プロローグ
Ghost in my room
序
曇天だった。
厚く雲が垂れ込め、いつ降り出してもおかしくない灰色の空。
ぐらぐらと派手に右へ左へと傾ぐ視界に、間延びしたサイレンの音。
誰かがいつの間にか、救急車を呼んだらしい。
最初に大丈夫かと声をかけてきた女性か。ふらついた肩を支えた男性か。
さっきから、目一杯に開いているはずの視界。しかしどの建物も標識も、覗き込む人の顔、アスファルト、白線、どれもがこぼれるように意識を滑り落ちて満足に認識できない。
どれかに集中したくて、注意を向けようと首を巡らす。
「立てますか?さあ、こっちへ」
傍らから伸びてきた腕に引かれて、ストレッチャーに乗せられた。
狭い、たくさん物があるひどく凝縮された空間に入れられて、やっぱり何一つ認識できないまま天井を眺めていたら、白いツナギの男が風景を隠した。
ヘルメットにマスクで、表情も年齢もわからない目元だけの顔だ。
「名前は言えますか。誰か連絡がつく人は」
いつから居たのか、隣に座っていた同じような目元だけの男に訊ねられた。
「名前。・・・ナカヤマ サクタロウです。連絡先は」
思ったよりしっかりした声が出て、場違いなような、他人の声のような気がした。
「ちょっと触りますよ、ごめんなさいね。こういう所をよく骨折するんですが、痛みはありますか?」
覆い被さるようにした救急隊員が、腰骨を押す。あちこち触られ、訊ねられ、何か器具を取り付けられてされるがまま。
「どこか痛む所はありますか?」
痛み。数度瞬いて、全身に意識を向けてみる。
「額が痛みます」
ついでに歯も痛い。折れているのか。恐々と舌で探ると血の味がした。じんわりとしびれた感覚があるが、ぐらつきは無い。
「ナカヤマさん!私、担当の阿部と言います。後でお話伺います」
どうやら前歯は失っていないようだとほっとしたところに大きな声がして、どこからか名刺が差し出された。
反射的に受け取ろうと伸ばした左手が、視界に無い。
「―え?」
取り損ねた紙切れを救急隊員が受け取り、警察の方ですと言った。
ケイサツ。それよりも、腕が。
困惑している間にドアが閉まり、車が動き出した。サイレンがひどくうるさい。
「あの・・・」
「どうしました」
「左、腕・・・俺の左手、どうなってます」
問われた隊員が怪訝な顔で視線を下ろす。
「痛みますか」
痛む?痛みはない。違う。むしろ、何も無い。
固定され、動かない視界では天井と壁、忙しない隊員達の姿しか見えない。手袋を嵌めた手が、頭、首、肩と触れ、肘を越えてその感覚が消失した。
「俺の左手、無いんですか?」
聞いたところで、がたんと車体が揺れた。両開きの扉が開き、眩しい光が入る。質問に答えは無く、ストレッチャーが白衣の人たちに渡される。
「ナカヤマ サクタロウさん。二十二歳。血圧92の70脈拍73、頭部裂傷・・・」
ガラガラとストレッチャーごと移動させられながら、目まぐるしく変わる景色に眩暈がする。
「事故か」
停止した先で、医師らしき中年の男が眉を顰めてこちらを見ている。
「傷・・・時間経ってるな」
目の前をペンライトが横切った。瞼を抑えられる。
「今日は何月何日か言える?」
今日。今日は
「このペンで名前を書いてみて」
差し出されたペンを受け取ろうとしたが、右手はすぐに動いたのにやはり左手は動かない。震える右手で名前を書いた。ほとんど読めない波打った線にしかならなかったが、医師は一つ頷いてすぐに脇へ置いた。きれいに書けるかどうかの問題ではなかったらしい。
そもそもきれいに書けるはずがないのだ。右手は、利き手ではない。
「うーん、ちょっとまだ混乱しているのかな。日にちは違うけど問題はなさそうだね。ちなみに今日は二十三日。三日ずれてるね」
三日間。中山 朔太郎はこの日まで三日間、行方不明だった。
額から血を流し全身ぼろぼろの状態で歩いているところを発見され、病院に搬送された。
「三日・・・よく、わかりません。あの、俺の左腕はありますか。どうなってます?」
医師と看護師が、首を傾げる。
朔太郎は、記憶と左腕を失った。