三章
三章
「・・・はい、はい。えっ、ああ、そうなんですね。いえ、ええはい・・・大丈夫ですよ。残念ですけど・・・はい、ではまた」
受話器を置いて、伊波は小さく息を吐いた。中山 朔太郎特集と題した書類を凝視していると、背後に気配を感じてはっとした。
「中山先生か。随分熱心だな」
振り返ると、先輩社員が何か含むような視線で手元を覗き込んでいる。
「色男だしなあ。しかも、曰く付きだ。モテるだろうなあ」
にやにやと探るように見る目を遮るようにファイルを閉じて、席を立つ。
「ええ、記事になれば売れますよ。じゃあ、取材に行ってきます」
言い置いて、靴音高くオフィスを出ていく伊波を見送る男性職員に、隣の机で仕事をしていた若い社員が声をかけた。
「セクハラですよー今の」
「うるせえよ」
「しかしちょっと、らしくなかったですね、伊波さん」
もうすっかり姿は見えなくなった出口を眺めながら、そういえばと口を開く。
「ここ最近は随分忙しそうにしてますよね。今、そんなに仕事抱えてなかったはずだけど」
「だからご執心だっつうんだよ」
「そんなにイケメンなんですか」
興味を持ったのか、少し身を乗り出してきたのににやりと笑む。
「顔のきれいな優男だ。しかも、事件だか事故だかに合って以来、記憶喪失らしい」
「へえー女性は好きそうですね。少し影のあるイケメンですか」
関心したように声を上げる後輩に苦笑しつつ、空になった伊波のデスクに座る。
「少しなら、いいけどな」
机上に並べられた本を軽く叩く。
「中山朔太郎は突然行方不明になり、ぼろぼろの状態で放心しているところを発見されたらしい。記憶を無くしていて、何があったのか全く覚えていない」
「はあ、本当にそういうのって現実にあるんですねえ。小説みたいだ」
まったくだと呟いて、もう一度伊波の姿を探すように出口の方へ視線を向ける。
「居なくなって見つかるまでの三日間。このイケメンはどこでどうしていたんだろうな」
朔太郎は朝から出かけていた。起床してすぐに紙類をダンボールに入れて一つにまとめ、昨夜の後片づけをして早々に部屋を出た。昼過ぎに電気屋の大きな箱を抱えて戻ってくると、そのまま梱包を解いて何やら組み立て始める。
「なんだ、パソコンを買ったのか」
どこからともなく声がして、ふわりと空気の揺れる気配がした。
ぎくりとして、一瞬作業の手が止まる。
「ああ、うん。ちょっと、メモだとデータ管理に不安があって」
プラグコードと格闘しながら振り向かずに答える。
「ほお、けっこうなことじゃないか。部屋も綺麗になる」
緊張している朔太郎とは裏腹にのんびりした声を出しながら、幽霊は手元を覗き込んでくる。
「この大量のファイルは?」
メモが入れられたダンボールの横に何冊もファイルが積まれているのを見て、半透明の首を捻る。
「とりあえず今までの分、整理しようと思って。打ち込みし終わったら、別の書類整理にも使えるし」
事務的に答えると、ほおと関心したような声を上げる。
「いい心がけだ」
どういう風の吹き回しだとでも言いたそうな調子に、内心むっとして振り返る。
「日記、失くしたみたいなんだよね」
「なるほど。それで気を付けようということか」
何か知らないかと思ったのだが、ケイは頷くばかりで特に何を言う訳でもない。
「昨日、けっこう呼んだんだけど」
「俺を?」
意外そうなリアクションをする。幽霊の勝手は分からないが、四六時中自分にべったりしているものではないらしい。
「俺の意識は常にクリアな訳じゃないからね」
「そう、なの」
「微睡の中を浮き沈みしているようなものだよ。生きているときのように自由にはいかないさ」
死人としての自覚はしっかりある。自分がどこの誰かは、分かっているのか。
「ケイ・・・」
そう、呼んでいたけれど。本当はケイイチというんだろう。
「仕事する?今から」
古賀 景一。ピアニストだったと聞いた。豊島が探している。
「いいや、今はいいだろう。片付け、頑張って」
言って、ふわりと宙に浮かぶ。
「あ。おいちょっ・・・」
すぐに霧散して姿は見えなくなる。
訊きたいことは山ほどあった。昨日、図書館に居たか。モラトリアム云々という言葉の意味はなんだ。どうして、死んだ。なぜ、俺に憑りついている。
どういう出会い方だったのか、それが分かれば少しは疑問が解消したかもしれないが、その術は失われた。目につくところはすべて探したにも関わらず、日記が見つからない。何もない床を見つめながら、ため息を吐いた。本当は、ケイに直接聞けばいいのだが。
「・・・汗くさ。フロ入ろう」
誰にともなく呟いたのは、自分が一人だということを確認するためだったかもしれない。
空き箱に包装紙をまとめて突っ込み、後でそのまま捨てるばかりにして部屋の隅に寄せた。むき出しのフローリングをペタペタと裸足で踏みながら、コンテナのようなユニットバスのドアを開ける。服を脱ぎながら、少し周りを気にしてしまった。水場は出る、だなんてよく聞くけれども、プライベート中のプライベートな空間である。ケイは同性だが、いい気分のするものではない。
ザア、と頭からシャワーを被る。垂れた髪から、鼻、顎から湯が伝い、乳白色の床に落ちていくのを見つめながらじっと考えている。
俺が、ケイを?
何かあったとしたら「事故」だろうか。となればそれは突発的に起こったといえる。何しろ、事故以前のケイの記憶は無い。彼と出会ったのは間違いなく事故以降だ。一方的に被害者だと思い込んでいたが、実は加害者の方だったのか。
いや、必ずしもそう考えるのは早計だとも思う。大体にしてケイの態度はどうだ。憑りついている、といっても何の恨み言をいうでもなく、むしろ楽しげにすら振る舞っているし、実際彼のおかげで自分は生かされているのだ。まさか仇にそんな真似をするはずもないだろう。夢は夢だ。
とりあえず、ケイが誰かは分かった。
きゅ、と音を立てて蛇口を閉め、曇った鏡を掌で拭った。少しクマの浮いた、青白い自分の顔。規則的とは言い難い生活習慣で、自分の方がよっぽど幽鬼じみている。
「どうかしてる・・・」
無意識の内に鏡の中におかしなものはないか探していて、そんな自分に苦笑しながらタオルを巻いて出ようとした。
「・・・・・・」
握ったドアノブの下。タオルを巻いた腰と、濡れた足。
ドアと床の間から伸びた、十本の指。
白く細長い指は、息を止めて凝視している朔太郎の目の前で、視線から逃れるように隙間の奥へ消えた。
「ひでえ顔」
玄関を開けるなり、伊深が言った。
「いつもだろ」
憮然として言い返すが、改めて言うくらいひどいと突っ込まれた。
「汚いところですが、まあお上がんなさいよ」
伊深の部屋は深い紺と緑で出来ていて、濃い森の中のようだ。畳の上に座り、座布団代わりのクッションを渡される。急な訪問だったが、そんなに汚い訳でもない。これで汚かったら家の方が百倍散らかっていると朔太郎は思う。
「お茶しかないんだけどな?」
「なんでも。・・・おかまいなく」
カップ麺の容器を片づけた伊深が、ローテーブルにコップを二つ置いた。
「見たとこ、疲れてるだけじゃなさそうだけど。どした」
黒々とした瞳が、じっと見つめる。
「変なもの、見た」
押し出すように言うと、ああと得心がいったのか頷く。
「こないだ、気をつけろとか言ってたから・・・あの、どう、ですか?」
自分を指して訊く朔太郎にううんと伊深は首を傾げる。
憑いているといえば、確実に憑いている。だが、まさかおんぶしている訳でもあるまいし、伊深の目にはどう映っているのか気になって聞きに来たのだ。
「なんか少し、予感?みたいな・・・警告、でもないけど」
当てはまる表現を探して眉を顰める伊深の言葉に、思わず反応する。
「警告」
「っていうほど大げさなもんじゃない。なんとなく不穏・・・予感みたいな」
スウェットの胸を掻きながら、すっきりしないのか小さく唸る。
「そんなにやばそうだったのか?見たやつ」
「やばそう・・・よくわかんないけど、うん」
ケイと実際に対峙しているときは、ごく普通に人と会話しているのと変わらない。と、思うのだが昨日今日のどこか切迫した感じはなんだろう。ケイの身元が分かったからか。緊張感がないと注意されたから?日記を失くして心もとなくなったから?もしかしたら、自分がケイの死因に関係しているかもしれないから。
印象深く記憶に残っている、本棚の隙間から覗く両目に、風呂場の指。
「幽霊って、なんなんだろうな」
ぽつりと呟いた。
幽霊の勝手は分からない。ケイの話ではそう自由になるというものでもないらしいが、それなりに会話もできるし触ることもできている。ケイに会うまで、霊とは断片的な意識の塊みたいなイメージを持っていた。
「さてなあ、見えるし触れる。けど、明らかに違う」
言いながら、伊深の手が伸びてきた。目の下を擦って、前髪に触れる。
「頭の中で見てる気がするな、俺は。記憶の再生に近い。思い出してる時みたいな。触れたりもするけど、皮膚や神経経由しないでいきなり感触叩き込まれてるみたいな?」
感覚でしかないから説明が難しいと苦笑して、じっと凝視する。
「俺の、頭の中だけで起きてることなのかもしれない」
その言葉に、どきりとした。
「けど、朔と共有したことも沢山あるから、気のせいでも勘違いでもなく何かがあったんだと思ってる」
「共有?」
「高校の時の修学旅行。覚えてるか?京都」
「ああ?うん」
「俺らクラス違ったから、そんなに一緒にいられなかったけど、泊まった旅館
で・・・」
「ああ、写真・・・」
写ってはいけないものが、冗談みたいに大量に写っていて、すべて捨てた。
「あそこすごかったよなあ・・・俺、足引っ掛けられて何回転んだか」
思い返してみれば、伊深ほどではないが不快なことが多かった。
「あとはまあ、最近だと一緒に歩いてて道端とか橋の上とか店の中ってのもあったか」
「そんなに・・・」
よくある話だったのか。ケイ以外にも。
「俺、自分は視えないんだと思ってた」
「聞こえない声に反応したり何もないとこ振り返ったり。・・・事故から増えたかもな、そういえば」
困ったように、伊深が眉を寄せる。
「俺も朔も、常に視えてる訳じゃない。見ようとして見てる訳でもない。見える人もいるんだろうけど。普段は目に映して脳で分析したものを、いま自分は何を見てるんだって理解してるんだと思う。元気な時は変なものには無意識にモザイクがかかってる。それが、疲労困憊してたりして外れることがあるんだろうと俺は自己解釈してるけど」
「ああ、うん。なんとなく分かる・・・」
頷きながら、ケイだけが違うと思った。なぜ特別なのか、まだわからない。そしてやはり、伊深にケイのことは話していない。
「生命力が下がると、ガードが緩くなる。食って、寝ろ。忙しさなんて無視していい。いっそ全部放り投げる日も必要だぞ」
「うん・・・」
一度、全てを遮断して何も考えたくない。
そうしたいが、急がなければならない。
ケイを殺したのは俺か。
行方不明だった三日間。その間にバイクと、死体と、記憶が消えた。
ただの夢だ、とも思う。だが妙に生々しく、瞼の裏にこびり付いて消えない。
窓の外はもうすぐ日が暮れようとしていた。家に戻りたくない。帰宅して、夕食を摂って、仕事をして、という習慣に戻りたくなくて知らずため息が漏れた。
「仁奈ちゃんとこには行ってんの?」
「え、ああ、うん」
そういえば行くと言いながら、治療を随分サボってしまっている。
「エロいこと考えると、生命力が上がって対抗力がつくらしいぞ」
にや、と伊深が笑って背中を叩く。
「生きてる人間の方が、強いっていうからな」
「ひどい顔」
玄関を開けるなりまた同じことを言われて、朔太郎は何も言えなかった。
「ごめん、押しかけて」
「いいから、早く入って」
迎えた仁奈はすっぴんに部屋着で、完全にリラックスしていたようだ。就寝するような時間ではないが、アポ無しで来てしまったことが申し訳なくて背が丸くなる。
「ご飯は?」
「食った」
ソファに座ると、温かいお茶を出してくれた。一口だけ飲んで、深いため息が出る。何か話さなくてはと思うのだが言葉は出てこず、ずるずると体勢を崩して仁奈に寄り掛かった。温かな体温と石鹸の匂いに、ひどく安心した。
薄い掌が前髪を除けて、額に触れる。
「疲れた・・・」
「うん」
目隠しする手を握って、そのまま上を向いた。膝枕の状態でもう一度深くため息を吐く。
「頭痛は?」
「少し。目の奥が苦しい」
細い指が、目の周りや頭を探る。
「ごめん、治療さぼってる」
凝り固まった意識が、少しほぐれた気がする。
「忙しかったんでしょ?しょうがないよ」
まあ心配ではあるかな、と苦笑する仁奈の吐息がくすぐったい。
肩から腕へと移り、マッサージする手を摑まえた。握って、口に当てる。
「あったかいな」
唇に当てた手首から、規則正しい脈動が伝わってくる。生命の活動する気配。ケイには無いものだ。
「仁奈・・・幽霊っていると思う?」
「え?」
突飛でもない質問に、仁奈が瞬きする。
「あ、いや・・・」
タイミングも訊き方もしくじった。どう言い繕うかと思案していると、同じように仁奈が唸っている。
「うーん、私は視えないからなあ。視えるの?」
どうやらこの話題は初めてしたようだ。どういったものか詰まっていると、特に促さずに言葉を続ける。
「どうなのかな。テレビとか心霊写真とか、ちょっと嘘くさいのもあるけど。身近な人とかのこと考えると、いるって自然と思っちゃてるな。死んじゃったらそこでお終い、じゃなくて見守っててほしい。あってほしいな、その先も」
「そうか・・・いや、今度そういう話もいいかなって思って」
「ふうん、ホラーもの?読めるかなー恐いのはちょっと苦手だけど」
へへ、と笑った顔がかわいい。頬の稜線を撫で、軽く唇を合わせた。仁奈の肌は温かく、滑らかだ。眠いような怠いような、そのくせこのまま眠ってしまうのは勿体ないような気もして、これからどうしようかぼんやり考えながら、寝返りを打った。
カーテンの間が、少しだけ開いている。
何もないのに、その隙間に目が吸い寄せられて動けなくなる。
「そろそろ、時間・・・?」
時計を見ていると思った仁奈が、声をかけてきた。言われてみれば、時刻は十時半を過ぎていた。最終のバスは十一時過ぎだったか。きっといつも、帰り支度
を始める頃合いだ。
「ねえ、仁奈」
俺に憑いているのか、部屋に憑いているのか。今夜は、現れるのか。
「泊まってってもいい?」
え、と一瞬目を見開いて、やわらかく笑う。
「うん、いいよ」
照れたように俯いた頭を引き寄せて抱きしめた。
「ありがと」
黙って寄り添ってくれる温もりが愛しく、また無言の内に積もる罪業のようで時々恐ろしくなる。いっそ、彼女の中で自分の存在がひどく小さなものであってほしいと願う。なんて傲慢な言い分だろう。しかし、これ以上近づけない。だって俺は、仁奈に何一つ責任を持てないじゃないか。でも一緒にいたい。嫌われたくない。どうしたらいいのか分からない。
ただ今は目の前が愛しくて、ずるいことに何も考えたくなかった。
ザクザクと土を掘る音がした。
目を開けると、耳で聞いたリズムそのままに汚いスコップが地面を掘っている。
穴。穴を掘っている。ずいぶんと大きな穴だ。時折、スコップの刃が石に当たり、金属質な音を立てる。
急がなければならないのに、そう易々と進まない作業に苛立っている。
ザクザクと掻いては捨てる音の合間に、疲労と苛立ちの混じった苦鳴が漏れた。冗談のように滴る汗が、ぽっかり開いた地面の中に消えていく。
早く。もっと早く。
深く。さらに深く。
そう簡単には分からないほどの深さが必要だ。
握りなれない硬質なスコップの柄。湿り、鉄臭い土の重さ。そのどれもが不快で仕方なかったが、急いで隠さねばならない。
ようやく人ひとりが入るほど掘り上げて、大きく息を吐く。
まだだ。まだ安心はできないが。
ちらと横を見た。ブルーシートの光沢のある青い色。
埋めるつもりだ。あの大きく暗い穴に。
重く冷たい土で蓋をして、二度と日に当たらないように固く踏み固める。秘密が湧き出てこないようにしっかりと。
息を整えて、またスコップが振り上げられる。
覗いた大きく暗い穴。そこに、白いものが落ちている。
「・・・腕が!」
叫んで飛び起きた。呼吸が乱れ、妙な笛のような音が喉から零れる。
「どうしたの、大丈夫?」
すぐに優しい声に抱き留められて、背中を撫でられる。
「恐い夢見たの?大丈夫、大丈夫・・・」
仁奈に慰められて、夢をみていたのかと痺れた頭がやっと動き出した。
穴を掘る夢だった。延々と。
そこに落ちていた、半ば埋もれていた白い腕。男の手だった。血の気のない白い手が、穴から伸びて自分の腕を掴んだ。
「っ、う」
左腕を抱き込んで呻く。ものすごい力で掴まれた、骨の軋む嫌な感覚が残っている気がした。
「痛むの?」
心配した顔が近づいて、目を合わせる。汗で張り付いた髪を除けた指が、額に添えられたのを引き寄せて抱き付く。
「こわい、夢みた・・・」
「うん・・・」
子供のようにあやされながら、まだ白じむ気配のない窓の外を見た。
白い、穴の中の手。見覚えのある長い指に、爪の形。
ケイ。
暗い穴の中にあって、今にも埋められようとしていた。
ああ、どうしよう。
ケイを殺したのは、きっと自分に違いない。
短時間で決着を着けなければ、解決は難しくなる一方だろう。社会的、法的解決というのは自分に記憶がない上に、物的証拠もないのだから自首したところでどうにもならないだろう。
ケイに会って、はっきりさせる。彼は何を望むか。自分をどうするつもりか。
ぐるぐると考えながら家路を辿り、朔太郎は部屋に着いてすぐにパソコンを立ち上げた。
じきに記憶は、恐怖で埋め尽くされる。眠る度、詳細を忘れる。訳も分からず恐怖に支配される日々になる。その前に、事の全容を把握して残さなければならない。
起動したパソコンで、古賀景一について調べてみた。ピアニストだったということで、数件がヒットしたが略歴等の情報しかない。いついなくなったのか、それも曖昧で当てにならない。手札は手がかりとも呼べない夢しかなく、ただの夢なのか記憶の再生なのかはっきりしない。
殺意はなかった。あの夢が戻りかけた記憶ならば、自分はバイクでケイを轢いたのではないか。予期せぬ事故で、殺そうと思って殺したわけではない。
が、ケイにとっては殺意があろうとなかろうと変わらぬ結果だ。過失致死でも、殺人は殺人だ。
今も行方不明中のケイ。これも夢の通りなら、その後朔太郎はどこかにケイを埋めたのだ。あの景色はどこだろう。思い出そうとしても夢は細部が朧気で、場所が特定できるほどの特徴はない。
「大学・・・」
深夜、学校の帰り道の途中であったことに違いはない。パソコンを切り、朔太郎は部屋を飛び出した。当時通っていたキャンパスまでは、徒歩で約三十分。その内、三分の二は上り坂でまっすぐ視界の限り続く。両脇は家々が連なり、拓けた場所はない。
昼下がり、出歩く人の姿はなく、車の交通量もほとんどない。朝夕はそれなりに賑わうが、今時間は閑散として白昼夢のようにどこか現実感に乏しい。夜中はさらに静まり返って怖いくらいだ。
目撃者はいなかったという。見渡す限り、死体を隠せるような場所はない。
坂を上り切り、団地住宅群を抜けるとキャンパスが姿を現す。この辺りをふらふらと歩いているところを発見されたと聞いた。巨大な立方体が等間隔にいくつも並ぶ間に、小さな子供と立ち話をする女性が数人いる。ぼろぼろの姿で若い男がふらついていたら、さぞ不気味だったことだろう。記憶が途切れたのも、自分が発見されたのもこの周辺だ。三日間、この立錐する建造物の間のどこかに隠れていたのか。
直角に近いカーブを曲がり、キャンパス前に出る。
どくん、と心臓が跳ねた。
「ここ、か・・・?」
昼と夜では、印象が違うが。確信した。夢にみた、濡れたアスファルト、倒れたバイクの投げかける光、寝そべって動かないケイの体。友達と別れ、雨に舌打ちし、視界の悪さに苦心しながらバイクを走らせ、ここでケイにぶつかった。
「・・・っ!」
わん、と急に潮騒に飲まれたように耳鳴りがした。脈動を伴って頭が痛い。
「先生?大丈夫ですか」
よろけてたたらを踏んだところを支えられた。
「伊波さん・・・」
「どうしたんです。具合が悪いんですか、救急車呼びましょうか」
「いや、大丈夫です」
肩を貸そうとするのを遠慮して、柵に寄り掛かった。
「ひどい顔色ですよ。どこかで休まれた方が・・・」
深呼吸を繰り返し幾分楽になったが、まだ頭の芯がぐらぐらしている。伊波の言葉に頷いて、連れだってすぐの学食に落ち着いた。冷たい水を飲んで、大きく息を吐く。
「どうもすみません。お仕事中だったんじゃないですか」
「いえ。ちょうど先生の所に伺おうと思っていたところだったんです」
お会いできてよかった、と伊波が眉を下げる。
「何か、俺忘れてます?」
慌てて携帯を出すが、特に打ち合わせなどの予定はない。
「いえいえ、ただちょっとその、ご様子が気になって。ご機嫌伺いのつもりだっ
たんですけど」
はあ、そうですかと気の抜けた声が出た。気にかけてもらったのに申し訳なく、改めてすみませんと頭を下げる。
「勝手にしていることですので。先生はどこかへ行かれるところだったんですか?」
「ああ、何か手がかりがないかと思って、探していたんです」
言って、窓の外を眺める。場所は見つけた。ここからも見える。横断歩道を越えた、カーブの前。
「日記、まだ見つからないんですね。大丈夫ですよ。その内出てくることもあるでしょうし、違う方向で考えてもいいですし」
失くした日記を探していると勘違いした伊波が宥めるように言うのを遮って、首を振る。
「事故のことを、調べていたんです」
「でもその・・・無理に思い出すのは相当なストレスが・・・」
現に、今も倒れかけただろうというのを言い淀んだ伊波に、朔太郎は頷く。事実が、自分にとって決して好ましいものでないだろうことは分かっている。しかしもう、自分が犯人だったとしてもかまわない、と朔太郎は思った。
「記憶を取り戻したいんです。どうしても。・・・このままじゃ、いけないんです」
いつも伏目がちだった目線が、まっすぐに見つめるのを受け止めて、伊波は息を飲んだ。
「病院に、まずは行こうと思います。俺個人の力では、限界があるので・・・薬でも、逆行催眠でもなんでもいい。事故直後に検査は受けているはずだし、定期健診もあったはずなので、そういう記録も改めて全部見てみたら何か分かるかもしれない」
携帯にはかかりつけの病院の番号と、定期健診の予定が入っている。次の検診はまだだいぶ先だが、もう待っていられない。
「・・・わかりました。ご協力します」
なぜそう急ぐのか、と伊波は訊かなかった。
「その日、何か事件や事故がなかったのか。私の方でも調べてみます。新聞に載らないような小さなことでも、何か関係があるかもしれませんし」
「いや、でも」
「先生の力になりたいんです。どうか、手伝わせてください」
テーブルに置かれた朔太郎の手に、伊波の手が重ねられた。
「ハイ、よろしいですよ」
大きなかまくらのような機械の中から出されて、朔太郎は眩しさに目を瞬いた。ゴーグルを外され、体を固定していたベルトを解かれて安堵の息を吐く。なんとなくまだ、リンゴンと音が耳に残っている気がして頭を振った。
「では中山さん、階段を降りて一番の診察室にお入りください」
白衣の女性が事務的に言い、さっさと部屋を出ていく。ロッカーから荷物を出し、退出する時に一応会釈をしたが、次の患者の相手をしていて目に入っていないようだった。言われた通りに一番のプレートがかかった診察室のドアを開けると、椅子に腰かけた初老の男が笑顔を向けた。
「やあ、こんにちは。久しぶりだね、覚えているかな」
白衣の胸に小川と書かれた名札が下がっている。柔和な表情のこの男が、どうやら担当医らしい。
「すみません、覚えてません」
「いや、いいんだ。症状に変化は無し、かな。どうぞ座って」
医師の前に座り、いろいろな検査を受けた。小川医師はパソコンを操作しながら、ふむと首を捻る。
「これ、さっき撮った君のMRIの映像だけどね」
画面に、脳の断面図が映し出される。カチカチとスライドを動かしながら、小川がまた小さく唸る。
「そうだねえ・・・うん、特に見る限り異常は無いなあ」
この辺りは少し狭いけど年齢を考えるとふつうだから、と脳の断面を指して説明されるが、よく分からないのではあと頷くしかない。
「さて中山さん、後で血液検査もしてもらうけれども、症状は解離性健忘で変わりないと思います」
「カイリ性、健忘」
きっと何度も説明されているのだろうが、耳馴染みのない言葉だ。
「解離性健忘。外傷的出来事と関係していることが多いんだけどね。ストレスを感じた時に自分を守るために記憶を消してしまうんだ」
「外傷的出来事」
「自分を守るために隠してしまっているものだから、無理に思い出そうとせずに・・・」
「だめです」
小川の言葉を遮って、朔太郎は言った。
「思い出さないといけないんです。俺は、大事なことを忘れてる。思い出す方法はありませんか」
固くこぶしを握り、身を乗り出した朔太郎をしばし見つめ、小川医師はゆっくりと口を開いた。
「治療としては、薬物療法と催眠面接があるんだけれども」
「やってください。すぐに」
「本来、自分を守るために害になるものとして忘れているものを思い出すということは、かなり苦痛なことだよ」
視線を合わせる。これで本当に、殺人の罪が決定的になっても。
「かまいません。どんなに苦しくても、やらなきゃいけないんです」
しばらく小川は黙って朔太郎を見ていたが、ゆっくりと息を吐いてそう、と言った。
「では、血液検査の結果を待って、次回にやりましょう。ただ、思い出してもそれでお終いではありません。引き続き治療が必要になるからね?」
その後簡単に、治療の説明を受けた。どうせ忘れてしまう訳だが、概要が書かれたプリントを渡された。
「じゃあ中山さん、一週間後で大丈夫かな」
はい、と返事をして、ペンを借りてその場で手の甲にメモをした。病院を出てすぐ、携帯のスケジュールに入力する。一週間、は朔太郎にとって長い。というより、全く予想のつかない未来だ。一寸先は誰でも闇であろうが、朔太郎にとってはその時の自分はことの経緯を知らない別人だ。携帯を持ったまま一瞬考えて、伊波にメールを送った。無理やり引き摺り出した記憶は、信用度に欠ける。第三者の裏付けを、彼女に依頼することにした。送信完了の画面を確認して、ため息を吐く。
頭の中に異常は無かった。安堵と共に、ではどうしてと不安も残る。目に見える欠陥が発覚して、全部そのせいだったら楽だったのにと考えている自分がいた。
何度も何度も繰り返し夢にみる、俺が殺したかもしれない男。俺に、憑りついている男。
覚えておかなければ。常に思えば記憶しつづけられる。氷山の一角のようなもの、と小川が言っていた。海面に出た部分は一部だが、その下には山が続いているように、思い出せはしなくても確実に残っているはずだと。
正直、夜がくることが怖い。自室にいることが怖い。仁奈の家に行こうか。もしついて来たらどうする。一週間、この恐怖を一人でどうにかしなければいけないのかと思うと逃げ出したくなる。
が、もう十分過ぎるほど逃げてきた結果なのだと思うから。
大きく息を吸って、朔太郎は家路を辿った。
ケイ。幽霊である。自分に憑りついている(?)。夜毎現れ、マヒしている左手を動かして小説を書く。神出鬼没、昼間は何をしているのか不明。長身、長髪。基本的に優しく、よく励まされる。本名は古賀景一。豊島の友人、ピアニスト。三年前から行方不明。部屋にあるピアノとレコードは彼の所有物だった物である。呼びかけて出現するものではない。曰く、意識は常にクリアな訳ではなく、微睡の中を浮き沈みしているようなもの。自由がきくものではないらしい。毎夜、必ず出てくる訳ではない。モラトリアム、猶予は僅かであるから緊張感を持つようにと忠告される。何のことなのかはいまいち不明。可視、可聴、物を動かせる、意思の疎通、会話可能。
夢をみた。キャンパス前の道路に、倒れたケイの姿。転倒したバイク。俺が事故を起こし、ケイはその被害者だと思われる。ケイの体は、どこかに穴を掘って埋めた?
携帯のプロフィールを編集して、朔太郎は重く目を閉じた。
昨夜は仁奈の家に泊まったし、一昨日はケイが現れなかったので仕事の記憶はもう無い。
ケイと呼んでいた人物の正体が分かったのが一昨日、これも夜が明ければ事の経緯詳細は忘れてしまう。
こうしていくつも大切なことを取りこぼしているのかと、机上に置いた動かない左手を眺めながら舌打ちした。かつては利き手だった左手は、ペンを握らせてみても何の感触もなくカランと落した。
「準備万端、か?」
空気が揺れた気がした。
「・・・ケイ」
空中に出現した男が見下ろして微笑む。
「さっそく始めよう。紙を出して」
空気が震え、キシと机が軋む。促されるまま引出しから紙を出して広げると、だらりとしていた左手が動いてペンを取った。ケイの掌が、左手を支える。
「パソコンの接続は上手くいったのか?見たところあまり、片付いたようには見
えないが」
さらさらと紙面を文字で埋めながら、ケイが話しかけてくる。
「ん、まあ・・・ぼちぼち」
大まかにゴミやメモはまとめたが、積まれたファイルはそのままで、壁に貼られたメモにいたっては明らかに増量した。
部屋を見渡し、君は片付けの才能がないなと幽霊が笑う。
「ケイ」
「なんだ」
「ケイは、覚えてるのか」
死ぬ、前のこと。後のことを。
「霊になる、前のこととか・・・」
緊張が走りぬけて、体が震えた。返事を待っている間が、ひどく長く感じられる。
「そうだな、覚えているよ」
「本当に?」
振り仰いだ顔はきれいで、穏やかだ。余計に、分からなくなる。
「本当だ。どうした、急に」
「・・・俺は、大事なことをたくさん忘れてるから」
目を反らして、唇を噛む。
「生きていた時の方が、覚えていることが多いな」
目に見えない椅子に腰かけるように、同じ高さで向かい合うところで脚を組む。
「思い出、という感じだけど。あの時こうした、この時どうしたっていう記憶はある。意識自体、ぼんやりしていて夢の中にいるみたいな感じだ。こうなってからのことは、もっとぼんやりしている」
浮いていて、頭の後ろの景色が透けて見えることを除けばなんら普通の人間と変わらないが、当の本人がそれを否定する。
「変化があるのは生きている間だけ。俺は過去に属しているからじゃないか」
「どうして・・・」
どうして淡々としていられるのか、朔太郎の方が落ち着かない。ひょっとしたら、ケイもその瞬間のことを覚えていないのではないか。
例えば、背後から急に危険が迫ってきて気づく間もなく即死、もしくは意識の回復が無いまま死亡したとすれば。
「君にはまだ先があるし、今は思い出せなくても積み重ねたものがある。そう悲観しない方がいい」
俯いて押し黙った朔太郎を、ケイが宥め励ます。なんて関係だ。朔太郎は返事ができなかった。
「さ、夜は短いんだ。仕事をしよう」
促されるままのろのろと前を向き、ペンを握って文字を綴る作業に戻る。
結局、よくわからない。ピアニストだったくせにこうして小説を書いていることや、仇かもしれない自分を手助けする理由。小説ドッペルゲンガーの中に、理由が隠されているのか。穴に埋められた秘密。それは死体のことを指しているように思える。夜な夜な穴を掘り返す影、小説を通じて朔太郎の罪を弾劾しているのだろうか。
「俺、今日、病院行ってきたんだ」
「ん?そうか」
左手は止まらない。
「来週、逆行催眠の予約してきた」
「逆行催眠?」
「それで、記憶が戻るかもしれない」
「そうか。・・・思い出したいのか?」
びしりと、家鳴りがした。
「あの日、死んだんだろ?」
振り向いて叫ぶ。
「朔太郎、ちょっ・・・」
「三年前の四月二十五日に・・・古賀景一さんっ」
ばつん、と音がして電気が切れた。
「えっ、なに・・・」
真っ暗闇になり、何も見えない。
ケイ、と呼びかけたが、急に音楽プレーヤーが勝手に鳴り出して返事が聞こえない。
「なんだよこれ・・・痛!」
手探りで爪先を進めると椅子か何かの脚に当たった。よろけた腕を誰かの大きな手が掴み、その場に縫い止められる。金縛りというやつなのか、指一本動かず棒立ちになってただ闇の中に目を向けた。
長かったのか短かったのか、息が荒くなって苦しくなり始めた頃、音楽が止んだ。
次いで照明が戻る。明滅する蛍光灯が照らす部屋の中に、ケイの姿はなかった。
体の自由も戻り、捲ったパーカーの袖の下、掴まれた腕が手首の形に赤くなっている。
「なんだってんだ・・・」
痕を擦りながら、周りを見渡した。音楽が鳴っていた以上、停電でもブレーカーが落ちたのでもない。騒霊現象、だったのだろうか。
「ケイ、ケイっケイっ・・・!」
呼んでも、返事はない。
「・・・・・・本当に」
訳もわかぬまま振り返った机の上に、異変があった。
「なんなんだよ」
真新しいパソコンも、メモを貼った壁も、辺り一面真っ赤だった。
血でもぶち撒けたかのような。壁からも机からも、赤い色が滴っていた。
銀杏の舞い散るオープンテラスで、待ち人はすぐに現れた。
「お疲れ様です。ごめんなさい、忙しいのに呼び出して」
「久しぶり。いいよ、ぜんぜん。気にしないで」
席を立ち、慌てて頭を下げる仁奈に伊深はにっこりと笑んで座るように促した。
「仁奈ちゃんも昼休み中なんでしょ?ごめんね、こっち来てもらって。時間大丈夫?」
仁奈の勤める治療院は、大学から歩くと三十分くらいかかるはずだ。腕時計を確認して尋ねると、大丈夫ですと恐縮したように肩を竦める。
「しかし俺に用って珍しいね、どうかした?」
どこか元気のない表情に、挨拶もそこそこに本題に入る。
「あの、朔太郎のことで」
十中八九そうだろうと思っていたが、やはりそうかと頷く。
「うん、こないだ家に来たけど・・・なんか随分疲れてたみたいだったな」
「四日前に、私の家にも来ました」
「そうなんだ」
となるとあの後行ったのかと一人納得して続く言葉を待つ。
「様子が、なんだか疲れてるだけじゃなくて思い詰めているというか考え込んでるような」
「ああ、うん。なんかそんな感じあったなあ、たしかに」
今にも倒れそうな顔でやって来て、幽霊はいるのかと訊いてきた。
「けっこうまじめというか、突き詰めて考えるクセあるからなあ」
さてはて、どうやらあの調子で恋人のもとに行き、もしかしたら同じような質問をしたのかもしれないなと後ろ頭を掻きながらどうしたものかと考える。
「あれ以来、治療に来てなくて。携帯も通じないんです。三日以上経ってるから・・・ちょっと心配で。私は、家を知らないし」
「なるほどね。うん、わかった。今日の帰りに寄ってみるよ」
言うと、ほっとしたように表情が緩む。
「仁奈ちゃん、あの・・・お節介かもしれないけど、あいつが家教えてないのは別に仁奈ちゃんのこと信用してないとかそういう訳じゃないと思うから、その・・・これからも見捨てないでやって」
何をどう言ったものか迷いながら、言葉を選ぶ伊深に仁奈が頷く。
「勿論、大丈夫です。・・・伊深さんは、幽霊が視えるんですか?」
一息吐いて仁奈が言った。視線はカップの中から動かない。
「えっ、う~ん・・・変だなって思うことはたまにあるけど。あいつが言ったの?」
「この前、いると思うかって突然訊かれて。次の小説のネタだなんて言ってましたけど、夜、すごくうなされてました。こわい夢を見たって」
単なる夢、と落ち着きを取り戻してからは言っていたが、ただごとではない様子だった。
左手を掴んで、恐い顔でどこかを睨んでいた。
「私の分からないこと、見えないことですごく苦しんでいるみたい・・・な。どうしたらいいのか、わからなくて」
左手の自由と記憶を失う事故から、三年が経った。当時からずっと彼を担当している。朔太郎の左手は今も動かない。完全麻痺だ。治療を続けてはいるが、未だなんの兆候もない。担当医として、恋人として、やるせない気持ちは常にある。だが決して、その気持ちを表に出すことは出来なかった。
通常、動かさない肉体は恐るべき速さで筋力が落ちる。筋肉は減り、腕は細くなる。だが、朔太郎の腕に左右差はほとんどない。自分の治療が効いているのではない。彼が、見えない努力を続けているのだと分かる。いかようにしてか、全く動かないはずの腕を一体どんな気持ちで鍛えているのか想像して余りあった。
誰より近い存在でいて、傍らで支え、ともにいたいと思いながら自分は、朔太郎に訊けないでいることが多い。
何を思い、どんな生活を送っているのか。自分の事は、どれだけ記憶しているか。好きだといった、その気持ちに変化はないのか。一番の理解者でありたいのに、失望を恐れている。とんだ臆病者、いや、卑怯者か。どんな形であれ、彼を失うことが怖かった。
「謎の正体をはっきりさせてしまったら、どこかに行っちゃいそうで」
その結果ずるずると、中途半端な距離のままここまで来てしまった。なんの変化もない、生温く優しいだけの時間を丁寧に重ねてきたが、近頃思う。このままでいいのかと。
「・・・たぶん、朔太郎も仁奈ちゃんと同じようなこと思ってるんだと思うよ」
俯いていた視線が、伊深を見る。
「朔は、何より自分を信じてない。そんな感じない?ちゃんと仕事して、評価もいいのに他人事みたいに反応したり」
「ありますね、そんな感じです」
「自信が持てないんだと思う。高校の時から、どっちかっていうと大人しかったけど、事故以来は特に。記憶がないから、自分を信じられないってよく言ってたよ。もう三年になるんだな」
もしもこのまま、治らずに年をとっていったら、記憶がある期間の方が少ない人生がやってくる。そうなったら怖い、と漏らしていた横顔を伊深は思い出す。
「男ってバカだからね、好きな娘には甘えたいのにかっこつけもしたいんだよ。仁奈ちゃんに会って、かなり救われたと思う。勝手なもんだけど、弱ってる時に優しくしてくれて、この人のために頑張ろうってかっこつけさしてくれる存在は本当貴重だよ」
「女子もそうですよ」
目が合って、笑い合う。
「互いにそうならこれ以上いいことはないね、改めて、朔のことよろしくね」
「はい」
目が覚めた。
起き上がって見回す、いつもの自室だ。
いや、いつものではない。
壁一面。違う、見渡す限り四方すべての壁が、一分の隙もなく紙で埋め尽くされている。はじめからこうだったか。いつ、こうしたのだったか。
俺のメモ、俺の記憶。
眺めていると、ひらりと一枚が壁から落ちた。
次いで、次々ひらひらと剥がれ落ちていく。
落葉樹の森の中か、吹雪の中のようだ。洪水を起こしてメモが降り注ぐ。
茫然と見守る間に、壁肌が露わになった。白いメモが外れ、なお白いはずの壁紙が赤い。
「Gilty(有罪)」
べったりと滴る文字で、お前は有罪だと書かれていた。
これは、断罪だ。
都合の悪いものに蓋をして、見て見ぬふりを続ける傲慢な自分に対する。
今更、許してくれとは言わない。すべて、明らかにするから。あと数日、もう少しだけ待ってくれと、降りしきる紙の中なにもない空間に叫んだ。
「・・・っ」
がくん、と頭が落ちた衝撃で飛び起きた。先ほど起きたと思ったのは、夢の中のことだったようだ。しぶい両目を瞼の上からきつく揉んで、のろのろと首を上げる。
時間の感覚が麻痺して、一体今が何日の何時なのか分からず時計を見ると、病院に行った日から四日目だった。時刻は午後三時十五分。室内はまだ明るい。
見上げた先、机とメモが貼られた壁にはまだうっすらと海老茶色の染みが残っている。
ケイが消えた日。頭の中にもうその日の記憶は無いが、日記によれば仕事中にケイに死亡した日の事を聞いた瞬間、照明が消えた。音楽プレーヤーが勝手に鳴り出し、誰かに(おそらくケイに)押さえつけられて数秒後、明るさが復活した時には壁が真っ赤だった。パソコンとメモは全滅。液体の正体は分からないが、掃除に一日掛かった。きれいにしたつもりだったが、まだ少し残っている。アメリカの有名なゴーストハウスに、壁から血液が噴き出す屋敷があったな、と朔太郎はぼんやり思った。
あれから四日、部屋から一歩も出ていない。パソコンを修理に出す、とか豊島に汚れた壁の事を話す、とかしなければならないことはあるのだが、部屋から出られなかった。食べることも眠ることも最低限まで無視して、じっと息を殺して壁を見つめる。一時も緊張を緩めてはいけない気がしている。
ガン!と音がした。
「ひっ・・・」
声を飲んできつく膝を抱き寄せる。息をひそめて縮こまる朔太郎を追い立てるように、隣室と共有した壁が端から打ち鳴らされる。
バン、バン、バン、バンと両手を叩きつけるような音が続く。
耳を塞ぎ、頭から毛布を被ってやり過ごす。
この建物は大まかに部屋が四つある。一階はVividとアロマの店が入っている。二階は一方が朔太郎の部屋。もう一方、隣室は空き部屋だ。
四日前から、おかしなことが続いている。照明は明滅し、勝手に点いたり消えたりする。CDコンポもテレビもノイズを吐き出し、独りでに動くのでコンセントを抜いた。照明は蛍光灯を外し、夜はろうそくと懐中電灯で凌ぐ。携帯電話には非通知の不可解な着信が相継いだので電源を切った。
残るところ、あと三日。ケイは姿を現さない。
何が起きているのか、この現象の意味はなんなのか、考えるのは止めた。
ここ数日の出来事を綴った日記を抱きしめ、壁際に身を寄せて静かに静かに時間が経つのを待つ。あと三日、明後日までの辛抱と言い聞かせて空中を睨む。自分の名前、年齢、職業、住んでいる場所や大まかな人間関係と、今日までの概要は思いつけるだけノートに書きつけた。床に転がったペンを取り、今しがたあった音の事も記す。外界との接触を絶ち、朝も夜もないじっと蹲るだけの生活で朔太郎の近況が切り取られてしまった現在、手に持った薄いノートだけが命綱だ。
何のためにこんなことをしているのか、期限がなければ気が狂いそうだ。握りしめてくたくたになったノートには、自分の字で自身に宛てたメッセージが書いてある。
モラトリアムの終了まであとわずか。迷うな。考えるな。静かに待て。だが、警戒だけは怠ってはいけない。
何に、とは書かれていなかった。
どくどくとこめかみが脈打っている。呼吸の度にひゅうひゅうと喉が鳴る。
考えろ、考えろ、考えろ。目まぐるしく思考は転回している。
頭も肺も心臓も、爆発しそうに動いているのに、まだまだまだまだすべてが足りない。
凍えた指を開いて、スコップを握り直した。
やっと幸せになれると思ったのに。未来の展望が拓けた、そう思ったところだったのに。これさえなければ元通りなんだ。幸せな気持ちのままベットで眠って、朝起きたら希望に満ち溢れた生活が戻ってくる。これさえ。たった一つ、これがあるだけですべてを台無しにする。今までも、これからも、全部駄目にされる。そんなこと、許されるはずがない。
手が痺れるほど懸命に掘った穴は大きく、死体の一つや二つ飲み込んでも変わらないように見えた。
雨は温い。
頬から顎へ伝い、髪を貼りつかせて不快だったが、おかげで人目が無く、地面が柔らかかった。冷たくて重いスコップも、振り上げれば充分に威力を発揮する武器と成り得るだろう。
大丈夫だ、リカバリーできる。ここで躓かない。これで終わりになんてしない。
あそこに居合わせたのが不運だったのだ。だが自分は、不運なままでは終わるものか。
目の前に差し出されたかのように無防備な後頭部。背筋を走り抜けたのは、獲物を仕留める高揚感だ。禁忌を犯す背徳感も。
コレは、すべてをリセットする魔法のボタンだ。
好機を逃さなかった幸運に。熱いため息を一つ漏らして、暗い大きな穴から這い出そうとしている眼前の頭に目掛け、勢い良くスコップを叩き下ろした。
嗚呼!
「わあああああああああああ」
「センセイ!」
絶叫しているのは誰だ。それが自分の声だと、喉を震わせる感覚に遅れて気づく。
揺すられ、茫洋とした瞳が像を結んだ。
「あ、あなたは」
目の前に見知らぬ女がいた。自分より幾らか年上だろう。長いを巻いた髪に、スーツ。
「イナミです。あなたの担当の」
「イナミ、さん」
この女は誰だ。なぜここにいる。少なくとも学生時代に知り合った人物ではない。
「大丈夫ですか?ひどく魘されていましたよ」
真っ赤な爪の指先が額に張り付いた髪を掬い、まだ少し震える手に清涼飲料水のボトルを握らせる。
「ああ、俺、夢を・・・」
甘い水を一口飲んで、だんだんと意識が澄んできた。伊波という名前をやっと思い出す。ノートの中にあった。伊波奈々。担当編集者だ。
「具合はどうですか、ひどい顔色ですよ。ちゃんと食べてないんでしょう」
「なんで・・・」
「何度電話しても留守なので、様子を見に来たんです」
話しながら持ってきたという食料を袋から取り出す伊波を除けて室内の確認をする。
部屋の中は煌々と明るい。蛍光灯は、外したのではなかったか。床にはろうそくや懐中電灯が転がっている。目の前の女が、不便だからと取りつけたのだろうか。
そして気づく。メモがない。
「なっ・・・」
立ち上がって取りすがった壁、そこには染みがあるだけで一枚の紙もない。這いつくばった床の上も、隅の箱の中にも無かった。
「嘘だろっ」
後生大事に抱えていたはずの日記までもが消えていた。毛布を投げ、布団を剥いでみても無い。見つからない。
「先生?どうされたんですか」
茫然と立ち尽くす朔太郎に、伊波が問い掛ける。
「メモがない・・・日記も」
夢をみている間に、何が起こった。夢というなら、今のこの状況こそ前後不覚の悪い夢のようだ。
「メモ、燃やしてありました」
女が言った。振り向いて顔を見る。
「どこで」
「そこの、河川敷で」
家の近くには大きな川が流れている。橋の下の中州や河川敷では、アウトドア
を楽しむ人々をちらほらと見かけるが。
「バーベキューをしていた学生たちに聞きました。黒いパーカーの若い男が大量の紙をもって来て、火をつけて帰ったと」
聞きながら、自分の恰好を見下ろした。
「覚えていらっしゃらないんでしょう?」
伊波の声はぞっとするほど優しい。
「仰ってましたよね、自分を守る為につらい記憶を忘れたんだって。思い出すことを恐れる、無意識のせいかも・・・」
温かい手が、するりと頬を滑る。
「先生は悪くない。防衛反応ですもの、しょうがないことですよ。焦らないで」
「しょうが、ない・・・?」
では俺はまた、己の身可愛さにすべてを無かったことにしようとしたのか。
「帰ってください」
伸びた手を振り払う。
「先生」
「帰れよ!」
怒鳴りつけて洗面所に逃げ込んだ。
込上げてくるものを吐き戻す。胃の中は空で、いくらえづいても苦しさばかりがつづく。
涙と唾液で汚れた顔が鏡に映っている。なんて、浅ましくも情けない。三日間に拘らず、都合が悪いことはこうして忘れてしまうということか。今までに何度、こんなことを繰り返したのだろう。
鏡の中の自分を衝動的に殴りつけようとして、ぎくりとした。
自分のほかに、誰か一緒に映っている。伊波か。
「な、ひっ・・・!」
伊波じゃない。髪が長めで、秀でた額。記憶にはないが、すぐに誰かは分かった。険のある瞳が、恐怖に引き攣る自分をとらえた。
「あ・・・、あっ」
悲鳴は喉に引っ掛かり、掠れて音にならない。男の顔が近づき、耳元に唇が寄せられる。
「気ヲツケロ」
「わっ、わあああ!」
言葉の意味を考える余裕などなく、弾かれたようにその場から逃げようとした。
が、一歩も洗面台から離れられなかった。体は目一杯に捩り、斜めになっている。
「なんで、なんでだよ!」
左手が洗面所の縁をがっちりと掴んでいた。麻痺しているはずの腕が、持ち主の意思を裏切って動かない。叩いても引っ張っても微動だにせず、足が滑って転んでも離さない。
異変を聞きつけた伊波が助けに来ないかと思ったが、に帰ってしまったのか気配はない。
「だ、れかっ・・・!」
鏡の中の自分は、今にも卒倒しそうに慄いている。そこへまた、ゆっくりとあの男が近づいてきた。逃げたいのに逃げられない。
サクタロウ、と男の唇が動いた。
「気をつけろ」
もう一度同じ言葉を言って、幽霊は消えた。左手の力も抜け、解放される。
勢い余ってドアや壁に激突しながら洗面所から転がり出た。這うように部屋を抜け、一階に逃れて階段に座り込む。
だくだくと、心臓はこれ以上ないくらいに高鳴っている。何一つ理解できない。事態を飲み込めず、ただ暗闇に目を凝らす。Vividは休みなのか、誰もいなかった。しん、と静まり返った店内に、朔太郎一人の荒い息遣いが響く。
今のはなんだ。あれがケイという幽霊なのか。毎夜左手を動かして、小説を書
いていた男。自分が殺したかもしれない男。
左手を持ち上げてみる。だらりと垂れ、先ほどもせたもの凄い力は欠片も感じられない。
「こん、な・・・」
ふらりと立ち上がり、奥の小さな台所に向かった。
「こんな、もの」
気持ち悪い。自分の腕なのに、まったく意のままにならない。幽霊に好き勝手に操られる為だけにくっ付いている腕なんて。
「・・・くっ」
包丁を当て、押し付けた。刃が食い込み、赤い粒がぷつぷつと肌に浮かぶ。
「あっ」
手が滑り、包丁が落ちた。体勢を崩し、そのまま座り込んでしまう。
「何してんだ、俺は・・・」
包丁一本で、腕が切り離せる訳もない。自殺する訳にもいかない。あと僅かなのに。たった数日堪えて、清算しなければならないのに。
むしろ大変なのは、記憶を取り戻してからの方だろう。ケイだって、それを望んでいるんじゃないのだろうか。自分の体が見つかって、家屋や友人のところに戻り、朔太郎が刑に服すことを望んでいるのではないのか。それとも取り戻せないものに怒り哀しみ、盛大に苦しみ狂えばいいと恨んでいるのだろうか。気をつけろとは、何に対しての警告なのか。
「俺は、どうやって償えばいい?」
虚空に向かって呟いてみても、返事は無い。途方に暮れた気持ちで膝を抱えると、脚に固い感触のものが触れた。ポケットを探ると、携帯が出てきた。メモも日記もパソコンも無くなったいま、登録してある僅かな情報だけが頼みの綱になってしまった。
また妙な着信があるのじゃないかと警戒しながら電源を入れた瞬間、携帯が震えた。
「ハイ。もしも・・・」
「朔!ああ、もうやっと出た!」
「伊深?ああ、いま俺・・・」
聞き馴染んだ声にほっとしながら喋ろうとしたが、電話の相手がそれを遮る。
「仁奈ちゃん怪我したぞ!」
「えっ?」
「お前の彼女の!仁奈ちゃんだよっ階段から落ちて!」
ニナ。笠谷 仁奈。
「今どこだ。怪我って」
「命に別状はねえけど、頭打ってるから今日は様子見る為に泊まりだ。うちの病
院って、場所分かるか?大学病院」
「すぐ行く」
電話を切り、朔太郎はそのまますぐに家を出た。嫌な予感が、胸を一杯に占領していた。
案内された病室で、半臥の姿勢をとった女性が顔を見るなり安心したように微笑んだ。
「来てくれたんだ」
「・・・ああ」
「ごめんね、大したことないんだけど。うっかり階段踏み外しちゃって」
恥ずかしそうに肩を竦める。存外元気そうな姿に安堵の息を吐きながら、足首に巻かれた包帯に視線を移す。
「足、痛い?」
「ううん。動かさなければ全然。骨もなんともないし、本当に大した怪我じゃないの」
顔の前で手を振り、慌てたように言う仁奈に伊深が割り込む。
「って言っても目が覚めたのついさっきだからね。あちこち打ったみたいだし、安静にしなきゃだめだよ」
「ただの脳震盪だし!ほんと大丈夫だから」
「ニナ」
静かな声で呼びかけた。少し驚いたように見上げてくる顔を凝視する。
「ちゃんと診てもらって、早く治して。・・・心配した」
「うん、ありがとう」
一瞬の沈黙の後、小さく頷いて微笑む。
「そうだよ仁奈ちゃん。しっかり養生して早く良くなって。面会時間もう終っちゃってるから今日は帰るけど、明日、朝イチで来るから」
な、と朔太郎の肩を叩き、伊深が明るく言った。
「何かあったら、すぐ連絡して」
見送ろうとする仁奈を押し留めて、病室を出た。暗い廊下を、ただ黙って歩く伊深に着いて行く。エレベーターを降り、受付前のロビーに出た。照明は最低限に落とされ、外来もとっくに終わった館内は二人の他に人影もない。自動販売機の前を通り、中庭に出た。月明かりに照らされ、幾分明るい。
黙々と歩いていた伊深が、立ち止まってポケットを探る。慣れた所作でたばこを出し、火をつけた。
「仁奈ちゃんのこと、分かるか」
「・・・うん」
「そうか」
安心したのか、はーっと煙を吐いてしゃがみこむ。
「俺今日、昼一緒にいたんだ、仁奈ちゃんと。朔が音信不通で四日間。治療にも来てないから様子を見てくれないかって相談された」
「ごめん。忙しく・・・してた」
ちらりと、伊深がこっちを見た気がした。見返すこともできず直立不動のまま話を聞く。
「まあ、大したことなくて良かったよ。別れてすぐ、なんだか騒がしいなって思ったら倒れた仁奈ちゃんがいて、心臓泊まるかと思った」
「・・・悪い、ありがとう。伊深がいてくれて良かった」
自分が見ないふりをしている間に、いろいろなことが起きている。
「脳震盪ってことだったけど、すぐに目覚まさないし。お前は携帯電源入ってねえし」
「ごめん」
ぎゅ、と唇を噛んだ。伊深の声に責めるような調子はないが、申し訳なさで胸が詰まる。
「直接家に行こうかとも思ったけど、捕まってよかったよ」
それきり沈黙が下り、ゆらゆらと紫煙が上っていくのを見つめていると、ふいに突風が吹いて空気を浚った。
「これは、なんの証拠もないんだけどな」
しばらくして、伊深が口を開いた。
「仁奈ちゃんは階段を踏み外したって言ってたけど、・・・誰かが押したって話がある」
「え?」
伊深の目は正面を向いたまま、抑揚のない声が続ける。
「階段を降りる仁奈ちゃんの背中を押した手を見たって、話を聞いた。証拠はない。仁奈ちゃん本人が自分の過失だと言っている以上、騒いで犯人捜しをするわけにもいかないが、そういうふうに言っている人がいたってことだ」
誰が、なぜ。うすら寒いものが背筋を駆け上がった気がした。左手を、強く掴む。
「俺自身、その瞬間を見ていないし、なんとも言えないけど・・・」
たばこを消し、ゆっくり立ち上がって伊深は朔太郎の青白い顔を正面から見た。
「大丈夫か」
「・・・ああ」
視線はすぐに逸らされ、何かを堪えるように俯く。何を考え、悩むのか。
数瞬待って、伊深は朔太郎の髪を掻き混ぜて背を叩いた。
「お前も気をつけろよ」
「・・・うん」
「ケイ、あんたなのか・・・?」
自室に立って、朔太郎は呟いた。部屋はしんと静まり返っている。乱れた布団に毛布、空き瓶や伊波が持ってきた食料の袋が転がり、ピアノの下に散らばっている。
「なあ、言いたいことがあるなら回りくどいことしないではっきり言えよ!」
よく点いたり消えたりしていた天井の照明を睨んで言ったが返事はない。
「俺が憎いなら、さっさと俺を殺せばいいだろ!」
あらん限りに怒鳴っても、変化はない。ぐしゃぐしゃの気持ちで洗面所に行き、隅々まで見たがおかしなものは何もない。鏡に手を着き、鏡像の自分と向き合う。あと数日、乗り切ればと思っていたが果たしてその時間はあるのだろうか。根本的に見落としていることはないか。
仁奈の足に巻かれた白い包帯。あれは本当に事故なのか。もしも自分に関係したために巻き込まれたのだとしたら。そもそも、殺人犯かもしれない男と関係していいことなどあるはずがない。
出会いも経緯も分からない恋人。三日会っていなかった。正直、何の前情報もなく会っていたら反応できたかどうか自信がない。こんな自分と、信頼が築けるはずもない。彼女の気持ちはどうなんだろう。疑うな。いや、疑え。
足元からガラガラと崩れていくようだった。
考えが、甘かったのかもしれない。はっきりするまでと先延ばしにしてきたけれど、彼女のことを考えれば答えは明白だ。
「ごめん。本当ごめん・・・」
膝を着き、許しを請うように頭を下げた。涙が止まらなかった。
「あ、おはよー」
翌朝、約束通り病室を訪ねると、仁奈は帰り支度をしているところだった。
「・・・はよ。もう大丈夫なの?」
「うん。朝一で診てもらったけど、特に問題無し。足は捻挫だったし」
ひょこひょこと片足で動く姿が痛々しい。ふらふらしている上半身を横から支えて、バックを代わりに持つ。
「あ、ありがとう。ごめんね、忙しいのに」
微笑む明るい顔から目を逸らして、大丈夫と小さく返した。
「松葉杖とか、無くていいの?」
精算を済ませ、ゆっくりと病院を出ながら片足跳びで移動する仁奈に問い掛ける。
「うん、あれはなかなか慣れないと大変だし、かえって邪魔になるから」
「そう、なんだ。ごめんね、車とかあればいいんだろうけど」
免許は持っていたが、おそらく事故以来運転していないだろう。
「ううん、全然。来てくれただけで、うれしいの」
苦心して段差を降りながら、振り返って笑顔を見せてくれた。眩しいな、と思った。彼氏として、何一つ満足させてやれることはないのに。淡い、いつかを期待して待ってくれているのだろうか。おそらくそのいつかは、もう来ない。事実がどうであれ、自分は償わなければならない。司法によってかケイによってかはわからないが、いずれ遠からず裁かれる。こんなふうに穏やかにしていられるのは、もう幾日もない。
この優しい手を、離さなければならない。
タクシーに乗り、仁奈の家の前まで送り届けて朔太郎は立ち止まった。
「仁奈」
玄関の前で口を開いた。
「別れよう」
顔は、見れなかった。
「え?いま、なんて・・・」
奥に行きかけた足が、戻ってくる。
「別れよう」
片足が目の前で止まり、沈黙が下りる。
「どうして?」
静かな声だった。こんな時まで優しく響く。
「俺・・・よく分からない」
ともすればひっくり返りそうになる声を、努めて平静になるよう苦心する。
「たぶん、誰かに愛されていたかったんだと思う。だって、君をどう思っていたのか、一昨日までしか分からない。積み重ねたものがないから、信じられない。これは、こんなのは・・・」
もっと簡単に、もう好きじゃないとか、忘れてしまったとか言えばよかったのかもしれない。
「信じられないのは、私?あなたの気持ち?」
問われて、反射的に顔を上げた。怒っているような、悲しんでいるような、大人の表情をした仁奈と目が合った。
「・・・っ、ごめん」
それだけ言い捨てて、逃げるようにその場を走り去った。息が続くまで全力で走って、視界から仁奈の家がすっかり消えたところで電柱に寄りかかるように止まる。運動と無縁の体は短い全力疾走にさえ悲鳴を上げて、込み上げるままその場に何度か吐く。何も食べていないので胃液しか出ない。喉や舌が焼け、それが次の不調を招く。
本音を言えば、正直に何もかもを告白し、全部許してくれと言いたかった。忘れないでほしい。一緒にいてほしい。こんな自分でも受け入れて、捨てないでくれと縋りたかった。
人を好きになるのはこんなに辛いことなのか。忘れているだけでこんな思いを過去に何度し、何度させたんだろう。自分がひどく薄っぺらく思えた。
操縦の難しい体を引きずるようにして、どうにか家に辿りつく。Vividの店内を抜け、螺螺旋階段を這って上がる。
こんな状態で、あと何日暮らすのか。押し寄せる不安感に頭痛がする。左右から殴られるように視界が揺れ、チカチカと眩暈がして吐きそうだ。耳鳴りと冷や汗が止まらない。あまりの気持ち悪さに、自室に辿りついた瞬間転倒した。
「・・・っケ、イ・・・ケイっ・・・ケイ!」
床に突っ伏して呻く。もう目を開けていられない。指一本自由にならない。いっそ今ここで殺してくれと叫びたかったが、声にならなかった。朔太郎の意識は、埋没した。