かけて巡ったのがそれだ。
まだ向かっていない土地はあるが、記憶から拾い上げたそれらにはいずれも結晶があった。
あるものはばら撒かれ、あるものは無作為に放置され、またあるものはその地の中心に設置され、ご丁寧にも私が入れないよう結界まで張ってある。
なんとも厄介極まりない。
一人きりであれば、放置せざるをえなかったかもしれない場所だ。
結界の他に何かトラップが仕掛けられていたようだが、ザイがあっさりとそれを壊した。
これはもう、明らかに私への対策で間違いない。
最近ぽろぽろと記憶の底から浮き上がってくるゲームシナリオ関係のそれから鑑みるに始まりは近いのだろう。
迎えに行った当初、十分育ったと思ったザイは気が付けば一回り身体が大きく逞しくなっていた。
これ以上大きくなったらどうしようか、と悩んでいたら、これ以上は大きくなりませんとゴウキに言われて安心した。
鬼種は数が増えたと言ってもまだまだ少ない。
亜人の有角種自体はそれなりに数はいるので深くフードを被っていればそれほど目立つ事はない。今ぐらいが丁度いい。
ザイは予想以上に役に立つ。
ヒトに関して詳しくない私でもザイの強さと器用さはおかしいと気付くレベルだ。
そして歩けば周囲の女たちが一斉に注視するほどの男ぶり。
その辺りの認識が微妙に曖昧なのだが、恐らく、これがチートキャラというものではないのだろうか。
本当にシナリオに関係ないのか疑わしいが、友人の助言やネットの情報を元に最終クリアまで漕ぎつけた私の記憶にはやはり該当する者はいない。
サブシナリオも網羅したし、ガチャやイベント限定キャラなんかも頑張って手に入れた。
キャラの数はそれなりにいたし、忘れているものや印象に残らなかったものもいると思う。
しかし、ザイの容姿はあからさまに狙い過ぎだ。もっと言ってしまえばプレイアブル前提で出されていてもおかしくないと前世の私の判断力が言っている。
まあ、ボツ案だった可能性もなくはない。制作側の意図は知らないけれども。
焚き火の炎を眺めながらツラツラと記憶を整理していると、ザイが皮袋を片手に戻ってきた。
「おかえり」
私がそう声を掛ければザイの目元が緩む。
「ただいま」
ザイは皮袋を地面に置き、濡れた身体を布で拭きながら焚き火の前に腰を下ろす。
皮袋を遠目に確認し、首を傾げる。
「それだけか?」
明らかに予想よりも膨らみが小さい。
「無事な物はこれで全部だ」
ザイをジッと見る。
嘘を言っているようには見えない。
身を起こし、皮袋の中身を確認しようと手を伸ばせば大きな手に阻まれる。
「アンタは触るな」
「中身を確認するだけだ」
「……少し待て」
身体についた水分をさっと拭き取り立ち上がる。
ザイはそれを私に触れさせたがらない。
分かった事はいくつかある。
それが魔晶石と呼ばれるものであること。皇国が技術を提供し、帝国が魔導士と技師を集めて作り出した物だと言うこと。まだ、実験段階であること。
魔晶石は世界を構成する力をヒトの手でコントロールする為に作られた。
その地の有り余る力に干渉し、変質させ、より扱いやすくするためのものであるらしい。
なんとも不遜極まりないと怒りが湧いた。
それは世界の本来の形すら歪める毒だ。
これから育つ為の養分に毒を混ぜ、正しい成長を阻害する。
この世界は安定に向かっているが、私が手を入れなければならない程度にはまだまだ幼い。
歪んだ形でも成長を遂げたとしても長持ちはするまい。
やっと若木に育とうという時に、そんなものを流し込まれたら、この世界は早々に力を失い枯れる事だろう。
ザイが革袋の紐を解き、私に中身を見せる。
中には3つの結晶が入っている。
やはり足りない。
けれど、この白霧の峡谷の中にこの三つの魔晶石以外のものはないのはわかる。
ザイを見る。その深紅の瞳に揺らぎは一切ない。
本当に可愛げがない。
私はひとつ溜息をついた。
「無事なものはこれだけでも、無事でないものは他にもあった筈だろう、それはどうした?」
「壊れた」
「は?」
間髪入れずに即答したザイに思わず聞き返す。
「俺が触ったら壊れた。この霧への耐性は意外とないんじゃないか?」
そんな筈はない。
しれっと惚けた事を口にするザイを胡乱な目で見上げる。
つい、と視線が逸らされる。
「ザイ、いくつ壊れた?」
「6つ」
数はあっている。
「それで納得してやる」
濁った霧は程なくして白さを取り戻す。ならば問題ないと自身に言い聞かせる。
ザイは革袋の口を縛り上げ、雑に投げ置く。
「ザイ、お前何を――」
言いかけて言葉が止まった。
腕を掴まれ引き寄せられたかと思うと気が付けばザイの腕の中に収まっていた。
「フェイ」
昔に比べて低さと重さを増した声が耳に響く。
心がとん、と高く跳ねる。
「今夜は特に寒い」
強請るような、甘えるような声音に私の心はどんどん落ち着きかなくなっていく。
小さなザイが甘えを見せた時のような突き上げる激情に似たそれは、恐らく、別の感情なのだろう。
時折不意を打ってこういう事をするザイをずるいと思う。
だが、それが何故ずるいと思うのか、その理由がよくわからない。
その先の答えを知ってしまったら、私はまた変わってしまう。
その目に見える変化に怖気づいているのだ。
ザイの胸に頬を寄せる。
一瞬その動きが止まる。強請ってくる癖にそれをこちらが素直に受け入れれば躊躇いを見せる。そういうところは可愛いと思う。
ザイの鼓動を感じる。寒いと言う癖に身体は熱い。
鼓動も熱さも私にはないものだ。
こんな時でも私の外面はいい仕事をする。
溜息をひとつ吐き、深紅の瞳を覗き込む。
薄っすらと見える縦長の瞳孔が私の一挙手一投足を逃すまいとしている。
大きな子供の我儘を聞き入れるための困った笑みを口元に浮かべる。
「まあ、今夜は仕方がない」
いつも鋭い目が僅かに緩む。
肩口に甘えるように顔を埋められ、抱きしめる大きな腕に力が籠った。
二十をいくつか過ぎた大きく可愛げのない男が見せる可愛さに私の胸は高鳴った。




