36 家庭訪問6
――ここがフェアリーベル……か。
ヴェルザークの目の前には、いわゆるネオン街に埋もれている安っぽく小汚い建物がある。
色鮮やかなたいまつを使って、楽しげな雰囲気を醸し出して人を呼び込もうとしているところは他の店と同様。
されど清潔感というものがまったくない。
建物全体から発している怪しい店というオーラはぬぐいきれない。店頭の土壁には古びたポスターが貼られており、そのポスターは、もはや現在在籍しているのかどうか分からないくらい色あせた赤い唇のアラフォー女性がウィンクをしている。そして風に煽られる度に、はがれそうになっている。
――この中にナツミがいる。
暗黒鬼神ヴェルザークは、割れた窓から店内へ視界を忍ばせた。
破けたソファーに中年男性が数名がふんぞり返っている。ジンをストレートでがぶ飲みしている。瓶には、ブランド名など張られていない。
如何にも無名の安酒という感じだ。
一人は気持ち悪そうに嘔吐した。
「キャー! 大丈夫?」
厚化粧の女性店員たちがそう言って客の背中をさすりながら、奥の厨房に向かって叫んだ。
「おい、ナツミ! 拭け!」
奥の部屋からナツミが出てきた。
彼女はいったい何をしていたのだろうか。焦点が合っていないげっそりとした表情で、「はい……ただいま」と言った。
雑巾を手にとり、ゲロまみれの床を拭こうとしている。
すると客たちが、
「おいおい、ナツミ。お前、俺のダチの神聖なるゲロを雑巾で拭くとはなんて罰当たりなんだ! 素手で拭けよ! そしてすすれ!」
店員たちも「キャハハ」と笑いながら、「おい、ナツミ。お前のような地味な奴でもこうやって仕事を貰えたんだ。手で拭け! もっと顔を近づけろよ」
そう言い、かがんだナツミの後頭部をハイヒールで押さえた。
奥の部屋から汚げなスーツを着た、ヤンキー崩れのまま中年になったようなちょい悪風な親父まででてきた。ストライプのスーツを雑に着こなしており、染みのついたネクタイを軽く絞った。
「だはははは! ナツミ! お前のオカン、病院で入院しているんだろ? その入院費を誰が立て替えていると思っているんだ!? おら、言ってみろ!」
「ガナン様です」
「そうだ! 俺様がお前を救ってやっているんだ! 俺はお前にとって神だ。そしてお前は俺の奴隷だ!」
「……はい。私はガナン様の奴隷です」
「キャハハハハ! お前のようなクズに神と言われても嬉しくねぇわ! でもお前、よくやるわ。お前のオカン、どうせ死ぬのにな! それでもお前、なんで頑張ってんの? くそ高い回復魔法の学校に通っているみたいだけど、どうせお前、バカなんだから、回復魔法なんて高等魔法を覚えらる訳がない。キャハハハハ」
ナツミは学校でいじめられていても泣くことはなかった。
机をじっと見つめて悲しそうにするくらいだった。だけど床の上に、大粒の涙を落とした。
暗黒鬼神ヴェルザークは拳を強く握った。青い血が地を濡らす。そしてその広い肩が、大きく震えたその時だった。
「ヴェルザーク様」
ヴェルザークは、その声で振り返った。
そこには彼が集めた八つのカルマのうち、もっとも強力な力を持つ冥界の魔女ハディスの姿があった。彼女をよく知る者は、彼女の事を氷の美女と呼ぶ。凍るような美しさとはうまく言ったものだ。誰もが肝を冷やすくらい鋭い切れ長の目に、背中には黒い翼、そして黒い衣装が良く似合っている。
のちにカノンを支配する人格となり、オリジナルカノンこと――アスカと激しく対立していくのだが、この時はまだ、ヴェルザークに忠誠を誓う悪魔の一人だった。
「……ハディスか」
「あの者が9番目のカルマですか?」
ハディスの視線の先に、ゲロを素手で拭っているナツミの姿があった。
「さすがヴェルザーク様です。あのような者を見つけ出すとは。心を氷で閉ざしている私とて、あのようなマネはできません。すばらしい逸材。すばらしい。さすが人間。魔族のもっている感情、そして常識を大きく逸脱している。おそらく彼女の心の内には、恐ろしい力を増幅しているでしょう」
「……ハディス……。君を戦いに巻き込んだのは私だ。だから君がここに来る理由は当然の権利だと思う。だが……」
「ヴェルザーク様、どうされました? お顔が真っ青ですよ」
ヴェルザークは打倒人間を誓っている。自分を追い込んだ勇者は凄まじい力を持っている。その為にハディスを始めとする8人の悪魔を説得した。魔族の栄華を築くためにその命を自分に預けてくれないか、と。
ハディスはそんなヴェルザークに心酔している。
ヴェルザークの為に死ぬ覚悟など、当然の如くできている。
勇者の娘であるカノンを封じ込める為に、7人の同胞を説得しその人柱にまでなってくれると言ってくれた。
ヴェルザークは己の使命を思い出さざるを得なかった。
自分を信じてくれたものの為に、人間を屈服させなければならないということを。
ヴェルザークは少しの間、苦悩した。
だけど苦しそうに小さく漏らした。
「……ここは私に任せてくれないか」
「はい。私はヴェルザーク様の忠実なる部下。如何様にもご命令ください。……これを」
ハディスはヴェルザークに布の袋を手渡そうとした。
「これは?」
「人間界の金です。人間界で自由に行動するには、必ず必要になってきます。ご安心ください。ヴェルザーク様とは全く縁のない人間を抹殺して、手にした金です。では、私は……」
金を渡すとハディスは姿を消した。
ヴェルザークは改めて思い知らされた。
自分のせいで多くの者を、戦いに巻き込んでしまっているということを……
そんなヴェルザークの視界には、オーナーに頭を蹴られながら床を拭かされているナツミの姿が映っている。
――私は……
ヴェルザークは、フェアリーベルに入ろうとしている客を呼び止めた。そして店の窓から店内を指さした。
「悪いがあの子を指名してやってくれないか?」
「は? なんであんなゲロまみれの子を?」
「金はやる。だから高いボトルを入れてやってくれ」
ヴェルザークはハディスから受け取った袋の口を開いて、中身を見せる。
あまりの大金に客は驚く。
それは多くの人間をあやめて作っただろう大金。
だが、ヴェルザークの心配はそれとはよそにあった。
――目の前のこの男は、この金を本当にナツミに使ってくれるだろうか。
客は「兄さん。良いぜ」とか言っているが、適当に言っているだけなのかもしれない。ヘラヘラ笑っている。
だから客の首根っこを掴めて「頼んだぞ! もしナツミが悲しい思いをしていたら、その10倍、いや100倍の苦しみをキサマに与えてやる!」と強く言った。
「あわわあわ。あんた……ヤクザ……!? こんな危険な金、いらねぇよ!」
「……いや……。兄だ」
身内を装えば、おかしくない。
咄嗟にそう判断したが、効果はあったようだ。
困惑していた客だったが、状況を飲み込み、ニヤリと笑った。
「……あ、……そうかい。分かった。任せておきな」
客はこのようにくらいにしか思っていないのだろう。なんかよく分からんが、遊ぶ金はできた。まぁ、義理で一応はナツミを指名してやるが。
ヴェルザークはそれでも良かった。
悲しそうなナツミの姿をこれ以上見るのが耐え切れなかった。
自分が出ていけば、怒りに身を任せて店のオーナーをぶち殺してしまうだろう。そしてナツミの人生を台無しにしてしまう。それだけはダメだ。今まで頑張ってきた彼女の努力をすべて無にしてしまう。
ヴェルザークは金を託し、ナツミがテーブルに招かれたところまで見届けると店に背を向けて暗闇に消えた。
――私は鬼神。人間を不幸のどん底に叩き落とすことが我が使命。その為に多くの同胞をすでに巻き込んでいる。私のために命ですら捨てる覚悟の魔族だっている。でも……3年C組のみんなは幸せになって欲しい……




