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四章


   四章

 目が覚めた途端、飛び込んできたのは視界いっぱいの青だ。

 その一色以外を見つけられず、焦りで思考がちりじりになる。

 ガサガサとした感触と、湿った、濃い土の匂い。自分は土の上に横たわっている。その上にブルーシートが掛けられているのだと気づくのに数秒。現状が分かっても、その意味は分からない。

 夜、雨の中。バイクで、倒れた人、濡れたアスファルトに染み出した赤黒い液体。

 断片的にフラッシュバックした映像に、息が詰まる。

 両脇の土壁がせり上がって、体が埋没していくようだ。上からドサドサといろんなものが降ってくる。

 これは罰だ。ケイを殺した。

 それを忘れたことの罰だ。

 大きな穴だ。そこに横たえられた体。

 血の気のないケイの肌、雨で張り付いた髪、汚れた服。

 埋められた。ケイは、穴に埋められた。

 その穴の中に、いま二人でいる。

 暗くて冷たい、濃い土の匂い。

 怖くて仕方がないのに、どこかでもういいか、という気もしている。

 隣に横たわるケイの、固く閉じられていた瞼が開いた。目と目が合う。

 緩やかに閉じかかっていた意識が、こじ開けられる。逃げようと身じろぐ左手を、ケイの大きな手が強く強く掴む。

 作り物めいた白い顔が、近づいてくる。

 息がかかりそうな程に近寄った唇が、スローモーションに見える。

「    」

 なんだ、なんて言った。なんて言ったんだ。聞こえない。いや、思い出せないのか。

 報いを受けろと言うなら受ける。死ねと言うならそうするから。

 だから、だからケイ。






「ありがとうございました」


 診察室を出て振り返ると、OL風の女がこちらを見てにっこりとほほ笑んだ。


「こんにちは」


「え・・・っと、こんにちは」


 どうやら自分に話しかけているようだが、誰か分からず仁奈は首を傾げた。


「あ、ごめんなさい。初めてお会いしますね。伊波です。中山先生の担当の」


 慣れた所作で名刺を取り出し、女が言った。


「あ、編集者さん・・・の方ですか」


 正体は分かったが、なぜここで声をかけられたのか判然とせず名刺と顔を交互に見る。


「はい。先生に伺っていたのでつい声をかけてしまいました。笠谷さん、ですよね?今日は先生とご一緒に?」


 笑顔で言い、朔太郎を探すように周囲に視線を巡らせる。


「いえ、一人ですが・・・」


「あら?今日先生の検査の日ですよね。てっきり一緒にいらしたのかと・・・お怪我を?」


 引き摺っている足に目を止めて、眉を寄せる。


「あ、ちょっと、転んでしまって」


「そうだったんですか。お大事に。先生はまだ来てないみたいですね。どうしたんでしょう。おうちにまだいらっしゃるのか」


 ううん、と腕時計を確認ながら首を捻る。


「あのもし、時間がありましたら・・・少し、お話をしてもいいですか」


 顔を上げ、徐に伊波が提案してきた。


「え?はあ、大丈夫ですけど」

 

 驚いたが特に断る理由もなく、頷いて病院を出てすぐのカフェに入った。

 しばらく話しかけられることもなくお互いに黙っていたが、注文した飲み物が来たところで仁奈は意を決して口を開いた。


「伊波さんは、担当になってから長いんですか」


 問いながら、イナミという名前を思い出していた。朔太郎が前に話していたことがある。


「一年近くになりますね」


 一口飲んだ紅茶の杯をソーサーに戻し、笑みを向ける。


「じゃあ、朔・・・中山さんのことは」


「事情は・・・でも、最近の先生の様子はちょっと心配になりますね。先日も、おうちにお邪魔したときなんですが、かなり憔悴したご様子でした」


 うちに、という言葉を仁奈は口の中で呟く。最後に会った日の事を思い出すと胸が痛かったが、それ以上に体調が気がかりだった。頭痛や眼精疲労、肩こり腰痛などは朔太郎の場合デフォルトだが、ここ数日の不調度合は見ていても辛いほどだった。単なる疲労を超えている、何か大きな問題を抱えているように見えた。


「笠谷さんは、病名をご存じですか」


 じっと考えていると、伊波が数枚の紙を出してテーブルに置いた。


「・・・解離性健忘症、と聞きました」


 朔太郎はもう覚えていないだろう。出会って間もない頃、治療中に会話にズレがあるなと感じた時に説明された。自分は、事故の後遺症で記憶障害を持っている、と。


「はい、解離性健忘症。外傷的出来事と関係していることが多いとか。先生の場合はやはり三年前の事故が原因でしょう。意識を変容させることで、精神的葛藤やストレスに対抗する防衛機制だそうです。症状としては、一時的に記憶を失っている。記憶にないことを他人に指摘される。知らないことで他人が怒ったり親しげにしたりする。知らない内にどこかにいる。知らない名で呼ばれる。人間関係や会話を思い出せない。通常は短時間から数か月で回復するそうですが」


 仁奈も調べたことがあるので知っている。三年前の事故は、それだけ朔太郎にショックを与えた。三年という月日が経過しても、全く癒えない傷を残すほど。


「なりやすい人としては、十代から二十代の比較的若者。知脳は平均以上。表面的には明るく親しげでありながら、自己主張できない。現実逃避的で抑鬱傾向、もしくは自己破壊的傾向がある。社会的に孤立していて、顕陽性性格傾向、虚言壁、慢性的葛藤を抱えていて、遁走に関して無関心、または独特の見解をもっている」


 資料を読み上げながら、きれいにラインが引かれた切れ長の瞳がこっちを見た。


「状況に適応するため作話傾向があり、自己防衛のためにノートをとる」


「知っています。・・・私も、調べましたから。知覚異常や失立、失歩、失神、視野狭窄や眩暈、頭痛を併発することがあるとか」


 視線が絡まった。伊波の真意は、表情からは読み取れない。


「なんていうか、まさに中山先生の感じですよね。本当に・・・三年前に何が起きたのか」


 ため息を吐いて、ゆっくりとお茶を飲む。


「笠谷さんは、事故の後に知り合ったんですよね?」


「はい、左手の治療に来たんです」


 質問というより確認のような訊き方だ。朔太郎は自分の事を、どんなふうに話していたのだろう。


「・・・三日しか記憶のない男性との恋愛って、不安になりませんか」


「え?」


「あ、ごめんなさい。失礼ですよね・・・とても信頼し合っていらっしゃるから」


 別れを告げた時の朔太郎を思い出す。積み上げたものがないから、信じられないと言った。あの言葉に続くものはなんだったのだろう。


「・・・彼には、誰かに愛される安心感が必要なんだと思います。彼は、自分を愛せないから。・・・私がその安心をあげられるなら、嬉しいと思います」


 まっすぐに顔を上げて言った。朔太郎とちゃんと話し合わなければならない。自分の気持ちを伝えなければならないと仁奈は思った。


「素敵ですね。お互いを、とても思い合っていらっしゃって。・・・でも、それじゃあ尚更、今の先生の状態は心が痛まれるでしょう」


「そうですね・・・」


「幽霊が出る、だなんて・・・無理に思い出そうとして、心にも体にもかなりの負担がかかっていますよ」


「ユーレイ・・・」


 その幽霊は、三年前の出来事になにか関係があるのだろうか。


「先生にとって、思い出すことが必ずしも最善ではないと思うんですが・・・、絶対に思い出さないといけないんだと仰って。今日は逆行催眠の日でしたので、気になって来たんですけど。どうして急に、こだわり始めたんでしょう?」


 たしかに朔太郎は、今までさほど過去に執着しているようには見えなかった。丁寧に日常を積み重ねてきたが、それが全部崩れることも辞さない勢いで、失われた時間を取り戻そうとしている。


「・・・なにか少し、思い出したのかもしれません。大事なこと」


 ぽつりと呟くと、伊波が驚いたように聞き返す。


「何か聞いていらっしゃるんですか」


「いえ。なんとなくですけど。朔太郎自身、確信が持てないから、急いで思い出そうとしているんじゃないかなって」


 それは仁奈が恐れていたことでもあったのだ。隠して閉じ込めていた過去が溢れ出し、現在を根本から切り崩すのではないかと、いつもどこかで感じていた。 

 朔太郎は、優しい夢から醒めようとしている。



「笠谷さんは、止めようとは思わないんですか」


 伊波が、じっと見ている。


「思い出しても、何も良いことはないんじゃないですか」


 全て取り戻した朔太郎は、もう一度自分を必要とするだろうか。心変わりをするかもしれない。


「確かに、辛い想いをして思い出したものはさらに苦しいものかもしれませんけど。それでもちゃんと向き合って、がんばろうとしているから、私は応援したいです」


 自分一人で抱え込んで、勝手に決めて去って行った。悲しさも憤りももちろんあるが、改めてその強さも弱さも愛おしいと思ったのだからしょうがない。


 伊波と話しながら、だいぶ気持ちの整理がついた。すっきりした気持ちで顔を上げると、伊波は考え込んでいるようでテーブルの一点を見つめていた。


 しばらくして、無表情のまま伊波が口を開いた。


「彼が人殺しでも、あなたは彼を好きでいられるの」


 投げかけられた言葉は、軽く予想の範疇を超えていた。


「それは、どういう・・・」


 例え話にしても随分な内容だ。目線はまっすぐ、自分に向けられているはずなのに焦点が掴みにくい。項の辺りに感じていた嫌な予感が、じわしわと背中を伝い降りる。


「伊波さん、は・・・あなたは、なんで朔太郎に近づいたんですか」








「サク!」


 呼ばれて朔太郎は振り返った。

 空は雲一つなく、青い。目が眩んで眇めた視界に、笑顔の友人が駆けてくる。


「イブ。もう帰んのか」


 高校からの友人は、携帯で時刻を確認してああと眉を顰める。


「今からバイト。ったく、めんどくせえ」


 肩掛け鞄に携帯をしまい、自転車の鍵を出しながら毒づく。


「バカ息子がつっかえなくてよう」


「次男だっけ」


「そ。長男と三男はそうでもないんだけどな、次男がダメなんだ次男が」


 ラーメン屋でバイトをしている伊深は、どうやらそこの息子と馬が合わないらしい。


「女将さんは好きなんだけどなー、賄うまいし。ただ、あいつがいると思うと憂鬱だー」


「いつまでやるんだ?バイト」


 この春で二人は大学四年生になった。生徒の大半が、次の進路に向けて本格的に動き出す一年になる。朔太郎は大学院に進もうと考えているので、院試に向けて準備が必要だ。


「うーん、まあギリギリまでかな。なるべく稼いでおきたいし」


「イブは研究室に入るんだろ?」


「入れればね。魔女の御心次第だなあ」


「篠崎教授か。可愛がられてるじゃん」


「まあねー。サクは帰るのか?」


「ん、少し部室寄ってく」


 大学には、実に数百と噂されるサークルが存在する。名前だけのものから世界を目指すものまでいろいろで、細分化され、部室を持っているのは中でも比較的まっとうな活動をしているサークルといえる。といっても、二人が所属している文芸部はかなりゆるい活動内容で、雑然とした狭い部室で各々好きなことをしているのが主だ。


「そっか。あーあーしっかし、早いよなあ。時間経つの。このまま止まらないかな。ちょっとでいいから」


 自転車に跨って、伊深が盛大にため息を吐いた。


「時間泥棒いるよな、絶対。やっと受験終わったのにもう四年なんてな」


 日暮れの構内では、初々しい一年生が上級生に声をかけられている姿がそちこちで見られる。今年は我が文芸部に新入生は入るだろうか。誰も彼も気の合う者同士で、現状で充分だとあまり新規開拓に興味のない部員ばかりだ。


「ムラとトムは?」


「ムラとタツが多分、部室にいる。トムはバイトつってた」


「そっかあ。あー俺も交ざりたい。行きたくない」


「とかなんとか言いながら、サボったりしないんだよな、イブは」


「ああ、まじめな俺のバカ。しゃあねえ、行くか」


 ずり落ちた眼鏡を直し、ペダルを踏み込んで手を振る。


「じゃあ、また明日な。気を付けて帰れよ」


「ああ、イブも。がんばって」


 坂を下りていく伊深を見送って、バラックの集合体のような古いクラブ棟に向き直った。


 少しずつみんな変わっていく。時間は残酷なほど平等に変化を運んでくる。この一年は、どんな一年になるだろう。地下鉄工事の柵を避けながら、朔太郎はゆっくり歩きだした。




「うーわ、最悪・・・」


 扉を開けてすぐ、外の景色に朔太郎はがっくりと項垂れた。


「うわっ、ひっどい雨!ええー・・・サクさん、バイクで帰るんですか」


 一つ年下のタツが訊いてくる。


「ううん、そうだなあ」


「サク、一緒にタクシーする?途中まで。もうバスないし」


 ムラが魅力的な提案をしてくれたが、仕送り前の大学生にはたとえ半分でも痛い出費だ。


「いや・・・金ないし、今。大丈夫だ、カッパあるし」


「まじすか」


「まじで?いいぞ、あとでも」


「大丈夫。バッと帰ってすぐ風呂入るから。ムラはまだ電車あるんだろ?」


「まあねーじゃあ、気を付けてな」


 心配する二人に笑顔で手を振って、大きく息を吸い込み、意を決して飛び出した。楽しい時間は殊の外早く感じるものだ。していたことといえば他愛もない話をしていただけだが、それが時間を忘れるほど面白いのだからいまこうなったのも自業自得だ。


 風に乗って強まったり弱まったりする雨は、容赦なく叩きつけて視界が悪い。信号を待ちながら、バイザーを上げて顔を拭う。こういう時に、車持ちはいいなと思ってしまうのだが、苦労して手に入れた愛車なので後悔はしていない。と、自分に言い聞かせる。


 と、後ろからものすごいスピードで車が脇をすり抜けて行った。


「うわっ!」


 跳ねあげた水を頭から被る。もともとずぶ濡れだが、それにしても恨みたくなる瞬間だ。


「んだよ、もー・・・」


 気を取り直してアクセルを握り、バイクを加速させた。水溜りをばしゃばしゃいわせながら、カーブを曲がってすぐ、地面に丸い明かりを投げ掛けていたライトが何かを捉えた。黒いだけのアスファルトの上に、白いものがある。


 ハンドルをきり、バランスを崩した体とバイクが横転して滑っていく。


 瞬間、消えた音と雨の感触が遅れて叩き付けてきた。肘を着き、膝を着き、ゆっくりたちがる。ぐらりと頭が傾いで、重いヘルメットを脱ぎ捨てた。バイクは数メートル先で、見当違いの方向にハイビームを飛ばしている。


 何を見たのか。


 地面に転がっていたのは、一瞬だったがあれは。


 振り返ると、どろりとしたものが瞼を伝った。雨と一緒に拭って、目を凝らす。降りしきる雨に叩かれ、アスファルトの上に横たわっているのはたしかに人だ。


 力の入らない膝を叱咤して、倒れている人物に近づいた。


「大丈夫ですか」


 近づくにつれ、その人物が男性であること。長身で自分よりも些か年嵩であろうことがわかる。顔はこっちを向いていないが、耳や手が真っ白でかなり冷えていそうだ。


「いますぐ、救急車を」


 彼の周りの水溜りが赤いことに気が付いて、携帯を取り出そうとポケットを探りながら言いかけたところで、朔太郎の意識はぶつりと切断された。




 ぼんやりと、朔太郎は立っていた。

 気づけばその状態で、直前までどこでどうしていたのか覚えていない。

 陽は高かった。昼を少し過ぎたところだろうか。空を見上げて、眩しさに手を翳す。持ち上げた手は、ひどい状態だった。血と泥で、ずいぶん汚れている。見れば全身そんな有様で、派手に地面を転がりでもしたようだ。

 ここはどこだ。辺りを見回して少し考える。大学近くの、団地だと気づいた。

 ではそこで、自分は何をしているのか。持ち物は無い。付近にも落ちてはいない。

 一歩踏み出すと、ぎしぎしと関節が痛んだ。体中が軋み、鈍痛を伝えてくる。立ちくらみがして、転倒した。反応が鈍く、受け身をとる余力がない。緩慢な動作で立ち上がろうとして、上手く起き上がれない。右と左と上手くバランスがとれず、不恰好に転がる。片手と膝を使って、ようよう立ち上がった。


「ちょっと、あなた大丈夫?」


 女性が声をかけてきた。答えようとして、なんと答えたらいいのか分からずに口ごもる。


「いま、救急車呼んだから。動かないで座ってなさいよ」


 へたり込みそうになった体を傍らから男性が支えた。いつの間にか何人か集まっていた。


 救急車なんて、ずいぶん大事じゃないか。大丈夫だと言って立ち去りたいのに、思考も体も統制がとれない。あっという間に救急車が来て、ストレッチャーに乗せられた。隊員の質問に答えながら、左手の事が気になっているのに明確な答えが得られない。目まぐるしく色々なものが通り過ぎ、病院に着いて医師がまた質問を繰り返す。分からない。混乱している。


「今日が何月何日か言える?」


「・・・四月、二十日」


 大学でサークル仲間と喋っていて、帰るころには日付が変わろうとしていた。雨の中、バイクを走らせて、そして。


 記憶が飛んでいる。場所はさほど移動していない。悪路だったから、転んで頭を打ったのかもしれない。


「このペンで、名前を書いてみて」


 目の前に差しだれたボールペンを取ろうとして、やはり左手は動かなかった。右手で受け取って、苦心して名前を書いてみたがとても読めるような代物ではなかった。


 大丈夫だね、と医者は言ったが全然大丈夫じゃない。右手は利き手じゃない。

体全体がひどく重怠い。それでも、首も四肢も動かそうと思えばぎこちなくても応えがある。だが左手だけは全く動かなかった。肩を動かすと、ぶらぶらと揺れる。肘から先が、命令を無視する。


「今日は四月二十三日。三日ズレてるね」


「三日・・・?わかりません。それよりあの、俺の左手、どうなってます?」


 医者と看護師が顔を見合わせた。怪訝に問い掛ける。


「左手が痛いの?」


 動かない、と訴えた。感覚もない。


「力を入れてみて。思い切り」


 握手するように手を握って言われるが、全く力が入らない。医者の顔つきが変わった。首の辺りや肘、手首と叩いたり目の焦点を確認された。MRIも撮った。


 だが、左手が動かない理由は分からなかった。


「う・・・ん、まだ興奮状態だし、少し落ち着いてから帰るように」


「迎えの方が来るまで、寝ていてください」


 結局誰も、何も分からないまま様子をみるということで、ベッドに寝かされた。カーテンに区切られた白い天井を眺めながら、ただドキドキした。じわじわと不安が染み出してくる。駆け付けた母の顔を見た瞬間、色々な感情が込上げて涙が出た。





 眩しい光で目を覚ました。

 何か夢を見ていた気がするが、ぼんやりしていてよく分からない。左側の顔が突っ張っていて、微妙に痛苦しい。痛いような、痒いような、苦しいような。無遠慮に手をやって後悔した。薄いフィルムの下の傷に触れてしまった。額と目の縁と、唇の横。擦過傷をつくっていたことを思い出す。それから、肘と膝にも。

 起き上がって、のろのろと洗面所に向かう。鏡に映った顔は、斑なうえに腫れていて、試合後のボクサーのようだ。右側はなんともないので、顔半分でビフォーアフターの宣材のようでもある。絆創膏を避けて顔を洗い、終わってリビングのソファに体を沈めた。ほんの少し動いただけで、すぐに体力を消耗してしまう。


「あら、起きたの。具合は?」


 母親が気づいて、朝食の皿を置きながら顔を覗き込んでくる。


「うん、いいよ」


「そうね、少しずつ腫れも引いてきたわね」


 じっと顔を見ていた母の視線が、左手の方に移る。


「手は?」


「ん・・・ダメ。動かない」


 そう、と呟いて、悲しそうな目を逸らす。


「麻痺は、時間かかるものだって先生言ってたものね」


 明るい声で言って、肩を叩く。


「・・・みんなは?」


 トーストを齧りながら時計を見ると、時刻は九時になろうとしていた。


「お父さんは仕事に行ったし、(とも)()は学校。お母さんも昼からパートだから、あなた一人で病院に行ける?」


 洗濯物を抱えてベランダに出た母の声が少し遠くなる。ああと返事をしながら、徐々に戻りつつある日常を噛みしめる。どうやらショックで忘れたらしいのだが、三日間も行方不明だったらしい。捜索願まで出ていて、昨日まで家族全員が仕事や学校を休んで付きっきりだった。昨日も一昨日も病院に行き、ガーゼを交換して様々な検査を受けた。未だによく分からないことが多いのだが、それでも無事に戻っただけで十分だと家族に言われた。


「やっぱり、朋恵が学校終わってから一緒に行ってもらった方が安心だから夕方にしたら」


「母さん」


「なに。どうしたの」


 洗濯物を干していた母が、ゆっくりと振り返る。


「俺、昨日病院行ったよね」


「一緒に行ったじゃない」


「一昨日も」


「帰りにお祖母ちゃんのところに寄ったでしょ」


「行方不明だったのが三日間で、事故ったのが二十日?」


 今日が、二十六日なのに?カレンダーを凝視して考える。


「ちょっとなによ、どうしたの」


 母親が怪訝な顔をして問うた。


「俺、最初に病院行ったのいつ?」


「はあ?救急車で運ばれた日でしょ。何言ってるの」


 沈黙が下りる。事故は二十日。行方不明が三日で、今日は二十六日。昨日が二十五日で一昨日は二十四日。


「救急車って?」


 母親が振り返る。手から、洗濯物が落ちた。





 気づくと、必死に土を掻いていた。

 この下に、この下にいる。

 埋められてしまった。

 彼は、埋められてしまった。

 自分がどこをどうして穴を這い上がり、どう逃げたのかもう分からない。

 けれど、彼はきっとあのままだった。

 掴まれた左手首の感触が、まだ残っている。

 急がなければ。どれくらい経ってしまっただろう。

 彼は動けなかったに違いないのに。自分一人、逃げてしまった。

 助けなければ。

 土は踏み固められ、均されて、他に誰もここに彼が埋まっていると気づかない。

 冷たくて固くて、涙が止まらない。

 早く、早く、早く・・・!






 目が覚めた。

 実家の自室のベットの上だ。夢を見ていたのだと知る。近頃よくみる夢だ。穴を掘る夢。どこなのか、場所はわからない。雨が降っていて、薄暗くて、急がなくてはと焦燥感に焦れている。掘っても掘っても両手だけではなかなか捗らず、さらに焦るのだが、最後は誰かに見つかって逃げるのだ。

 壁の時計を見ると午前二時だった。夏休みはどんどん短くなっていく。記憶の無い時間が増えていく。昨日と今日か、今日と明日か、この間の時間帯はいつまで記憶があるのだろうとふと考える。


 朝、起床すると一日分の記憶が消えている。

 では今はどうだ。起き続けていたらどうだ。試してみたい気がしたが、夢と現の合間にある意識は操縦が難しい。怠くて、眠くて、このまままた眠りの世界に埋没してしまいたいが、あの夢の続きに戻るのは嫌だった。

 見るともなく傍らに目を向ける。机がある。束になった原稿用紙が見える。気分転換に、小説を書こうと思い立ったものの上手くいかなかった。三日では、自分の思考をトレースできない。話の展開をどうするつもりだったのか、まるでわからない。メモを見ても、何を指しているのか分からず難航する。覚えていなくても、自分の事なのだからメモなり見ればなんとなくでも予想がつくと思っていた。


 違った。完全に記憶が無くなってしまっては、過去の自分も他人となんら変わりなかった。どうにか当りをつけたとしても、思考の順序がなければストーリーを組み立てることはできなかった。小説が書けない。進まなくてイライラしながら眠ると夢をみる。こんなことをしている内に夏休みが終わってしまう。終わったら、現実に立ち向かう。そう決めた。モラトリアムの猶予は、あと幾日もない。


 鬱々と微睡んでいる視界に、ぼんやりと人影があることに気が付いた。


 ベッドの脇に、誰か立っている。


 じっとこちらを見ている。


 声を上げる暇はなかった。その誰かが、急に覆い被さってきた。


 息も触れ合おうかという至近距離だが、細部が判然としない。


 驚愕と、立ち上る恐怖に跳ねのけようとしたが、指一本動かなかった。このまま首を絞められるのだろうか。舌が張り付いたかのように声も出せない。部屋には自分一人だ。家族は異変に気付かない。


 何もかも凍りついたかのような時間が過ぎ、少し観察する余裕が生まれた。変わらず、相手の顔は近すぎて焦点が結べない。でも、男だと分かる。若い、が自分よりは年上だろうか。唇が動いている。何か喋っている。


 さらに耳を澄ませる余裕が生まれる。


「逃げろ、とあの時言ったんだ」


 闖入者が言った。意味不明だ。誰なんだ、なぜここにいる。


「誰でもいいだろ。魔法の精でも親切な幽霊でも」


 声に出たかどうか分からなかったが、思いの外優しい声で幽霊が言った。


 体の上から退いて、起き上がった顔を見る。ホラー映画で見るような、おどろおどろしい顔ではなかった。白い顔が笑み、白い手が左手をそっと持ち上げる。


「動きたがっている君の左手を、手伝ってあげよう」






 薄ぼんやりとした視界が、段々と像を結ぶ。

 くしゃくしゃのシーツの白い稜線、フローリングの木目、散らばった紙、本、遠くに投げられたクッション、ティッシュの箱、倒れた電気スタンド、空き瓶、ピアノ。


 誰かがピアノを弾いている。


 ケイだ。ケイがピアノを弾いている。


 そういえばピアニストだったな、と思い出した。てっきり、小説家なんだと思っていた。

 

 奏でる音律は美しく、疲弊した精神にひどく心地いい。

 

 ずいぶんと長い夢をみていた気がする。

 

 いつの間に眠ってしまったのか、今は何時だろう。というか何日だ。

 今日は何か用事があっただろうか。

 締め切りは?伊波と打ち合わせは?仁奈のところに治療に行く日か?

 ぐらぐらと考えていると、ふいにピアノの音色がおかしなことに気が付いた。

 

 一つだけ、おかしな音がある。

 

 気になって起き上がると、ケイがゆっくりと近づいて来た。


「おはよう、朔太郎」


「・・・おはよ」


「まだ夢の中か?」


 顔を覗き込んで、クスクスと肩を揺らす。


「起きてるよ。・・・夢の中で、何回も寝たり起きたりしてた気がするけど」


 本当にいろいろな夢をみた、と思う。ずいぶんと長い時間眠ったようだ。


「どんな夢を?」


「昔の、夢。ああ、初めてケイに会ったときとか」


 話しながら、次第に夢にみた光景が甦ってきた。


「思い出したのか」


 寝そべった状態の枕元に、ケイが屈み込む。


「うん、思い出した」


「そうか。間に合ったようだ」


 伸ばされたケイの右手を、朔太郎はしっかりと掴んだ。




 雨が降っていた。


 春の雨だ。冷たくて、勢いが強い。風に乗って、色々な角度から吹き付けてくる。


 昼間はいい天気だったのに、一変した。


 でも、別に気にならなかった。今日は良いことがあった。ずっと温めていた企画が通ったのだ。大抜擢された。同期の中でも抜きん出た。報われた。嬉しかった。


 彼も自分のことのように喜んでくれた。二軒目の店で、結婚しようと言われた。


 これ以上ない良い気分で、車が揺れて跳ねるのも面白くて仕方なかった。


 雨滴で滲む信号や街灯の光はプリズムがキラキラと美しく、遊園地のパレードのようだと思った。かなり酔いが回っていた。


 サーチライトのような車のヘッドライトに白く照らし出された人影に、ぎょっとしたのは二人とも同時だったと思う。


 次の瞬間にはフロントガラスにどん、と乗り上げて、跳ね飛ばされていった。

 楽しい気分も酔いも、一気に吹き飛んだ。

 急ブレーキにシートベルトが食い込み、スリップ気味に停止した車内であちこち打った。


 何が起きたか分かっていたけれど、認められなくてしばらく呆然としていた。雨音と、ワイパーの擦れる音がうるさかった。

 どうしようだったか、どうするのだったか。呟いた瞬間、後ろの方でがしゃん、とまた嫌な音がした。

 

 彼に続いて車を降りた。濡れて光るアスファルト。倒れたバイクと、倒れた人間が二人。ヘルメットを被った方がよろよろと起き上がった。こっちには気づいていないようだ。


 横たわった方に向かって歩いて行く。驚いて転んだのか、ぶつかって転んだのか。ヘルメットを脱いで、何か喋っている。ドキドキしながら、それを見守っていた。どちらも男のようだった。歩いている方が若い。きっとまだ大学生くらいだ。倒れて動かない方は二十代か三十代か。血の気のない顔を見て、もうダメだと思った。


 走り出した彼が、歩いている方を殴り倒した。


 駆け寄って確認する。二人とも出血していた。ぱっと見た限りでは、生きているのか死んでいるのか分からない。触るのは、恐かった。動かない二つの体を前にして、どうしてと隣を振り返った。


 息を乱した彼は、青い顔でだってと言った。救急車を呼ぼうとしていた、と言う。そうだ、怪我人がいる。救急車を呼ばなければならなかった。警察も。


 二人の将来が、と彼は続けた。将来。結婚も、仕事も、みんなダメになる。仕方がないことで、当たり前のことなのだ。本当なら。


 他に人通りはない。とても静かな場所だ。どうして、今日、この時に、この人たちはここに居合わせてしまったのか。


 頭を上げると、地下鉄工事の看板が目に入った。積み上げられた資材と、高い柵と、青いビニールシート。


 車のエンジンを切り、バイクを起こし、二つの体を引きずって工事中のトラロープをくぐった。慣れないスコップを使って、二人で穴を掘った。雨に打たれて、土は重くて、すごく疲れた。転がすように体を落として、ビニールシートをかけた。相談して、バイクも一緒に埋めてしまうことにした。処分するには手間がかかるし足もつく。分散させるより、いっそ一緒にしておいた方がリスクが少ない。血の跡は、雨が洗い流す。目撃者はいない。車は後で、どこかにわざとぶつけて自損扱いで廃車にする。埋めて終わりだ。重い土で蓋をして、二度と明るみに出てこないように。


 見ている前で、もぞりとシートが動いた。手が出て、頭が出る。緩慢な動作で、穴から這い上がってくる。バイクに乗っていた、若い男の方だ。

残念だが、ツイているのはこっちだったようだと見下ろして思う。大きく深呼吸して、暗い大きな穴から出ようとしている黒い頭に目掛け、伊波はスコップを叩き下ろした。







「アナタだったんですね」


 声をかけられて、伊波はゆっくりと振り返った。


「あら、先生。お加減はもうよろしいんですか」


 朔太郎が立っていた。相変わらず、不健康そうな顔色をしている。


「今までにないくらい、頭はすっきりしてます」


 いつもおどおどしていて、斜め下ばかりを見ていた黒い瞳がまっすぐ伊波を見つめる。


「そうですか。それは何よりでした。検査にいらっしゃらないから、心配してい

たんですよ。・・・もう全部思い出したんですか?」


 盗聴器につないだイヤホンを外して、体ごと振り返る。

 

 今、二人がいる橋の上からは朔太郎の家がはっきり見える。


「大体は・・・分からないこともあります。あの時、一緒にいた男の人、あの人は」


 あの時。さあ二人を埋めようかという時。朔太郎が穴から這い出てきたところを、伊波は持っていたスコップで殴打した。額を割った朔太郎は穴に落ち、改めてブルーシートをかけて傍らを見ると共犯である男はガタガタと震えてスコップを投げた。今更ながらに恐れ戦き、伊波を置いて走り去った。


 車に乗って猛スピードで逃走する恋人を、ハイヒールを脱ぎ棄てて裸足で伊波は追った。蛇行しながら走った車はカーブで大きく滑り、勢いのまま橋から落ちて大破した。遠目にも、オレンジの炎を上げて川面に突き刺さるように屹立した

車体が見えた。


 しばらく呆然と、炎上する車を眺めていた。ちょうど、この辺りだった。橋の欄干から、ゆったりと流れる川を見下ろす。


「彼は、怖気づいて逃げて、ここから落ちた」


 確かめずとも、彼が無事でないことは容易に想像がついた。翌日、ようやく引き上げられた車の中で、彼は運転席に座ったまま発見された。血中からかなりのアルコールが検出され、警察は飲酒運転の果ての自滅事故と判断した。


「その間に、先生は逃げたんでしょう?」


 どのくらいの間炎を眺めていたのか分からないが、ほどなく伊波は穴のところに戻り、けたたましいサイレンが通り過ぎていくのを聞きながら一人で埋めた。動揺していたのだと思う。もくもくと作業を進めて帰った。シートの下は、確かめはしなかった。


 朔太郎が頷く。


 あの時、二人は生きていた。伊波に殴られ、気絶した朔太郎を起こしたのはケイだった。必死に揺り動かし、逃げろと耳元に囁いた。二人一緒に逃げることは、出来なかった。


「彼が死んで、悲しかったけど、同時にどこか安堵している自分がいたんですよね。人は、秘密を守り切れるのか。大きければ大きいほど、言って楽になりたいと思う弱い生き物ですから」


 彼を失ったことは悲しかった、ひとしきり泣いた。


「これで誰も知らないはずなのにアンタがいた」


 最初は毎日のように夢に見て魘された。びくびくしながら生活していたが、ようやくふつうの生活ができるようになった頃だった。目の前に、忽然と現れた。


「再会した日は今でも忘れられませんよ、先生。真っ暗闇に突き落とされたようでした」


 朔太郎は何も喋らない。じっと伊波を見ている。


「もうダメかと思ったけど、聞けば記憶喪失だというじゃないですか。あなたから目が離せなかった」


 冷ややかな声は甘い。ゆっくりと一歩ずつ、距離が縮まる。


「本当に忘れているのかと思えば、小説にそれらしいことを書いたりして・・・」


 朔太郎と伊波の距離はニメートルを切った。


「わざとなのか、無意識なのか。まあどの道放っておけば危険なことに変わりはない」


「盗聴器。ピアノの中にありました」


 ポケットから小さな機械を取り出して、朔太郎が言った。


「あら、よく見つけられましたね」


 悪戯がばれた子供のように、ちろりと舌を覗かせて笑う。


「ふつうのお宅と違って、一階がお店な分仕方がないとしても、先生ったらセキュリティが甘過ぎですよ。たった一枚のドアだけであとは全部素通りなんですもの」


 広げた掌に銀色の鍵が見えた。合鍵もいつ作られたのか、朔太郎には分からない。


「照明や家電の不具合も、貴女ですか」


「Wi-Fiのパスも設定していないし、同機のリモコンを使えば家電の操作なんて簡単ですから。本当にポルターガイストが起きたと思ったでしょう?」


 いっそ楽しげに、伊波は笑う。


「パソコンに血糊をぶちまけたのも」


「ただ使えなくするのも芸がないですからね。キャリーみたいでなかなか良い演出だったと思いません?」


「それは、俺の日記ですか」


 細く上る煙を指して、顎をしゃくる。伊波が部屋に来た日、日記やメモが無くなった。おそらく、その前に紛失した分も。河川敷で火をつけたのは朔太郎だと伊波は言ったが、持ち出して何が書かれているのかチェックする時間が必要だったはずだ。一通り目を通して今さっき処分したのだろうと指摘する。


「いいえ、外れ。燃えているのはあなたの原稿の方。日記は重要な証拠だもの」


「証拠・・・?」


 訝しんで見返した瞬間、伊波が倒れ込むように接近した。バチン、と派手な静電気のような音がした。


「・・・!」


 バランスを崩し、橋の欄干に寄りかかって抱き留められる。明滅する視界に、電気シェーバーのような形の物がうつる。


「護身用のスタンガンなので威力はいまいちですけど」


 不意打ちなら十分でしたね、と伊波が言った。朔太郎の上半身は、完全にもう橋の外に出ている。わずかにも重心を誤れば、頭から落ちそうだ。


「こん、なことして・・・すぐにつかまっ」


「あなたがひどい精神状態だったことは皆が知っている。遺書なんかなくても、あの日記を見れば鬱に苦しんだ末に自殺したと想像するのは簡単だもの」


 伊波が体重をかける。背骨がしなる。もう限界の角度だ。爪先が滑ったら終わり。どこかに掴まりたいが、もがく手はどこにも引っかからない。


「ニ、ナの怪我もあんたか!」


「あは、ああ、彼女。足だけで済んでよかったですね。まあ私も、ちょっとした警告だけのつもりでしたから。彼女もあなたの鬱状態を証言するであろう重要な証人ですし」


 なぜ彼に近づいたのかと問う彼女の顔を思い出す。自分の事をどこまで覚えているかも分からない男を信じるなんて、どいつもこいつもなんて甘い夢をみているのだろう。最後に優先されるべきは我が身だ。私もあなたみたいに彼を信じたかったと言ったのは、単にイヤミでしかない。朔太郎が自殺したと聞いた時、彼女は何を思うのだろう。


「それにしても、どうやって思い出したんです」


 押されて朔太郎の首が完全に仰け反る。


「幽、霊が・・・教えてくれたんですよ」


息も絶え絶えな言葉を聞き、街灯を背負った伊波が嘲笑う。


「かわいそうに。幽霊なんていないんですよ、先生。あなたはやっぱり病気です。頭の病気。心の病気かな?罪悪感に耐えかねて記憶を消してしまった悲劇の作家先生。ほんとうに優しくて気が弱くて。あのままリストカットでもしてくれればよかったのに。そういう意味では案外図太い神経をお持ちなんですね」


「俺、は・・・もう逃げない!あ、んたも、いまからでも自首し」


「あなたは私にとって爆弾。いつ爆発するのか、怯えて暮らすのはもう真っ平なの」


 サヨウナラ、と唇が動いた。逆光の顔が遠のく。体が柵を越える。投げ出されて、一瞬浮遊する感覚。ああ落ちる、と思った瞬間、ふわりと空気が揺れた。


「きゃっ⁉」


 突風が吹きぬけて、伊波がたたらを踏む。


 落ちかけた朔太郎の体を引き上げた腕は、ケイだった。


 押し込んでいた体が無くなったことで、今度は伊波が柵を越えて落ちる。振り返ると、寸前でどうにか端を掴んだのだろう。伊波がぶら下がっている。


「伊波さんっ」


 手を伸ばす。ぎりぎりまで腕を出し、名前を呼ぶ。コンクリートに爪を立て白じんだ伊波の指が、じりじりと滑っている。


「伊波さ・・・はやく」


 目が合う。迷うように目線が動く。


 靴が片方落ちた。下までは約十メートル。水深は浅い。追いかけるように伊波が下を見る。顔が、恐怖に引き攣った。


「ひっ、キャアアアアアア!」


 靴が脱げた、伊波の左足。


 ぶらぶら揺れるそれに、血まみれの男がぶら下がっている。三年前に転落した、伊波の恋人だろう。


「伊波さっ!」


 伸ばした左手が空を切る。


 悲鳴が、尾を引いて落下した。


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