二章
二章
「中山朔太郎、二十二歳。平成二十二年、四月二十五日。俺は交通事故に合ったようだ。ようだというのは、その事故について何も覚えていないからだ。
今日は四月三十日。医者の勧めで、日記を書いている。
事故から、どうやら五日が経っているらしい。顔と肘、膝の傷は腫れが少しひいてきた。擦った傷は水が出て、かなり腫れた。だいぶ人相が戻ったと思う。一昨日なんかは、かなり顔のパーツが散らかっていた。全身、これといって痛みはない。関節が、深く曲げると傷口の皮膚が突っ張って少し痛いぐらい。
五日前、俺は夜中に大学を出てから三日間、行方不明だったらしい。
四月二十三日の夜中から二十五日の間に、何かあった。全身擦り傷でぶつけまくるような、交通事故みたいなもの。
とりあえず五体は満足で、命に別状はなかったけど、何があったのかは今もわからない。MRIとかいろんな検査もしたけど、脳に異常はなかった。ストレス性のものだろうって、医者は言った。その内、思い出すかもしれないからふつうの生活をしてればいいって。
警察も電話してきたし、会いにもきたけど、何も覚えてないからうやむやになった。まだ見つからないバイクは、出てきたら連絡してくれるらしい。まだそんなに走ってなかったのにな。
親はかなり心配してた。学校は、明日から行く。まあ授業はほとんどもう無いから、研究室に顔出すくらいだけど・・・左手が、動かない。のが、すげえショックで。
利き手だから、右でこれ、ここまで書くのにえらく時間かかった。指つりそう。
左手も、検査したけどよくわからないらしい。わからないって、何だよって感じだけど。肘から先、すっぱり失くしたみたい。温度も触った感触も分からない。痺れてる、とかせめてそれくらいあればよかったのに。ただぶら下がってる左手が、いらつく。利き手が使えなくなったから、右手でいろいろする練習を始めた。この日記も、その一環。
なんだかひん死のミミズみたいな字だけど。いつかきれいな字が書けるようになるのか。その時左手はどうなってるのか。一生このままとは言われなかったけど、原因不明って。希望か絶望か、分かんねえな。
日記を書く理由は、もう一つある。俺は、頭をぶつけたんだと思う。後ろにまだ、タンコブ残ってるし。
昨日、気づいた。俺、四日前のこと覚えてない。
たとえば何食ったとか、そういうのって一昨日のこと覚えてないとかよくあるけど、救急車に乗って運ばれて、警察行ったり検査に行ったりしたらしいってこと・・・忘れてる。これもまだ、原因不明。まだ?いつかは、治るのか。恐くて、考えちゃいけないって言われたけど考える。左手からどんどん食われていって、端から無くなるような気がしてくる。
だから、この日記は右手の訓練と頭のリハビリと、脳の代わりだ。魔法みたいに全部明日になったらリセットしたらいいのに。実際リセットばかりで何も残らないことが、こんなにこわい」
日記を閉じて、知らず詰めていた息を吐き出した。拙い、かなり解読に時間を要する文字が連ねてあるが、これを書くのにはその倍の時間がかかっただろう。
まるで他人が書いた文章のようだが、間違いなく自分が書いたのだ。三年前の、事故から五日後。何が起きているのか、分かり始めている。
混乱と不安、恐怖。薄っぺらい希望よりも、それらが色濃い。思うように動かない右手を使う苛立ちが、そこここにインクの染みを作っている。
今の自分と同じようなことを考えているようで、少し違う。ぱらぱらと捲って見る限り、随分長い間まじめに書いていたようだ。最後の方には大分文字も上手くなっていて、少しだけ文面にも余裕が感じられた。
「こんなものが、あったのか・・・」
一体いつから何をきっかけにやめてしまったのか、おそらくとりとめもない理由で書けないまま数日が経過してその存在ごと忘れてしまったのだろう。
何かあればメモをとるので、慣れてしまえば生活はできる。となると日記を止めて、今のメモスタイルにシフトしたということだろうか。
約一年分の、自分の記録。事務的な用事を書いたメモとは違って、ここには一日毎の心境が書かれている。誰かの心の中を覗いているような、奇妙な感じだ。 一気に読んでしまいたい欲求にかられたが、もう日付をまたいで久しい。
予定では明日、昼前に伊波との打ち合わせが入っていたはずだ。少しは寝ておかないと仕事にならない。
とりあえず日記は机の上に置いて、頭を掻きながら振り向き、もう一度盛大にため息を吐いた。
「忘れてた・・・」
そういえば、片づけの途中だった。むしろ前より荒れた部屋の惨状が広がっていた。中途半端に寄せられた大量の紙類、出されたままの引出し、積み上げられた物の山。
物理的に存在するなら、心の折れた音がしたに違いない。
「先生は、紙原稿ですよね」
「へ?ええ、まあ・・・」
伊波の言葉に朔太郎は一瞬、動きを止めた。そこから続く言葉が何なのか様々なシュミレーションをして、結局気の利いた返答ができず、しばしの沈黙が下りる。
「珍しいですよね、いまどき」
「そうですね、最近はデータでやりとりする方も増えていますけど・・・でも素敵だと思います。作家さんの思いとか息遣いが感じられるような気がして」
実際はわざわざデータに打ち直しが必要であろうし、FAXやメールでやりとりすれば、こうして頻繁に会う必要もないのだろうに。
「いやあ・・・お手間を、おかけして」
ひたすら恐縮しながら、後ろ頭を掻く。
「とんでもない。かえって誤解なく細かい意見交換ができて、良い仕事ができると思います。やっぱり先生のこだわりなんですか?」
細かい意見交換どころか、大体のことが丸投げだ。
「やー・・・最初は、リハビリのつもりだったんですけど。クセになってしまって」
嘘とも本当ともいえない理由だ。
「保管する量も増えてきたし、パソコン買おうかとも考えてるんですが」
ケイはパソコンでも書けるのだろうか。そうなると左手のみで使うのか。かといって憑依部位が増えるのも心理的抵抗がある。
「ああ、そうだったんですね。私、無神経なことを」
「いやいや、大丈夫です。僕自身より、周りの人の方が大変ですよ」
眉を寄せて謝罪する伊波を制して、苦笑する。ケイがパソコンを使えないとしても、それを打ち直すくらいの苦労は請け負うべきだろう。
昨夜日記を発見してから、失われた自身の一部を取り戻せたような気がして前向きになっている。せめて自己嫌悪が少なくなるように精一杯のことをしたい気がしている。
「そんな、先生は頑張っていらっしゃいます。担当させていただいて一年ほどですが、本当にそう思います。だからといってはなんですが、今回のエッセイのお話も提案させていただきました」
「あの、かなり僕は・・・特殊だと思うんですが、大丈夫ですかね」
文字通り幽霊のゴーストライターをしています、などと言える訳がないが、記憶障害に麻痺だけでもかなり特殊といえるだろう。あまりに突飛なアビリティ異常の自分を題材にして、どのような記事になるのか。ケイに頼らず、これは自身の仕事になる。それは今一番やってみたいことだが、かといってほとんどがよく分からないで構成された実生活をどう見せるのかという疑問に加え、人目に晒されるというのも重荷だ。
「実際どのような形にするのか、今すぐご返答していただかなくても大丈夫ですので、少しお話を伺わせていただいても?」
ぐるぐると悩んでいたところに伊波が声をかけてくれた。
「ああ、すみません。そう・・・そんな感じでもいいですか」
我ながら情けないが、それでも何か自力で始めるということに内心バクバクとしながら頷いた。期待と不安が喉を塞いで声が上擦りそうになるのを堪えつつ、そういえばと付け足す。
「昨日、日記を見つけたんですよ」
「日記、ですか」
「事故の後、何カ月か書いていたみたいなんです。いつの間にか忘れて、仕舞い込んでいたんですけど」
たどたどしく話す朔太郎の言葉に、伊波の目が見開かれていく。
「じゃあ、それには・・・」
「まだ、ちゃんと見ていなくて。ただ、当時何を考えていたのかとか、参考になればいいなと」
顔を上げると、伊波が珍しく停止している。どうしたのかと眺めていると、我に返ったのか数度瞬いて小さく頭を振る。
「すみません、びっくりして・・・それはいいですね。差支えなければ私も拝見したいです」
「ああ、はい。もちろん。一応あの、一回見たらでも・・・恥ずかしいんで」
「ええ、もちろん。それはそうですよね」
ははは、ふふふと笑い合う。なんだか今日もいまいちテンポが掴めなかったなと思いながら話を切り上げ、本の装丁の詳細を決めて打ち合わせは終了となった。
どんな形にするかによるだろうが、たしかに日記現物を見てもらった方がいいかもしれない。一応、中身を検めてからといったものの、全く記憶がないので他人の書いた物のようでさして心理的抵抗がある訳ではない。
ケイが書いた小説も日記も他人事のようだが、今回の仕事は紛れもなく自分自身がやるんだと思うと興奮する。やる気が漲り、朔太郎は足早に帰宅した。
事故、から三か月が経った。
相変わらず俺の左手はマヒしてて、頭は三日間のことしか覚えていない。今日も病院のリハビリに行ったが、うんともすんとも動かないので鍛えるとか強化するというよりただ刺激してるだけの、感覚すらない俺にとっては退屈な時間だった。
動かすんだ、動かしてるんだという意識づけが大事なんだと怒られたが、自分にくっついているだけの物体で奇異な感覚でしかない。くやしさとか、虚しさとか、そういった哀しみはどこにいってしまったんだろう。たぶん、三か月前はあったんだろう。
頭の方も進展はない。カレンダーを見て、なんでもう八月なんだろうって思う。実感ない。日記を読み返してもピンとこない。自分の字なのが変な感じ。やった覚えのないことが、ちょっと不気味。
どんなに小さいことでもメモらないと、あぶない。
お盆を過ぎて、急に寒くなった。
朝と夜は涼しくて、肌寒い。秋が来ようとしている。時間が、確実に過ぎている。
今日も、身体に変化はない。左手はぶら下がっている物体で、細くなった。頭はわちゃくちゃで、どうしたらいいか分からない。
とりあえず単位を取りまくっていたから、幸か不幸かこのままでも卒業はできそうだ。ほっとするような気もするし、大学生という身分を失って、そこからどうすればいいのか不安もある。モラトリアムの猶予はまだあるが、進学しないなら一刻も早く就職活動をするべきなのに、ただ焦ってる。何だっていいじゃないか。こんな自分でもいいと言ってくれるなら、とも思うし、まだ諦めきれていない部分もある。
ずるくて、情けなくて、動けないんじゃなくて動きたくないだけだってわかってるけど、奇跡を妄想してる。夏休みで時間だけはある。眠れなくて、叫び出したくて、ひどい状態の俺に家族は優しい。バカ息子でごめんなさいとどうしようの延々ループでよくないところに嵌ってる。
逃避だけど、久しぶり小説を書こうかな、と思い立った。とりあえずこの一ヶ月以上余ってる夏休みの間。現実のことを考えたくなくて、別のことで思考を満杯にしたい。
家族も伊深も、案外あっさりそれがいいと言ってくれた。夢をみる。これが評価されて、仕事になったらどんなにいいだろう。書くことは手の、ストーリーを考えるのは頭のリハビリに。三日で忘れるんだから、いっそ客観的に自分の書いたものを評価できるだろう。休みが明けたら、何も変わらなかったら、障害認定を受けて支援の仕事を探す。でも今は。今だけ。
「ケイが最初じゃ、ないのか」
今まで朔太郎は、ケイが現れたから小説を書くようになったのだと思っていた。だがどうやら、きっかけ事態はケイではないらしい。いつからこういう形態になったのか、とりあえず最初は自分で思いついたことらしい。たしかに昔は趣味というか、文章を書くのが好きでよく書いていた。
「準備万全、か?」
「ケイ」
ふわと空気が動いたような気がして振り向くと、ケイがいた。
「珍しくやる気十分のようだ」
「ああ、いや別に・・・ってか珍しくって」
揶揄するように笑う幽霊にむ、と口を尖らせる。
「褒めている。さて、とりかかろうか」
「いつもだらけてるみたいじゃんか」
小さく抗議しつつ、紙を広げる。その上をすらすらと動き出した左手を目で追いながら、ふと思い立って肩口に浮いているケイに首を向けた。
「そういえば昨日、来なかったんじゃないか?」
「ああ、まあそんな日もある」
軽い返事があって、なんとなく続きを言うタイミングを失ってしまう。てっきり毎日のことだと思っていたのだが、違うらしい。
「ふうん・・・じゃあ俺の外泊も有りか」
こちらにも事情や都合がある。別に毎夜の決まりでないのなら、前もってわかっていれば仁奈の家から慌ただしく帰ることもない。
「・・・なんだよ」
あれこれと考えていると、手が止まっていた。
「集中」
呆れた顔が見下ろして、ため息とともに窘められた。
「ハイ、スミマセン」
本当に幽霊らしくない。他に幽霊の知り合いなんていないが、すごく人間くさいという表現はもともと人なのだから失礼なことだろうか。
「そういえばさあ」
いくらもせずにまた話しかけるが、特に咎められもせず何だと聞き返す。
昨夜ケイは現れなかったが、朔太郎もいまさっきまでそれに気付かなかったのは掃除をしていたからだ。正確にはさして捗らず脱線してしまったが。
「俺、前に日記書いてたの知ってる?」
私的にかなりの大発見だったのだが、ケイはふむと相槌を寄越しただけで特に興味はなさそうだ。
「事故の直後から、けっこう書いてたみたい なんだよね」
言葉尻が萎み、傍らを盗み見るが変わらず興味な下げに紙面を見ている。たしかに、他人の昔の日記が発見されたところで関係のない話だろう。
「そうなのか」
「ああ、うん・・・」
なんだか興奮しているのは自分一人なのがだんだん恥ずかしくなってきた朔太郎である。
「良かったじゃないか。空白の時間に触れられて、安心しただろう」
興味などなさそうにしながら、適確に朔太郎の心中を読み取ったケイに驚き、瞠目する。
「これが良い刺激になって、思い出すといいな」
紙面を見ていた瞳が、こっちを向いた。
「うん。そうなるといい、と思う」
心からそう願い、またそう言ってくれたケイに嬉しく思いながら、頭の隅で考える。
頭が治ればどうなる。事故の真相を思い出し、もしトラウマが理由の障害なら、この左手も一緒に治るかもしれない。そうなれば万々歳だが、さあそうなれば自分はどうするか。働きにでるのか。このまま続けるのか。
「どうした」
「ん、なんでもない」
ケイにこれから先のことをどう考えているのか聞いてみたい気がしたが、止めておいた。もしかしたらの前提でそれを聞いても、結局何にもならないと思い直す。実際そうなった時に考えればいいことだし、別に健康体になった途端にハイさよなら、にしなければいけない訳でもない。
「まあ、焦らず頑張りたまえよ。君には未来がある。立ち止まっているようで不安に思うだろうが、同じような毎日の積み重ねも無意味じゃない。見えづらくなってはいても、その頭の中に記録はちゃんと残っているさ」
そう言って、肩を叩くような仕草をする。
当たり前に未来を考えている自分を、幽霊のケイはどう見ているのだろう。何を考えているのか、どう思っているのか、表情からは読み取れない。
「助けてもらってばかりだな」
ストレートにありがとうと言えず、ぼそりと呟くと、ケイの横顔が一瞬震えたように見えた。
「まあ、君より年上だからね」
冗談めかすように言って、また猫のように笑った。
「さて、今日はこんなものだろう」
声とともに、動いていた左手がぱたんと倒れた。
「え、もう?」
転がったペンを押さえて振り返ると、大儀そうに肩を回す。肩凝るんだろう
か。
「そんな日もある」
同じセリフを言って、あっさりと消えた。
あっという間のように感じたが、見れば机の上の紙は五枚程度が文字で埋まり、二時間近く経過していた。なんとなくいつも仕事の後は時間の感覚が麻痺している。
「どうすっかな・・・」
まだ、時刻は宵の口といっていい時間だ。夜中まで仕事をするつもりだったので、少々拍子抜けである。風呂も掃除も気分ではないし、ケイの仕事の方は特別急ぐ日程でもないので構わない。
少しの逡巡の後、朔太郎は日記を読み進めることにした。ある程度読んでも三日でまた忘れてしまうので、エッセイの準備をするなら少しまとめて読んでおかなければならない。
くたびれたノートの表紙を捲ろうとして、ふとケイが消えた天井を顧みる。
ケイとの出会いも、ここに書いてあるのだろうか。それはどんなものだったのか、気になってページを繰った。
翌日。朔太郎は大学の図書館にいた。
記憶とは、何なのか。機能を失ったら、社会生活は出来なくなってしまうだろう。記憶は、あらゆる行動の基盤をなすものである。そんなぐさりと刺さる言葉が、目に飛び込んできた。
記憶とは覚えること、覚えたことを保持していること、思い出すことから成り、所謂学習と内容的には同じで、感覚情報を知覚し、固定して記憶するとある。
記憶障害を引き起こすものとしては、脳血管疾患、脳腫瘍、脳外傷、脳炎、低酸素脳症、ビタミンB1欠乏、脳変性疾患、アルツハイマー等が考えられるという。
まず自分の状況を整理しようと大学の図書館に来たのだが、早くもちんぷんかんぷんだ。
医療専門書の中から解剖学、生理学、臨床医学、心理学など辞書みたいに厚い本を引出し、積み上げてパラパラと目を通していく。
専門書なだけあって基礎知識のない朔太郎には難解だったが、とりあえず役に立ちそうな項目を書き出していく。
外界からの感覚情報は脳の感覚野というところに留まり、数秒で消失する。
興味のある情報は短期記憶と呼ばれ、一週間程度で消失。中期記憶は一時間から一ヶ月程度。数時間から生涯残るものは長期記憶と呼ばれる。つまり見た、聞いた、味わったなど五感すべての感じたという感覚はその時一秒で消え、何か特別感じることがあれば一時間から一生まで覚えているということだ。
朔太郎の場合、事故より前のことは覚えている。事故から先が三日間しか覚えられないといのが変わっているが、障害後失われる場合は前向性健忘と言われる。生活の手順などは身体が覚えている。三日間たとえ触っていなかった物でも、どこにあってどう使うのかはなんとなく分かる。が、いつどうやって購入したなどは分からない。
ひどい事件や事故に巻き込まれて、記憶が曖昧になるというケースは聞いたことがある。脳に損傷はなかったと、日記には書いてあった。ストレスとは魔法の言葉で、要するに正体不明。はてなマークのような形の脳の断面図を眺めながら、入り組んだ皺の中に見落としている致命的欠陥が隠されているような気がして暗鬱な気分になった。
本を戻し、ロビーの自動販売機でカフェオレを買う。
「あれ、サク」
一口飲んだところで声をかけられた。振り向くと、本やらファイルやらを抱えた伊深が笑みを浮かべて近寄って来る。
「調べものか」
「うん。専門書漁りに」
「ああ、たしかに普通の図書館より、マニアックなものならここのがいいよな。俺も先生様の資料探しに来たんだ。もう帰るとこか?」
「いや、ちょっと休憩」
掲げて見せた缶の中身を一口飲んで、顔を上げると伊深と目が合った。
「なんだかこうしてると、学生の時に戻ったみたいだ」
ふ、と伊深が笑う。
「テスト前とか、よく一緒に勉強したなと思ってさ」
「ああ・・・そうだな」
昔を思い出しているのか、伊深の視線が遠くに向けられる。返事をしながら、そうだ昔のことなのだと朔太郎は考えていた。自分にとってはついこの間の事のようなのに、実際には三年以上が経過している。記憶の中の伊深と目の前の伊深にそう違いはないように見えるのに、急に自分を取り残して別人になってしまったかのようだ。
もうどちらも社会人だ。お茶と菓子を片手に一緒に勉強することなどないだろう。
「サク」
感傷に浸っていると、引き戻すように伊深が呼んだ。
「なに・・」
伊深の目は中空を見ている。朔太郎の、左肩の上辺り。メガネが光って、視線の先はよくわからない。
「気を、つけろよ・・・」
呟くように言われた言葉にどきりとした。
「何か、いる?」
伊深の目線を追って右上方をふり仰ぐが、何も見えない。
「いや・・・悪い。変なこと言った」
伊深は、視える人だ。よくは分からないが、誰かにぶつかって何もない空間に謝ったり誰も聞こえない声に返事をしたりしてしまうことがあるらしい。
朔太郎はケイに限ってのことなので、霊感があるという自覚はない。
伊深に、ケイのことを話したことはあるのだろうか。今、自分にケイは視えないが、伊深には視えているのか。それとも別の何かだろうか。
「なにそれ。なんか気になるんだけど」
内心どきどきしながら問いかけたが、伊深は首を横に振った。
「別に、変なものはいねえよ。大丈夫。・・・でも」
否定しながら、やはり言いかける。
「なに・・・」
「なんか疲れてるみたいだからさ、あんまり根詰めンなよって。仁奈ちゃんとこ
ちゃんと行けよ?」
明るく言って、背中を叩かれた。
「痛い。ちゃんと行ってるし」
朗らかに笑う伊深の顔を見ながら、朔太郎は考えていた。伊深は分かっていて、見て見ぬ振りをしてくれているんじゃないだろうか。
決して言えない秘密が、三年前と比べて沢山ある。全部打ち明けてしまいたい。不安も不満も、言ってもしょうがないことを全部。どんなにぶっ飛んだことを言っても、伊深はきっと真面目に聞いてくれるのに。
「あ、悪い。一緒に飯でもって思ったけど、俺、お使いの途中だった」
「ああ、うん。がんばって」
「ごめんな、ちゃんとメシ食えよー」
資料を両手に抱えて慌ただしく去っていく背を見送りながら、朔太郎は胸がいっぱいになった。
「ハイ、お待ちどうさまぁ。特製ナポリタンー」
「ヤバイ。うまっ」
細めの麺に野菜の甘さとベーコンの香ばしさが絡み、ケチャップの香りが鼻から抜ける。
朔太郎は感動してフォークを握ったまま豊島を仰ぎ見た。
「そう?ありがと」
ヒゲに覆われたクマのような顔がにんまりと笑む。
今夜のVividはまだ客の姿がなく、朔太郎は至極リラックスして料理を堪能した。
「マジ天才。豊島さんかっこいい」
「あはは、褒めるねー」
言いながら、満更でもなさそうにナッツの味がするカクテルを出してくれた。
「いや、ホントに。自分で作ってもこんなに美味しくない」
二階の朔太郎の部屋にキッチンは無い。小さな冷蔵庫はあるが、ほぼ飲み物が入っているだけのものだ。料理ができない訳ではないので、Vividの台所を借りて簡単なものなら作って食べたりもするが、至極味気ない。
「人に作ってもらうご飯って美味しいもんだよねー。ちょこちょこ降りて来なよ。気にしないでいいからさ」
日記によれば、小説家という肩書を得て自立して一人暮らしをしようとしたものの、色々と障害を抱えた朔太郎が家を出ることに家族は大反対した。当たり前だが、朔太郎も譲れなかった。そこで平行線の話に助け舟を出してくれたのが豊島だった。はとこにあたる豊島は、自分が面倒を見るからと空き部屋だった店の二階を進呈すると家族を説得してくれたらしい。そうして度々気にかけてくれている。
「ありがとうございます・・・」
豊島は今年いくつになるのだったか。たしか九つくらい離れていたはずだから、三十四、五ということになる。大人だな、と思う。二十五歳も立派な大人だが、実際なってみればこんなものかという感じだ。精神的には二十二歳で止まっているから猶更そう感じる。
「ん?どした」
不自然に落ちた沈黙に、豊島が顔を覗き込む。
「いや・・・なんていうか」
昼間の事を思い出す。自分を置いて、皆は成長し続けている疎外感。
「俺、じたばたしてる割に何もできてないなって。人として当たり前のことも、全部止まったまんまで。一人だけ置いて行かれてる気がして」
朔太郎にとってはついこの間まで同じ大学生だった伊深は、仕事に就いて恋人とも順調だ。では自分はと、どうしても比べてしまう。
「人の力を借りるばっかりで、ありがたいのと同時に俺は何して返せるんだろうって思ったり・・・」
言ってしまってから、こぼれた本音に自身でぎょっとした。こんなのはただの愚痴だ。ものすごい勢いで後悔が押し寄せ、逃亡したい気持ちになる。
どきどきしながら豊島の様子を窺うと、変わらずのんびりした口調でそうだねぇと考えるように天井を眺めている。
「自信って、字のまま自分を信じるだけのものがあって出てくるんだから、朔く
んの場合覚えてなくて信じられないんだろうけどさ。周りの人が優しいと感じるなら、ふだん朔くんが優しくしてるからだと思うよ?ちゃんとできてるよ。案外そんなもんだよ」
「そう、ですかね・・・」
そうだよ。となんでもないように言って、にっと笑う。
ケイの表情を思い出した。
敵わないな、と苦笑しながらなんとなく本気で相談してしまったのが気恥ずかしくなって咳払いした。
「あれ、なんか今日・・・BGMの雰囲気いつもと違いますよね」
少々強引に話を変えたが、実際気になっていたので訊いた。Vividでは、大体いつもゆったりしたリズムの洋楽が流されているのだが、今日かかっているのはピアノの演奏CDのようだ。
「ああ、うん。これね、俺の友達が出したCDなんだよ」
「友達?」
「そう、ピアニスト。これ一枚しかないんだけどね」
「へえ、すごいですね。ピアニスト・・・」
音楽に疎い朔太郎には全く別世界の住人だ。まさか豊島にそんな交友関係があるとは知らず、かなり驚いた。
「小・中一緒だったんだけどー幼馴染みたいな?朔くんの部屋にあるでっかいピアノ、奴のなんだよ」
「ああ、あれそうなんですか?ヤバイ、俺、かなりぞんざいに扱っちゃってるんですけど」
テーブルと化し、雑多にものが置かれたグランドピアノを思い浮かべ、冷や汗が出る。
「ああ、大丈夫。気にしないで」
「いや、でも・・・ほんとに」
「そこそこ活躍してたんだけど、数年前から音信不通なんだ」
「え?」
「気まぐれおこして海外にでも行ってんのか、ちょこちょこ居なくなったりはふつうだったからね。それでも一年に一回は来てたんだけど」
ことん、とパンダの置物が置かれた。
「俺の事パンダに似てるとか言って、パンダのもの見ると買ってきて勝手に置いてく変な奴なんだよ」
「パンダ・・・」
たしかにクマっぽいと思ったが、パンダといわれるとその方が合ってる気がする。いつも白いシャツに黒いメガネと帽子だからだろうか。
「そういえば、けっこうパンダのものありますね」
メモスタンドやレゴブロック、写真立てなどもある。
「豊島さんが好きで置いてるのかと思ってました」
「まあ、かわいいからいいけどね。最近じゃあお客がそう思ってプレゼントされるんだよ」
満更でもないように笑って、カウンターの隅に置く。
「今日はあいつの誕生日だったからさー、思い出してCDかけてみたの。朔くんの部屋の大量のレコードも奴のなんだ。悪いんだけどもう少し置かせてもらっていいかな」
「ああ、全然。俺は」
レコード。どこにあったっけと部屋の様子を思い浮かべながら、首を横に振った。
「・・・その人って」
「あら?中山先生」
言いかけたところに、来客を告げる鈴の音が重なった。
「ああ、やっぱり。すごい偶然ですね」
振り返ると伊波が立っていた。ごく自然に隣にやってくる。
「いらっしゃい。・・・知り合い?」
「ええ、はい。一緒に仕事をさせていただいているんです」
メニューとおしぼりを出しながら、豊島がちらりと視線を送ってきたのに頷いて返す。
一昨日会った。まだ覚えている。
「本当に・・・すごい偶然ですね」
偶然、そういうからには朔太郎が二階に住んでいてよく入り浸っているということは知らないのだろうか。
「素敵なお店ですね。わぁ、おいしい!さすが先生がお勧めされるだけはありますね」
手慣れた様子で注文したカクテルを一口飲んで、伊波は感動したとはしゃいでいる。適当に頷きながら、内心ではかなり驚いていた。Vividはたしかにどのメニューも外れないし、居心地の良い店だが、伊波に勧めていたとは思わなかった。
「へえ、サクくんがお勧めしてくれたの?」
お通しを出しながら豊島が言った。
「ええ、そうなんです。まさか先生とお会いするとは思いませんでしたけど」
赤茶と黒の落ち着いた色調、流れるピアノ、天井でゆっくりと回るファン。いつもと変わらないVividの店内。隣に伊波が座っているのが、なんだか妙な感じだ。これが仁奈や伊深だったらどうだろう。あの二人とはここで会ったことがあっただろうか。
「今日はもう仕事は終わったんですか」
「はい、おかげさまで。今日はもうプライベートです」
「・・・お疲れ様でした」
仕事の関係者と私用時間に出会うのはなんだか落ち着かない。なんと言葉を続けたらいいのか分からず朔太郎は困った。プライベートだと言っているのだから、仕事の話はしない方がいいのだろうと思うのだが、かといって妙齢の女性相手に雰囲気のいいバーでどんな話題を振ったらいいのか見当がつかない。
「中山先生は、いつもこちらにはお一人で?」
ぐるぐると考え込んでいると、伊波が話を振ってきた。
「ああ、まあ、そうですね。多分・・・」
「そうなんですか。うん、でもなんかわかる気がします。イメージあります。居酒屋とかじゃなくて、こういう雰囲気があるところで一人静かに飲んでるイメージ」
「はあ。そうですか・・・?」
実際は住んでいるのでほぼ毎日豊島と他愛のない話をしたり、常連だという客に絡まれたりしているのだが、訂正するのも気が引けて言葉を濁す。
「伊波さんは、よく行かれるんですか。飲みには」
「そうですねーたまに。いつも一人飲みですけど」
「はあ・・・ああ、俺より伊波さんこそ似合いますよ。大人な感じが」
「そうですか?うれしいです。居酒屋でわいわい飲むのも勿論楽しいですけど、
バーとかって若いころ憧れませんでした?なかなかレベルが高いっていうか」
「ああ、まあちょっと、敷居高いですね」
「そうそう。昭和!な感じの居酒屋もある意味もっと年齢上がらないと厳しいなって時ありますし」
朔太郎の言葉はかなりたどたどしいが、早くも酔いが回り始めているのか伊波はいつもより饒舌になっている。口調も軽い。
「でもここ、本当に居心地がいいっていうか・・・先生が通い詰めるのも分かるなあ。私も入り浸っちゃおうかな」
ゆるやかに髪を掻き上げ、目があってにこりと笑う。
「ありがとうございます。いつでもぜひ」
どきりとして言葉に詰まり、停止したところに豊島がグラスを差し出した。
「お一人でやられているんですか?」
「はい、そうです。まあほそぼそと」
会話が豊島に移り、こっそりと息を吐く。なんだか気のせいでなければ今、ちょっと良い雰囲気になりかけなかっただろうか。
伊波に恋人がいるのかどうか、そういう話はしたことがないと思うのだが、なにぶん経験値が低いので対応に困る。
伊波には悪いのだが、もう自室に戻りたくなって奥の階段を意識してしまう。
「ねえ、先生。幽霊が出るって前に仰ってましたけど、それはどんな人だったんですか?」
突然冷水を浴びせられた気分で、瞬いた。
「俺、そんなこと言いました?」
「ええ。幽霊がアイデアをくれるんだって言ってましたよ」
一気に緊張が走り、カラカラになった声でとぼけてみるがそんな朔太郎の様子に気づいたふうもなくにこにこと伊波は続ける。
「先生の作風って独特のものがあるじゃないですか。ちょっと不思議で。どうしたらこういうお話が書けるんですかって、前にお聞きした時に」
「ああ、そう・・・でしたっけ・・・」
曖昧に頷きつつ、そんなことがあったのかと冷や汗をかいた。幽霊がアイデアをくれる。まさにその通りなのだが、何を思ってカムアウトしたのか。伊波はそれを信じたのか。
「死んでしまった人の声が聞けたら、もう一度逢えたらと思う人は沢山いるでしょうね」
「会いたい人が、いるんですか」
「いえ、私は・・・」
どこか遠くを見ながら話す姿に、誰かを思い出しているのかと思ったのだが、伊波は首を横に振る。
「俺・・・は、霊感とかないですよ?何かの、比喩だったんですかね。なんでそんなこと言ったのかな」
うまく誤魔化すこともできず、ぼそぼそと喋りながらどうしたらいいのかと途方に暮れているのに反して伊波はくすくすと笑っている。
「本当、中山先生ってフシギ」
「不思議って・・・」
「変な意味じゃないですよ。褒めてます」
面白いとか、不思議というのはよく言えば興味深く、悪く言えば異質ということではないのか。ますます返答に困って瞬きする。
「謎とか秘密って、人の興味を誘いますよね」
「そんな大層なもんじゃないですよ」
不確かで、不安定で、いつまでも成長せずただ一人置いて行かれている。
「もちろん、誰にでも秘密がある」
伊波と、目が合う。変わらない笑顔なのに、どきりとした。
「嘘も秘密も、誰もが大なり小なりもっていると思いますけど。中山先生は違う。先生の秘密は、皆が抱えているものとは根本的に」
目なのか唇なのか肌なのか。濡れ光っているように見えるのは、照明の具合だろうか。
確信の声音で、伊波が迫ってくる。
「ナハツェーラー。本当にあのままの感じがするんですよね、先生の秘密。本人も気づいていない大変な秘密が隠されているんじゃないかって気にさせられる」
「そんなことは・・・」
小説を書いたのはケイだ。そこに、朔太郎の何をも反映されるはずがない。
「見えそうで見えない。バレそうでバレない。そういうのって、目が離せないじゃないですか」
「まあ、そうですね」
「私ならあそこに、何を埋めたかしらってよく考えるんですよ。大きな秘密であればあるほど、ただの穴に隠されているなんて隠した本人はどんな気持ちなのか。いっそバレてしまえって、ほんとは思っているのかなと」
適当に相槌しながら、朔太郎は本の内容を思い出していた。夜になると伸びる影。町外れで穴を掘り続ける。ケイはいつも同じ感想を言うと笑っていた。漠然と感じた主人公への違和感に、伊波の考察が少し重なった気がする。
「金庫でもロッカーでもタンスでもなんでもいいはずなのに、わざわざ街から外れた地面の下なのは、どうしてなのかしらって」
そんなことはケイのみぞ知る、である。尤も、たとえ自分で書いたんだとしてもその時の心境は覚えていないだろうが。
「ロバの耳・・・」
「え、なんです」
「いや、なんとなく。王様の耳はロバの耳って話も、穴の中に秘密を隠してたなと。すみません、もうその時のこと覚えてないので」
自分でもよく分からない発言をしてしまい焦ったが、伊波がそうですねと体を向ける。
「やっぱりそこが、この作品のカギだと思うんです。作者ご本人を前にして何をいうんだという感じですが・・・」
「あ、いえ。大丈夫です、どうぞ」
「隠したかったのではなく、埋めてしまいたかったんじゃないかと思うんです。ただ隠すなら、便利なものも厳重なものも他にいくらでもある。中山先生は、埋めてしまいたかったんですよ、秘密を。手元に持っていたくなかった。遠いところに捨てて、土で蓋をして無かったことにしてしまいたかった。そして、暴かれることを実は望んでいる。これは、罪と罰でもあるような気がするんです。秘匿と、告解」
私はそう感じたんですけど、違いましたかと問う伊波の顔。
「うん・・・そうかもしれませんね」
暗い穴。虚ろに返事をしながら、自分の中にはたしかにそんな穴が開いていると朔太郎はぼんやりと思った。失くした記憶は、きっとその穴に捨てているのだ。
「疲れた・・・」
部屋の電気を点け、大きく息を吐いた。
Vividで伊波に遭遇して三時間。そろそろ帰るという伊波に、一緒に飲んでいた手前送っていくのが自然な流れだろうと一度一緒に店を出た。家の方角はどっちだとか近いとか遠いとか、詳しい情報を訊かれないように神経を使い、どうにか伊波をタクシーに乗せて見送ることに成功した朔太郎である。
夕食を摂ってすぐ戻るつもりが、だいぶ予定が狂ってしまった。まあ別に大した用事もないけど、と自嘲して何気なく振り向いた時だった。
「うわあ!」
目の前にケイがいた。
驚いて飛び退り、ひっくり返りそうになった心臓の辺りを押さえる。
「びっ・・・びっくりした。脅かすなよ」
息を整えながら抗議したが、幽霊はじっと睨むように眉を顰めている。
「・・・飲んでいたのか」
いつもより低い声で呟くように言う。
「別に酔ってないし、そんなに遅くないだろ」
なんだか軽蔑したような態度にむっとして言い返すが、そういう問題じゃないと冷淡に切り捨てられた。機嫌でも悪いのか、不興を買った理由がわからずに困惑する。問い質そうにも、それからむっつりと黙りこまれてしまい、気まずい空気のまま仕事机に座った。
ほどなくふわりと空気が揺れ、左手が意思を持って動き始める。
無言のまま作業が続き、朔太郎は息苦しくなってきた。至近距離で不機嫌なケイの気配がして、妙な緊張から肩が凝る。
「あのさ、なに怒ってんの?」
「怒ってなどいない」
勇気を出して訊いてみたが、にべもない。怒っているじゃないか、十分。と思ったが、それ以上追及もできずに黙った。にこにこと浮いているイメージしかないので、黙りこまれるとどうしたらいいのか分からない。
「疲れる・・・」
知らず、ぽつりと零していた。
記憶に連続性のない朔太郎は、人と接する時に必ず緊張を強いられる。頻繁に会う人物でさえも、過去にどんなやりとりをしていたのか自分だけが分からないため、常に相手の様子を窺いながら接しなければならない。気兼ねなく話せる相手というのはかなり貴重で、ケイはその貴重なカテゴリに属する存在であるだけにため息が出る。
特に何がどうした訳でもないが、ついさっきまでまさかの遭遇に対応して消耗した分、急に疲労がのしかかってきた気がする。一緒に居たくないなら出てこなければよかったじゃないかと思いながら、傍らの横顔を窺い見た。こうしてみるとなまじ整っているだけに、無表情にしていると迫力がある。
「朔太郎」
「え?う、わっ」
低く呼ばれ、目が合った時には机の上に仰向けに倒れていた。
「無防備極まりない」
感情の読めない顔が一瞬近づき、離れていく。
「女くさい」
「なん・・・」
体勢的に押し倒されているのだと理解しても、その理由が分からない。
「何も思い出さないか」
「思い出すって、なにを」
キン、と急な体位変換に耳鳴りがする。
「かなり、近づいている」
「何が?誰が・・・?」
半透明のケイの頭越しに、蛍光灯がチカチカと明滅しているのが見える。
「おい、ケイっ・・・」
じっと覗き込むように見つめられて数秒、圧し掛かっていた幽霊がふっと消えた。
「モラトリアムが終わろうとしている。緊張感をもつことだ」
何もない空間から、ケイの声が降る。
「は?ちょっ・・・ケイ!」
体を起こして呼びかけるが、それきりで姿も声も現さない。
「な、に・・・?」
ついさっきされたことの意味を反芻しても、なんのことか分からない。
「おーい、ケイ~」
呼んでみても、部屋は静まり返っている。
「なんなんだよ、意味わかんね」
声に出したのは反応を期待してのことだったが、やはりこれにも反応はない。ため息を吐き、気を取り直して机に座り直した。
昼間に買っておいたノートを広げる。この数日、昔の日記を読んでいて思ったことだが、日記をつけるということは自分にとってメリットが多いようだ。鬱々としやすい気質なので、その日その時に感じたことや思ったことを吐き出すのはストレス解消になるし、記録をまとめてとることは保管状態もよく、安心に繋がる。パソコンの購入も視野に入れつつ、とりあえずノートを買ったのは紙に書く感覚が好きだからだ。真新しい紙面を撫で、今日一日を振り返りながらペンを取った。
図書館に行き、伊深に会い、Vividで伊波に会った。仕事を始めてすぐ、ケイの様子がおかしかった。
書きながら、たしか昨日も仕事の時間が短かったことに気が付いた。偶々なのか
何か変化が起き始めているのか。
何も思い出さないか。
無防備極まりない。
かなり近づいている。
緊張感をもて。
何のことか分からないが、重要なことなのだろうと日記に書いて丸をしておいた。
左手を使われるのはいつものことだが、まさか机の上にひっくり返されるとは思わなかった。何をするんだと怒ってもよかったような気もするが、驚きの方が勝って問い質すこともままならなかった。
「女くさいって、匂いもわかるのか」
嗅覚が健在なら味も分かりそうだな、と思いながら自分の肩や腕の匂いを嗅いでみる。かすかに、伊波の香水が移っている気がした。
「・・・フロ入ろう」
いろいろ考えても分かりそうにないので、ひとまずシャワーに向かった。
モラトリアム。社会的責任や義務を一時猶予された状態にある青年期のことをいう。
「モラトリアムが終わろうとしている・・・」
俺に許されていた期間が終わる?
「どういう意味だ」
昨晩、あの後ケイは現れなかった。結局、不機嫌の理由も言葉の意味もよく分からず、少し悶々としている。他にすることもなく日記を少し読んだが、いつの間にか眠ってしまった。
日記の日付は冬になり、変わらず鬱々としていて大きな変化は訪れていない。いや、仁奈との出会いがあった。本当に出会ったばかりで何の展開もないが、第一印象は「やさしい」だったようだ。「かわいい」とも書いてあったので、一目惚れに近いものだったのかもしれない。病院にも定期的に行きながら、仁奈のところに治療に通い、大学に顔を出す。暇な時間はノートを広げて日記や小説を書く。そんな生活が続いていた。
今と同じような生活スタイルだが、家族への接し方や将来の不安に悩み、小説を書けないことに苛立っていた。書きたい気持ちもネタもある。大体のストーリーも考えていながら、全く書けなかったようだ。
市立図書館の閲覧室で、朔太郎は新聞を読み漁っていた。
三年前の四月二十五日。
世間的にはあるアイドルの熱愛が発覚して、突風で十二人が怪我をする事故があって、ある議員の用途不明金問題と失言問題で大体の紙面が埋まっている。なんとなく覚えている事件や事故が並ぶ。国内国外、県内県外の様々な問題が踊り、それらを眺めながら当時を思い出す。大学に行き、授業を受け、友達と会い、他愛もない話で盛り上がって帰宅が遅くなった。変わりやすい天気、落ち着かない空模様。帰りは雨が降った。もうバスもなくて、濡れながらバイクで帰った。
「・・・・・・」
そこまでしか分からない。いくら集中しても、その先がない。記憶は断ち切られ、抜け落ち、三日前から突然始まる。
くらりとして朔太郎は眼鏡を外し、頭を振って窓の外に目をやった。全面ガラス張りの図書館の外は、秋晴れに黄色い銀杏が舞っている。気持ちのいい日よりだが、日光が裸眼に沁みて瞼をきつく閉じた。視力は悪くないのだが、このところ眼精疲労からか鈍い頭痛がする。目頭を揉み、光量調整レンズの眼鏡をかけて事故翌日の新聞を開いた。
全国版は、昨日とさほど変化はないようだ。各事件事故の続報が連ねてある。地方紙も大差ないが、加えて橋から乗用車が転落したとかどこぞのマンションが風営法で検挙されたという記事が載っていた。
朔太郎の事故は不明な点が多い上に、自身が何も覚えていない為に騒がれることもなかったようだ。
橋から車が転落した事故というのが場所的に近いといえば近いが、運転手からかなりのアルコールが検出されたらしく、飲酒運転の自滅事故ということで特に関係は無さそうだ。
結局、特に収穫は得られず、やはり日記を整理することが一番のようだと結論付ける。何が起きているのか謎のまま、手探り状態の毎日を綴ることになりそうだ。すっきりせずため息を吐いて、閲覧室を出た。
三年前は工事中だった地下鉄も、今は立派な駅ができている。学食は平屋の古臭いものだったが、ガラス張りの洒落た建物になっているし、よく授業に使われていた建物は老朽化を理由に封鎖されている。魔法でもかけられたかのような変化だが、どれも忘れているだけで自分はとっくに知っているはずなのだ。
煩わしいくらいに降り積もった銀杏の葉と、バラックの集合体みたいな汚いクラブハウスは記憶そのままで、たしかにここが現実で自分が通った大学なのだと分かる。
さて、どう書くか。こういう日常生活の中でのズレや違和感をどう表現したものか。三日しか記憶を持たない自分をどう説明するのか考えてみる。
今の自分を構築するもの。「ケイ」は朔太郎にとって無くてはならない存在だが、そのまま書く訳にもいくまい。「小説家 中山朔太郎」は「ケイ」な訳だが、そもそもケイは生前も小説家だったのだろうか。有名だったのか。ケイがつく作家は沢山いる。考えてみれば、彼の本名も知らない。年はいくつで、いつ、どうして死んだのか。年上のように思うけれども、二十代後半から三十代のどれもありえそうだ。言動からしてそんなにジェネレーションギャップを感じることがないので、亡くなってから何十年も経っている訳ではなさそうだが。
携帯に入っているケイの情報は簡潔だ。
幽霊である。自分に憑りついている。夜、左手を操って小説を書く。
昨夜を思い出す。何かに苛立っているようだった。でも何に。新しい仕事について心配しているとか、まして嫉妬や危惧しているとかでもない。
「俺の残された猶予期間が終わろうとしている。から、緊張感をもて・・・」
言われたことをまとめてみても、だらしないからちゃんとしろという以外に汲み取れず、そうすると口調や雰囲気に合わない。
つらつらと並ぶ本の背表紙を眺めながら、ふと目についた本を手に取った。数年前に流行ったホラー小説だ。髪の長い印象的な霊が呪いを振り撒き、どこまでも感染していくストーリーだった。恨み、辛み、本でも映画でも霊はみな嘆き怒り狂っている。
ケイにもきっと、強い想いがあるんだろう。守護霊なんてものもあるらしいが、生前のケイと結びつくような接点はなかったはずだ。
初めて会った日。それはどんな出会いで、今に繋がるのだろう。
ぼんやり考えていると、突然携帯が鳴った。マナーモードにしていなかったことに焦り、慌てて尻ポケットから携帯電話を出して着信を切る。相手は伊波だったようで、すぐさまメールを打った。ほどなくして返信がくる。昨夜は失礼しましたという旨の短い本文で、特に大事はなかったらしくほっとして顔を上げる。
「ッ!」
背筋が震えた。そしてそのまま、動けなくなる。規則正しく並んだ、本の背表紙たち。その、本と棚の小さな隙間から大きな目が二つ。こちらをじっと見ていた。
びくりと痙攣に似た震えが立ち上って、慌てて目を反らした。今のはなんだ。
陳列した本棚は、裏側からも使用できるようになっているので、当然向こう側の人間がこちらを見ていることもあるだろう。
だが、今見た瞳の持ち主はあきらかに本ではなく隙間を、朔太郎を見ていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせ、知らず詰めていた息を吐き出す。
反対側に人がいると気づいて、たまたま目線を上げた瞬間がかぶってしまっただけだろう。少々気まずいが、大したことでもない。
ゆっくり視線を戻すが、そこにもう目はなかった。きっと向こう側に居た誰かも、目が合ってしまったことに驚き、急ぎ立ち去ったのかもしれない。そう言い聞かせながら、反対側に回る。
さっきの瞬間から今に至るまで何秒あったかわからないが、移った側に人の姿はなかった。見間違いか。それともぐずぐずしていた間に居なくなったのか。「気をつけろよ」と言った伊深の声が甦る。
別にそうと決まった訳じゃない。幽霊なら毎日のように見ているじゃないか。
そんなに驚くことではないと思うのに、エスカレーターの速度を待てずに駆け降りた。
誰かの目は、まっすぐに対峙していた。同じ位の背丈ということになる。一瞬のことで、細部は分からない。だが、見開かれた双眸は何か自分に訴えるかのようで脳裏にこびりついている。
段々と早足になりながらすぐに日記を確認しなければと思った。
ケイとの出会いを、彼との関係性や正体を確認せねばならない。今まで思っていたことに誤解はないか。
彼は何者か。本当に、味方だろうか。
早足のままVividを抜け、螺旋階段を駆け上って自室に入る。まっすぐ机に向かい、日記を見ようとしたが、無い。机の上も引出しの中も、見る限り無い。
「なんで・・・」
散らばった紙をかき分け、這うように探したが新しいものも古いものも見つからない。
「昨日の今日だぞ」
昨夜、書いたばかりだ。古い方は少しだけ読んで、疲れていたのですぐに寝てしまった。机の上に、置いたはずだ。無意識の内にしまいそうなところも、全部探した。
「落ち着け・・・落ち着こう」
自分に言い聞かせるように呟きながら、深呼吸して考えてみても昨夜の記憶は一貫していて抜けなどないように思う。今朝から今までも、記憶は連続しておかしなところはない。
ぐわん、と大きく眩暈がして座り込んだ。床に手を着き、深呼吸しながら机の下を見た。しっかりした四足の奥に、見慣れないダンボールがある。一抱えするくらいの大きさで、特に何の表記もない。とりあえずこの三日の内には見覚えのないもので、中身はなんなのか引き寄せてみる。けっこうな重量だ。
机の下から引っ張り出し、裏に日記がないか期待したがやはりなかった。
すっかり埃をかぶっていて、ずいぶんと長い間放って置かれたことが分かる。埃を気にしながらそっと開けたところで、携帯が震えた。
「はい。ああ、仁奈?」
電話に出ながら、箱の中身を覗き込む。
「え、今日・・・?ああ、そうか。うん、ごめん。ちょっとバタバタして行けなかった。明日行くよ、治療。うん。大丈夫・・・」
治療をすっぽかされて心配したらしい仁奈に返事をしながら、詰め込まれていた物を一つ取り出してみた。
「うん。そんな大したことじゃないよ。あ、仁奈・・・ん、やっぱなんでもない。ほんと。じゃあ明日」
電話を切り、現れた物を光の下でちゃんと見た。
「レコード?」
豊島が言っていた、友人のレコードだろう。ピアニストだったという男の預け物が、ここにあったらしい。机の下とは気が付かなかったな、と呟いてそっと元に戻した。
散らかった部屋の中央で、途方に暮れた。
日記を、失くしてしまった。
この部屋以外にやるはずもない。必ずどこかにあるはずなのだが、見つからない。がさがさとメモを掻き分けている間にすっかり日も落ち、部屋が暗い。
階下で豊島が開店の準備をし始めた気配がして、朔太郎は一度部屋を出ることにした。
「お、おはよー」
階段を降りてきた朔太郎に気づいて、豊島が顔を上げた。
「どうしたの、顔真っ青だよ」
見るなり、心配げに眉を顰める。
「いや、ちょっと・・・探し物が見つからなくて」
「いつからないの、大事なもの?」
「日記なんですけど。昨日はあったはずなのに、見たら無くて」
「昨日まであったのなら、部屋のどこかにはあるはずだよね」
そのはずだ。頷く朔太郎にオレンジジュースを出して、豊島が椅子を勧める。
「空腹、でしょ?何か食べてからもう一回探してみなよ。無い無いと思ってもフラットな気持ちで出直すとあっさり在ったりするし」
「そうですね・・・」
知らず詰めていた息を吐いて、少し照れたように笑む。
「なんか子供みたいですね、俺・・・すいません」
取り乱したのが恥ずかしくなって肩を狭める。
「いやいや、大事なものがないとそうなるよ。俺この間、鍵落っことしてねー。もうすごい焦ったし」
料理をしながら、豊島が快活に笑う。
「やっべえ、家入れねえって焦りまくったんだけど、結局ポケットから出てきてさあ」
「ありますね、そういうこと」
苦笑しながら、日記もそんなもんだろうかと思う。どんなにちゃんと見たつもりでも、認識できていないということはある。
「目の前にあるのに、見えてないんですよね。先入観なのか」
「そうそ。君に必要なのは充分な栄養と気晴らしだ。さあ、どうぞ」
湯気の立つピラフの皿が置かれ、芳香に強く空腹を意識させられた。豊島に礼を言って、いただきますと手を合わせた。
「うま・・・生きてるって感じがする」
口一杯に頬張って、胃に落ちていくのを感じ、人心地着いた気がする。
「あはは、お粗末さま」
和やかな時間だ。こういう時間がありがたい。
「そういえばさっき、日記探してて豊島さんが言ってたレコード、見つけまし
た」
ピラフを咀嚼しながら、先ほど発見したダンボールのことを思い出した。
「ああ、あいつの?ごめんね、置きっぱで」
酒瓶をチェックしていた豊島が振り返る。
「いえ全然。というかどこにあるのか分からないでいたくらいで。机の下で見つけました」
入居して以降見ていなかったか、もしかしたら初めてみたのかも分からない。
「俺、音楽のこと分からないですけど・・・貴重なものなんでしょう?大丈夫ですかね、けっこう埃被っちゃってました」
ピアノはもっとひどいことになってしまっているのだが、恐縮する朔太郎に豊島は平気平気と手を振る。
「音信不通のあいつが悪い。昨日もメールしたんだけどね、エラーで戻ってきたし。全くどこ行ってんだか」
ため息を吐いて、空になった皿を下げた代わりに一枚のCDを置く。
「これ・・・」
「このCDと、レコードと、ピアノぐらいだけどね。ああ、あとパンダ」
黒地に、金のタイトル。ライトを浴びて浮かび上がった、演奏者の横顔。高い鼻梁。長い髪。人懐っこく細められた目元。
「豊島さん。その、友達の名前って・・・」
一度落ち着いた心臓が、再びどくどくと脈打ち始めた。
「景一。古賀 景一だけど」
束の間和んでいた意識に、背後から冷水を浴びせられた気がした。
「ケイイチ・・・ケイ」
アルバムをひっくり返すと、ピアノを弾くケイの写真があった。
がたん、と席を立つ。
「すみません、俺戻ります」
ごちそうさまでしたと言い置いて、階段を駆け上がった。茫然と、紙に埋もれた部屋を見回す。
「コガ ケイイチ・・・」
行方知れずだという、豊島の友人。
彼は居る。俺の部屋に。
「ケイっ」
小さく呼んでみるが、応答はない。
ピアニストだったのか。てっきり小説家だったのだと思っていた。
ふらふらとピアノに近づき、蓋を開けてみる。白と黒の鍵盤。ここにあの指が実際に触れていたのだと思うと奇妙な感覚に包まれた。
ピアノだけじゃない。Vividの椅子に座り、豊島と会話しながら笑ったり飲んだりしていたのか。さっきまでの朔太郎のように。
「ケイ、ケイ・・・景一、さん・・・?」
虚空に何度も呼びかけるが、返事はない。昨日掴まれた左腕を眺める。
少しだけ分かった。ケイの本名は古賀 景一。ピアニストで、豊島の友人。そして、彼は死んでしまった。どうして死んだのか、豊島が知らないということは、それは突発的なものだったのかもしれない。事件か、事故か。
ケイの体はどこにあるんだろう。
ぐらりと体が傾いて、朔太郎はそのまま布団に倒れこんだ。ひどい眩暈がする。
雨が降っていた。
気温は決して低くないが、大粒の雨に体温が奪われていく。
春といえばのどかな風景をイメージするが、実際は天気が崩れやすく、一度機嫌を損ねると厄介な季節だと思う。
信号を待つ間にバイザーの雨滴を拭う。吐く息で内側は曇り、外側は拭いても拭いても雨粒にすぐ埋め尽くされて視界が悪い。白く塗り潰されたバイザーの隅で信号が赤から青に変わったのを確認し、そろそろとバイクを発進させた。
大きくゆったりとした道路はまっすぐどこまでも伸びている。これが晴天ならさぞかし気持ちがいいだろう。ローンを組んでやっと手に入れた愛車に後悔はしていないが、こういう日ばかりは傍らを通り過ぎていく車が少し恨めしくもある。大学が近いのに、この辺りは電車が通っていない。地下鉄工事予定の看板を横目に、今度は最終バスの時刻もちゃんと確認しておこうと心に決め、信号を左折。切り替わった視界に突如、赤い色が躍った。
アスファルトの上にあるはずのない色に、考えるより先にハンドルを切っていた。
何を見たのか。
認識する前に衝撃を感じた。
揺れ、跳ねる。
あれだけ気になっていた雨の音と感触が消えた。
自分の体よりも遠くへ滑って行ったバイクが、スポットライトのようにハイビームを飛ばしている。照らされた光の中に、投げ出された自分の手と倒れた人の上半身が見えた。じわじわと赤い色が染みだし、その端から雨が薄めていく。
遠く、雷鳴を聞いた。
ぎしぎしと軋む膝は力が入りづらい。危うい足取りで、倒れた人物に近づいて行く。
濡れて光る、黒いアスファルトの上に雨曝しになった体。長身の、男だと分かる。若そうだが、自分よりは年上だろうか。
顔はこちらを向いていない。血の気のない耳と頬の線。投げ出された腕、指の形。
「っ・・・」
目が覚めたが、気持ち悪くて横になったまま体を丸めてしばらくえづいた。固く目を閉じ、不調の波をやり過ごす。
今のは夢か。少しずつ落ち着いてきた頭で、さっきの夢を思い出す。
「まさか・・・」
ケイを殺したのは、自分だろうか。