28 嫌われ者の未来1
アスカ……
それはカノンの自我が、咄嗟に名乗った仮面の名前。
その言葉の通り、マスクで己を隠している。
どうして仮面をしたのか。
ただ単に正体を隠したかっただけなのか。
それとも……
あの男はそういったことを絶対に気にすることはない。
他人の所為など、まったくもってどうでもよいこと。
あの男が気にすることは、至ってシンプル。
自分にとって損か得か、ただそれだけ。
他人がそれをどう思っているのかなんて関係ない。
少なくとも彼自信は、口癖のようにそう言っている。
アスカは女子トイレで仮面を外し、いつもの軍服に着替え、アイテムボックスから愛刀のサーベルを取り出して腰に差し、もといた場所に戻ろうとしていた。
観客の去った閑散とした狭い通路。
そこにあの男が立っていた。
無言のままクールな眼差しで、普段通りのスタイリッシュな黒いスーツ姿で。
カノンが伊藤の気配に気づき、顔をあげる。それに相槌を打つかのように眼鏡の中央を指で押さえた。
「……伊藤さん、どうして私を助けた? 嫌われ者のこの私を」
正直、カノン・アスカは不思議でしかたなかった。
試合が中盤に差し掛かった頃、カノンは女子トイレで一人苦しんでいた。
何もできない自分がもどかしかった。
もしかして泣いていたのかもしれない。
トイレから出ると、そこには伊藤の姿があった。
そして自分にひのきの棒を売ってくれたのだ。最低限ではあったが、ヒントまでくれて。
確かにそれを望んでいた。
カノンは知っている。
ギルドでは誰にも相手にされなかった戦士ヴァルナを、聖騎士にまで成長するきっかけを与えたのは伊藤。そして珍念が大僧侶になったのも伊藤との出会いが大きかった。
それだけではない。
伊藤の店に訪れて、大成していった冒険者は他にもまだまだたくさんいる。
剣聖マキシム。エルフのノエル。ニートのエリック……
だけど伊藤は自分が認めた相手にしか、ひのきの棒を売らないことは、カノン・アスカは今までの経緯から良く知っていた。
でも自分に置かれた状態は、まさに八方塞がり四面楚歌の状態であった。
そしてこの窮地から脱出するには、数々の冒険者をスタイリッシュに救ってきた伊藤しかいない。口では損得でしか動かないと言う、彼にしか……
だけど自分の眼鏡にかなった者にしか、ひのきの棒を売らない。
それが伊藤なのだ。
なのに――
それなのに、どうして――
「私は嫌われ者だ。なのに……」
「はい、あなたは嫌われ者です。みんなに嫌われています」
知っている。
もう慣れた。
誰もが私の敵だ。私を憎んでいる。
唯一私を慕ってくれるのはアーク達をはじめとする砦にアジトを構える敗戦続きの兵士たち。
だが彼らが慕うのは、本当は私ではない。
彼らに進むべき道を示したあの人のことを慕っている。
そう、兵士たちが慕っているのは、訳あってこの体を使用していた魔王の人格なのだ。
この世界のすべての住人は、私を嫌っている。
それは分かっている。
カノンは言われても仕方ないと思っていた。それだけのことをしてきたのだ。だけど、面と向かってハッキリそう言われたのだ。
――お前はみんなに嫌わている、と。
返す言葉すらない。
そんな自分に、この男はひのきの棒を売ってくれた。
それは情でしかないと思っていた。
だって、嫌われ者を助けて何のメリットがあるというのだ。
伊藤はもう一度眼鏡の中央を指で押し、静かに口を開いた。
「あなたは自分を嫌われ者と何度も蔑んでいる。それはどうしてですか?」
カノンは軽く笑う。
「ふ……、あなたは私の事を何も知らない。私は嫌われ者。そしてそのことにもう慣れたわ。それが私の今までしてきた業。だって誰が私の事を好きになってくるというの? まさか物好きの伊藤さんが私に興味でも抱いた?」
「はい」
カノンはエッと声を漏らし、真っ赤な顔で伊藤の方に顔を向けた。
「はい、わたくしは、あなたがどこまで人に嫌われていくのか興味があります。あなたのおっしゃる通り、あなたを好きな人など誰ひとりいません」
さすがのカノンもこの言葉には堪えたのだろう。
顔をうつむかせた。
そしてこの場にいるのも辛いのだろうか。
歩き始めようとしてきた。
伊藤は言葉を続けた。
「そう、あなたの価値はゼロに等しい」
そんなこと、知っている。私は嫌われ者。それだけのことをしてきた。自分だけが優雅に生きる為にすべてを利用してきた。だからこれは当然の結果だ。
そんなこと分かっている。
分かっている……
でもカノンの拳は、ギュッと強く握られていた。
「人は過去をどうやっても修正することはできません。あなたには、どうしもない過去しかございません。とんでもない過ちを繰り返してきました。もうすでに終わっています。幸せになる権利などありません」
分かっている……
そんなこと、分かっている……
「これはわたくしが言っているのでありません。あなた自身が、そうおっしゃっているのです」
「え?」
「もう一度言います。カノン様、あなたの価値はゼロ、あなたには幸せになる権利などない――この言葉はあなた自身が言っているのです。『私は嫌われ者。それでいいのだ』、という言葉に置き換えて」
カノンは言葉を返せなかった。
私は嫌われ者。口癖のようにそう言い続けてきた。
その理由を自問自答することもなかった。
そう言いつづることで、自分自身が楽だったのかもない。
嫌われ者、でも本当は……
そういった感情がなければ、このようなセリフ、口にしない。
言う必要がないのだから。
本当に嫌われ者になりたいのなら、黙って悪事を働き、陰で人の不幸を笑えばいい。甘い汁を一人ですすればいい。人の失敗を手を叩いて喜べばいい。敢えて自分が嫌われ者だなんて、言う必要などどこにもないのだ。むしろ人気者のふりをした方が、悪行を遂行しやすいだろう。
そう伊藤が言っているような気がした。
この男は、心の奥底まで見透かしているのだろうか。
伊藤は静かに口を開く。
「わたくしは損得でしか動きません。それが商人。あなたがこれから更に嫌われていこうが、誰かに好かれようが、別にわたくしにとってどうだっていいことです。ですがひとつだけ、お伝えしておきます」
カノンは顔を上げた。
目は見えない。
だけどきっと、伊藤の次の言葉を聞きたかったのだろう。
「敵チームのリーダ。ギガスウォーリア。彼が倒れる瞬間、あなたの行動に心打たれ涙しました。そしてあなたはその細い体で、巨体の彼を背負い医務室に運び、そっと頬を撫でた。それはきっと彼の顔を見たい、そう思ったのでしょう。
あなたの過去はもはや修正などできません。
あなたができること。
それは未来をどう生きるか、それしかありません。
あなたが憂うのは、ご自身の将来なのか、それとも野球の行く末なのか、わたくしが推測するようなことではございません。あなたの目標は、あなたが勝手に作成すればいいだけのこと。幸せになりたいのか、不幸になりたいのか、正義か、悪か、それはあなたの決める道。あなたがご自身を悪女と言い張るのなら、それもありかと。ただ――」
ただ……
なに……
「あなたの立ち振る舞い。かなりスタイリッシュでしたよ。わたくしは嫌いではありません」
最後にそう言うと少しだけ口元に笑みを浮かべ、伊藤は立ち去った。




