プロ初戦
「ううう、寒い。老体に堪えるね」
加藤貴子の朝は早い。
15歳でプロ入りして57年の間勝ち負けの世界で生きている。
将棋は座ってのんびり指している様に見えるが、それは縁側で指している将棋だ。
プロの対局はかなり体力を使う。
一局指せば2~3キロ体重が落ちるなんて良くある事だ。
「さて、まだまだ引退はしたくないよ」
そう言いながら、熱いお茶を飲む。
片手に棋譜を見ている。
あまり知られていないかもしれないが、プロ棋士も野球選手やサッカー選手の様に結果が出せなければ強制的に引退に追い込まれる制度だ。
加藤貴子も若い波には勝てず、最近では黒星を重ねている。
「う~ん、やはり若い子の指す将棋は難しいわね」
時代と共に将棋も変わっていく。
時代は流れていく。そして『時代を作る』『時代に乗る』『時代について行けない』恐らく3パターンだろう。
残念ながら加藤貴子は……
「さて、行きますか。可愛い弟子達の敵討ちと行きますか」
三段リーグで桐島歩に負けた、加藤貴子の弟子も数人いる。
スーツを着込み、背筋もピシッとしている。その姿は70歳台にはけして見えない。
竜玉戦第6組初戦
加藤貴子九段 対 桐島歩四段
注目の一戦だ。
期待の史上初の男性棋士の初戦の相手と注目されているのか、もしくは加藤貴子の引退試合なのか?
加藤貴子はタイトルに縁の無い棋士人生を過ごしている。
一度もタイトルを獲得していない、だが加藤貴子こそこれまでの時代を作った本人だろう。
多くの戦法を編みだし、多くの弟子も育てて来た。
57年間の棋士生活で長期休業は一度も無い。
その加藤貴子の時代が終わろうとしている。
本人が1番わかっているだろう。
これから対局する相手は既に盤の前に座っている。
「おはようございます」
「……おはよう」
思わず見とれてしまいそうなぐらいのたたずまいだ。
更に銀子の雰囲気もどこかあるね、孫っていうのは本当らしいね。
「私も57年も棋士をやっているけど、初めてだね。男と対局するのは。最後の対局で初体験とは変な感じだね」
「最後?私は何を言っているんだい」
ふと笑みがこぼれる。
それと同時に違う感情がわく。
負けたく無いという感情では無い……
もう、負けると思ってしまっている自分は、勝負師としての限界という事を。
午後9時対局が始まる。
「加藤貴子九段の先手番でお願いします」
記録係の振り駒の結果、加藤貴子の先手番に決まる。
「私が先手番かいね。最後は矢倉で終わりたいね」
その意図を汲み取ったのか、桐島歩も矢倉で迎えうつ。
本来の桐島歩は後手番では相手が矢倉模様で来ると、急戦で迎えるが、今回矢倉戦法の第一人者の加藤貴子に矢倉戦法で戦ってみたいという両者の意図がマッチした形だ。
「やっぱり矢倉は美しいね」
矢倉戦法とは殆ど全部の駒を動かす事から、美しいと言われ、将棋の純文学とすら呼ばれる。
矢倉を指せないと名人にはなれないと、勉強させられたものだ。
一進一退の攻防が続き、既に夜になっている。
加藤貴子はゆっくりとお茶を口に含み、呼吸と気持ちを整えて、
「負けました」
57年のプロ棋士人生に幕をおろした。




