後篇 佐藤~鈴木
ーーー佐藤知香ーーーーーーーーーー
「これでワシの話は終わりじゃ」
そう井伏じいさんは言った。
うちはもう覚悟を決めた。次はうちが話す番だ。でもその前に訊きたいことがある。
「孝治さんは結局目を覚ましてないんですか?」
「ずっと、植物状態のままじゃ」
「そうですか。すいません。辛い事を訊きました」
「かまわん」
やっぱりこのおじいさんは優しいと思った。
雨はまだ降り続けている。それどころか再び強くなった。この雨では誰もこの家から出る事はできない。なにか強い意志みたいなのを感じる気もする。
今日は不思議な日だ。今までのことを全てを知ることができた。
そしてうちらにはこの人たちに話す義務があると思う。
「斉藤さん。それに井伏じいさん。聞いてほしいことがあります」
「うちは佐藤知香、佐藤知美の妹です、そしてこっちは小川健太。小川遼太郎の弟の小川健太です」
「ほんとうか?」と斉藤さんが訊いて来た。
「ええ。そしてお父さんが死んだ理由もお姉ちゃんが死んだ理由も今日全部の事がわかりました」
「話してくれるかの?」
「もちろんです。これはきっとうちが話さないといけない事なんだと思います」
「オレも手伝うよ」と健太が言ってくれた。
健太が一緒に話してくれるならきっと大丈夫だ。安心して話す事ができる。
うちと健太はいつも一緒にいたから。間違えても忘れていてもちゃんとフォローしてくれるだろう。健太なら信用できる。うちは何も心配せず心の扉をあける。これを話すのは初めてだ。
雨はやむ気配もなく降っている。雨音が包み込む部屋でうちらは過去の話をし始めた。
それは心の奥底に閉じ込めた後悔のお話。何もできずに二回も同じ後悔を繰り返すそれだけのお話だ。
うちの家庭は普通だった。お金持ちな訳でも貧しいわけでもない普通の家だった。
お父さんは社長だったらしいけど小さな会社だったって言ってたから自慢できる程じゃないと思う。
一軒家に住んでいて、うちの部屋は二階でお父さんとは2つ離れた場所だ。真ん中はお姉ちゃんが使っていた。お姉ちゃんは死んじゃったから、今は誰も使っていない。部屋の中がどうなっているのすら知らない。
お姉ちゃんはとても優しかった。お姉ちゃんの話をするには健太の家族の話をしないといけないと思う。健太はいわいる幼馴染みで、健太には五つほど年の離れたお兄ちゃんがいた。
健太はうちが幼稚園の頃、隣に引っ越してきた。幼稚園生どうしすぐに仲良くなった。
昔は男子顔負けな冒険家だったうちは健太をつれ回してよく、近所を冒険してました。
そのやんちゃな冒険の保護者が当時小学生だった健太のお兄ちゃんの遼兄ちゃんだった。にこにこと笑いながらうちらのうしろをついてきて、危ないときはちゃんと止めてくれる。そんな遼兄ちゃんをうちらは慕っていた。
うちらの一番の大冒険はねこ屋敷だと思う。ねこが大量にいるとうちは聞いて、ねこの恩返しに出てくるようなねこの国だと思った。しゃべるねこがいて、王子様だっている。そんなファンシーな場所を想像していた。
当然うちは健太を連れてその屋敷に向かった。
その時はたまたま遼兄ちゃんはいなかったけど、構わずにねこの国に向かった。しゃべるねこに会ったら何を話そうかな。王子様はやっぱりかっこいいのかな。うちはそんなことを考えていた。
ねこ屋敷は今になって思うとただの廃屋だった。
その廃屋に野良猫が集まっていたんだろう。えさをあげる人がいたのかもしれない。
なんにせよねこはたくさんいた。うちは迷うことなくねこたちのほうに走った。
飼いねこと野良猫はかなり違う。野良猫は爪は伸びているし、凶暴な場合がある。人間は敵だとでも思っているねこも多いだろう。
うちが近づくと猫は一目散に逃げた。逃げに逃げた。それをうちは無邪気に追いかけた。追いかけられた猫はとうとう追い詰められて、反撃に出た。
まさに『窮鼠、猫をかむ』ならず『窮猫、人間を引っ掻く』という感じだった。
引っかかれたうちはすでにおお泣きしていたけれど、反撃のチャンスを手に入れた猫の手は止まらなかった。猫はどんどん味方を集めた。
うちの唯一の味方である健太は脱兎のごとく逃げ去った。
ねこの国はファンシーでもなんでもなくアウトローな世界で、味方はどこかに行った。単身でこの国を歩ける勇気もなく、うずくまって猫からの攻撃から身を守っていた。
もう限界と思ったとき、健太が戻ってきた。遼兄ちゃんも引き連れて登場した。
遼兄ちゃんは長い木の棒を持っていて猫を追い払う。健太はうちを外まで連れ出した。
小川家の兄弟はちゃんと連携が取れた兄弟だった。遼兄ちゃんは普段にこにこしている割に、やるときはちゃんと勇気を持って行動する人だったし、健太は冷静な目を持って判断できる力を持った子だった。
彼らのチームワークによってうちは救われた。
その日の夜は親にめっちゃ怒られて、もう冒険しないことを約束された。
うちももうこりごりだったし、次の日からはおとなしい女の子になった。
冒険しなくなっても健太は一緒に遊んでいた。遼兄ちゃんも相変わらず保護者のとして近くにいてくれた。
その日から変わった事がひとつある。うちのお姉ちゃんが遊び仲間に加わった事だ。お姉ちゃんはもとから活発ではなかったから、いつも家で遊んでいた。うちが家で遊ぶようになったから、自然とお姉ちゃんとも遊ぶようになったんだ。お姉ちゃんはいろいろな遊びを知っていた。トランプからボードゲームまでなんでも知っていたから、うちらは遊びに困る事なんてなかった。
小学生になっても遊んでいた。小学生にもなると男女で遊ぶ事にためらう時期なのかもしれないけれど、うちらはそんなことも全然なく四人で遊び続けていた。兄ちゃんたちが中学生になっても変わらないと思っていた。ずっとずっと変わらないで大人になっても四人で遊び続けると思っていた。
でもそんな未来は儚く散ったことになる。お姉ちゃんが中学一年生のときから『優しかった』現実は少しずつ変わっていってしまったんだ。
ある日家に帰ってきたお姉ちゃんは泣いていた。ずっとずっと泣いていた。うちら家族はなにがあったのかわからなくて不安だった。けれどその不安は夜に解消されることになる。
遼兄ちゃんが夜になってから来て教えてくれたんだ。お姉ちゃんは学校でいじめにあっているんだと。どうしてなのかはわからないけど女子を中心としていじめにあっているんだと。
「なんでお姉ちゃんが?」
「理由なんてないんだよ。ただ気に食わないからなんて理由であいつらは人をいじめれるんだ」
「でも、お姉ちゃん優しいよ」
「あの人たちはそれに気づかないんだよ」
「そんな、ひどいよ。ひどすぎるよ」
「そうだね。僕らだけは、知美に優しくしよう。あいつらに負けないように」
「うん。そうだね」
その日の夜はお姉ちゃんの好物でかためられた。お刺身に鉄火丼、マグロ尽くしな夕飯だった。
お姉ちゃんは食欲がないようだったけど、半分は食べていた。一言もしゃべらないお姉ちゃんが痛々しくて、うちらは何とかしてあげたかった。
「ねぇ、何があったんだい?」とお母さんが訊いた。
お姉ちゃんはいまだ沈黙を守っている。
「言いたくないなら、言わなくてもいいんだけどね。これだけは言わせておくれ。母さんは味方だよ。知香だって、今は仕事でいないけどお父さんだって味方だ。お隣さんだってね」
お隣さんの部分で小さくビクッと体を振るわせる。その動作に気づいたのは隣に座っていたうちだけだったと思う。
「お姉ちゃん?」とうちはおそるおそる訊いた。遼兄ちゃんと何かあったのだろうか。するとお姉ちゃんはうちをみて目を見開く。何かに気づいたかのように。
「ごめんお母さんなんでもないから。一人で何とかするから。だから構わないで。知香、あなたも気にしないで」と突き放したように言う。
急に早口でまくし立てるから、面をくらってしまった。でもそんなもんで突き放せるわけがない。
「知美、あのね。人に頼ってもいいのよ。お母さんは」
「いいから!」と大声を出してお姉ちゃんは遮る。でもその勢いは最初だけだった。「いいから。お願いだから。困ったら言うから。今はそっとしておいて」
「わかったわ。すきにしなさい」とお母さんは『優しく』諭すように言った。反対にお姉ちゃんの目は力強く光がともっていた。
なんで急にお姉ちゃんは態度が豹変したんだろう。うちはすごく気になった。お姉ちゃんに何があったのだろうか。
次の日うちは健太を家に呼んだ。
「ねぇ、昨日家でなにかあった?」とうちは健太に訊いた。健太は何も知らないようで首をかしげる。
「別に何もなかったけど。何でそんなこと訊くの?」
「ちょっと気になって。本当に何もなかったの?」
「うーん。あ、そうだ昨日夜にね」
思い出したように言う健太にうちは身構えた。
「何があったの?」
「みんなで怖いテレビを見るって言ってたよ。だから早いうちに寝ちゃったんだ。見たくなかったから」と無邪気に言った。うちらは当時まだ小学生だ。ホラー番組を見れなくても不思議ではなかった。
「まったく。おとこなのにだらしないわねー」とあきれた声をだす。身構えた自分が恥ずかしい。全然たいした事じゃなかった。
「じゃあ知香ちゃんは昨日見たの?」
「見なかったけど」
「ほら、知香ちゃんだってみれないんじゃん」
「うちは女の子だもん。見れなくたっていいの」
「そんなのずるいよー」と非難の声を出す。
「ずるくないもん。それで他には何もなかったの?」
「ほか?ほかって例えばどんなの?」
「そうね。例えばお母さんが大人の話をしていたり、そんなの」
「大人の話って何?」と健太は尋ねる。
「子供には秘密ってやつ。大人同士だけで話すやつの事よ」
「へーでもそれじゃあ無理だよ」
「なんで無理なの?」
『してなかったよ』ならわかるけど、無理って何だろう。
「だって、うちにはお母さんしかいないから。大人が一人しかいないんだよ。だから大人同士で話すことないってわけ」
「そうなの?お父さんいないの?」
そのときうちははじめて知った。健太にお父さんがいないことを。
「そうだよ。オレは見たことないし、お母さんに訊いてもいつもごまかすし」
「そうだったんだ。なんかごめんね」
「なんで、あやまるの?」
「なんとなくかな」うちはそのときちゃんとした理由がわからずあやまっていた。
「ふーん、へんなの」
うちらはまだまだ子供だった。昨夜は怖いテレビ番組なんて放映してなかった。健太が寝た後に中学生と大人で大人の話をしていたんだ。
「ねぇ、さっきから何を知りたいの?」
「あのね」うちは話そうとしてから少し戸惑った。言っていいものなのかな。
「なになに?」
健太なら大丈夫かな。うちよりもちゃんとした判断ができるから、きっと力になってくれるだろう。
「あのね、昨日お姉ちゃんが泣いて帰ってきてね」
「お姉ちゃんが?どうして?」
「いじめられたんだって」
「だれから?」
「同じクラスの人だと思う」
「うそだよ。お姉ちゃんがいじめられるわけないもん」
「ほんとだって」
「きっと冗談だったんだよ。今日になったらみんなちゃんとお姉ちゃんに謝ってくれるはずだよ。だから安心して大丈夫。まだお姉ちゃんは帰ってきてないの?」
冗談や悪ふざけだと健太は言った。本当にそうなのかな。
「まだ、今日は帰ってきてないよ」
「じゃあそのうちほっとした顔で帰ってくるよ。全部冗談だったよなんて言いながらね」
「そうかな。じゃあもしそうじゃなかったら?今日も悲しそうだったらどうするの?」
「その時は俺も一緒に考えるよ」力強くそう言った。うちは安心した。お姉ちゃんが辛いなら二人で助けるんだ。
「遼兄ちゃんも助けてくれるかな?」
「きっと助けてくれるよ。だってお姉ちゃんのことなんだから」
「そうだよね。お姉ちゃんのことだもんね」
遼兄ちゃんはお姉ちゃんのことが好きだった。
それは結婚したいと思う好きという気持ちで、家族やうちに向けられる好きという気持ちではないことはわかっていた。
必死に隠していたようだけど、健太とうちにはバレバレだった。そんな遼兄ちゃんは助けてくれるに違いない。うちらは健太の言うようにすべて冗談であることを期待してお姉ちゃんの帰りを待っていた。
二階の窓からは道路が遠くまで見えたから、うちらは二人で窓の外をずっと見ていたんだ。
夕方になってお姉ちゃんは帰ってきた。明るい声で『ただいま』と言う。お母さんは『お帰り』と同じく明るい声で言う。『お腹減った』なんてお姉ちゃんは言っている。『すぐにご飯にしようか』なんて安心した口調でお母さんは言う。でも、二階から見てたうちらは知っている。
とぼとぼ歩いていたことを。玄関を開けるときに気合いをいれていたことを。歩いているとき涙を拭いていたことも。
「探そう。何でいじめられているかを」
「うん」
その時の健太はぐっと大人びて見えた。お父さんやお母さんよりも大人びているように感じた。
原因を探すことに決めたうちらに早速問題が訪れた。
どうやったらいいのかわからなかったんだ。まさか中学校に乗り込むわけにはいかないし、他に中学生に知り合いがいるでもなかった。
だから、まずは遼兄ちゃんを味方につけることから始めたんだ。
翌日、学校が終わってから遼兄ちゃんの部屋に向かった。
「おにいちゃん」
「おう。どうしたんだ、健太それに知香も」
「遼兄ちゃん、おねえちゃんを助けに行こうよ」
それを聞いてガバッと起き上がる。
「今なんかされているのか?」
「そうじゃないよ。たぶん。そうじゃなくて、いじめられているんでしょ。それをたすけてあげたいの」
「おにいちゃんは何か知らない?」
「何も知らないよ」
「もっと、ちゃんと考えてよ」
「ちゃんと考えてるさ。でもわからないんだよ」
なにか隠しているようだ。うちはそう思った。
健太も同じように思ったらしく遼兄ちゃんを問い詰める。
「なにか知ってるんじゃないの?」
「健太。たとえオレが何か知っているとしても言わないという事は、知って欲しくないという事だよ」
「やっぱり知ってるんじゃない」とうちは言った。
『知らないよ。『たとえ』と言っただろ」
「遼兄ちゃん。うちらは本気なんだよ」
何もできなかったなんていやだ。何もできないでただ見てるだけなんて。
遼兄ちゃんはうちらの目を見る。その目でうちらの本気が伝わったのだと思った。でも遼兄ちゃんはうちらに優しい声で諭すように言った。
「これはもう子供だけの話ではないんだ」
「では、いったい誰の話なの?」
「大人の問題が混じっているんだ。汚い大人の事情がね」
「でも、おにいちゃんだってまだ子供でしょ」と健太が言った。うちから見ればもう遼兄ちゃんは大人の仲間だけど、でも確かにお父さんやお母さんとかと比べるとちょっと違う気がする。
「子供だよ、でも健太たちよりかは大人に近いんだ」
その日は結局、遼兄ちゃんは詳しい事は教えてくれなかった。
でも、遼兄ちゃんは遼兄ちゃんで一人で助けようとしているみたいだ。それは少し安心できた。
「知香ちゃん。知香ちゃん。これ見てよ」
翌日、健太に会いに行くといきなりそう言われた。
「これ、なに?」
健太が手にしているのは二つあった。一つは確かトランシーバーというやつだ。これはテレビで見たことがある。携帯電話みたいなやつだ。お互いに通信して会話ができるもの。
でも片方の機械はよくわかんなかった。白い台形の機械で、コンセントに刺すような棒が二本付いている。コンセントに刺されるような穴も6つある。
「見てて」といって健太はその台形の機械をコンセントに刺す。やっぱりコンセントに刺すものだったんだ。
「ちょっとそのトランシーバーを貸して」
うちが渡すと、ダイヤルを回してから、イヤホンを刺した。
「どうぞ」
「どうも」と返事はしたけど何がなんだかわからない。
渡されたイヤホンを耳につけてもわからない。ザーと言う音が聞こえてくるだけだった。
健太はニコッと笑うと白い台形の機械にぼそぼそ何かを言ったはずだった。でも耳の近くから『聞こえてる?』と聞こえてきた。
「すごいでしょ」
「すごいけど、これって何だっけ。ストーカーっていうんじゃないの?」
「違うよ。これを仕掛けるのは自分の家だから大丈夫だよ」
「そういうものなのかな」
健太がそういうのなら大丈夫なんだろう。
「でも、これどうしたの?」
「買ったんだー」
「へぇー。いくらしたの?」
「んー。二万円ぐらい」
「二万!」
そのときはまだ小学生だったから、二万なんて大金をしれっと言う健太にとても驚いてしまった。小学生のときの二万円なんて大人の二百万ぐらいの感覚だ。
「二万円もしてなんでそれが欲しかったの?」
「だって知りたかったからさ。お兄ちゃんが教えてくれないんだから自分で知るしかないじゃないか」
「昨日の話のこと?だったらまずおばさんに聞いたらいいじゃん」
いきなり話を盗み聞くなんて方法とらなくても、健太のお母さんに聞いたほうが早いし、お金もかからないじゃない。
「お母さんは話してくれないと思う。だって大人の事情ってたぶんお母さんの事だと思うから」
そう健太は事も無げに言った。
健太が昨日の遼兄ちゃんが話したことを言っているのはわかったけど、なんでおばさんが当事者だと言っているのかわからなかった。昨日遼兄ちゃんは汚い大人の事情とは言っていたけど、おばさんが汚いとは思えなかった。でも健太がそういうならなにか根拠があるのかもしれない。
「なんでそう思うの?」
「だって、知香ちゃんのとこの親は、この間の帰ってきたときの反応で違うって思うでしょ。それにおにいちゃんが知っているということは、お母さんがしゃべっちゃったという事だよ。きっと」
「他の人ってこともあるわよ」
「それはないよ。だったらお母さんは知らないはずだしね。まぁそれに違うなら違うでいいけど、仕掛けるに越したことはないでしょ」
「それは、そうなんだけど」
健太の言う事はもっともだ。うちは健太に従う事にした。それに、これでおばさんは関係ないって盗み聞きできるかもしれないし。
「じゃあ仕掛けに行こう」
「うん」
仕掛ける場所はもう決めていたようだ。ドアを開けて右側のテーブルの下の壁。このテーブルはご飯を食べるところだし、大事な話をするところだ。ここでならちゃんと内緒話があっても聞き取れるだろう。
「よし、これでいいかな」
「ちょっと不自然じゃない?」
見た感じどこか不自然に見える。ばれてしまうかもと思ったけど、健太は大丈夫だという。
「大丈夫だよ。もしばれてもこれが盗聴器とは思わないよ。コンセントを増やすやつだとしか思わないさ」
うちは初めてこの盗み聞きする機械を盗聴器というのだと知った。小学生のうちに盗聴器という単語を知っている人がどれだけいるだろう。ましてや仕掛ける側になっている人なんてうちらぐらいだろう。
「なるほど」
「よし、じゃあこれで大丈夫。あとは待つだけだよ」
うちらは意気揚々と夜が来るのを待った。
でもその日のうちに大人の話が行われる事はなかった。次の日も行われずうちらはイヤホンから流れるテレビの音やいすを引く音などをむなしく聞いているだけだった。
さらに二日たっても相変わらず変わりばえのないイヤホンの音を聞いていた。うちはいい加減飽きてきた。
「ねぇ、録音機能とかないの?」
「わかんない。どうやってやるんだろうね」
「飽きてきたよ。毎日毎日、テレビの音をイヤホン越しに聞くだけだよ」
「それはしかたないよ。さすがに何が悪いのかわかってないと助けられないと思うんだ」
「それはそうかもしれないけどさ」
「お姉ちゃんは最近どうなの?」
最近もなにも相変わらずだ。いじめと戦っている。学校に行っているのか言ったふりなのかもわからない。お母さんもさすがに気づいているけれど、なにも行動していない。どうしていいのか悩んでいるんだろう。お父さんもそれは変わらない。
いじめがあってもなかったときと同じように過ごしている。
お姉ちゃんは学校に行く時間に家を出て、学校から帰ってくる時間に帰ってくる。お母さんも朝昼晩前と同じ時間にご飯を作る。お父さんも毎日会社に行って帰ってくる。
「相変わらずだよ」としかうちは言えなかった。
「そうなんだ。おばさんもおじさんも変わらないの?」
「変わらないよ」
「そうか。まぁしょうがないことなのかもね」と健太は言う。
「しょうがないことなの?」
しょうがないことなのかな。誰かが苦しんでもそれがなかったかのように過ごすのがあたりまえなのかな。
「しょうがないんだよ。大人には世間体があるから」
「世間体って何?」
「周りの人からの評価の事だよ。誰々さんはいい人だ、とか誰々さんはこんな悪い事をする人なんだよとか、そういうこと」
「ふーん。そうなんだ。でも世間体ってそんなに大事かな?そんなことよりもおねえちゃんのほうが大事だと思うんだけど」
「そうだね。お姉ちゃんのほうが大事だよね」
「でしょ。おとなって大事な事を忘れちゃうのかな。そんなことなら大人になんかなりたくないな」
大人になれば好きなお菓子は食べ放題だし、いろんなものが手に入る。だけど、大事な事を忘れて回りの評価を気にするなんていやだと思った。
「でもね、おとなになると守らなくてはいけない事ができて来るんだよ」
「それが世間体なの?」
「違うよ。お金だよ。お金は世界で一人きりが持っていても意味ないんだ。皆が持っていることに意味があるの。だからお金を手に入れるためには周りからの評価が大事なんだ」
健太の話は難しくてよくわからなかったけど。おとなは世間体というのをお金のために気にしているのかな。皆が皆、周りの人の評価を気にして生きないといけないのかな。それもお金のためにしないといけないのかな。
「でもやっぱりうちにはわからないよ。だってお金よりもおねえちゃんのほうが大事だもん」
「知香ちゃん。お金がなかったら生きていけないんだよ。ご飯も洋服も住むところだってお金がかかるんだ。オレはおねえちゃんが苦しんでいても、生きていて欲しいと思うんだ」
「うちもそうだけど」
確かにそうだけど。でもやっぱりどこか間違っているような気もした。
「だからさ、親がいてお金を稼ぐ必要のないオレらがおねえちゃんを助けるんだ。何も気にせず助けられるだろ」と健太は身を乗り出して言った。そうだね、大人が助けてくれないなら。助けられないならうちらがやればいいんだ。
健太はやっぱり頭がよくて優しい。
「うん!」うちは元気よくうなずいた。
「それにオレも混ぜてもらってもいいかな」
ノックもなしに入ってきた遼太郎にうちらは驚いた。
「遼兄ちゃん。聞いてたの?」
「ああ、ちょっと前からね。まさか健太が世間体を語るとは思わなかったよ」
そういわれると健太は恥ずかしそうにうつむいた。
「健太。知美はおそらくオレたちの家族の事をかばってこうなってしまったんだ」
「どういうこと、おにいちゃん」と健太はくい気味で訊く。うちもすごい気になる。
「これは話していいかわからないんだけど、きっとお前らなら大丈夫だろう」と遼太郎は重々しく言った。
うちらはひとつ生唾を飲みこんで、次の言葉を待った。
「実はな、健太。オレらの母さんは昔暴行にあったんだ。暴行ってわかるか?」
うちはわからなかったけど、健太はわかったようにうなずいている。後で教えてもらう事にして、うちもうなずいた。
「それでな、その事件の犯人は捕まらなかったんだ」
「おかあさんにそんな事があったなんて」と健太は驚いている。
大体どういうことかわかった。昔、おばさんにひどい事が起きたんだ。そしてそれをした犯人はまだ捕まっていない。でもいったいそれがお姉ちゃんとどういう関係があるんだろう。
「うわさと言うのは隠していても広まってしまうんだ。そういうのの嗅覚が鋭い人はどこにでもいる。まぁ今回はそこはいい。うわさが広まってしまった事が重要なんだ」
「つまりおかあさんが村八分にされたってこと?」と健太は訊く。
「村八分なんて言葉よく知っているな。でもそうじゃない。皆が母さんを哀れんだんだ」
「それなら別に大丈夫なんじゃないの?」とうちは口を挟む。
「そうでもないよ。周囲の人からかわいそうな人と言われ続けるのは辛いものがある。でもまぁたしかにそれまではよかった。だけどね。親の行動を子供は真似するものなんだよ」
そのことを聞いてうちはカルガモの親子を思い出した。親鳥の後ろをてくてくと歩いていく子供たち。疑いもなく付いていく。親が道を間違えてもその後ろを付いていく。
うちはカルガモの親子を想像していたけど、健太は違う事を想像していたようだ。
「つまりおにいちゃんが」
「そう。哀れみの対象になったんだ。でもそれにいままで気づくことはなかった。ずっと前から知美ちゃんが庇っていたんだ」
「お姉ちゃんがうわさをとめていたの?」
「うん。知美はそういう話になると説得するように止めてくれたり、違う事に気を引こうとしていたんだって」と遼太郎は辛そうに言った。
「それがいじめの原因になったんだね」
健太のその一言はあたりを静かにさせた。すこしの静寂の後、遼太郎がポツリとこういった。
「そうだよ。知美が今苦しんでいるのは、オレら二人を助けたためなんだよ」
勇敢な少女は一人で戦っていた。健太たちを助けるために、自分への世間体を犠牲にして。
彼女は誇りに思っているだろう。でもうちらは今複雑な気分だ。手放しでうれしがる事なんてできるわけがない。
「ねぇ。どうすればいいのかな?」
そう訊いても健太も遼太郎も答えてくれない。二人とも考えているようだった。
なのでうちも考える事にした。諦めないで考える事にした。
結論が出ないまま、冬が来た。お姉ちゃんは学校を休みがちになった。
もしかしたら、遼兄ちゃんが高校に行ったらいじめはなくなるかもしれないというのがうちの希望だった。
遼太郎とお姉ちゃんは二つ違い。今、遼兄ちゃんは中3でお姉ちゃんは中1だ。哀れむ対象がいなくなれば自然消滅するんじゃないかとうちは思っていたんだ。
でも、現実はそう甘くなかった。遼太郎がいなくなってもまだ続く、もういじめるのが当たり前になっているのかもしれない。
そのとき、遼太郎はこう言っていた。『気持ちは風化するんだよ。でもその前に形骸化するんだ。何が理由だったとか関係なくなってしまうんだよ。もういじめてる人たちにとって理由なんて必要としないんだ』と。
お姉ちゃんは二年生になってから、まったく学校に行かなくなった。中三になっても、高校になっても。
高校は遼太郎が行った一校とは違う学校に行く事になった。近くの県立高校しか引きこもった少女を相手にしてくれなかったんだ。
でもうちはこの学校でよかったと思う。中学校では学校側はなんもしてくれなかったけれど、高校に入ってすぐ担任の先生が家まで来てくれたんだ。
でもその先生はうちの親がつき返したらしい。でもそれは正解だったのかもしれない。どうせお姉ちゃんは学校の先生には心を開かないだろう。
高校に入ってお姉ちゃんは全ての人を無視するようになった。
家族相手にも遼兄ちゃんにも。それはうちらにかなり衝撃を与えた。遼兄ちゃんもかなりショックを受けたようだった。
だからそんなお姉ちゃんが高校の先生には話しかけるようなわけがなかった。
それから数日経って、ある若い先生が来た。うちはすぐに信頼した。だけど、お母さんやお父さんは逆に訝しんでいるようだった。
その日は前回の先生と同じように玄関先でつき帰した。
その先生は隔週ぐらいのペースで来た。でもずっとつき帰していた。
でも、ある日すごい人を連れてきたらしい。それは遼兄ちゃんだった。これはうちのお母さんも納得せざるをえなかったようだ。
そういえば遼兄ちゃんとは最近会ってないな。彼らは昼ごろ来たらしい。学校がなかったら一緒にいれたのに。
うちは久しぶりに遼兄ちゃんに会ってみる事にした。
玄関を開けて外に出る。そこには不審な人物がいた。まるでうちの家を観察していたかのような格好だった。うちは警戒しながら声をかける。
「あの、すいません」
「はい。こんばんはー」
「どうかされたんですか?」
「どうかとはいったい」
男は逆にうちを警戒するようなそぶりを見せる。
不審な目で家を見ていたのはそっちなのに、なんでうちが警戒されないといけないんだろう?
「うちの家をみていたようにみえたんだけど」
「ああ、別にそんなつもりじゃあなかったんだよ」
「じゃあ、いったいどんなつもりだったのよ」
「猫がいるなと思って」
うちは男が見てた二階のほうを見たけど、猫なんていなかった。
「いないけど」
「あー、ほんとだね。でもきっといるんだよ。窓から窓をわたるような身のこなしのいい猫がね」
「はぁ。そうなんですか」
とうちはあきれてしまった。何なんだろうこの男は。あまり関わんないほうがいいな。
「では、うちはもう行かなければならないので。じろじろと人の家を見ないほうがいいですよ」
そう忠告してうちはさっさと行くことにした。
隣の家の小川家の玄関を開けようとしたときふと気づく。なんでさっき過去形じゃあなかったんだろう。『でも、きっといるんだよ』ってどういうことだろう。気になって振り返ってもそこには誰もいなかった。
その日から四日後、事態は急変した。
学校から帰ってきたうちは、いつもどおりリビングに向かった。そこで繰り広げられている光景に目玉が飛び出るほど驚いた。
「おかえり、知香」
そういったのはお姉ちゃんだ。ずっと引きこもっていたお姉ちゃんは何食わぬ顔でリビングにいた。おいしそうにプリンを食べている。そんなおねえちゃんをお母さんが遠巻きに見ていた。
「ただいま。おねえちゃん。それなに?」
うわずりそうな声をなんとか、抑えて冷静に訊く。
いろいろと話したい事はあるれけど、まず一つ言わなければならないことがある。
「プリンだけど」ときょとんとした顔で答える。
「どこにあったの?」
「冷蔵庫」
「何段目?」
「二段目の奥」
「ふたに何か書いてなかった?」
「『知香』って書いてあった」
「それ、あたしのじゃん!」
急に戻ってきたと思ったらいきなりプリン泥棒って何してんの。
「知香。ずっと隠す場所変わってないのねー」
まったく、あきれてしまう。
「このプリンおいしいねー」
あきれて、しまう。
「やっぱとろとろなプリンがいいよね」
涙がこぼれてきた。涙はとめどなく流れて頬を伝う。
うちは何もできなかった。四年間何もできなかった。
健太はいろいろと考えてくれた。遼兄ちゃんはいろいろと行動していた。
うちは、なにも。
でも目の前にお姉ちゃんがいる。
お姉ちゃんとまた話す事ができる。
お姉ちゃんとまた遊べるんだ。
「ああ、ごめん。そんなに好きだったの?もうぜんぜん残ってないや」
涙を流し続けるうちに、かけらしか残ってないようなプリンを差し出す。
「プリンじゃないよ。お姉ちゃんが戻ってきてくれたのがうれしいんだよ」
そういうとお姉ちゃんは少しだけ驚いた顔をして
「ごめんね」と言った。
翌日朝ごはんを食べに下に行くと、お姉ちゃんはもう起きていた。
もしかしたら夢だったんじゃないかと思っていたから少しほっとした。
朝の挨拶を終えて、お姉ちゃんの横に座る。この光景も久しぶりで、気を緩めるとまた涙が出てきそうになる。
『おねえちゃん』と言うと『何?』と返ってくる。
それだけでうちは幸せだった。
「知美。今日から学校行くの?」とお母さんは訊いた。お母さんはまだぎこちない。いまだにおねえちゃんとの距離をとりはかねているようだった。
「んー。今日は行かない」
「そう。わかったわ」
「えー。お姉ちゃん行かないの?じゃあうちも行かない」
それで、今までのことをいろいろ話したい。でもお母さんは当たり前のごとく否定する。
「知香は行きなさい」
「お姉ちゃんと話していたい」と駄々をこねると今度はおねえちゃんのほうから説得にきた。
「知香はいきなさい。今日は行かないといけないところがあるから、知香が学校をサボっても意味ないよ」
そう言ってお姉ちゃんはポケットからUSBメモリを取り出した。
「これをね。渡しに行くの」
「どこに?」
「秘密」
お姉ちゃんは口元に手を持っていってそう言った。
「学校に遅刻しちゃうわよ」
時計を見ると出発時刻の10分前だ。うちはあわててご飯を食べて、出発の準備をした。
玄関までお姉ちゃんは見送りに来てくれた。きょうは早く帰ろうとそう思った。
いつも学校はいろんな話が飛び交っている。引き逃げあったらしいとか、桶が道路に散らばっていたとか、他愛のない話が続く。うちはそれらに見向きもせず、ずっとおねえちゃんのことを考えていた。
昨日、お姉ちゃんが変われる何かがあったんだろう。ちゃんと解決したのだろうか。
そもそも、健太たちが傷つかないようにしていたのが原因だった。解決できる問題なのだろうか。
今日帰ったら訊いてみよう。
そう決意して思う。周りがうるさい。そんなに噂の共有が大事なのだろうか。まだまだ昼休みは続きそうだ。うちは逃げるように外に出た。
廊下を進んで階段を上る。このまま屋上に行こうかと思ったけど、昼休みだしうるさい人は多いだろうな。
適当に行く当てもないまま散歩する事にした。
そういえばあのUSBは何だったのだろう。お姉ちゃんはパソコンは持っているはずだけどUSBメモリを持っていたのかな。引きこもっていたのに情報を持ち運ぶ機械を買う必要があるのかな。
もしかして外に出てたのか。まぁそんなわけないか。
そんなふうに静かな廊下を歩いていた。
「あれ、こんなところで何してるの?」と後ろから声が聞こえた。
振り返ればプリントを重そうに持っている健太がいた。先生に頼まれたのだろう。うちは少しだけプリントを取った。
「別にいいよ。ひとりで運べる重さだし」
「まぁいいじゃん。一緒に運ぶよ」と言うと健太はうれしそうな顔をした。
「そういえばさ、昨日お姉ちゃんが復活したんだけど知ってる」
「うん、知っているよ」
「戻ってきてくれてうれしいんだけど。本当にうれしいんだけど」
「またいなくなるか不安なの?」と健太は訊いた。その通りだった。
「うん」
「いきなりだもんね。無理もないさ。それに結局オレらが解決したわけじゃないもんね」
お姉ちゃんは急にいじめられるようになって、引きこもった。そして急に戻ってきたんだ。また急にいなくなってしまうかもしれない。
「でも、オレら小川家を哀れむブームは終わったからもう大丈夫だと思うよ」
そう健太はうちを安心させるように言った。
「わかってはいるんだけどね」
わかってはいるけどどうしようない。
やっと戻った暖かさがまた失われるのが怖い。
「直ってからも傷を残すなんていじめはひどい行為だな」とつぶやいた。
もう目の前は健太の教室だ。うちらは一組と二組で別れている。
ちょうど健太の教室に着いときチャイムが鳴った。うちは手に持っていたプリントを健太にもどしてから教室に戻る。
振り返ったときに見せた、悲しげな表情が印象に残った。
学校が終わって、うちは駆け足で家に戻った。
リビングにお姉ちゃんがいた。お母さんは外出中のようだ、家にはお姉ちゃんしかいなかった。もちろんお父さんは仕事だ。
「ただいま」
そういうとお姉ちゃんはビクッとして、目の前に広げていた紙を慌てて隠した。そして一呼吸おいてから『お帰り』と言った。
「お姉ちゃん。今何隠したの?」
「なんでもないよ。なんでも。そんなことよりプリン食べる?」
「たべる」
うちは疑いの目線は残したまま、とりあえずプリンを食べる事にした。
「冷蔵庫に入ってるから」
プリンは冷蔵庫のいつもの場所に入っていた。ふたにはきらきらした金や銀を駆使した文字で知香と書いてあった。
「ありがと」
「240円」とお姉ちゃんは手を出した。
「え?おかねとるの?それにこのプリンもともと200円のだけど」
「それは装飾代さ」
うちは絶句してしまい、そのままポケットから財布を出した。
「あーごめんごめん。冗談だってば」と慌ててお姉ちゃんは言う。
「え?」
「だから冗談だよ。もちろんそれはただでプレゼントフォーユーだよ」
「もう、本気だと思ったじゃん。目がマジだったよ」
「ちょっとリアリティがあったほうが面白いかと思って」
「いらないよ!そんなリアリティ」
そういうとお姉ちゃんは笑った。つられてうちも笑ってしまう。
うちはこのジョークに付き合ったせいで、すっかり紙について忘れてしまっていた。
「それでさ、結局昨日はなにがあったの?」
その後もさえないジョークや他愛のない話が続いていたけど、うちはついに切り出した。
「おねえちゃんはね、ずっと探していたの」
「何を探していたの?」とうちは訊いた。
「悪い人。遼太郎と健太、それとおばさんを傷つけた人をずっと探していたんだ」
「ずっと探していたの?」
「うん。ずっと」
そう言ったときのお姉ちゃんの顔はとても寂しげだった。
「何で言ってくれなかったの?」
「巻き込んじゃいけないと思ったの。ほんとは言おうかとも思ったんだよ。でも知香の顔を見たら言ってはいけないような気がしたの」
「それはおばさんに起きた事件がひどかったから?」
そう訊くとお姉ちゃんは目を見開いて驚いた。
「知っていたの?」
「知っていたよ」
当時は暴行の意味はわかってなかったけれど今ならわかる。お姉ちゃんがうちを遠ざけた意味もちゃんとわかる。
でもだからってお姉ちゃんが一人で戦っていい理由にはなってない。
「遼太郎が教えてくれたの?」
「そうだよ。遼兄ちゃんは健太には教えていいと思ったんだと思う。うちもその場にいたから聞いていたんだけど」
「なるほど健太ね。健太は頭いいもんね」
「お姉ちゃんはさ、その事件の犯人を捜していたんだよね」
「そうよ」
「見つかったの?」とうちは訊いた。
「見つからなかったよ」
「見つからなかったの?じゃあなんで」とそこまでいいかけてうちは口をつぐんだ。
「見つけようとしたの、そして手がかりをつかんで追い詰める事までできたのよ」
なるほど。ひとりではできなかったわけだ。じゃあうちの答えは決まってる。
「じゃあさうちも手伝うから」
「え?」とお姉ちゃんは聞き返した。
「一緒に探そうよ。手がかりはあるんでしょ。じゃあ健太がきっとそこから重要な事を見つけてくれるよ。遼兄ちゃんも助けてくれるに決まってる。四人がそろえばきっと何でもできる」
また新しい冒険だ。四人が再結集して悪を退治するんだ。
「それは無理なのよ」
「なんで!追い詰める事はできたんでしょ。いくら悪い人でもうちら四人にはかなわないよ」
「違うの」
そうお姉ちゃんは悲しそうな瞳で言った。うちは少し冷静になった。
「何が違うの?」
「悪い人じゃなかったの。うちがずっと探していた人は悪い人ではなかった。むしろいい人だったの」
「え?」今度はうちが聞き返す番だった。
「ずっと勘違いしていたの。いい人のほうを悪い人だと思っていたの。手がかりを見つけて、必死になって確証を得て、追い詰めたの。でもいい人だった。最初から間違っていたんだ」
お姉ちゃんは涙を流してそう言った。うちはのどがしびれたように何も言えずにお姉ちゃんが全て吐き出すまで待っていた。
「取り返しの訊かない事をしてしまった。いまじゃその人はベットの上だって。こん睡状態だって。うちを助けたばっかりにこんな事になってしまったんだ。うちが間違えなければこんな事にはならなかったのに」
お姉ちゃんはずっと溜め込んでいた事を吐き出すように語る。さっきまでは我慢していたんだろう。ちょっとしたことで破裂してしまうぐらいに溜め込んでしまっていたのだろう。
うちの目からも涙が出てくる。きっとこの涙はお姉ちゃんにここまで溜めこさせてしまった自分の無力への戒めなのかもしれない。
「DNAが違わなければ。いやあいつが生まれなければ」
「おねえちゃん」
うちはお姉ちゃんを抱きしめていた。
DNAが何のことかわからないけど。あいつが誰かもわからないけど。目の前のお姉ちゃんを助けるためにはこうするしかないと思った。
「知香」とお姉ちゃんはつぶやいた。そして続けてこう言った。
「そう、そうだね。悪くないよね。全部、全部悪いのは勘違いしたこの」
「違う!お姉ちゃんは悪くないよ!」
うちは一心不乱に否定した。お姉ちゃんが悪いはずがない。
こんなにも苦しんで、こんなにも悲しんで、こんなにもやさしいお姉ちゃんが間違っているはずがない。そんなわけがないんだ。
「知香ぁ」
「お姉ちゃん」
うちらはそうしてお姉ちゃんが落ち着くまで抱きしめあっていた。
やっとお姉ちゃんが落ち着いた頃にはすっかり日は暮れていた。
「知香、あのね」
「何?」
「今日ね、死のうと思ったの」
「そうなの」
「でもね」
「うん」
「やっぱり、やめる」
「うん」
「まだ死んではいけない気がするんだ」
「うん」
「おねえちゃん生きるね」
生きて欲しい。ずっとずっと。生きて欲しい。
「うん」
「おばさんを暴行した犯人を捜すのはもうやめる」
「それがいいよ」とそううちは言った、犯人なんて捜してどうなるのだろうか。それでは誰も幸せにならない。
「でも」とおねえちゃんは言った。
「でも最後に孝治さんを病院にいくのを遅らせた人を探す事にするね」
孝治さんはきっとさっきの間違えてしまったいい人だろう。
「あの桶を転がした人だけ知りたいの。あれがなければ助かっていたんだ。お医者さんももうちょっとはやくくればと言ってた。あの桶はきっと孝治さんを病院に運ぶの遅れさせるためにやったんだと思う」
お姉ちゃんの言う事はわからない。でもお姉ちゃんがちゃんと元に戻るなら協力を惜しむつもりはない。
「お姉ちゃん。うちも手伝うから」
「ありがと。でも最後まで自分でやらせて」
とそうおねえちゃんは言った。だからうちはしぶしぶながら
「わかった」と言うしかなかった、
数日語の事だと思う。うちは学校にちゃんと通って、お姉ちゃんは例の桶の人を探していた。そのはずだった、
そのはずだったんだ。
「おねえ、ちゃん」
目の前に広がる光景を信じたくなかった。
「おね、え、ちゃん」
どうしてこうなったのだろうか。
「お姉ちゃん!」
反応はない。
それもそのはずだ。だってお姉ちゃんは目の前で首をロープに吊られているのだから。
「何で?」
何でだろう。
今日もまたお母さんがパートでいない日だった。
いつものように帰ってきたうちは静かな家に気づいた。たまにはそういう日もあるだろう。
うちはそういう風に思っていたが、なにか冷たい空気を感じ取ってしまった。
そして好奇心からお姉ちゃんの部屋の扉を開けてしまった。
最初に訪れた感情は驚きだった、次に恐怖心。
「おねえ、ちゃん」
そして次に悲しみが感情を支配した。
うちは声にならない叫びをあげながらその場にうずくまった。
うちは涙を流して叫び続けた。
クシャと手から音がした。それは右手が紙を握りつぶした音だった。いつの間につかんだのだろうそれは手紙だった。
見たことがある。これはたしかそうだ、あのとき慌てて隠していた紙だ。
あて先はうちになっている。これはうちにあてた手紙なのか。
このときうちは遺書と言う言葉を思いつかなかった、それほど目の前の光景を認めたくなかったのかもしれない。
「なんで?」とそんなお言葉をつぶやいていたと思う。もしかしたら『何?』かもしれない。
でも全て答えはこの手紙にある。うちは食い入るように手紙を見た。涙が邪魔をして視界がかすむから、目をこすった、
手紙の冒頭はこう始まっていた。
『ごめんね』
うちは思わず手紙を閉じる。でも思い直して手紙を開いた。
『ごめんね。死んでしまうことを許してね』
その先はこの前聞いたとおりの内容だった、DNAがなんたらとわからないことばっかりだけど、後悔していることは伝わった。でもそれも前に聞いたどおりだ。
うちの知りたいことは、書きなぐられて最後にあった。
『うちが生きる意味はないとわかった、ごめんね、知香。ごめんね』
『桶の人は、全ての原因は同じ人だった、ごめんね。全て同じだったんだ。全て』
『悲しいよ。意味なんてなかったんだ』
『あの人が生まれてなかったら、どうなっていたんだろうね』
『孝治さんを見つけることがずっと生きる意味だった。でも孝治さんはいい人だった、だから桶の人を問い詰める事を生きる意味にしたんだ。でも現実は違ったんだ』
言葉はそこで終わっていた。そこで終わっていたんだ。
お姉ちゃん。生きる意味を失ってしまったんだね。でもそれでも生きて欲しかったよ。
「お姉ちゃん」と最後にそう言葉がもれて打ちの意識は消えた。
起きたら自分の部屋だった。全て夢だったのかもしれない。
でも手のひらには手紙を握り締めていたままだった。
自分の足で戻ったのか、気絶して運ばれたのかもわからない。
こんこんとノックの音が聞こえた。
「起きてる?」とお母さんの声が扉越しに聞こえる。
「うん」とか細い声が出た。うちは手紙をベットの裏に慌てて隠した。
部屋に入ってきたお母さんの目はすっかり赤くなっていた。ずっと泣いていたのだろう。
「知香。知美が死んじゃった」
「うん」
やっぱりここは現実なんだと思って、また悲しくなってくる。
「知香さ、お姉ちゃんの部屋にいたでしょ。あなた倒れていたから。娘が二人で死んじゃったのだと思って」
そういってお母さんは真っ赤にした目からさらに涙をこぼし始めた。
「ごめんね」
「あなた達二人に死なれたら、生きていける自信がないよ」
「ごめん」
「いいの。あなただけでも生きていてくれてうれしい」
「うん。お母さん」
お姉ちゃんはなにか苦しい現実を目の当たりにして、自殺を選んだ。残されたうちらはどうしようもない悲しみに打ちひしがれるしかない。
お姉ちゃんが苦しんだ現実の手がかりは手紙にある。
でもうちはそれを探そうとは思わなかった。それはお姉ちゃんの二の舞になるし、きっとそうする事をお姉ちゃんは望んでないと思う。
でも、そう思うのはきっとうちだけだ。
「知香。あなたをベットまで運ぶときずっと紙を握り締めていたの。固く握って取れなかったけどきっと遺書だと思うの。それ今どこにあるの?」とお母さんは訊いてきた。その目には悲しみもあったけど怒りの感情が見て取れた。
きっとお母さんは遺書の手がかりから、知美を苦しめた原因を探るつもりだろう。
「紙って何のこと?」
「紙よ。あなた握っていたじゃない」
「おかあさん。それうち知らないよ」
お母さんの表情から怒りが消える。そして絶望が広がっていく。
「知香!本当に知らないの?」
「さっきから、いったい何のことなの?」
「じゃあ、知美がどうして自殺したのかわからないじゃない。一人で苦しんでた理由がわからないじゃない」
「そんなことより、お母さん」
「そんなこと?いま、そんなことって言った?知美が苦しんでいた理由を、自殺した理由をそんなことって言ったの?」
すこしヒステリー気味にそう言われた。でもうちは負けじと言う。ここでひいてはいけないんだ。
「お姉ちゃんが死んだ理由なんてどうでもいいよ!それよりもお姉ちゃんを助けられなかった自分が辛い」
「そんなの」とお母さんは冷静になって、悲しみしかやどさない表情で「あなただけじゃないわ」と言った。お母さんだってなにもできなかった自分を恥じているのだろう。
うちはやっぱり手紙の事は誰にも言わない事にした。
今回の事でうちら家族は全員、心に傷を負った。だれも幸せにならなかった。そして小川家も同様に傷を負ってしまった。
一番ひどかったのはきっと遼兄ちゃんかもしれない。あの日を境に変わってしまった。だんだんと心がすさんでいくようだった。それを見るのはとても辛いものがあった。
原因探しを始めたのは、遼兄ちゃんとお父さんだけだった。
健太は辛いけどしょうがなかった事なんだと言って、お姉ちゃんが自殺した原因を探そうとはしなかった。それでも健太は悲しんでなかったわけではない。独りで泣いているところを何度か見たことがある。
ちゃんと悲しみを悲しみで処理している事ができているんだ。
お父さんたちは悲しみを怒りで解消しようとしているんだ。でもそれは間違いだと思う。うちはいまでもお父さんたちに手紙をみせていない。
手がかりのない状態ならたどり着くにはすごい長い時間がかかる。その間に考え直してくれたらうれしいんだけど。
でもお遼兄ちゃんたちの感情は風化する事はなかった。ずっとずっと探していた。
数ヶ月たっても色あせることのない感情はついに真相にたどり着いた。
「すべて桶の人が悪いんだ」とお父さんは言った。
それは晩ご飯のときだった。いきなりそんなことを言われたお母さんは何の事かわからないで困惑していた。
うちは桶の人と言う言葉で全てわかった。ああ、お父さんは気づいたのだなと。
「おとうさん」
「知香は知っていたのか」
うちは何もいえなかった。お父さんはやっと手にした答えをどう使うつもりなのだろうか。
「そうか。なぁ知香はどうして欲しい」と訊いてきた。
「どうもしなくていい。忘れて欲しい」
「そうか」
悪い人のことなんか忘れて、元通りの生活を送りたい。そこにはお姉ちゃんはいないけど。
「そうか」とお父さんはもう一回言ってそれから黙ってしまった。
「何?何のことなの?」
一人何も知らないお母さんが訊いてきたけど。
「なんでもないよ」と言うしかなかった。これ以上お母さんに悲しみを背負わせたくない。
お父さんは忘れてくれたものだと思っていた。だってそれから桶の人のことを何も言わなくなったから。でもそんなことはなかった。
ある日帰っている途中、お父さんにばったり会った。
ばったり会ったと言う表現もすこしおかしいかもしれない。お父さんは道路の上にうずくまって倒れていたからだ。
「どうしたの?」
事故にあったのか、具合が悪いのかわからないけど、急いでうちはお父さんの元に駆けつけた。
お父さんはうちの声に反応してゆっくりと顔を上げた。
そしてうちはお父さんが泣いている事に気づいた。これで家族全員の涙を見たことになる。
あんまり家族が泣いている姿など見たくない。うちも同じく悲しい気持ちになってしまう。
「知香。知香はどこまで知っていたんだ?」
「全部だと思う」
「全部?じゃあ小川さんに起きた事件は?」
「知っているよ。井伏孝治さんがいい人だってことも」
井伏さんはいい人だった。おばさんを助けるためにおばさんと一回関係をもっただけだ。
「じゃあ、遼太郎のおとうさんの事は?」
「井伏孝治さんが本当のお父さんなんだよね」
その一回で小川さんは妊娠してしまった。そして堕胎させることなく、産む事にしたんだ。
「桶の人は?」
「鈴木優二だよね」
「では、おねえちゃんの自殺の原因は?」
「悪い人だと思って追い詰めたのにいい人だったから。それを二回してしまったから」
それはきっと耐えられないことなのだろう。全てをかけて、学校にも行かないで追い詰めた人が実は悪い人ではなかった。後悔と言う自責の念が自分を苦しめるに決まってる。
「さっき、鈴木優二くんにあったよ。彼は清水さんだった」
「清水さん?」
「ああ、これは知らないのか。鈴木君はね実は清水と偽って家に来たことがあるんだよ」
それを聞いて驚いた。いつの間に来てたのだろう。ぜんぜん知らなかった。
「彼は素晴らしい人だった。知美が引きこもっていた頃助けようとしてくれたんだよ。なにもせずにすぐ帰っていったんだが。後から聞いた話によると、知美が引きこもってなかった事を推理していたそうだ」
最後の部分はよくわからなかったけど、お父さんの言っている意味はわかる。鈴木さんがいい人なんだということは伝わった。
「何を話したの?」
「いや、話をしたのは遼太郎君だよ。彼が話している間、ずっとこの塀の裏から見ていたんだ。遼太郎は一発殴ってすぐに去ってしまったけど。残ってみていたんだ。そうしたら鈴木君がこう言ったんだ『ごめんなさい。名前しか知らない女の子。私が生きていなければよかったんだよね。本当にごめんなさい』とね」
「鈴木優二はおねえちゃんのことを覚えてなかったの?」
「それはしょうがないだろう。家にいた時間だって短かったし、そういえばずっと娘としか入ってなかった気がする。でも覚えているか覚えてないかなんて関係ないんだ。そこを言いたいんじゃない。鈴木君はそう言ったあと続けてこういったんだ『ごめんない。名前もしらない少年。ぼくは君を傷つけてしまった。他にも僕のせいで傷ついた人がいるんだろう。ごめん』と」
そういってお父さんはさらに大きな粒になって涙を流す。
「それを聞いて、優二はずっと苦しんでいることがわかった。そして『優しい』少年なんだと」
お父さんもお姉ちゃんと同じだ。悪い人だと思って追い詰めていたのに、本当はいい人だと気づいてしまった。
うちはこれを防ぎたかったから手紙を隠したのに。
結局は同じ結末だ。二回も同じ結末を見てしまった。
なんでうちら家族だけこんな目にあわないといけないんだろう。いったいなんで。
「お父さん。立てる?」とうちは訊いた。
「立てない」とお父さんは言った。
「いつなら立てる?」
「もう無理だ」
「ねぇ。お父さん。死ぬ気?」
お父さんは何も言わなかった。
「死んでも解決しないよ」
お父さんは黙り込んでいる。
「ねぇお父さん。違うよ」
なんでうちの家族の敵はいいやつばかりなんだろう。これでは敵を倒す事ができない。
「違ったんだよ」
だから敵は悪いやつだと言う事にしよう。
「鈴木優二は悪いやつなんだよ」
そういうとお父さんは顔を上げた。
「鈴木優二は存在自体が悪いやつなんだよ。この世界にいるだけで公害なウイルスみたいなもんだよ」
「何を言っているんだ?」
「だって鈴木優二は正真正銘犯罪者の子なんだ。だから悪いやつに決まってる」
「犯罪者の息子だと?お前はいったい何を知っているんだ?」とお父さんが聞いた。
お父さんは知らなかったのか。遼兄ちゃんと鈴木優二が双子だと言う事を。
お姉ちゃんの遺書にはDNA鑑定のコピーが挟み込んであった。DNA鑑定の結果は一目瞭然だ。遼兄ちゃんと鈴木優二の双子の可能性は99.999%。
その現実をお姉ちゃんは知っていたから最後のトリガーになってしまったんだ。
お父さんは鈴木優二をもともと知っていたから、こうなってしまったのだろう。遼兄ちゃんは何も知らなかったから殴っただけで終わったんだ。
「家にお姉ちゃんが最後に書いた手紙があるよ」
もう隠す必要はないだろう。
「やっぱりあったのか。ずっとずっと隠していたのか?でも今更何を知ったって変わらない」
「そうかもね。でもどうせなら全て知って欲しい」
「わかった」とそういってお父さんは立ち上がった。
「死なないでね」とつぶやいたけど、声が小さすぎて聞こえなかったかもしれない。
お父さんは結局死なないでいてくれた。部屋からずっとすすり泣く音が聞こえてくる。ずっとずっとすすり泣く音が聞こえてくる。
お父さんが踏みとどまった理由はきっとうちらにあると思う。
お姉ちゃんがうちに宛てたあの手紙には、『お姉ちゃんはもう耐えられないけど、知香は生きてください。そして家族を支えてね。お母さんとお父さんは強そうに見えるけど、本当は弱いところもあるからね。知香が支えなさいよ』と書いてあった。
お父さんはそれを見てきっとうちだけに任せられないと思ったのだろう。
お父さんは家族だけが支えだったのだろう。
すすり泣く音が続いてもう3週間は経とうとしていた。
そしてうちの想像通りのことが起きた。お母さんが壊れ始めた。お姉ちゃんが引きこもってから死んで、お父さんも引きこもった。
お母さんはずっと当事者じゃなかった。一歩離れたところにいたんだ。だからこそ辛いものがあったんだろう。
うちはがんばっても助けられなかった。でもお母さんは大人だったし助けられる立場になかったんだ。
「知香。知美はどこにいるの?」
そうお母さんは訊いた。真顔でそう訊いた。
「お姉ちゃんはもういないよ」
「そういえば最近見ないわね。旅行だったかしら」
「お姉ちゃんはもういないんだよ」
「そうよね。旅行のわけがないよね。あの不良娘め、ぜんぜん帰ってこないでどこほっつき歩いているのか」
「お母さん!」
ビクッとお母さんは肩を震わせて驚いている。
「もう、なに?急に大きな声を出さないで頂戴」
「ごめん、お母さん」
「ところで知美はどこ行ったの?」
もう見てられなかった。でもお母さんには今うちしかいない。ちゃんと言えばわかってくれるはずだ。
うちは慎重に言葉を選んで語りかけた。
「お母さん。もうね。お姉ちゃんは死んじゃったの。もうこの世にはいないのよ。お姉ちゃんはね、ずっと戦ってたの。でも間違えていたの」
「知美」かすれるような声が聞こえてきた。お母さんは顔を真っ青にしながらもちゃんと聞いていてくれた。
「それでね、お姉ちゃんは自分で死ぬことを選んだのよ。お父さんもね、戦ってたの。お姉ちゃんとおんなじ間違いをしていたんだけど、自殺は選ばなかった。まだ生きているの。助けられるのはお母さんとうちしかいないのよ」
「ううっ」とうめき声をあげる。もうこれ以上限界かもしれない。
「知香ぁ。じゃあいったい誰が悪かったの?」
それはきっと世界なのかも知れない。もしくは運命か。でもこれはなんていえばいいんだろう。
ここで運命が悪かったなんていったらお母さんはやり場のない怒りを解消する事はできない。
かといってだれか個人名を挙げたらその人を殺しにいきそうだ。
うちは結局ちゃんと説得しようとした。鈴木優二と言う人がいて、でもかれは悪くなくて誰も怨んではいけないんだよと。
「鈴木優二って人がいてね」
「誰なの?」と刺すような視線が来た。
「お姉ちゃんたちを苦しめる原因になったんだけど、でも」
「そいつが家族をめちゃくちゃにしたのね」
「そうじゃなくて、彼は」
「そうじゃないないなら何なの?そいつが原因になったのでしょう」
「結果としてそうなっただけで」
「やっぱりそいつが原因なんじゃない」
うちは失敗したと思った。
明確な敵を得たお母さんはヒステリーを引き起こした。
ちがうんだよ。お母さん。彼を憎んだらいけないんだよ。お姉ちゃんたちはそれで間違えてしまったんだから。
「違うの。お母さん。かれは違うの」
「何が違うのよ。鈴木優二だって。そいつが家族をめちゃくちゃにしたんだな」
お母さんおヒステリーは止まらなかった。
「死ね!死んじゃえ!家族をめちゃくちゃにしやがって」
うちはなぜか涙が出てきた。
お母さんは叫んで叫び続けてそして、急にぷつりと眠ってしまった。
うちは病院に運ぶ事にした。ごめんねお母さん。もっとうちがちゃんとしてれば。
健太のお母さんが車で運んでくれた。会ったとき『ごめんね』と謝れたけど、なんていって言いのかわからなった。
病院にはもちろんうちも付いていった。今はお母さんのほうが不安だった。
その選択が間違っていた事はすぐに気がつかされた。
病院について、お母さんはベットで寝かせられた。急に眠ってしまっただけで、外傷がなかったからなにも治療することはなかった。
うちはずっと家族に起きた悲劇をずっと悲しんでいた。本当に何でうちらがこんな目にあわないといけない意だろう。たどり着く先は暴行事件にいく。
でも暴行事件でだれも生まれなかったらとも思う。
あいつさえ生まれてこなければ。生まれてこようとしなかったら。
でもそんなことを考えてはいけないんだ。だってたどり着く先はお姉ちゃんたちと同じ結末だから。
うちは人生のどん底にいるような気分だった。これ以上落ちる事はないと思っていた。
医者が急いで入ってきた。いったいなんだろう。ここにはうちとお母さんしかいない。おばさんは運んでくれた後、帰ってしまった。
医者はうちらこう告げる。
お父さんが救急車で運ばれたのだと。
お父さんの会社の若い人が救急車を呼んでくれたらしい。その人はお父さんと電話する事ができて、お父さんが自殺しそうなことに気づいたらしい。
お父さんはお姉ちゃんと同じように首を吊っていたそうだ。
救急車のときは心臓が動いていた。でも病院に着いてから止まった。そして再び心臓が動き出す事はなかったそうだ。
医者は最後にこう言った。
「彼がもう少し早く佐藤さんをロープから降ろしていれば変わっていたかもしれない。一分でも、いや30秒でも早く。こんな事をいってもしょうがないのだが」
うちはそれをきいてもその人を責めようとは考えてなかった。でもうちが黙っているのを見て医者はこう付け足した。
「でも、彼を責めないでやってくれ。本当に助けようとしていたんだ。彼は君の家のガラスを割って家に入ったのだけど。その際、顔にガラスが飛び散ってね。目を負傷している。これ以上彼を苦しめるのは酷だろう」
「最初からその人を責める気はありません。その人は助けてくれようとしたのでしょう。なら責める必要はありません。そしてあなた方医者にも責める気はないです。どうしようもなかったんです」
「そうか。すまない。つまらない事を言ったようだ」と医者は自分を恥じた。
「いえ。教えてくれてありがとうございます。もしその人にまだ会うようでしたらこう伝えてください。ガラスは弁償しなくていいですよと」
うちがそういうと医者は悲しそうな目をして『わかった』と言った。
医者が部屋を出て行くと、あたりは静かになった。
聞こえるのはお母さんの寝息だけ。規則的に聞こえてくる寝息を聞いていると、とてつもない寂しさに襲われる。
うちに残されたのはもうお母さんだけ。
お姉ちゃんに会いたい。お父さんにも会いたい。小学生のときのように家でお姉ちゃんと遊びたい。そこには隣に健太がいて遼兄ちゃんもいる。みんなニコニコ笑っている。夕方になって下からいい匂いがしてくる。
『ご飯だよ』というお母さんの声が聞こえてきて、下に行くと珍しく早く帰ってきたお父さんがいるんだ。『何をして遊んでいたんだ?』なんてお父さんは訊いてくるんだ。そんなありふれた幸せなときがあったんだ。
嗚咽がもれる。うちはお母さんの寝ているベットにしがみついた。
「うっ、うっ」と声がでる。
幸せだったのに。ずっと前は幸せだったのに。
「お、お母さん」
「どうしたの?」と優しい声が上から聞こえた。
見上げればお母さんは起きていた。起きてうちを見ている。ヒステリーなんてまるでなかったかのような、優しい目でうちを見ていた。
「どうしたの?そんなに泣いて」
「お母さん。お母さん!あのね、お父さんもね死んじゃった」
うちはミスったと思った。ここでまたお母さんにこんなこと言ったらヒステリーを起こしてしまうかもと思ったんだ。でもお母さんは冷静なままだった。
「そうなの」
「ごめん。お母さん大丈夫?」
「大丈夫って何よ。不思議な子ね。悲しいに、決まっているじゃない」
お母さんは俯く。でもすぐに顔を上げた。
「知香。よく聞いて。お母さんは死なないからね。あなたを残して死なないから」
その言葉はずっと聴きたかった言葉だった。
「知香は今までよくがんばったわ。見てなかったけど、お母さんだからわかる。ずっとがんばった。お母さんはあなたを誇りに思う!」
「お母さんあのね。うちはね、お姉ちゃんを助けられなかったの。それにお父さんも助けられなかったの」
「それはお母さんも同じよ」
「うちは話す機会も手に入ったのに、何もできなかったの」
「お母さんはそれすら手に入れられなかったわ」
「うちは」
「もういいのよ。あなたはがんばってくれた。たしかに二人は死んじゃったかもしれないけれど。それでもきっとあなたは二人の心を救ったのよ」
「でも、死んじゃった」
「死んじゃったのはどうしようもなかったことなのよ。変えられなかったの。二人はそれでも知香に感謝していたはずよ」
本当にそうなんだろうか。うちがしてきた事はお姉ちゃんたちに救いになっていたのだろうか。
「だからね。お母さんはあなたを誇りに思う。本当にありがとう」
うちは声が出なかった。これが正しかったのか正しくなかったのかわからない。でも聞いたときに心が軽くなるのを感じた。
心が軽くなった分はきっとお姉ちゃんとお父さんの分だと思う。
出て行った心を取り戻そうとしたけど、どこにあるのかわからない。
なら、諦めるしかない。心が軽いほうが生きやすい気がするんだ。
「お母さん。そう言ってくれてありがとう。二人で生きよう」
「うん。そうだね。知香」
うちらは二人で生きる事にした。
二人だけで末永く。
ーーーー鈴木優ニーーーーーーーーーー
「今日は三回忌の帰りです」と佐藤知香は最後に言った。
私はさっきから心が痛い。
私は私の家族が本当の家族でないことを知らなかった。そして実は双子がいることも。また当然のごとく犯罪者の子供であることも知らなかった。
本当の家族でないから、家を出るときに引き止めなかったのか。
でもそんなことはどうでもよかった。それよりもこの人たちを傷つけてしまったことが辛い。
目の前で自分が不幸にしてしまった人たちを見るのが辛い。
「そうか。あの少女は死んでしまったのか。それにしても数奇な運命じゃな」と井伏じいさんが呟いた。
井伏じいさんは私が鈴木優二だとは気づいてないようだった。それも仕方ない。数年たって髪形も変えれば人はわからなくなるものだ。
「たまたま雨宿りで集まっただけなのに、鈴木優二によって人生を捻じ曲げられた人が集まっていたのか」と斉藤さんが言った。
あれから続けている清水という人生。根本さんにはずっとばれないでいて、お金ももらっている。高校生のときに、清水として居酒屋で斉藤さんに会ったときは驚いた。でも斉藤さんは気づかなかった。だから名刺を渡して新しく斉藤さんを見守ろうとした。
「もしかしてそこの若いのも鈴木優二にゆかりある人物なのか?おんなじ鈴木というしの」
「それだったらすごいですね。あなたの身の上も話してくださいよ」
「別に関係ないなら関係ないといって大丈夫ですよ。俺達がそろっただけですごいことですし」
「もしかして君、優二の兄弟なんじゃないか。よく見たら似ているし」
いろいろな憶測が飛び交う。でも違う。私は鈴木優二、本人だ。
本当は皆気づいているんじゃないか。気づいて知らない振りして私を追い詰めようとしているんじゃないのか。
「なんじゃ。黙ってないで何か言ったらどうなんじゃ。君が鈴木優二の弟でも何も言ったりはせん」
たとえこの人たちが私を追い詰めようとしていても、していなくても変わらない。
私はこの人たちに言わなければならない。
私があなたたちを苦しめた張本人だと。
張本人なんだと。
今までだって、私の被害者に会った事はある。でもいくら経っても慣れない。何で私だったのだろう。傷つけたかったわけではないのに。
言わなければならない。
「私は」
そこで言葉が詰まる。
「私は」
皆が固唾を呑んで見ている。
「私は鈴木優二です」
そう言った瞬間、場の空気が一気に下がった気がした。
誰も何も言わない。
ああ、本当に偶然皆ここで知り合ったんだ。皆驚いた顔をしている。私はその表情が怒りに変わる前に下を向いた。
私はどうやってこの人たちに償えばいいんだろう。
もし私がいなければ、斉藤さんはどうなっていたのか。
奥さんと別れる原因はなくなる。なら奥さんとずっと結婚生活を続けていたことだろう。
佐藤社長だって死ななかった。会社が潰れそうになる事もなく。当たり前の幸せの中で奥さんと笑って過ごしていたことだろう。
井伏じいさんはどうだろう。
井伏さんはきっと根本さんに関わらないままだった。なら孝治さんが植物人間になることもない。
私がいなければ、きっと遼太郎と孝治さんと仲良く暮らしていたんだ。
遼太郎は?
遼太郎はきっと佐藤知美さんと幸せになっていただろう。もしかしたら結婚していたのかも。そうしたら新しい命も生まれていたことだろう。私がつぶしてしまった可能性はどれだけ大きなものだったのだろう。
佐藤知香は家族を失うことはなかった。
そうだ。佐藤さんと佐藤知美さんは死ぬことはなかった。死ぬことはなかったんだ。
死。その言葉は重すぎて私は潰れそうになる。前に殴られたときは、どうして死んでしまったのかはわからなかった。でも今は違う。知美さんがどういう人かも知ってしまった。
私が殺してしまった。
私が。
私がいるだけで周りが傷つくなんて。ならいったい私はどうすればよかったんだ。
顔を上げられない。
皆はいったいどういった感情で私を見ているのか。どういった表情をしているのか。
あたりは静寂が包んでいる。
聞こえてくるのは雨音だけだ。
ぽつりぽつりと聞こえてくる音に、私はまだ雨が降っていたことに気づく。この雨のせいで私たちは集まってしまった。
この雨は死んでしまった人たちの涙か。なら彼らは何を望んでいるんだろう。
死んでしまった理由の答えあわせをするためなのか。私を生きている人たちの手で罰して欲しかったのか。
私は顔をあげることにした。このままでは何も変わらない。ちゃんと罪を、罰を受け入れることにしたんだ。たとえ償いようのない罪だとしても。
私は顔をあげる。
この場にいる四人は私を見ていた。
四人の優しくない瞳に、八つの力強い眼に私の目から暖かいものが落ちる。
暖かさは頬を伝い、私の元から離れた。
その雫はその日最後の空から落ちる雫となった。