芥子と下剤と三倍返し
※注意。この作品も、徹頭徹尾、ギャグに走った作品です。
――立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風のことを、春一番という。そして、春一番が吹いた日は一時的に気温が上昇するが、翌日以降は、再び寒さが戻ることが多い。こちらは、寒の戻りと言う。
「ホワイトデーに戻ってくるなよ。ただでさえ、バイクの震動が下腹に堪えるというのに」
ヘルメットの内側で、こめかみに青筋を立て、額に冷や汗をかいている青年が、向かい風に吹かれながらも、河川敷の道路を直走っている。
――横断幕や垂れ幕に「バレンタインのお返しは、ぜひ当店で」というような商売っ気百パーセントのキャッチコピーが踊る中で、僕は、どうしてこんなことをしているのだろうか? 保守的な紳士が今の僕を見たら、きっと顔を顰めるに違いない。
「いや。正気に戻ったら負けだな」
青年は、交差点で一旦停止すると、左右を確かめ、その先に住宅街が広がる右の道へと進む。
*
――事の始まりは、後輩に、間違って罰ゲーム用のチョコを渡してしまったことにある。
「何故ここに、白い箱が残っているのだろうか?」
紙袋を覗き込みながら、青年がアパートの玄関先で、茫然と立ち尽くしている。
――整理しよう。ここに、ホワイトデーの慣行に則ってラッピングした箱があり、本来あるべき漆黒の箱が無いということは、つまり、このあと来る敏哉に渡すべきそれを、誤って彼女に渡してしまったということである。かく示された。
「これは、何というミスだ。入念に立てた計画が台無しじゃないか。何とかして、後輩の手からチョコレートを取り返さねば。しかし、どうしたものだろう。……ハッ!」
青年は、玄関脇にあるカラーボックスに手を伸ばし、最上段に入れてある引き出し収納を引っ張る。そして、中にケースで仕切られている書状類の中から一通のダイレクトメールを引き抜き、引き出しを押し込めつつ、左上にステープラーで留められ、表面に試供品と書かれたパウチを千切りとって開封し、内包されていた白い錠剤を掌に乗せ、疑わしげな眼でジッと睨みつけながら、ゴクリと生唾を飲み込む。
――どうか、広告文に虚偽誇張表現がありませんように。チューブ一本分の芥子と、大凶と書いた紙が入っているビターチョコレートを、「お返しがもらえて、とっても嬉しいです」と満面の笑みで受け取った後輩の口に入れるわけにはいかない。普段は唯物論者だけど、今日ばかりは頼みますよ、神さま。
青年は、意を決して錠剤を飲み込むと、すぐにヘルメットと紙袋を片手に、玄関を飛び出す。
*
――家に誰か居るときは、だいたい鍵が開いてるから、とは言っていたが、まさか、ここまで無用心だとは思わなかった。今日ばかりは助かるけど、防犯のイロハを教えておかねばならないな。
適度に物が散らばった、非常に生活感が溢れる建売住宅のリビング。青年は、口を真一文字に引き結びながら、よくわからない気合いを入れて冷蔵庫のドアを開ける。
「ヤアッ! ……フゥ、セーフ。ラッピングされたまま入れられてる」
青年はホッと胸を撫で下ろすと、紙袋から白い箱を取り出し、冷蔵庫に置いてある黒い箱と取替え、そっとドアを閉める。そして、顔を引き攣らせながら廊下に向かい、その先にある、勘亭流のフォントで厠と書かれたステッカーが貼ってあるドアを開け、中に入る。
――ジーンズとトランクスを下ろして、この陶器の城に用を足せば、計画の軌道修正が完遂する。あと少しだ。
*
――そんなこんなで、一ヵ月が経った。今にして思えば笑い話だが、遂行する当事者にとってみれば、一世一代の大勝負だった。ちなみに、あのときのチラシには、次のような宣伝文が書かれていた。
“同封されている下剤を飲むと、服用後すぐから大用を足すまで、時間を止めることができます。ただし、手洗い場以外で大便を排泄した場合、そのまま、その時間に閉じ込められます”
――いかにも怪しい広告だったから、可及的速やかに廃棄しようと思ったんだが、くずかごに投下する寸前、どこか腑に落ちない点があり、先送りにしたんだ。その判断のおかげで、高校卒業後の今もなお、恋愛関係にヒビが入ることなく、付き合いが続いている。過去の自分の決断を称したいところだ。
「……待てよ」
青年は、冷蔵庫のドアノブに手を掛けたところで、ハタと動きを止める。
――そういえば、バレンタインのとき、彼女から渡されたのは赤い箱で、冷蔵庫を開けたら青い箱に変わっていたような……。
「僕と同じように、すり替えたか? ……いや。そんなわけないな」
青年は、すぐに気を取り直し、冷蔵庫のドアを開けた。
いかがだったでしょうか。この作品は『山葵と錠剤と聖人祭』と鏡合わせになっています。青年と少女のことが、よく分からないというかたは、前作に戻って、お確かめくださいませ。