表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あまやどり  作者: 二つ葉
2/3

中篇 井伏


ーーーー井伏一ーーーーーーーーーー



「それで、今日離婚届をだしてきたわけじゃな」とワシは言った。

「はい。いや、恥ずかしい話でした。今朝出してきて、そこで急な雨に降られて僕は本当に神様を怨んでいました。いつの間にかコンタクトもないし。なんで僕だけこんな仕打ちを受けなければならないんだって。でも、皆さんに話を聞いてもらって自暴自棄にはならないですみそうです」

 なんとも沈鬱な話だ。努力が実らない話なんて辛いもんだな。

「そうじゃな。まだまだ若いんだ。これから何度でもやり直しはきくじゃろうて」そう言いながら斉藤君の肩に手を置く。

 大人なのに小さな肩だった。こんな肩ではなにも背負えないのではないかと不安になる。でも彼はまだ若い。これから大きくしていけばいいんだ。

 ここに集まった5人の内3人はまだ若い人たちだ。この話を聞いてなんて言っていいかわからないような顔をしている。

 困惑するのも無理はない。次はワシが話すべきだろう。斉藤君の話を聞いてひとつ思い出した事がある。ワシの息子のことだ。

 斉藤君もワシも似ている結末を迎えてしまった。ワシの場合はそれでも英雄譚と呼べるものかもしれない。一人の少女の命を救ったからだ。

 それに懐かしい人の名前も聞いた。彼は元気でやっているのだろうか。ワシはここ数年間ずっと秘めていた話をする事にした。

「次はワシが話をしようかの」

「い、いえうちが話したいです」と少女も言う。たしか佐藤知香といったか。

「ふむ。どうしようか」

 彼女も何か話したい事ができたみたいだ。

 ワシみたいに何か思い出したのかもしれない。ワシの話は別に後でもいい。

「いや、俺たちは後にしますよ。まだちょっと混乱しているし。な、知香」

 少年、小川健太が佐藤知香を諭すように言う。それに知香は驚いた顔を見せる。まるで認めなくなかった事実を認めてしまったときのように驚いた顔をする。

「そうだね。うん、うちらは後に話します。もうちょっと冷静になってから話します」

「わかった。じゃあワシから話す事にしよう」

 そう言ってワシは話し始めた。

 外はまだ雨が降っている。屋根にあたってできる雨音は優しい音がしている。もう雨は弱くなったのだろう。この分ではすぐやむだろう。きっとワシが話し終えるころにはきっと。




 ワシの名前は井伏一。一と書いてはじめと読む。なかなか気に入っている。最近の子供はどうも外国人みたいな名前が流行っているというから、時代の流れを感じてしまう。外国との距離がワシが若かったころから随分近くなったのだろう。

 ワシの息子には典型的な日本人の名前をつけようとしていた。それこそ太郎や次郎といった感じだ。それを止めたのはもうずっと前に死んだワシの女房だ。そんな名前は古いなんて一蹴されてしまった。結局あれこれ考えて決まった『孝治』という名前になった。最後に『じ』なんぞついていたら次男と間違えられるだろうと反対していたのだが、その心配は杞憂だった。ワシらの間には一人しか子供が生まれなかったんだ。

 孝治はすくすくと育った。子供の時から優しいやつだった。捨て猫を拾ってきた数は数え切れないほどだ。家では飼うことはできないからお決まりの元の場所に返して来いと言っていつも突き放していた。それであいつはいつも同じ廃屋に猫を連れて行って定期的にご飯をあげに行っていたらしい。お小遣いをよくせがみに来ていたのも猫のためだった。

 優しいだけでなくさらに頭もよかった。あいつは猫缶を持っているときによく近所の人たちと世間話をわざとしていた。近所の人たちもえさをあげることをお願いするわけでもなく、ただ純粋に話をするだけだった。

 でもそれは効果覿面で孝治が廃屋の猫にえさをあげているのに気づいた近所の人はだんだんとえさをあげるようになったんだ。

 廃屋は猫ハウス的な扱いになって、野良猫は地域猫になった。

 困った人には声をかけて、病気の人なら看病してあげる。喧嘩や訴訟があればやめようとわりこむ孝治は雨にもきっと負けなかっただろう。

 だけどそんな孝治も成人してからちょっとしてある間違いをしてしまった。これは後に孝治から聞かされた話だ。

 ワシが事件を知ったきっかけは孝治の告白による。

「父さん。オレ子供できた」

 この言葉を聴くと世の中の父親は二分されることだろう。喜ぶか怒るかだ。喜ぶ場合はもちろん、子供が結婚していて幸せな家庭を築いている場合だ。反対の場合はいろいろあるだろうが、おそらく良くない恋愛事情な場合か家族の仲が悪い場合もあるだろう。

 ワシの場合は後者だった。まず孝治にそんな相手がいることすら知らなかった。

「相手は誰なんだ?」

「父さんも知っている人だよ」

 ワシはここ最近彼女を紹介された覚えなんてない。

「誰なんだ?」

「子供は産むらしい。可哀相だからだって。でも子供を産んでも、オレたちは結婚する気はないんだ」

 話が合わない。誰かを教える気はないのか。

 それにしても耳を疑いたくなるような話をする。産むけど結婚しないだと。

「お前それはわかっていっているのか?」

「わかっているよ。父さん。でもオレらの間には愛がないから」

「愛がないならなんで子供を作ったんだ!」

「しょうがない事だったんだよ」と言う。さっきからこいつは冷静で話している。

 ワシは今になって息子の育て方を間違えたと思った。あんなに優しかったのに、あんなに聡い子だったのに。いつからこんな間違えた選択をするようになったというんだろう。

「はぁ、詳しく話せ」

「もちろんそのつもりだったよ父さん。最初はある女性が暴行された事が原因なんだ」

「暴行だと?」

「そう、夜に男三人がかりでね」

 そういう事件か。胸くそ悪い話だと思う。同じ人間として恥ずかしくとも感じる。

「警察には言ったのか?」

「いや、言わなかった。彼女は壊れていたから。まともに話はできない状態だった。警察に話せることはまず無理だったし。これ以上付加を与えたくなかった」

 セカンドレイプという言葉がある。警察の取調べによる二回目の精神的なレイプの事だ。だからこういった暴行事件は警察に届出が出される事は少ないそうだ。それを踏まえて犯罪者たちは安心して暴行する事もあるらしい。なんていやな世界だ。

「まぁ、いい。それでどうなったんだ?」

「オレは彼女を助けたくて、慰めていたよ。いろいろな事を試したけど結果はあまり良くなかった。カウンセリングの人を呼んでみたりもしたけど、どうしようもなかった。それでついに限界が来た。彼女はオレに耐えられなくなったんだと思う。『優しさ』はときに残酷だから。彼女はオレを殴った。殴って殴ってそれでも抑えられなくなったんだと思う。彼女はオレの服を破いたんだ。オレは抵抗できなかった。彼女が切なそうに泣いていたからな。彼女は独りで汚れていたから、オレも汚そうとしていたんだろうな」

 ワシはなんていっていいかわからなかった。少しの間、静寂が走る。

「全てが終わって彼女は落ち着きを取り戻した。もともと強い人だったからというのもある。それで僕に『ごめん』って言ったんだ」

 やっぱりこいつは優しいままだった。子供のころから変わらずに優しいままだった。でも続きは聞きたくなかった。

「この事件はだいたい十ヶ月前に起きたんだ。それで昨日一つわかったことがある。彼女は身篭っていたんだ。彼女はかたくなに子供を産むつもりだったよ。子供に罪はないんだとそう言っていたんだ」

 彼女の覚悟は納得できた。

「そうか。でも本当に」

 お前の子なのか?だって違う可能性だってあるだろう。でもその言葉は口から発せられなかった。孝治はその可能性に気づいていただろう。そして彼女は子供をおろさない人だと知っていたから、わざと抵抗しなかったのかもしれない。

「本当に可哀相な事件だったな」

「ああ、まったくそのとおりだな。それで父さん、オレらの事を否定しないでくれ」

「産んだら、その子に会わせろ。初孫なんだから。きっとかわいい事だろう」

「ありがとう」と孝治は言った。

 この状況で否定できる人間がこの世にいくらいるだろう。ワシは息子たちの痛々しい人生に幸せを祈らずにはいられなかった。



 十月後、子供は無事に生まれた。ただし一人だけ。子供は双子だったんだ。双子の一人は死にかけていたと聞いた。もう一人の子のへその緒によって奇跡的に首を締められていたんだ。あまりの難産で母親は産んだ後気絶してしまったらしい。悲しい話だ。

 両方男の子の兄弟だったのに。弟は兄によって死んでしまった。

 母親となる相手は今になって知った。近所に住む孝治の同級生の子だ。可愛い子だった。家に遊びに来たこともあった。あの子がこんな辛い事になってしまうなんて。でも、我が子を抱いている顔を見たときに少しだけ安心した。若いのにちゃんと母親の顔をしていたからだ。

 子供の名前は母親が付けた。名前は遼太郎だ。『遼』という言葉には意味がある。ずっと遠くまで続くという意味だ。父親と母親そして天国の弟、遠く離れていてもオレらはつながっているという事らしい。なんともあの子らしい理由だった。

 これからあの子達は厳しい現実を受ける事になる。親が結婚してなくて生まれた子供、もしかしたら犯罪者の子供かもしれない。そうしたら本当の親は一生わからないだろう。さらに生まれた時に一人殺してしまった子供。血の分け合った兄弟を殺してしまった子供。厳しい世の中を渡っていけるよう微力を尽くす事を決めた。

 子供は母親が育てる事になった。だれも否定することなくその話は進んだ。孝治もワシも陰ながら支える事にしたんだ。だけど二つの決まりごとができた。一つは孝治が父親として経済的支援をする事。もう一つは子供に複雑なこの話をするわけにはいかないから、父親は死んだ事にして、孝治はその死んだ父親の弟という設定にした。

 孝治はこの出来事から夢ができたといっていた。それは教師になることだ。教師になって、息子の成長を三年間だけでも見守りたいという事らしい。叔父という設定なのだから普通に会えるだろうと思うのだが、微妙な心境らしい。いろいろと言っていたがワシには良くわかんなかった。

 それからというもの孝治はすごい大変だった。働いていた会社を辞めて、また大学に通いだした。当時は教師になるのはまだ簡単だったけど、また大学にいって勉強するなんてよっぽどの事じゃないとできない。それだけ孝治は真剣だったのだろう。

 そして10余年の月日が経つ。孝治は念願の高校教師となっていた。母親のほうは違う人と結婚してさらに子をもうけたらしい。しかし男運がないのか、その男性は交通事故にあって死んでしまった。

 今は近くのところに住んでいるらしい。たまに遼太郎だけをワシのところによこすぐらいだ。もう一人の子供は見た事がない。あんまり関わらせて子供に真実を知ってしまうきっかけを作りたくないのかもしれない。ワシのところによこすだけたいしたもんだろう。

 遼太郎は高校生になった。近くの通称『一校』に通う事になった。エスカレーター式で大学まで持ち上がりになる付属校と言うやつだ。しかし孝治はその学校にはいなかった。あいつは一校に赴任できなかったんだ。なんとも詰めが甘いやつだ。何のために教師になったのかわかりゃしない。あいつにそう聞くと『いや、教師はいい仕事だから後悔してないよ』なんて言っていた。強がりでいっている風でもなかったけど、ワシらのかっこうの笑い話になった。笑い話だと思っていたんだ。

 孝治はずっと優しいままで、賢いままだった。ワシはこのとき孝治が詰めをあやまるなんて事はしないと気づくべきだったんだかもしれない。



 高校三年になった遼太郎がわしの家を訪ねているときに訊いてきた。

「ねぇ井伏じいさん。ここらへんに住んでる優二ってやつ知ってる?」

「優二?聞いたことがないな。歳はいくつなんだ?」

「オレと同じ高校一年生だから17歳だよ」

「ふむ。やっぱり聞いたことがないな。そいつがどうかしたのか?」

「まぁたいしたことじゃないんだけど。どんな人なのか知りたかっただけだよ。それよりも孝治さんってあそこの高校の教師なんでしょ?」

「あそこ?ああ、あそこの県立高校の教師だよ。なんていったけあの高校?」

 孝治は近くの県立高校の教師だ。高校の名前は忘れたが。

「じいさん。ぼけないでよ。まぁオレも知らないんだけどね」

「それがどうしたんだ?」

「あそこにさ不登校がいるんだよ。オレの知り合いの女の子なんだけど。何とかしてくれと言うわけじゃないけど。こうよくしてくれないかなって思ってさ」

「ほほぉ」

 初々しい表情だ。ワシもこんな風に恋していた時期があるだろう。懐かしい思い出がめぐる。

 それにしても不登校とはまたひどい話だけど、味方がいるなら大丈夫だろう。

「なんだよ。オレは真剣なんだよ」ワシの表情が緩んでいたからだろうそう言った。

「すまんのぉ。ついな。ちょっと待っておれ。今日はたまたま二階に孝治がいるからな。呼んでこよう」

「なんかオレが来るときいつも居ない?」

「めぐり合わせがいいんじゃろうな」とワシはごまかす。親に似て聡い子だ。

 ワシは二階に上がって孝治を呼ぶ。

「おい。遼太郎が会いたいってさ」

「聞こえていたよ。すぐ行く」

 どこで聞いていたんだだろう。まさか盗聴か?

「盗聴じゃないからな。あんたらの声がでかいだけだからな」

 ワシの心を読んだかのように返す。ああ、怖い怖い。そのまま孝治は一階にすぐに降りていった。

「久しぶりだな。遼太郎」

「あ、こんにちは。孝治さん」

 親子の挨拶ではないなとワシは思った。やっぱり最初から話しておくべきだったんじゃないかとも思う。でもいまさら遅いのだろうな。

「話って何だ?」

「その、今一年生に不登校の子が居るじゃないですか?」

「ああ、たしか知美という子だな。お前の幼馴染だろ」

「そうです。知っていたんですか?」

「教師だからな。不登校の生徒ぐらい把握してるよ」

「オレは違う学校なのに、オレの幼馴染という情報もいきわたっているんですか?」

「いやいや、お前の母さんに訊いていたんだよ」

「はぁ、そういうもんですか」

 まったく見ているこっちが冷や冷やする。しっかりして欲しいもんだ。

「それで孝治さん。学校側はどう対応しているんですか?」

「はっきりいって学校側がなんかするのは難しいな。彼女は受験以降来てないから。中学校時代のいじめを引きずっているんだろう。いじめの原因がわからないんだ。お前は何か知っているんじゃないのか?」

「オレもわからないんです。そしてわからないままで何もできなかった。今は違う学校になってさらに接点がなくなってしまったし」

 そう遼太郎は寂しそうに言った。

「そうか。なぁお前ラーメン好きか?」

「え?えーと好きですが」

「食いに行くぞ」と席を立ちながら言った。

 ワシに話したくないことでもあるのか、まったくワシの子のくせにワシに気を使うなんて。

「なんじゃ。おまえら飯いくんか。じゃあこれをやろう」とワシは二千円札をだす。

「父さんありがとう。じゃあ行こうぜ」

「了解です。井伏じいさんありがと」

 といって二人で出て行った。玄関の向こう側で『今更二千円札かよ』という声が聞こえた。しょうがないだろう使いにくいのだから、消費できるとき消費したい札なのだから。

 それから数時間たって孝治が一人で帰ってきた。もう遼太郎は家に帰したみたいだ。すれ違っている親子の会話はもう終わったみたいだ。

「いったいいつまで続けるんだ?」とワシは訊いた。

「何が?」

「いつまで隠し通す気なんだときいているんだ」

「さぁね。このままずっとこうなのかも」

「いつか気づくときが来るんじゃないのか?あのこは結構察しがいい子だよ」

「とはいってもだよ。あいつは一回結婚したし、そいつとも子を産んでいる。旦那さんが死んでしまったのは残念だけど、それによってさらに秘密が濃くなったよ」

 なるほど。つまり亡くなった旦那さんが二人を産んだ事にするわけか。少し矛盾が発生する気もするけど、大丈夫なのか。

「じゃあ、今のワシのたちいちはどうなっているんじゃ?」

「暫定近所の仲いい爺さんかな」

「そうだったのか。そういうことは先に言ってくれ。何か失言してしまうかもしれないじゃろう」

「大丈夫さ。失言は老人がぼけたんだと思われるだけだよ」

「お前、言うようになったな」

 まったくあきれてしまう。いつのまにこういう軽い返しもできる年齢になっていたのか。

「まぁいいじゃないか。オレの関係はお母さんの幼馴染ってとこだよ。叔父さんからのグレードダウンがすごい」

「大して変わらないだろう」

「いやいや結構違うよ。だってもはや他人じゃん」

「そうだな。本当は父親なのにな」

 ワシの言葉は家の中に良く響いた。二人しか居ない家は少しさびしい音が響きやすいのかもしれない。

「ああ、父親らしい事はなんもできないけどな」孝治はぽつりとそう言った。

 その後、孝治は仕事があると言って二階に上がってしまった。ワシは一人遼太郎について考えていた。

 遼太郎はもう高校生か。恋も普通にしているのか。結局あいつは孝治の子なのだろう。性格が良く似ている。若いころの孝治そっくりだ。きっと不登校の件も勇敢な知恵でどうにか対処できてしまうだろう。

 いつか自分の出生について教えてもらうときが来るだろう。そのとき彼はまったくの無傷で受け入れられるのかが心配だ。お母さんにおきた凄惨な事件の副産物。それはお母さんにとって幸せなのか不幸なのかわからないではないか。

 考えている間に夜が来て、孝治と二人で飯を食べる。そしてまた明日が始まっていく。ひとまずはその不登校の子が復帰できることを願わずにはいられなかった。


 孝治は実をいうとずっと前から不登校になった知美ちゃんを対応していた。もちろん遼太郎の幼馴染だったからだ。しかし家に入れてもらえなかったのが現状だった。先生とはいえ赤の他人が一人で家に入る事を警戒していたんだと思う。

 だけど今日から遼太郎を含めた複数で向かえるので、本格的に進める事ができそうだという。孝治はおそらくこの件を通じて遼太郎と接点を持とうとしているのかもしれない。あんまりほめられた事ではないのかもな。その不登校の子をだしにしているという事だろう。

 ワシは孝治になにも問いただせなかった。ワシも遼太郎に言い出せない時点で結局のところ共犯者に過ぎないのだから。



 孝治たちが不登校の知美ちゃんをどうにか救おうとしているとき、ワシはある一人の少年と戦っていた。ワシが少年と戦っているのではなく、少年と一緒に社会について戦っていた。

 社会について戦っているなんていうとなにかの撲滅運動やデモ行進、もしくはテロなどと思ってしまうかもしれない。だけどワシらが戦っているのはおおきな社会ではなくて、影からちいさな誇りをまもろうとしていたんだ。

 共に戦った少年は清水という。どこかおちゃらけた風な青年だった。その青年は、16歳のようにも見えたし20歳のようにも感じた。年齢は最後まで教えてくれなかったから今でもわからない。

 おちゃらけているのは演技だとすぐ気づいた。飄々としているのに目はいつでも鋭かった。

 いろいろと辛い事を経験して人生を悟ったかのような人だった。清水と言う名前すら偽名に感じたけれど、それはさすがに免許証のコピーをだしてくれたので本名とわかっていた。

 しかしやはり生年月日の部分を指で隠しつつ見せてきたので、年齢はわからなかった。だけど自動車のところがあいていたのでおそらく18歳以上だろう。

 その飄々とした青年とであったのは、つい最近。それは3日前の事だった。

 青年は最初不思議な人だという印象だった。ワシは少し遠くにある大きな図書館に向かうため電車に乗っている途中だった。日中でまだそんなに混んでない電車で、ワシの真向かいの席に青年が座っていた。

 でかい図書館は栄えている場所に建っているからだんだんと電車は混み始める。残り2席が空席になったあたりだった。青年は駅について電車を降りた。ワシはなんとなく青年を見ていた。青年の行動は自然でだからこそ、ワシの目からは不自然に映った。

 青年は外を経由して隣の車両に移ったんだ。なんでそんな事をしたのか一向に理解できない。青年の席は埋まったしもう空席などはない。残り3席となった空席はぎらついた目の主婦やすばしっこいサラリーマンなどが座ってしまった。

 隣の車両で青年はドアに背をもたれかけさせて立っている。

 何がしたかったんだろうとワシはすごい疑問に思った。なんでわざわざ座っている状態だったのに隣の車両に移ったんだろう。あの動きは間違えて降りてしまった人が焦って電車に戻りたいけど、同じ車両に戻るのは恥ずかしいなんていう動きではなかった。ましてや近くにくさい人が居て、そのひとから逃げたいという動きでもなかった。あきらかに外を経由して違う車両に移る事を目的としていた。

 でもすぐに意味はわかった。ワシの近くで座っている男性が目の前に立っているお年寄りに席を譲ったのを見たからだ。

 多くの人はなんて美しい光景なんだろうというだろう。お年寄りをいたわっている優しさに感動するだろう。例外は老人と一緒に待っていたのにすばしっこく座ってしまったサラリーマンぐらいだと思う。彼はずっと携帯をいじくっている。

「ありがとねぇ」なんて言っておばあさんは感謝している。

「いえいえ、当然の事ですよ」なんていって男性は照れている。

「さすが、優しいのね」なんていって男性のおそらく恋人である女性が言う。

 なんて薄ら寒い光景なんだと感じた。このときの男性の顔をちゃんと見ている人が居ただろうか。このときの女性の顔をちゃんと見ている人が居ただろうか。おばあさんの顔をちゃんと見ている人が居ただろうか。

 『善は公けにした時点で偽善となる』と昔、誰かが言った、まったくそのとおりだ。せめて譲るなら最初からどいておけばよいのにと思った。だからやっと青年の意味がわかった。最初からどいといたんだ。席がいっぱいになる前に自分の分を空けといたんだ。

 ワシはなぜか恥ずかしくなった。そして青年をもっと知りたいと思って青年のいる隣の車両に移った。後ろでワシが座っていた席に、老人に席を譲るような『優しい』男性が座らせられている声が聞こえた。

 青年はワシが降りようと思っていた駅で降りた。わしは何気なく後ろを歩いていた。尾行と呼んでいいものなのかも知れない。この歳になってスパイになっているような気分を子供のように楽しんでいた。

 青年がけっ躓いた石が歩行者に当たっていた。自転車と対面して自転車が右によけようとしたら青年も同じ方向によけようとしていて、ぶつかりそうになっていた。車どおりの少ない道の赤信号に止まったら、後ろから信号無視しようとしていた自転車と衝突しかけていた。

 青年は不幸なのかもしれない。でも青年は怪我はしてなかった。どちらかと言うと青年に巻き込まれたほうが怪我をしている。急ブレーキの自転車がペダルにすねをぶつけたり程度のちいさな怪我だけど。

 青年はそれでも何もなかったかのように歩き続けていた。まるでこんなことは日常茶飯事な事のように進み続けていた。

 ワシは尾行を続けた。最初はただの好奇心だったけど、今はこの青年と話してみたくなった。どういう気持ちで生きているのか真剣に気になった。

 神様がこの世にいるとしたらなかなか意地悪なんだろう。この青年に苦労を背負わせることがすきなんだ。そしてワシにも施しと罰を与える。この後ワシはこの青年と話し合う機会が手に入る。だけどもう一つ厄介な人とも関わる事になる。

 青年は橋を歩いている途中だった。小さな橋で高さも幅もそんなない。安全な橋だ。それは後ろから猛スピードで車が来なければの話しだが。青年は何も悪くないはずだ。ただ間が悪い。青年が橋の端にあわててよけた先に、川を見てぼんやりしているサラリーマンとぶつかってしまった。サラリーマンは橋から頭から落っこちた。

 すごいミラクルだと思っていた。そしてこんなこともあるもんかとびっくりした。しかし、ミラクルよりもすごい事が起こった。青年はサラリーマンが落っこちた瞬間に上着を脱いで飛び込んでいたんだ。高さも川の水深も気にせず助けに行ったから驚いた。こんなことが、こんな人がこの世にいるなんて知らなかったから驚いていた。

 ふとわれに返ったワシはあわてて橋の元に向かった。下を覗くとサラリーマンを抱えて泳いでいる青年が目に入った。もう岸に着きそうだったから、ワシも岸にいそいで向かった。

「青年、大丈夫か?」

「え?あ、はい。大丈夫です。この人も気を失っているだけだと思います」

「一応、救急車を呼ぶか?」

「そうですね。呼びますか。じゃあお願いできますか」

 ワシに救急車を呼べということか。でもそれは無理な相談だ。

「ワシは携帯を持ってないんじゃ。だから青年、君がかけてくれないか?」

「あー、それは無理ですね」

「何でだ?」

「私の携帯は防水対応してないんですよ」

「では、まさか」

 こいつは上着は脱いでも携帯はポケットに入れたままで飛び込んだわけか。

「ですね。おそらく壊れています」といって青年はポケットから携帯を取り出して画面を見る。その後ワシにも見せててくれたが画面は暗かった。

 ワシらが携帯でもめているときに気を失っていた男性が目を覚ました。

「ここはどこだ?」

「ここは橋の下ですよ。さっき私があなたを突き落としてしまった橋があそこです」青年は言いながら上を指した。

「ああ、さっきのは夢じゃなかったのか」

 男性はそういってうつむいた。青年を怒鳴って責めるような人じゃなくて良かった。だって青年はまったく悪くないだろう。悪いのは狭い橋を猛スピードで走りぬけたあの赤い車。橋から人が落っこちてもそのまま通り過ぎた運転手だ。

「大丈夫か。一応救急車でも呼ぶか?」

「いえ、大丈夫です。そんなお金ないです」

「お金より自身の体を心配したほうがいいですよ」

 確かに青年の心配もわかる。こういうときはなんともなくとも一応病院で見てもらったほうがいい。しかし、ぼんやり川を見ていたサラリーマンがお金ないとか言い出すのはいやな予感がするな。

「お前まさか、自殺しようとしていたんじゃあないだろうな」

「自殺!いえとんでもない。そんな気はなかったですよ。ただぼんやりと、そう、もう死んでもいいかなとは少しだけ考えていましたけど」

「はぁ、やっぱりそうか」

「少しだけですよ。少しだけ」

「まぁいいじゃないですか、おじいさん。結局彼は踏みとどまっていたんですよ。私がちょっと押してしまっただけで、死ぬ気はなかったんですよ」

「とはいってもじゃな。お前何があったのか話してみろ」

 ワシは話を聞くことにした。そうしていればこの青年と話す機会にも繋がるだろう。早い話こいつの不幸話をだしにしてこの青年と話そうと思ったんだ。

「え、言うんですか?」

「ああ、話してみろ」

「じゃあ私はこの辺で」と青年が帰ろうとする。

「いや、まてお前ももう当事者だろう。残って話ぐらい聞くぐらいいいだろう。それとも急いでいるのか?」

「急いでいるわけではないですけど。その、このままだと風邪を引いてしまいそうで」

 確かに全身びしょぬれでずっといたら風邪などすぐに引いてしまいそうだ。だがどうする?このままでは電車にも乗れんぞ。

「そのでは、ワタシの家に来ますか?ここから近いんで。ワタシもこのままでは風邪を引いてしまいます。ワタシのでよければ服を貸しますので」

「ありがとうございます。えーと先ほどは突き落としてすいませんでした」

「気にしなくていいよ。川の水で少し頭を冷やす事ができたからね。自殺なんて馬鹿な考えはすっかり消えた気がするよ」

 皮肉なのか、お礼なのか良くわからない言葉だなとワシは思った。



 男性は根本と言う名前らしい。三十半ばのいい年齢だ。

 青年の名前もここで知った。ワシも自分の自己紹介をする。青年はワシの事を『井伏じいさん』と呼んだ。その声にふと誰かに似ていると思った。でもそれ以前にワシはもう普通の人から見たら爺さんと呼ばれる年齢なんだと自覚した。最近爺さんくさい発言をよくしてしまうこともある。瑣末な寂しさを覚えた。

 根本君に青年は服を借りて、着替えていた。根本君自身はもうとっくに着替えている。

「清水君大丈夫かね」

「あー大丈夫です。風邪引かないですみそうですねー」

「そうか、よかった。しかし迷いもなく飛び込んだのにはびっくりしたよ」

「ははは、そうですか。まぁお互い大したことなくてよかったですね」

「まったくだな」

 会話が上滑りしている気がする。つかみどころがない男だとワシはそう評価した。まぁこの青年と話したかっただけだったので、それから何をしたいかも考えてない。青年がワシに役に立とうが立たまいがもう爺さんとなった今では興味もない。

 問題なのはそれに付属して付いてきてしまったこの根本君のほうが問題だろう。

「根本君、じゃあそろそろ話してもらおうか?ワシらはもう関わってしまったのだから」

「たいした話ではないですよ」と根本は作り笑いを浮かべる。

「それはワシらが判断することだ。それに少しでも自殺を考えたほどだ、たいした話ではないだろうよ」

「えーとでは話しますね。ワタシじつは社長なんですけど」

「社長だったんですか!」と清水君が驚く。

 会社の数だけ社長が居るんだからそんな驚く事ないだろうとワシは思った。まぁしかし根本君は社長らしくないな。見た目や性格が社長と言う感じではない。どっちかといったら万年係長みたいな感じだ。

「小さな会社なんですけどね。それでどうもワタシの性格が弱いというかなんというか、社長に向いてないようでいろいろな責任が重くなってきてですね」

「そんなことで自殺しようとしたのか?」

「いえだから、本気じゃなかったんですよ。ちょっとフラッと考えてしまっていただけでして」

「はぁ、確かに弱いかもな」

 社長がこんなならさぞかし社員は不安だろう。

「あーじゃあ、私たちがなんとかしましょうか?」

 清水君がそう提案した。私たちと言うことはワシも数に入っているのだろう。

「わしもか?」

「ええ、だってもう無関係ではないのでしょう?」

「まぁいいか。年取ってから特にやることもなかったからの」

 年寄りになると時間がゆっくりと流れていく。働いていたころとは大違いにゆっくりと流れる。ワシは最近時間が余りすぎて暇になっている。それこそ電車で乗っている面白そうな若人を尾行するほどに。

「なんとかって、その、なんとかなるものなのですか?ワタシは今までずっとこうだったんですが」

「根本さん。いままで誰かにその性格を変えてもらおうとしましたか?」

「変わろうとはつねづね思っていたんですけど、誰かに頼むなんて考えた事もありませんでした」

「では、試してみる価値はありそうですね」と清水君は言った。

 試す価値も何もそんな簡単に変わるもんではないだろう。ゆっくりと時間をかけて変わり行くものだと思う。時間をかけるということは責任を負うということに似ている。たまたま遇っただけの男にすぐさま人生の責任を持とうとしている清水君にすこし恐怖を感じる。

 日々の不幸が青年をここまで異質なものに変形させるものなのか。他の人とは質が違う気がする。真っ直ぐなんだけど歪んでいるみたいに、青年の生きている世界自身が普通のものと違う。

 ワシはこの真っ直ぐに歪んでいる青年を見守る事に決めた。根本君よりこっちのほうが脆く儚そうだったからだ。



 根本さんの改造計画はすぐに始まった。清水君はまず根本君に大胆な社長のふりをするように伝えた。『性格は全体的な考え方の基盤だから『大胆な社長』というフィルターを通す事でその考え方に慣れ、最終的にそのフィルターを基盤に貼り付けるんだ』と清水君は言っていた。大胆な社長に完全になりきる事が大切なのだという。

「ふむ。ではこんな感じでよいな、清水くん。ふむ。なるほどワタシもこれで社長らしくなっただろう。清水くん。君は感謝しかない。」

 根本君の飲み込みは早かった。一時間後には威張り散らした社長のようになっていた。さっきまでの面影なんてもはやない。

「あーはい。やりすぎですね。完全にやりすぎです」

「いや、これでいいだろう。言葉や姿勢を変えただけでこんなに自信が溢れるものとはな。しらなかったぞ、清水くん」

「その、語尾に『清水くん』ってつけるのやめてくれませんかね」

「ふむ、ではなんと呼んで欲しいのだね?清水くん」

「社長、やっぱりストップです。やりすぎました。すごいあほっぽいです」

「ふむ。では、どのようにしたらいいんだね?」

「まず『ふむ』をやめましょう。すごいうざいです」

「う、うざいだって?」と驚いたような声を出す。

 確かにすごい『ふむ』がうるさかったとわしも思う。

「はい。すごいうざかったです。それと私のことは呼び捨てでいいです」

「呼び捨てか。じゃあさ下の名前はなんというの?いや、なんと言うのだね?」

「下の名前?下の名前はゆうです」

「ゆう?女の子みたいな名前だね」

「そうですねー。よくからかわれます」なんというか棒読みのような気もする。

 しかし清水君をからかうなんてすごい人も居るもんだ。この青年は今30歳強のおっさんに性格の指導をしているような人物なんだぞ。

「じゃあゆうと呼ぶことにしよう」

「やめてください。清水でいいです」

 本当に抵抗するように言った。からかわれたのは随分前で、もしかしたら幼少期のトラウマになっているのかもしれない。

「おう。そうか。じゃあ清水。いきなりだけど、ワタシのとこの会社で働かないか?」

「はぁー。魅力的なお誘いですね。まぁでもそういう話は後でちゃんと話しましょう。電話番号を教えますから」

「ワシにもついでに教えてくれ。清水君は本当におもしろい人だ」ワシはすかさず言っていた。

 今日限りの出会いのつもりだったのにいつの間にか連絡先を交換している。なぜか清水君とは強いつながりを感じるんだ。運命と言うやつかも知れんな。

 ワシは運命を感じたまま、目の前の光景を見ていた。根本君は必死に自分を変えようとしているし、清水君はそれをふざけながら正確に導いている。

 ワシはなんとなくさっきの電車で老人に席を譲っていた男を思い出した。彼は今何をしているのだろうか。そしてふときっとここは世界の中心なのだろうとも思った。

 世界の中心では台風の中心のようにきっと凪いでいるんだ。善も偽善も幸せも不幸もひっくるめて静かになっている。余計な感情が入っていないおかげなのだろうか。

 それにしてもここではあまりの静かさのせいで不安になってしまうではないか。不安で不安でいっそ嵐の状態に戻りたくなってしまう。

 この青年がこの世界の中心を引き連れているのだろう。だからこの場所から逃げ出せばいつものとおりの安定した嵐の中に戻れる。いつもの騒がしい世界になる。わかってはいるけれど、戻れなかった。

 この青年を先ほどゆがんでいると思ってしまったから。この青年は真っ直ぐで、ワシらの世界のほうがゆがんでいた事に気づいたから。

 ずっと凪ぎの状態な青年は何を思っていたのだろう。不幸であったのか幸せであったのか、目の前の光景からは推し量れなかった。



「長居してしまいましたねー。そろそろ帰りましょうか?」と清水がワシに訊いた。

 ワシはまだいてもいいと思っていたが、たしかに長居するのも迷惑だろう。ワシが返答する前に根本さんがワシらを引きとめた。

「別にまだまだいてもいいぞ。ある意味ワタシの恩人だしな」

「もう5時になっていますし、そろそろ帰ります井伏じいさんもいいですね」

「そうじゃな」

 ワシらは腰を上げながら言い合う。

「おう、そうか。これからなんか用事でもあるのか?」

「んー。特にないっすけどね。まぁこれからも会えるでしょう。電話番号も交換した事だし」

 こういうときはだいたい電話せずにこのまま一生会わないという場合が多い。清水君の言葉も社交辞令の一種なのだろう。そのことに根本君はきづいているだろう。

「そうなんだが。ちょっと待ってくれ。明日の日曜は暇か?」

「暇ですね」

「暇じゃな」

「おし、じゃあ明日もここに来てくれないか?」

「いいが、なにするんじゃ?」

「えーと、その」

 根本君は言いよどんだ。なんだなにも考えてなかったのか。きっとただこのつながりを保とうとしただけだったのだろう。

「そう、会社について相談しようと思って」

「私たちに会社の相談ですか?井伏じいさんはともかく私はまだ若いんですが」

「そう卑下するな。君はすばらしい慧眼を持っているよ。井伏さんはその知識を用いて、清水はその洞察力を持って助けて欲しいんだ」

 それをしてワシらに益はあるのだろうかと一瞬考えてしまったが、最近は暇もしている事だからやってもいいだろう。清水君の考えを知れるチャンスにもなる。今日限りとも思っていたが長い付き合いになるのも悪くはない。

 清水君はまたお調子者のふりをしながら賛成する。

「ま、暇だからいいですよー。明日はここに直接集合ですかね。昼ごろとかでいいですか?」

「もちろん。では待っているよ」

 これでワシらの一日目の集会が終わった。ワシらはこのとき清水についてちゃんと知っておくべきだったのかもしれない。今となってはかなわぬ思いなのだが。



 次の日、ワシは一時ぐらいに根本君の家に着いた。清水君は先に着いていた。仲良く二人で談笑している。ワシも早くくればよかったと思った。

「いやー、清水はおもしろいね。若いのにしっかりしている」

「そんなことないですよ。私なんてまだまだです」

 どうやらすっかり打ち解けているようだ。

「遅れて悪かったの」

「そんな事ないですよ、井伏じいさん。時間は詳しく決めてなかったですし、まだ例の会社の相談も始まっていません」

「そうか。ならいいんじゃが」

「じゃあ、みんなそろったところで、ここらで相談をしたいと思う」

 いったいどんな相談なのだろう。最初にあったときの雰囲気はもはや皆無だ。そんな彼にどんな悩みを抱えているのだろうか。

「実はですね、会社を辞めようと思っているんだ」

「はい?」

 おもわず清水君が聞き返していた。

「だから、会社を辞めようと思うんだ。やっぱりワタシは社長に向いてないからな。いちからどっかでやり直したいんだ」

「なんじゃ。昨日あれだけ社長らしい性格に矯正していたのにか」

「ええ、まぁ。昨日は目からうろこの連発でした。ワタシは新しい考え方を清水から教えてもらって社長らしくなろうとしてました。だけど気づいたんだ。こんなに影響を受けやすいワタシが社長でいいのかと。ワタシみたいのが社長らしくなるよりも、もっとすばらしい人がやればいいではないかと気づいたんだ。そうそれこそ清水みたいな人がね」

 まぁ確かに、根本君より清水君の方がふさわしいのかもしれない。しかしこれでいいのか。

「なんでしょう。昨日変えてはいけないところまで変えてしまったんですかね」

「違うよ、清水。もしかしたら君にはわからないのかもしれないな。世の中には役割ごとにふさわしい人がいるんだよ。それが昨日わかったんだよ。ワタシは必要とされないんだ」

「はぁ、さいですか」

 若干清水君は引いているように見える。たしかにおかしな方向に進んでしまったような気がしている。

「だから、ワタシはこの会社を辞めて、違う場所で一からやり直すんだ」

「今、働いている従業員はどうなるんじゃ?」

「他の人が社長になるか、会社自体をつぶすかしかないだろうからな。どうなるのか。ワタシが相談したいのはそこだよ。どうすればきれいに辞められるかを知りたいんだ」

 ワシは清水君をみた。どういう対応をするのだろうか。実際ワシはもうお手上げの状態だ。どうやって説得していいのかわからない。

「辞めてはいけませんよ」

「しかしだね」と根本君は続けようとしているが、清水君の言葉に上書きされる。

「途中で逃げ出してはいけません」

「逃げ出すわけではないよ。あたらしいスタートをきるんだ」

「スタートするならまずゴールテープを切ってください」

「ワタシがこの会社をつづけてもどうせ失敗するだけだ。それでも続けるのか?」

「失敗するまで続けるべきでしょう」

「社会には責任があるんだ。それにもう向いてないとわかっているんだぞ」

「逃げ出そうとしている人が責任とか言い出さないでくださいな。それに社長らしく振舞えるように性格を変え始めてるじゃないですか」

「そんな作った性格なんてうわべだけだ。本質はきっと変わらないんだ」

「だからなんだ。本質が変わらなかろうが性質が変わらなかろうが逃げてはいけないんだ」

 二人は少し熱くなってきた。清水君も声を荒げる事があると少し驚いた。なにか心の琴線にふれたのだろう。ここはワシが落ち着かせる必要があるな。ワシにも飛び火しないように慎重に話さなければ。

「まぁ、少し落ち着きなさい。たしかに逃げてはいけないな。そして根本君も社長にふさわしくないのかもしれない」

「そうだ、ワタシは向いてないんだ」

「清水くん。ちゃんと根本君の感情を考えてあげてくれないか。根本君はいま間違いをおかしている。三十すぎた大人だろうが間違えるときは間違えてしまうんじゃ。人間はな感情で動くんだよ。だから間違えをしてしまうのじゃが。彼の気持ちを理解して欲しい」

 こういえば清水君はワシの言いたいことがわかってくれるだろう。

 すぐに清水君は謝ってくれた。

「すいませんでした。根本さん。あなたの事を考えずに個人の意見を言ってしまいました。あしたあなたの会社に私も行きます。あなたの仕事をみて、どこまでやればゴールなのか見極めましょう。逃げ出すのではなくて、ちゃんと会社を辞めるためにね」

「わ、わかりました。そうですね。ちゃんとけりをつけないといけないんですもんね」と根本君は言う。今になって恥ずかしさが来たのかもしれない。彼は年下に説教をされているのだから。

「では、明日向かいますね。井伏じいさん、さっきはありがとうございました。冷静になれました」

「なに、別にいい」

 清水君はちゃんと理解してくれた。こういうときは歩み寄っているふりして、ゆっくりと社長を続けさせるように誘導するほうがいい。そのほうが確実に説得できる。

 こういう汚れた方法もちゃんと知っていて、さらに行う事ができるからこそ、清水君は真っ直ぐにゆがんでいる人間なのだろう。

「じゃあ、今日はちょっと空気が悪くなったんでお開きにしますか。まだ全員が集まってから1時間もたってないですけど」と清水君は提案した。

「そうじゃな。ワシはかまわないが」

「すいません。ワタシのせいですね。明日お願いします」

 そのあとワシらは会社の場所を教えてもらってから、本当にすぐ帰った。家を出てから清水君がワシに話しかけてきた。

「このあとお暇ですよね。近くのカフェにでも行きましょうか」

 清水君がそういわなかったらワシから提案していただろう。お互い同じ考えを持っていたのか、清水君に読まれていたのか。

「そうじゃな、そうしよう」

 ワシらは近くのカフェに向かった。カフェに行く途中は終始無言だった。

 カフェは5分ぐらいで着いた。おちついた雰囲気のあるカフェで、流れる音楽もゆったりとしている。流れる時間すらもゆっくりとしているのかもしれない。ワシらは窓際の席に座った。

 他に客は数人程度しかいない。新聞をよんだり、パソコンをいじったりしている。店員が来てブレンドを二つ頼んだあと、ワシらは今後について話す事にした。

「根本さんがあんな事言い出すとはね」

「予想していなかったのか?」

「ええ、まったく。昨日の社長らしい性格になる努力を真面目にやってましたから」

「たしかにそうじゃな。ところで根本君は君を次期社長にしようとしている事に気づいているのか?」

「やっぱりそうなんでしょうか」

「そこは確実じゃろう。そうでなければワシらを明日会社に入れさせることを許可しないだろうからの」

「あったばっかりの人に何をやらせようとしているのか、まったく」と清水君はあきれた声を出す。

「それほどまでに君に感服してしまったんだよ」

「私にそんな魅力はないと思いますけどねー」

「それは謙遜かな。君は普通の人にはない何かを持っているよ。ワシにはそう感じるさ」

「そんな事をいうなんて不思議な人っすね。ちなみにどんなものを持っていると感じますか?」

「君は誰かを不幸にしてしまう人なんだ。それでも『優しい』人だ」

 ワシはついこう言ってしまった。彼自身気づいてないことはないだろう。でも触れて欲しくないところだったかもしれない。でも彼はワシの想像とはぜんぜん違う事を言い出した。

「あーやっぱり昨日、私のことを尾行していたんですかね?」

 ぎくりとした。気づいていたのか。

「何のことかわからないな。ワシは君が優しいといっているんだ」

「そうですか。ありがとうございます」

 尾行の事はこれ以上言及されなかった。清水君も憶測で言っただけだったのだろう。

「この話はまた今度ちゃんと話そう。今は根本君のほうをどうするか決めないと」

「うーん。まぁ明日、会社の現状を確認しないとなんともいえないですね」

「清水君は何が問題だと思うんだ?」

「問題といいますと?」

「だから彼が社長を続ける上で解決しないといけない事だよ。性格だけではないだろう」

 清水君は考えるようにブレンドコーヒーを飲んだ。ワシもつられてコーヒーを飲む。コーヒーは深みがあり、香りもありかなりおいしかった。この店はあたりだな、覚えておこう。

「このコーヒーおいしいですね」と清水君は言った。ワシの顔から悟られたのだろう。

「そうじゃな」

 コーヒーをもう一口飲むと清水君は先ほどの質問に答えた。

「さて、話を戻しますが、問題はお金と責任ですかね」

「お金と責任?」

「ええ、彼が橋から落ちた後に言っていたじゃないですか。お金がないと。さらに責任が重いともね。彼はきっとそれらから逃げたいがために私にすがったんですよ。ちょうどよくあらわれた私に、井伏じいさんの言葉を借りるなら、感服してしまったんです」

「なるほど。でもじゃあ難しいな。根本君はきっとそのことに気づいてない」

「私たちが教えるしかないんです。社会に出ている以上、お金と責任からは逃れられないという事を。ここで逃げてしまったらこれから先も逃げる人生になってしまう」

「それはなんともつらいことじゃな」

「私たちが何とかするしかないでしょうね」

 ワシらはこうして根本君を助けることになった。

「ところで清水君。明日は月曜だけど、大丈夫なのか?」

「あーはい。大丈夫です。心配しなくていいですよー」と言う。断言されるとこれ以上言及できない。この青年は普段何しているのだろう。まさかフリーターというやつなのだろうか。


 そのあとワシらは何気ない会話をして夕方になってから別れた。

 明日は会社の最寄り駅で根本君を待ち伏せしようということにした。先に根本君を行かせて、社員の前で先走って辞めますと言わせない為だ。



 翌日、久しぶりにスーツを来て会社の最寄り駅に向かった。根本君の家から15分ぐらい電車に乗ったところにある。ワシの家からのほうががずいぶん近い。歩いても行ける距離だ。

 駅に着くとスーツを着た清水君がいた。スーツを着慣れていないようだ。こうみるとかなり若く感じた。本当はかなり若いのか?

「おはようございます」と清水君は丁寧に挨拶してきた。

「おはよう。根本君はまだきとらんようだな」

「ですね。まだ来てないです」

「ところで、ワシらはどういう設定で会社に案内されるのだろうか」

「おそらく、私は新入社員というかんじでしょうか。井伏じいさんは何でしょうね、コンサルティング会社からの派遣ていうかんじですかねー。私もそれでもいいですけど」

「そんなてきとうでだいじょうぶなのか」

 すこし不安になってきた。社会というのはそんな甘くない。イレギュラーを嫌う傾向がある。

「堂々と振舞っていたら大丈夫でしょう、きっと」

「だといいんだがの」

 もうここまできたら腹をくくるしかないか。

 ワシがそう考えていると、根本君が改札を通るのを見つけた。

「きたぞ」

「ですねー」

 早速根本君に声をかける。

「おはようございます。根本さん」

「おはよう。清水。井伏さん。こんなところで待っていたのか。会社のほうで待っていて良かったんだが」

「待っていたわけじゃないですよー。たまたまです」と清水君が嘘をつく。

「そうか。じゃあとりあえず向かうか」

 嘘だと気づいてないようだ。それほどまでに信頼していると思うと寒気がする。少しは疑いを持ってもいいものだろうに。

 ワシら三人は会社にむかった。玄関を開けて根本君を先頭にして中に入る。先に着いていた人たちが訝しそうな目でワシら二人を見ながら根本君に挨拶してくる。その中でおそらく代表して一人が近寄ってきた。すこし上の立場の人なのかもしれない。

「社長、おはようございます」

「おお、おはよう」

「その社長、彼らはいったいどちらの」とワシらのことを尋ねる。

「彼らは、その」

 と根本君は言いよどむ。まさか何も考えてなかったのだろうか。清水君といい根本君といいなんて大雑把なんだろうか。まぁワシもなにも考えてなかったから何もいえないのだが。

「私は清水と申します。根本さんにこの間お知り合いになって、紆余曲折あって少しの間お世話になる事になりました。よろしくお願いします」

「はぁ、よろしく」

「ワシも似たようなもんじゃ。ワシの場合は新入社員じゃないがな」

 ここは適当な事を言って場を逃れよう。清水君もぼやかして言っていることだ、それに乗っかる事にしよう。

「えーと、そうなんですか」

「そういうことだ、あまり気にすんな。いろいろあったんだよ」

「はぁ」社員は困惑した顔になっている。

「みんなも彼らのことはあんまり気にしなくていいぞ」と根本君が声を大にして言う。

 社員の多くはやはり困惑した顔を見せる。なにをそんなにうろたえているのだろう。

「その、社長?」

「なんだね」

「社長、その。口調が変わってませんか?っていうか性格も変わっているような気もするんですが」

「ああ、それもいろいろあったんだ。まぁ気にするな」

 そうか社員は根本君の変化を知らないのか。それは混乱しても仕方ないだろう。急に性格が変わった社長がよくわからない人たちを連れて出勤してきたら誰だってパニックになる。

「いろいろあったんだ。気にしないでくれ」

 根本君は繰り返してそういって、みんなの好奇心をむりやり封じる。根本君のその一言で社員は考えるのを一旦やめて仕事をすることにしたみたいだ。

「えーと、そこの若いの。清水といったか。パソコンはできるのか?」とさっきの社員が清水君に訊いた。

「あ、はい。一応できますが」

「じゃあはいこれ」と書類を清水君に渡している。

「これをどうすれば?」

「ここの数字あるだろ?ここをこのファイルの」と説明をし始める。清水君は完全に仕事を任せられていた。

 ワシは逃げるように根本君のデスクに向かった。この年になってまでお金にもならない仕事を押し付けられたくなかった。

「清水君が仕事まかせられているんじゃが」

「まぁ、いいんじゃないのか」と根本君はうれしそうだ。本当に清水君を次期社長にしようとしているのだろう。それはかなわぬ夢なんだがな。

 清水君はこの状況では仕事から逃げられないだろう。仕方ないからワシは清水君の分まで調べる事にした。昨日のカフェでの話し合いでは、お金と責任が問題であるとワシらは結論づけた。

 ワシはとりあえず、この会社の現在の金銭面を調べる事にしてみた。

 調べてみるとわかったことがある。かなり大変な状況だ。この会社は半導体などの下請け会社なんだが、どうもうまく回ってない。競争が厳しい業界なのだろう。

 調べ始めて一時間がたったころ、ある訪問者が来た。

「社長、佐藤さんがお見えになりました」

「佐藤さん?佐藤社長のことか。アポもなしに急になんの用なんだ?まぁいい。とりあえず通してくれ」

 そういわれた社員は駆け足で玄関のほうに向かった。程なくして、優しそうな男性が中に入ってきた。社内に緊張が走っているのがわかる。いったいどんな人なのだろう。

「ひさしぶりだね。根本くん。急に悪いね。たまたま近くを通ったから寄ってみただけなんだけど」

「そうか。いきなり来たから驚いてしまったよ。何も用意してなくて悪いね。まぁお茶ぐらいだそう。おーいだれかお茶を持ってきてくれ」

「あれ、根本くん。前とぜんぜん違うね。こう性格が180度違うようだけど」

「ああ、いろいろとあったんだよ。まぁ気にしないでくれ」と疲れたように言う。

「ほう。そうなのかい。どんな事があったのか気になるね」

「悪いけど、一応今仕事中なんだ。そういう話がしたいなら、また今度にしてくれないか?」とそっけなく言い放つ。いまいち二人の関係性がみいだせない。

「お茶用意しましたー」と清水君が間に入る。仕事を抜け出したのか。

「おお、ありがとう。あれ?遼太郎くん?なんでここにいるんだ?」と佐藤社長が驚いている。

「えーとだれかと間違えていませんか?」

「ああ。ごめん。ちょっと知り合いに似ていたから。よくみたら違うし、それに遼太郎君はまだ高校生だしね」

「へぇ、そうなんですか?」

「そう。家が隣の子なんだけどね。娘の幼馴染でさ」

 佐藤社長は雑談を始めている。清水君もちゃっかりと座って話し合う体制をとっている。お茶も3つ持ってきているので最初からそのつもりだったのかもしれない。

「娘さんはじゃあいま高校生なんですね」

「そう。まぁ娘の話はいいよ」と顔を曇らせる。娘とうまくいってないのかもしれない。年頃の娘は難しいものと聞いた事がある。ワシの場合は息子が一人しかいないからその経験がない。息子は息子で苦労したもんなんだがな。子の難しさを思っていると、清水君に仕事を押し付けた社員の人が来た。

「おい新入り。なんでこんなところで茶をのんでいるんだ?仕事は終わったのか?」

「あ、終わりました」

「お前な、終わったわけないだろう。まだ一時間しかたってないんだぞ。適当なこと言ってないで仕事してくれ」

 これだから最近の若いやつはなんていいながら社員は自分のデスクに戻っていく。

「なんだ、君は仕事サボっているのかね」

「いえ、ほんとに終わっているんですけどねー」

「ほう。そうなのか。だがさっきの人は一時間で終わるわけがないみたいな口ぶりだったぞ」

「あー、かなりがんばったんです。だから今はちょっと休憩しているんですよー」

「はは、そうか。じゃあゆっくりと休憩するがいいぞ」

 佐藤さんと清水君はすっかり打ち解けているようだ。しかし本当にこの佐藤さんは何しに来たのかわからない。根本君は清水君が来てから退散して自分の仕事をしている。いまでは自由奔放な二人が残っているだけだ。

「それで、さっきの遼太郎ってどんな人なんですか?」

「遼太郎か。遼太郎は今一校に通っていてな。優しい少年なんだよ。それに頭もいいんだ。あいつなら娘をまかせてもいいな」

「ほー。すごい高評価ですねー」

 もしかしてとワシは思った。それはワシの孫の遼太郎なのではないか。ワシは実際に聞いてみることにした。

「それはもしかして小川遼太郎のことか?」

「そうです。ご存知なのですか?」

 一応複雑な事情があるからワシの孫と言うことは伏せておいたほうがいいだろう。

「まぁの」

 佐藤さんの娘のことは何も知らない。佐藤という子の名前は遼太郎から何も聞いたことはないし、孝治だって知らないだろう。

 でも佐藤さんは娘さんのことについては知っているか聞いてこなかった。変わりに違う事を聞いてきた。

「それにしても、根本社長の変わりっぷりには驚いたな。いったい彼に何があったのだろう。えーと、前にあったのは3ヶ月前だから。ここ数ヶ月で性格が変わったのか。奇跡でも起きたのかね」

「佐藤さん。三ヶ月で変わったんではないですよー」

「どういうことだ?ああ、なるほど一ヶ月とか二ヶ月と言うことか」

「ちがいます。一日で変わりました。まぁやりすぎた面も少しありますが」

「一日!なんだ?本当になにが起きたんだ?」

 佐藤さんが驚きを隠そうともせず清水君に詰め寄っている。清水君は一昨日のことをかいつまんで説明した。

「君が根本社長を変えたのか。そういうのは簡単にできることじゃないよな。君はカウンセラーの資格とかを持っているのか?」

「私は資格とかそういうのは持ってないですけど、前に興味を持って調べた事はあります。他にもいろいろな知識を組み合わせて根本さんを助けてみようとしたんです」

「いろいろな知識とはいったい」

「そうですね。心理学とか医学とかそういったことですけど。まぁ全部かじった程度の知識なんですけどね」

「ほう。でも実際、根本社長は大胆な性格になれている」

 佐藤社長は目を細めて清水君を見た。まるで値踏みするように。清水君の可能性を調べていたのだろう。

「君、仕事は終わったんだっけな」

「はい。とりあえず先ほど与えられた仕事は終わりましたけど」

「ついて来てくれ」

 そういうと佐藤さんは根本君のところに向かい、あの若いの借りるぞと言った。

「佐藤社長、あなたいったい何しに来たんです?」

「最初から言っているだろう。たまたま近くに来たから、寄ってみただけだって」

「はぁ。そうでしたね。でも、かってにうちの社員を使わないで欲しいんですが」

 もう社員扱いなのか。ワシがあきれていると清水君が根本君をよんで内緒話をし始めた。近くによって聞き耳を立てるとどうやら例のゴール地点の話のようだ。

「根本さん。あなたが社長を辞めるときのゴールですが、こうしましょう。あの佐藤さんところから今の三倍取引するというところまで持っていけばゴールということで」

「三倍。さすがに無理じゃないか?」

「今、この会社は表面上成り立ってますが結構危機に瀕してますよね。おそらく助けてくれるのは佐藤さんとこだけでしょう」

「まぁたしかにそうかもしれないが。だがな」

「じゃあそういうことで。とりあえず私は佐藤さんに恩を売っときますね。私になにかさせたい事があるようなので」と根本さんの意見も聞かず強引に話を進めている。

「お、おい」

「なんですか?ああそうだ。さっき押し付けられた私の仕事はちゃんともう終わっているんで、あの人に伝えといてくださいね。では、また後ほど」

 根本君を振り切って清水君は佐藤さんのところに向かった。

 根本君は苦悩の表情をしている。今後の計画をたてているのだろう。

「もう内緒話はいいのか?」

「大丈夫です。では、どこに行くのか知りませんがとりあえず行きましょうか」

 佐藤さんと清水君は外出するみたいだ。ここで根本君を見ていてもいいが、あっちのほうがおもしろそうだ。佐藤さんたちについていくことにした。


 ワシの同行を最初佐藤さんはためらっていたが、清水君が『二人で根本さんを変えたんです』というと、歓迎されるようになった。

 どうやらあまり多くの人に触れさせたくない内容なのだろう。

 案内されてたどり着いた場所は、佐藤さんの家だった。佐藤さんの家はまだ新築といえるぐらいにきれいな一軒家だ。

 ワシらは家に着いた後、居間に通された。家の中は静かでまるで誰もいないかのようだった。

「今、母さんは学校に行っててね。ちょっと待ってくれ、お茶を用意するから」

 佐藤さんは台所に向かって、戸棚を片っ端から開ける。お茶の置いてある場所を知らないのだろう。きっといつもは奥さんが用意しているのだな。

「別に、お茶は出さなくてもいいっすよー」

「ワシも別にかまわん」

「大丈夫です。すぐ見つけますから」

 それから五分は台所と格闘した。やっとのことで見つけた茶葉を、途中で沸かし始めてもうすでに沸騰しているお湯と急須に入れる。

 お盆に急須と湯飲みを載せて、佐藤さんが戻ってきた。それからやっと話が始まった。話の内容は重くお茶がなかったら耐え切れなかったかもしれない。

 話の内容は簡単に言うと、娘が引きこもってしまったからどうにかして欲しいという依頼だった。カウンセラーを以前呼んだこともあったが、役に立たなかったらしい。

 学校の先生もやっと本腰を入れてくれるようだけど、いままで放置していた分いまいち信用できない。最近若い男の先生が来てくれるがどうも裏がありそうで怖かった。

「今日母さんが学校行っているのは、娘の事だけどいったいなにを言われているのだろうか」

「でも、私たちより学校のほうが信用できるのではないですか?」

「そうかもな。でも君にはどこかビビっとくるものがあるのだよ。僕はこの直感を信じたい」

 佐藤さんはもしかしたらかなり疲労しきっているのかもしれない。清水君は確かに何か人をひきつけるものがあるが、出会ったばっかりの人にここまで信用していい訳がない。これでは根本君みたいだ。

「わかりました。やれることはやってみましょう」

「本当かね?」

「ただし、条件があります」

「なんだ?なんでもいいぞ」

「根本さんの会社を助けてあげてください。あなたのところともっと太いパイプでつながっていればあそこは安泰でしょう。ただし、簡単に助けないで、根本さんにある程度の試練を与えてあげてください。これが条件です」と清水君は笑みを浮かべながら言った。

「不思議な注文だな。もともと根本社長のところとはそうするつもりだったが、試練を与えるとはいったい?」

「なんでもいいです。そこらへんは適当に」

「まぁわかった。じゃあはやく娘の事をよろしくお願いします。今二階にいるんで」

 二階に居ると聞いたら、さっきまで人の気配がまったくなかった二階から、重々しい空気が伝わってくる感じがした。

「その前に詳しい話を聞かせてください」

 こうして根本君を助けるために、佐藤さんの娘を助ける事になった。



 『娘はおそらく中学生のころのいじめを引きずっていんだと思う』と佐藤さんは言っていた。それで高校生になっても引きこもっているんだと。中学生の頃になんでいじめられたのかは知らないらしい。

 ご飯は朝と夜は食べるけど、昼は食べないらしい。風呂とかも深夜入っているのだとか。話しかけても無視されてしまう。カウンセラーでさせ無視されたらしい。

 ドアは鍵がついてるし、強行突破しようにも向こうになにかつっかけてあってびくともしないんだとか。窓にもいつのまにか鍵がついていたというから本格的だ。

「娘は、かたくなに心を閉ざしています。一体どうすればいいんでしょう」

「んー。とりあえず窓を見ていいですか?」

「窓ですか?でもカーテンがしてあって中は見れないですよ」

「まぁ、いちおう確認としてね」

「そうか。窓なんて誰も気にしてなかったし、なにもないと思うんだが」と言いながら席を立って案内してくれた。

 彼女の部屋は二階だから、窓も当然二階の高さにある。隣の家の窓の向かいにあって窓を覗こうとしたら、隣の家に協力を仰がないといけない。

「隣の家とは仲いいのですか?」

「まぁ、仲はいいほうだろう。ほらさっきの遼太郎君の家だよ。娘の向かいのところは遼太郎君のお母さんのところだったかな。近くで確認したいのならたぶんの協力してくれるだろう」

「なるほど」

 清水君は納得した顔を見せる。いったい何に気づいたのだろう。

「なにかわかったのか?」

「ちょっと確認してきます」

 そういって、清水君は遼太郎君の家の裏手に向かった。協力を仰ぎたいのなら表からいけばいいのに。

 程なくして清水君は帰ってきた。

「すいません。娘さんの写真見してくれますか?」

「まず、説明してくれ。なにがわかったんだ?」と佐藤さんが訊く。

「んー。まだ確証がないんです。だから説明はちょっと待ってくださいな」

 佐藤さんは『わかった』と言って、しぶしぶ引き下がった。こういわれてしまったら待つしか手はないだろう。

 ワシらは居間に戻って、アルバムを見ていた。遼太郎のわしの知らない昔の写真をみれた。それだけでここに来た価値があるというものだ。

「アルバムではなくて、ここ最近のはありますか?高校の入学式とか」

「ないな。中学は不登校で高校も特別入試だった。高校のときの写真はないよ」

「そうですか。ではこの中学校のが一番最新なんですかね」

 清水君が一枚の写真を指差しながら言った。そこに写っていたのは、制服姿のかわいらしい顔の少女だった。今風の少し長めの髪型の少女は泣き黒子が特徴的だ。唯一固く結ばれた唇が彼女に起きたいじめの辛さを表しているようだ。

「そうだな。それが一番新しいだろう」

「そうですか」

「なぁそろそろ娘を説得してくれないか?」と哀願した声をだす。

「すいません。それは無理そうですねー」

「なんだと?なぜ無理なんだ。やってみるってさっき言っただろう」

「やれる事はやるって言ったんですよ。説得は無理ってだけです」

「じゃあどうするんだ?あきらめろとでも言うのか?」

「もちろん、あきらめませんよ。ただ今日はもうやれることはないでしょうね。明日また来ます」

「おい、ちょと待って。もう帰るのか?本当に何もできないのか?」

「はい。もう帰りますよ。そして準備して明日また来ます」

「準備だと?」

「準備です。本当にまだ憶測な状態なので、なんの準備かも話せないですねー」

 清水君はさっきから話せないの一点張りだ。何に気づいているのか、帰り道ワシには話してくれるだろうか。

「わかった。わかったよ。君はカウンセラーでも僕ら親にも気づけなかった何かに気づけたんだろう。だったら僕はもう君に任しかないじゃないか」

「はい。私に任せてください。佐藤さんも根本さんの件のこと忘れないでくださいね」

「わかっておる」

 佐藤さんは複雑な表情で僕ワシらを見送ってくれた。それも仕方のない事だろう。助かるのか助からないのか、窓がいったい何なのだろうか。気になる事は教えてくれず、また明日なのだから。

「なぁ清水君。窓がいったいなんだったんじゃ?」

「井伏じいさんは気づかなかったんですか?」

 質問を質問で返されても困る。ワシはいったい何を気づかなかったのか。

「なんにじゃ?」

「家が静か過ぎたことにですよ」とこともなげに言う。

「家が静かだからなんだ。まさか娘さんが家に居なかったとでも言うつもりなのか?」

 家にいない引きこもりなんて矛盾している。ワシは笑わせるつもりでそう言ったのだが、

「そのとおりですよ」

と言う言葉にワシの顔が引きつった。

「どういうことだ?」

「いやー、簡単な話ですよ。昼だけご飯を食べない、言葉を無視する、ドアにバリケード、窓にも鍵をつける、これらの正体は家に居ないからなんですよ」

「まさか、では窓から外に出ていたのか?」

「おそらくそうでしょうね。それで遼太郎さんのお母さんの部屋に移って裏手から出て行ったのでしょう。そのお母さんがなぜ協力しているのかがわかりませんけどね」

「でも家に人が居たら、気づかれてしまうじゃろう」

「おそらく居ないときを狙って外に出ているのでしょう。戻るときも同じです。もし、佐藤さんたちが帰ってきてもどれないようなら、外泊していたのだと思います」

 ワシは思わず絶句してしまった。最初の佐藤さんの説明でこの可能性を想像したのだろう。

「そうだったのか。それはわかった。だが準備とはなんだ?」

「準備は二つあります。一つは盗聴器発見器を手に入れること」

「盗聴器発見器?」

「まぁ盗聴器発見器でなくとも、盗聴器の知識を手に入れれば大丈夫でしょうね」

「あの家に盗聴器があったのか?」

「はい、不自然なコンセントがありました。盗聴器の実物を見たことはありませんから確証はないんですけど。もしあれが盗聴器ならば、彼女はなぜそうしたのかを知らなければなりません」

「娘さんが仕掛けたのか!」

「現状を考えるに他の人の可能性は低いですねー」

 外出して盗聴する娘、たしかに佐藤さんには言いがたい内容だな。

「でもまぁ、私の勘違いと言う場合もありますし、指摘せずに盗聴器発見器で確認できたらいいなと思いまして」

「まぁそうじゃな。なんにせよ慎重に動く必要があるな」

「はい。焦りは禁物でしょうね。それでもう一つの準備なんですが、娘さんに接触しようと思っているのです」

「どこに居るのかわかったんか?」

 ワシは驚きを隠せなかった。居場所がわかったんなら逃げられないうちに早く向かわなければ。そこで説得をして、いやまず話を聞いて納得したい。

「残念ながら場所はわかりません。それがわかったら苦労しないです。私が提案したいのは待ち伏せです」

「なるほど、つまり遼太郎家の裏で待っているという事じゃな。よし、じゃあ早速待とう」

「行動力があるのは結構ですが、おそらく今は帰ってこないんじゃないですかね」

「なんでじゃ?」

「さっき、私が裏手に回ったとき、きれいな女性とすれ違ったんですよ。茶色いショートカットが似合っている人でした」

 それがなんなんだろう。警察や探偵などその類の人が探っているのだろうか。だとしたら何か事件が起こしてしまったのかもしれないと言いたいのだろうか。だが清水君の言いたい事はそうじゃなかった。

「その女性は泣き黒子が特徴的でした」

「娘さんが居たのか?でも娘さんは長く黒い髪だった。引きこもりが染髪などしないじゃろう」

「だから引きこもってないんですよ。それに、あれはかつらだと思います。状況に応じて使い分けているのでしょね。髪型を変えて化粧も施せば実の親である佐藤さんとすれ違っても気づかれないと思います。『娘に似ている人がいるな』ぐらいの感覚でしか感じないでしょう」

 佐藤さんの娘さんの行動はもはや狂気なぐらいだ。なにがそんなに彼女を駆り立てているのだろう。

「中学のときのいじめは本当にあった。でも高校の引きこもりは彼女の自演であるというのが僕の憶測です。これからちゃんと確かめないといけませんね」

「そうじゃな。根本君の件もあるが、こちらも想像以上に大変な事態だ。何とかしなければ」

「がんばっていきましょう。この世界で私たちしか気づいている人がいないなら、それは私たちがやらないといけないことでしょう」

 清水君の言葉は鉛みたいに重い責任をまとっていたが、わしはその言葉を飲み込んだ。それは仕方ないことなんだ。誰かの『優しい世界』をつくるためには誰かが重くならなくてはいけないんだ。

 そう気づいたのは還暦を過ぎてから、ワシは少し遅かったのかもしれないと思った。


 二人で見張るのは無駄が多いのでワシらは話し合って担当を決めた。今日の担当は清水君で明日の担当はワシだ。明日はワシ一人で佐藤さんのところに向かい、清水君は根本さんのところに行くらしい。

 近くの電気屋には盗聴器発見器は置いてなかった。需要の数が少なすぎるのだろう。でかいホームセンターにもなかったんで、とりあえず盗聴の件は一旦おいておく事にした。重要なのは娘と話すことだ。今のままでは、佐藤さんの家は扉に説得してすごす日々を送る事になる。

 深夜になって、電話が来た。今日は会えなかったから、明日よろしくお願いしますという内容だった。明日がんばらなければ、



 翌日、佐藤さんの家に行くと玄関の前で予想外の人物に出会った。

「あれ、父さん。何でこんなとこにいるんだ?」

 そう言ったのは、ワシの息子の孝治だ。隣には遼太郎もいる。なるほど、不登校の少女というのは佐藤さんの娘さんの事だったのか。まったく想像していなかった。こんなこともあるんだな。

「実は、えーと、いろいろあっての。ここの娘さんを助ける事になってな」

「いろいろ?」

「いろいろじゃ。話せば長くなる。まぁ目的は同じだろう気にしないことじゃな」

「でも、昨日は興味ないそぶりだったじゃないか」

「まさか、お前らの言う子がワシらが助けることになった子と同じだとは思わんかったんでな」

「ワシら?」

 さっきからこいつは質問ばかりだな。まぁそれだけ驚いているんだろう。ワシも実際驚いているし、無理もない話しだが。

「そう、もう一人と一緒に助けることになったんだ。今日は来ないんじゃがな。清水君といってなかなり利発な青年だ」

「そうだったのか」

「そう、まぁこっちの事情はそんなもんだ。ところでおはよう、遼太郎。さっきからどうもおとなしいがどうしたんじゃ?」

「おはようございます、井伏じいさん。どうもしてないですよ。大丈夫です」

 あきらかに無理のある声でそう言った。そうだった、今日これから会う少女は遼太郎の幼馴染だ。怖がっているのも無理はない。拒絶されるのが怖いんだろう。

「では、行きましょう」そう言って、孝治はインターホンを鳴らす。

 程なくして、玄関を開ける音が聞こえた。扉から出てきたのはおそらく佐藤さんの奥さんだろう。娘さんの写真から想像できるとおり、きれいな人だった。ただ、すこしやつれている表情が彼女の精神的な疲労を表していた。

 そういえばこの家族の快活な顔を見たことがないな。両親はやつれていて、娘の写真は固く唇をかみ締めていた。もう一人娘がいるらしいが、痛々しい表情をしてないことを願わずにはいられない。このような家族の悲劇にも耐えて強く笑っていて欲しいと思った。

「お待ちしておりました。お連れの人は両方若い人だと聞いてましたが」と奥さんが言った。

「ええ。そのつもりでしたが、もう一人は都合がつかないようでして。こちらの方は私のお父さんです」

「いったいなぜお父様をお連れになられたのでしょう。いえその、聞いてなかったものですから」

 佐藤さんの奥さんは、ワシについて訝しんでいるようだ。当たり前だな。急にお父さんを連れてきて紹介しても混乱するだけだ。なのでワシは孝治の助け舟を出すことにした。

「佐藤社長から清水と井伏が来ると聞いていないか?」

「ああ、はい。聞いておりましたが」

「それがワシのことじゃ。たまたまこの先生とワシが親子だったんだな。ワシらも先ほど玄関先であってびっくりしたところじゃ」

「なるほど、そうなんですか」とあっさり納得したようだ。いきなり実は親子でしたなどといわれてピンと来ないのだろう。ここで、遼太郎も実は孫で家族三代奇跡的にそろったんですよとカミングアウトしても大して驚いてくれないだろう。

「主人は会社に行っておりますので今日はいないのですが、いろいろと話は聞いておりますので大丈夫だと思います。ああここで立ち話もなんですので、どうぞお入りになってください」

 ワシらは案内されるまま居間にたどり着いた。前回来たときと何も変わってないきれいな部屋だ。ワシはついコンセントを探していた。清水君が言うには不自然なものがあるらしい。

 扉を開けて右側の壁のコンセントにたしかに不自然なものがあった。その場所にはもともと二つの差込口があったが、そのうちの一つに三つの差込口に増やせる電源タップがつけてあった。

 普通は、差込口を増やしていようと別に不自然ではない。ただ合計四つあるコンセントを一つも使ってない場合、その器械はすごく怪しげに見える。

 そのコンセントはテーブルに近い。もしこれが盗聴器だったら会話はすべて筒抜けだろう。そこまでしていったい何を知りたいのだろうか。

「父さん?どうしたの?何かあった?」

 孝治が足を止めた私に気づいて声をかけてきた。

「何もない。あいかわらずきれいな部屋だと思ってな」

「あら、ありがとうございます」

 ここで『あれは盗聴器ではないですか?』なんて言えるわけがない。後でなんとか隙をみて確認してみることにして、ワシは何も言わない事にした。

 居間にあるのは四人用のテーブルだった。佐藤さんの奥さんが奥に座って、ワシと孝治が手前に座った。遼太郎は孝治の斜め後ろに立った。幼馴染の家だとしてもちゃんと礼節をわきまえているのだろう。さっきから背筋が伸びてしゃんとしている。

「では、さっそく話しに入りたいと思います。知美さんのことですが、あらためて現状どうなっているのか詳しく話していただけませんか?」と孝治は訊いた。

 奥さんは昨日佐藤さんが話してくれた事とほぼ同じ事を言っていた。無視されることもカウンセラーのことも余すことなく話している。疑っていたわけではないが、娘さんの事で両親が嘘をついていることは無くなった。もし示し合わせて嘘をついているようならお手上げだが、そんな事もないだろう。

「なるほど。無視されるわけですか。カウンセラーの言葉では届かなかったわけですね」

「ええ、いろいろとしてくれたのですが、知美の心を開く事はできませんでした」

「ダメもとで一回私たちも声をかけてみましょう。もしかしたら幼馴染の遼太郎の言葉なら届くかもしれません」

「オレですか。もっとこう作戦を立ててからがいいんじゃないですか?」

 弱気な声を出して遼太郎はやめさせようとする。

「だからダメもとだといっているだろう。それに無視されたとしても、こちらの声が相手に届いたのならそれでいいじゃないか。伝えたい事はたくさんあるんじゃないのか?」

「それは、そうなんだけど」

「なら勇気を持つべきだ。ここで引いてどうするんだ、遼太郎」

 孝治の熱弁は続き遼太郎はおされ気味だ。このままでは『オレ、やってみます』など言いそうだ。しかし残念な事にこの家に今、知美ちゃんはいないだろう。

 昨日の清水君の待ち伏せでは捕まえられなかった。清水君から今日は引き上げると連絡が来たのは大体10時ごろだった。そこから先、つまりみんなが寝静まった深夜や明け方に帰ってくることはないと清水君は言っていた。なぜなら帰り道のルートに遼太郎の家を通らなければならないからだと。

 そういうわけで昨日は帰ってきてないので今日は家にいない。声を張り上げたところで相手に届く事もないんだ。孝治の熱弁を否定したい気持ちになったがどうしようもなかった。

「オレ、やってみます。がんばってみます」

「そうか、やってくれるか。じゃあ早速行こう」孝治は立ち上がりながらそう言った。

「では、お願いします。遼太郎くんは知っていると思うけど、知美の部屋は二階だからこっちです」と案内してくれるようだ。

 ワシは扉に向かって青春する遼太郎を見たくなかったので、行かない事にした。立ち上がらない様子のわしを見て、孝治はこういった。

「父さん、知美ちゃんの部屋は二階だよ。さぁ行くよ」

「ワシはすこしやらなければいけないことがある。孝治、お前が遼太郎についていってやってくれ」

 ワシは適当な事を言って、孝治たちから逃げた。

 孝治たち三人が二階に行って、居間にはワシ一人になった。ワシはちょうどいい機会だから盗聴器を調べてみる事にした。

 音を殺して近寄ってみて、まじまじと観察してみたが普通の器械にしか見えなかった。中を開けてみなければわからないのだろうか。取り外してみてみたかったけど、『はずすと電気が途絶えて、ばれてしまうかもしれないから気をつけてくれ』と言われてあったので、外見だけを調べてみる事にする。

 やはり、外見からでは区別がつかない。これは本当に盗聴器なのだろうか。不自然な点とは使われてないコンセントを拡張している点だけに過ぎない。

 そうこうしているうちに、階段を下りてくる音が聞こえた。ワシはあわてて、元の席に戻る。

 創造していたどおり結果は芳しくなかった事は顔から見て取れた。

「無視されたけど、ほらきっと声は届いたから。意味のない行動ではなかったよ。だからそんな落ち込むな遼太郎」孝治は座りながら遼太郎に言った。

「そうですよね。続けていればきっと心を開いてくれますよね」

 そういう遼太郎の声は希望が見えてないように消沈している。今日はもう限界かもしれないな。

「では、佐藤さん。今日のところはこれぐらいにして帰ります。ゆっくりゆっくり、接していって。知美ちゃんの心が直るのを待ちましょう。きっと長期戦になるでしょう」

「わかり、ました。お願いします」

「はい。ではまた」

 またもやこの家に来て一時間もしないうちに出る事になった。この家はどこかよその家の人を追い出す雰囲気をだしているのかもしれない。

 佐藤さんの奥さんに見送られ、ワシらは外に出た。奥さんもこの一時間で疲れてしまったように見える。引きこもってしまった人に関わるという事は生半可な覚悟ではできないことなのだろう。

 ほどなく歩いて孝治たちは孝治の学校に向かうらしい。そこでこれからの事を今日を踏まえて考える予定なようだ。

 ワシも着いていくことにした。孝治たちには清水君の予想を話しても大丈夫だろう。この予想を話さないと、彼らは空室に向かって話し続ける事になる。それはすこしむなしいことだろう。

「ワシも行くぞ」

「え、父さんも来るの?」

「まぁな。ワシは一つ重要な事を知っている。本当に重要な事だ」

「重要な事っていったいなんだい?」

「だからそれを話しに行くというんじゃ。さぁ行こう」

 ワシは学校に向かって率先して歩き始めた。こんな道端で話していいことじゃない。

「はぁ、父さんはたまに頑固だからな。まぁ一人増えたぐらいじゃ問題にならないだろう」

 孝治はそういって了承して、遼太郎はそもそも否定しようともしてなかったのだろう。ワシはすんなり彼らの仲間になった。


 孝治の学校はでかい学校だった。今はお昼ご飯が終わった頃の時間なのだろう、校庭にはちらほら生徒がいる。ワシらは好奇心の目に当てられながら、こそこそと移動した。

 事務室をとおり入校許可を取る。以外に簡単に取れたから、必要ないかもと思ったが学校もいろいろと規則にしばられているのだろう。

 案内された先は小さな会議室だった。扉には鍵がついていてなかなか頑丈そうだ。窓もついているけどしっかりと閉めれば外に音はもれないようなつくりになっている。さすがに警戒しすぎだろう。いったい何に警戒しているのやら。これもまた規則なのかもしれないな。

「ちょっとだけ待ってて。父さんと遼太郎は二人で先に話し合ってて」

 着いたなりすぐ孝治はそう言って会議室を出て行った。残されたワシらは話をせずに無音で孝治を待っていた。

 時計の音はなっていたかもしれない。窓から学生のはしゃぐ音が聞こえていたのかもしれない。だけどそんな音が耳に入らないほど、おたがい違うことを考えることで手一杯だった。

 遼太郎は知美ちゃんのこと。ワシは遼太郎と孝治にどこまで伝えるかと言うことを考えていた。

 10分後、孝治が戻ってきた。

「お待たせ」

「どこ行っていたんじゃ?」

 孝治は少し考えるようなそぶりを見せてからこう言った。

「さっき、佐藤さんと挨拶したとき若い人が二人来るって言ってたよね。一人は遼太郎だけどもう一人はうちの生徒なんだ。一緒に来てもらおうと今日の朝探したらいなかったんだ。もう待ち合わせの時間になったから諦めたけど。今ならいるかなと思って」

「ちょっと待て、孝治、ちゃんとそいつに事前に連絡していたんか?」

「いや、昨日連絡しに行ったときもいなかったんだ。それで今確認しに言ったら、どうも風邪らしい」

 なんともずさんな計画だな。ワシはついため息がでた。

「はぁ。それでそいつは知美ちゃんとどういう関係があるんじゃ?」

 ワシのこの発言に遼太郎がピクッと反応した。聞き耳を立てているのが手に取るようにわかる。

「知美ちゃんとはまったく関係がないね。ただ、純粋に今回は役に立つと思ったんだ」

「役に立つとはどういうことじゃ?」

 ワシは当然の疑問をぶつけた。

「彼はおもしろい考えをする子でね。僕らでは思いもよらなかった答えを導き出せるかと思ったんだ。鈴木優二というんだが。彼の風邪が治ったらちゃんと紹介しよう。

 孝治がここまで気に入るなんて珍しいなとワシは思った。孝治とその優二というやつの間に何かあったのかもしれない。

 それにしても、清水君みたいな人が他にもいるとは驚いたな。優二を紹介してもらったらワシも清水君を紹介しよう。この二人がそろったら知美ちゃんの事なんてきっとすぐに解決してしまうだろう。

「孝治さん。本当に知美とその優二って人は何も関係ないの?」と遼太郎が聞いた。

 知美ちゃんに男が近づくのがこわいのか、まったく若いな。

「それは何も関係ないだろう」

「本当に?本当に何も関係ないの?」としつこく質問する。

「本当だ。こういっては何だが、知美ちゃんはずっと引きこもっているんだ。もし関わりがあるなら中学校のときだろう。そうしたら遼太郎のほうが詳しいだろ」

「でもその優二って人はここら辺に住んでいるんでしょ」

「まぁ、そうだな。ここは県立だしそう遠くから登校している人は少ない」

「やっぱり」

「なにがやっぱり何だ?もしかして、もう知っているのか?」

「オレは知らないけど、でも。知美が前に訊いて来たんだ。鈴木優二を知っているかって。知美は高校生になって皆を無視するようになった。でも中学の頃は引きこもっていても話はできていたんだ。そうだ、あれはもう中学校を卒業する頃だ。だからオレ、鈴木優二は重要な鍵だと思って最近探していたんだ」

 遼太郎は一気にそう言いきった。

「それは本当か?」

 孝治は驚いた顔を見せる。ワシは急にでてきた鈴木優二がキーパーソンだといわれても驚く事はできなかった。だが孝治達は驚きを隠せないようだった。

「本当だよ。孝治さん。今からその優二って人のところに行こうよ。住所はここの生徒ならわかるでしょ」

「ちょっと待て、落ち着け」と遼太郎を落ち着かせる。

「そうだな。行ってみるか。ちょっと確認してくる」と言って孝治はまた出て行った。

 ワシの重要な話をできるような空気ではないな。なるべく早めに言い出さなければ。

「井伏じいさん。ほらオレ昨日訊いたじゃん。優二を知っているかって」

 遼太郎は興奮を抑えられないようにそう言った。ずっと探していた人がこうやっていきなり見つかって驚いているのだろう。

「そういえば、そうだったような。遼太郎、お前はずっと探していたのか?」

「そうだよ。だって何かあると思ったんだ。きっとその優二って人は知美を苦しめていたんだ。そうに違いないよ。だからこれでやっと、知美を救う事ができるんだ」

 そうやって決め付けるのはよくないことだとは言えなかった。さっきまで落ち込んでいた遼太郎がやる気に満ちている。もし優二が悪い人でも逆にいい人でもワシは結局孫の味方であるおじいちゃんに過ぎない。優二って人は悪役としてそこにいて欲しい。

 ガラッと音を立てて扉が開いた。そのあと孝治が急いで入ってきた。

「どうしたんじゃ?」

「どうしたもこうしたもないよ父さん。鈴木さんとこに電話したら、優二はちゃんと学校に行ったって言うんだ」

「どっかで事故に巻き込まれたってこと?」と遼太郎が訊いた。

「いや、学校には風邪だという連絡が来ている」

「なるほど、サボりというわけか」

 いよいよきな臭いな。その優二って人は何かあるに違いない。

「じゃあ帰ってくるまでその優二って人の家で待とうよ」と遼太郎が提案した。

「いや、それは迷惑だろう」

「でも学校に嘘を言っていたんでしょ。その優二の親も協力してくれるんじゃない」

「でも、オレは優二の担任じゃないからその権限はないんだ」

「そんなの関係ないよ。でもじゃあとりあえず話だけでも聞きにいこうよ」

「それもやっぱり担任じゃないと」

「さっきから何なのさ。孝治さん。やっと手に入れた手がかりなんだよ。担任じゃないとか小さい事はきにしないでよ」

「孝治どうしたんじゃ?そんなに行きたくないのか?」

「まぁいろいろと教師は面倒くさい決まりがあるんだ。優二はどうせ明日には来るだろう」

「さっきはあんなに行く気だったじゃないか。孝治さん。とりあえず行こうよ」

「いや、それがこの時間なのに父親が家にいたんだ。だからちょっと」と孝治はしどろもどろに弁解する。

 教師の決まりか。最近はだんだんうるさくなってきたとも聞く。一人の生徒には入れ込んではいけないだの、プライベートには関わっていけないだの世間が監視している。教師と生徒の距離が開いてしまった状態で大切な事を教えられるわけなどないのに。しょうがないことなのだろう。

「遼太郎。あまり孝治を困らせるでない。鈴木優二はここの生徒だということがわかっただけでいいだろう。いつでも見つけられるじゃないか」

「でも、やっと見つけられたんだ」

「じゃから、もう少し待てるだろう。それにまだお前たちはワシの重要な話を聞いてない」

 やっとワシが話す空気になった。

「さっきも言っていたけど結局重要な話ってなんだい?父さん」

 孝治も乗っかってきた。話の流れを変えたいのだろう。

 ワシは一つせきをしてから清水君の予想を話した。

 ただし盗聴器の可能性は避けて話した。それでも二人は愕然としているようだった。

「じゃあ、オレは無視されていたんじゃなかったわけか」

「そうじゃな。お前は誰もいない部屋に話しかけていただけだ」

「待ってくれ父さん。それは本当か?」

「確証はない。だがあまりにも筋が通り過ぎているだろう。おそらくこれが真実なんじゃろう」とワシは言い切った。

「そんな、でも」

 孝治は否定したいけれど否定材料が見つからないようだ。

「じゃあ通い続けてもまるで意味がないな」

「そのとおりじゃな」

「だけど父さん。なんでさっき言ってくれなかったんだ?意味がないとわかっていたならとめてくれてもよかったのに」

「あの時は知美ちゃんの親もいたからな」

 親には伝えないほうがいいだろう。

「なるほどね」納得したように孝治はうなずいた。

 ワシはやっと伝えることができてほっとした。そのときポケットに入っていた携帯電話が鳴り出した。

 着信を見ると清水君のようだ。

「ちょっと失礼」と断ってからワシは電話に出た。

「はい。もしもし」

「井伏じいさん。今大丈夫ですか?」

「こっちは大丈夫じゃ。佐藤さんの家に行ったけど収穫なし。今は学校にいる」

「えーと、すいません。なんで学校に?」

「ほら、佐藤さんの奥さんが娘さんのことで学校に呼ばれていたじゃろ。それで今日学校の人来ていてな。たまたま会ったんじゃ。目的が同じだから情報交換していたんじゃ」

「なるほど、それで今根本さんの会社にこれますか?」

「なにかあったんか?」とワシは訊いた。

「これからおもしろいことがおきそうです。一時間後ぐらいに佐藤さんが来て、根本さんに試練を与えるみたいです。一緒に見届けませんか?」

「昨日の今日じゃぞ。まぁいい。すぐそっち向かう」

「待ってますねー」

 ワシは携帯を切ってポケットにしまう。

「どうかしたのか?」

「ああ、それがの、さっき話した清水君からおもしろいことがおきるから来いといわれてな」

「それで行くのか?」

 声の中にワシを責め立てるようなニュアンスが混じっていた。だけどワシからすれば責められるようなことは何もない。

「ああ、もちろんじゃ。知美ちゃんの事はこれ以上考えても何も出てこないじゃろう。ワシがここに来たのはさっきの事を伝えるためだしの。それにこれから向かう先は知美ちゃんのお父さんが関係しているから無関係でもないじゃろ。なんなら付いてくるか?」

「いや、いい。オレら二人は知美ちゃんの事を考える。遼太郎と父さんのカミングアウトで新しい道が見つかりそうだ」

 優二というあたらしいキーパーソンに、引きこもっていないかもしれない知美ちゃん。いままでとは違う視点で考えられるだろう。孝治ならこれら二つを結びつなげるかもしれない。

「そうか。じゃあここは任せた。なんかあったら連絡してくれの」

 ワシは携帯を手で振りながらそう言った。

 ちゃんと事務室で退校することを告げ、ワシは根本社長の会社に向かった。



 会社に着いたときはもう一時間は経っていた。もう試練が始まっているかもしれない。

 そもそも試練とは何だろう。清水君は何でもいいといっていたが佐藤さんはなにをするのだろう。例えば社員全員の名前を言えとかか。それなら簡単だな。普通に学生みたいにテストをやらせるのか。

 はたまたチェスとか将棋とか遊戯系か。もしくはボクシングとかの勝負かもしれない。

 ワシは何をやるのか疑問に感じながら扉を開けた。もう佐藤さんは来ているようで、あたりの熱気がすごい。ワシは空気の中心にいる清水君に話しかけた。

「どういう状況じゃ?」

「あ、井伏じいさん。こんにちは。これから始まるところですよ」

「いったい、なにをやるんじゃ?」

「じゃんけんです」としれっと清水君は言う。

「じゃんけんじゃと?」

「そうです。じゃんけんです。ぐー・ちょき・ぱーのやつです」

「それはわかっているが、じゃんけんで決めるのか?」

「はい。佐藤さんが先ほど来て、根本さんにじゃんけんしないかと提案しました。じゃんけんで勝てば会社を助ける。失敗すれば助けない。そういう状況です」

 ばかげているなとワシは思った。こんな子供みたいな勝負を試練と呼んでいいのか。こんなことで根本君が社長を続ける覚悟ができるとは思えなかった。

「不満ですか?」と清水君が訊いて来た。

「もちろんじゃ。こんなの運じゃないか」とわしが言うと、清水君はしたり顔で耳打ちしてきた。

「井伏じいさん。これは運の勝負ではないですよ」

 運の勝負ではないのならいったい何の勝負なのだろう。ワシは清水君に耳打ちはしなかったが小さな声で訊いた。

「じゃあ、いったい何の勝負なんじゃ?」

「覚悟の勝負です。佐藤さんは勝ったら助けるといったが、誰が勝ったら助けるとは言っていません。この勝負根本さんの行動しだいで助けるか助けないかが決まります」

「屁理屈じゃな」とワシは笑いながら言っていた。

 しかし根本君はどうするのか、周りには社員が集まっていてこの一世一代の勝負を見届けようとしている。かなりのプレッシャーを感じていることだろう。

「根本社長、準備はいいかな?」

 佐藤さんの声は今の根本君にとって断頭台をに上る事を催促する看守の言葉のように聞こえていることだろう。すでに顔が真っ青だ。

 もともと気性が穏やかな根本君のことだ。今回の事は付け焼刃の大胆な性格では乗り切れないだろう。

「準備はいいかな?」ともう一回佐藤さんは訊く。

「だ、大丈夫だ」

 なんとかひねり出したような声で応える。

「よしでは行くぞ」

 佐藤さんと根本君は右手を前に出した。

「じゃんけんぽん」

 掛け声と共に手を振って手を出す。

 佐藤社長はグーで根本君もグー。つまりあいこだ。

 根本君の顔からどっと汗が出る。

 隣で清水君が『ふーん。出せるのか』などと言っていた。清水君は出せないと思っていたのか。たしかにプレッシャーに負けて出せなくなるものなのかもしれない。

「あいこだな」と佐藤さんが言う。

 根本君は言葉も出ないほど集中しているようだ。自分の手を焦点の合わない目で見続けている。これではただたんに声が出ないほど疲労しているのかもしれないな。

「根本社長、君はいったいなんで働いているんだ?」といきなり佐藤さんが訊いた。根本君からの返答はなかった。それでも佐藤さんは続ける。

「お金を稼ぐためかな。稼いだお金でご飯を食べるためかな」

 根本君は顔を上げた。佐藤さんを見ている。

「皆が働いているから自分も働いているのかな。流されるままに人生を生きていたらこんなところに立っていたのかな」

 佐藤さんの声には力があった。

「周りを見渡してごらん。多くの人が立っているだろう」

 根本君は言われたどおりに周りを見渡す。

「この人たちの運命は今、君の右手にかかっているんだ。さっきの勝負でチョキを出していたらどうなっていたのだろうね」

「ワタシはいったいどうすればいいんだ?」と哀願するように訊く。

「さぁね」と突き放すように佐藤さんは言う。

「そういうことは自分で決めるしかない。君は社長を降りたいそうだね。向いてないだとか」

「そうだ。違う人のほうがいいんだ。ワタシなんかよりもずっと良いに決まっている」

「でもね、現在、君は社長なんだ。一番ここで偉いんだ。流れるままに生きてきたのかもしれないけれど、今いる場所は他人の人生の責任も負わなければならない場所なんだ。大人になるという事はえてしてそういうことだ。流されようが流されていまいがそういうことなんだ」

 根本君はまたうつむいてしまった。

「逃げる事は許されてない。戦う場所を変えることはいいがそれを逃げる口実にしてはいけないんだ」

 根本君は頭をあげることはなかった。

「さて、じゃんけんの続きだな。そうだな。次はチョキを出そう」

 佐藤さんは次はチョキを出すと宣言した。根本君は顔を上げ佐藤さんの目を見る。つられてワシも佐藤さんの目を見ると、そこにあったのは『優しい』まなざしだった。

「さぁ、出す手が決まったかな?チョキだぞ」

 これはどういうつもりだろう。勝たせてくれるつもりなのか、チョキだといって実はパーを出すつもりなのか。

 清水君のほうをみるとあきれたように笑っている。どういうことだろう。

「さぁ、さぁ。決まったかな?」

 根本君は覚悟したような目になった。だけどその覚悟も一瞬で崩される。

「まぁチョキを出すといったが、もちろん勝つつもりでいるよ」

 つまりパーを出すということか。ワシは隣で静かに笑っている清水君に小さな声で訊いてみた。

「佐藤さんはどういうつもりなんじゃ?」

「あの人はきっと勝負をさせないつもりですよ」

「つまりどういうことじゃ?」

「まぁみてればわかります」

 清水君には佐藤さんの意図が見えているのだろう。ワシは静かに見守ることにした。

「さぁ、根本社長。決めましたか?」

「ちょ、ちょっと待ってくれ」と狼狽したように言う。

「ちょっととはどのくらい?」

「ちょっとだ」

 根本君は考えすぎて知恵熱を出しているように顔が赤い。かと思えばすぐ青くなる。この光景を見ている皆はいったい何を思っているのだろう。

 同情している人は何人ぐらいだろう。煮え切らない態度を見てあきれてしまっている人はいないだろうな。

「やれやれ、こんなことでは決まりそうもないな」

「じゃあ、今日はやめときますかー」と清水君が割り込む。

「そうだな。仕方ないな」

「この勝負の延期戦はいつごろにします?」

「そうだな。根本社長が何を出すか決めたらにしよう」

「いやはやまったく。何年後になることやら」と清水君は軽くひどいことを言う。

「そうだな。それまでにつぶれてしまったら困るな」

「そうですねー」

 なるほどとワシは思った。先ほどの清水君が言った勝負をしないとはこう言うことか。

「しょうがないから、手が決まるまでは援助してやろう」と佐藤さんは笑いながら言った。

 その一言に周りの人がざわざわする。実質助けてくれるという事だ。

「じゃあ、根本社長。君が手を出すまでこの勝負は延期ということで」

 そう言って佐藤さんは帰ろうとする。これ以上根本君に重圧を与えたくないのだろうな。根本君はすでにプレッシャーに負けて顔が真っ青だった。

「じゃあ、さいならー。佐藤さん」

「清水さん。わかっているな?」と佐藤さんは清水君に念を押す。これで根本君に試練を与えて助けたのだから、ちゃんと娘を助けてくれよという意味だろう。

「大丈夫ですよ」と清水君は言う。

 清水君にそういってから佐藤さんはそそくさと帰っていってしまった。根本君は相変わらずうなだれている。だれも声をかけようとしてなかったなか、清水君が近寄って声をかける。

「いやー。根本さん。普通にグーを出せばよかったのに」

 根本君は青い顔のまま清水君に弁解をする。

「だって、負けるかもしれないじゃないか。だって、向こうは勝つつもりって言ってたじゃないか」

「たしかにねー。相手がチョキだすっていっても勝率はかわらずに半々だもんねー」

「そうなんだよ。半々で負けるんだよ。出せるわけじゃないか!」

「その通りだねー」

 さっきまでせき止めていたものが溢れているようだ。

「流れるままに生きてきたって?そうだよ、そうやって生きてきたよ。気づいたらここに居たんだよ。それなのに責任を負えだって?なんでそんな事を言われなければならないんだよ」

 根本君の口調は今までにないものだった。最初の弱弱しいものでもなく、清水君が作った大胆なものでもなかった。これが今まで心の奥に隠していたものなのかもしれない。

「それが大人になることってなんだよ。いったいいつからこうなっていたんだよ。大人になんてなりたくなかった」

「いやはやまったくその通りで」

 清水君の適当な口調は彼を激昂させることなく静めているようだった。

「はぁ、何でワタシは清水にこんな事を言っているんだろう。さっき言えばよかった」

「佐藤さん相手にいえるようになれば苦労しないですよね」

「まったくだ。だけどなんか吹っ切れた。いまならいえるような気がする」

「その状態にさっきなればよかったのに。でもふっきれたならじゃんけんするのかい?」

「いや。じゃんけんはしない。半々で負けるからな。先延ばしにしている間は助けてくれるようだからな。そのほうが確実だ。佐藤社長が痺れを切らしたらじゃんけんすればいい」

「そのときは何を出しますか?」

「次のじゃんけんはグーを出す。あいてはチョキを出すんだからグーしかないだろう。対面したときに宣言してやろう『ワタシはグーを出す』とな」

 根本君の目には力が戻った。流されるままに生きていた人は責任を知らない。だから、プレッシャーを与える事で現実を教えたのだろう。荒療治だったが根本君にはいい薬になっただろう。



 ここで根本君の話は終わりにしよう。続きはもう皆は知っているだろうから。根本君は相変わらずじゃんけんから逃げ続けた。そして次のじゃんけん『グー』をだした。佐藤社長の恩返しのために。



 根本君の方は解決しても知美ちゃんの件は解決できてなかった。相変わらずワシらの待ち伏せからも逃げ続け、3日が経とうとしている。もうそろそろ年末が近づこうとしているそんな時期だ。

 孝治は親の前でゆっくりと接していきましょうといった手前、毎日相変わらずに扉に話しかけているらしい。清水君は仕事があるなんて言って顔を出さなくなった。根本君を清水君が担当して知美ちゃんはわしが担当というのが自然と決まった。そういえば結局、清水君は遼太郎や孝治と会ってないな。さらに言えば知美ちゃんの名前すらしならないのかもな。清水君と話すときはどうも佐藤さんのむすめさんと呼んでいる気がする。



 そして今日事件が起きた。ワシと孝治は今日は二人で知美ちゃんを帰ってくるのを影から待ち伏せしていた。

「やっと見つけた」と背後から言われた。ただし声の方向はワシに対してではなくて隣にいた孝治にだった。

「やっと見つけたわ、このレイパー」

 その声には怒りがこもっていた。どうしようもない怒りが。声の主は泣き黒子が特徴的なきれいな少女だった。ただ美しいものは恐ろしいものでもある。怒りにかたどられた少女は背筋が凍るほど恐ろしいものに見えた。さらに右手に光る刃物が恐怖を駆り立てる。

「いったい何のことなんだ?」と孝治は狼狽しながら言う。

「なるほど、しらを切るつもりね」

「本当に何の事だかわからない。そもそも君はいったい誰なんだ?」

「ははぁ、結構前の事件だものね。あなたの中では時効ってっことか。クズね」

 少女は嘲笑するようにそう吐いた。ワシはあわてて間に入る。このままだ孝治が刺されかねん。

「ちょっと待って、孝治がいったい何をしたんじゃ?」

「あなた誰?こいつの何?」

「ワシはこいつの親じゃ」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ知っているはずよね。こいつが過去何をしたか」

 孝治が何をしたかだと?ワシの知らんところで何かしていたのか。

「孝治、お前いったいこの少女に何をしたんじゃ」

「あたしじゃないわ。こいつは遼太郎の母さんにレイプ。つまり強姦したのよ」

 あの事件か。でも孝治は確かにそういう行為を行ったがあれはレイプではなかったはずだ。

「あれはレイプじゃなかった。それに何で君は知っているんだ。いったい誰なんだ?」

「すっとぼけるな。こっちは証拠だってあるんだ!」

 少女はそう言いながらかばんから書類を取り出し投げつける。その書類はどうやらDNA鑑定のようだ。

「そこに書いてある通り、あんたは遼太郎の実父なんだ」

「なんじゃと!」

 本当に孝治の息子だったのか。では本当の孫だったのか。ずっと気がかりだった。遼太郎は本当にワシの孫だった。

 孝治は愕然としている表情だった。

「これは本当か」

「あたしはさがしつづけたよ。遼太郎のお母さんから遼太郎はレイプから生まれたと聞いてから、遼太郎の戸籍謄本をとりよせた。そしてお前の名前を知った!まさかあたしの学校の先生とは思わなかったよ。お前は何かしらの方法であたしがこのことを知ったことを気づいたんだ。それであたしの口封じをしにきた。家庭訪問と偽ってな。あたしはあんたから逃げながらも、あんたのDNAを入手し、そして確証を得た。すべてはお前に復習するために!」

「いや、待つんじゃ。それは勘違いじゃ」

「どこがどうかんちがいだというんだ!」

「孝治はレイプなどしておらん」

「だけど、DNAがそう示している。それともDNAのほうが間違っていると言うの」

「そうじゃない。孝治はレイプではなく、子供を作ったんだ」

「へぇそう。なるほど親にはうまく説明しているのね」少女の嘲笑はとまらない。

「どういうことじゃ?」

「自分で調べれば?」

 少女の嘲りはワシにも向いてきた。ただしワシの場合は無知なものに向けるそれだったが。

「あんた達がいなければ、遼太郎だってあたしだって幸せに生きれた。遼太郎はきっと幸せな家庭に生まれていたんだ。それをあんが奪ったんだ。全てあんたのせいだ」

 少女は感極まってついに孝治に切りかかった。孝治はそれをよけようとしなかった。

 まったくよけようとしなかった。それを怒りごと受け止めようとしていたのだろう。

 だからワシは少女に横からタックルをかました。少女は横に飛んで、孝治にナイフが刺さることはなかった。

 ただ少女が飛んだ先は車道だった。

 そしていつかとおなじように猛スピードで来る赤い車が見えた。

 その瞬間はスローモーションに見えた。

 急ブレーキする車に、驚いた顔の少女。その少女の手を引く孝治。

 手を引かれて歩道のほうに戻ってくる少女に、反動で車道に出る孝治。

 ゴッと言う音と共に孝治の体が宙を浮いた。

 スローモーションな時間が終われば残されたのは残酷な現状だった。

 あわてて孝治のもとに駆け寄ると、腕はひしゃげているようだが、まだちゃんと意識はあった。

「なんで?」と少女が隣で声を出す。

「なんで助けたんですか?」

「そんなことは後だ。早く救急車を呼んでくれ。いやここならワシが自分で行った方が早い。さっきの車は?」

「え?」

「赤いやつじゃ!。孝治をはねたやつ」

「もういません」と少女はいう。ワシもあわててあたりを見るがどこにもいない。

 ひき逃げか。

「救急車呼びます」

「待つんじゃ。それよりも車かしてくれ。知美ちゃん!」

「なんで私のことを?」

「いいから!」

 ここは佐藤さんの家の裏手だ。すぐに車を出せるはず。

 あいにく佐藤さんの家は誰もいなかったので、急いで知美ちゃんが書置きして車の鍵を借りる。

 ワシら二人はすぐに車へ乗せて緊急病院へと向かった。

「何であたしを助けたんですか?あなたは悪い人なんですよね」といって知美ちゃんは今にもなきそうだ。

 孝治は血だらけになりながらもちゃんと返答する。ただ意識は今にも消えてしまいそうだ。

「君は、何も、悪くないから」

「すべてあなたが元凶だからですか。罪滅ぼしと言うことですか」

「どう、なんだろうね。たしかに、俺も、悪いことをした。オレの、ポケットを」

 そこで孝治の意識は途切れた。

「おい。どうなっている?大丈夫か?」とワシは運転席から怒鳴った。

「呼吸はかすかですけどあります。心臓も動いてます。早く行ってください」

「任せろ」

 ワシは思いっきりアクセルを踏んだ。この道を真っ直ぐ行けば病院だ。すぐ近く。すぐ近くなんだけど何でいったいこんなに今日だけ渋滞なんだ。

「くそ」

「どうしたんですか?早く行ってください」

「渋滞なんじゃ。こっちとら重体だっていうのによ」

「そんなこと言ってないで早く行ってください」

「わかってる。しょうがないすこし遠回りになるんじゃが」

 ワシは思い切ってその場でユーターンして、遠回りの道を選んだ。渋滞から離れるときになぜか桶がニ、三個転がってくるように見えた。

 遠回りしたせいで病院に着いたのは少し遅くなった。病院についてすぐ孝治は集中治療室に送られた。

 ワシらは二人で治療が終わるのを待っていた。すごい長い時間が経ったと思う。もしくは短かったのかもしれない。ワシにとっては永遠とも呼べる時間が流れた。

 治療室から医者が出てきた。

「孝治はどうなったんじゃ」

「一命は取り留めました」

「そうか」ワシはほっとした。緊張がほぐれていくようだ。

「ですが、脳に強いダメージを負っているようです。後遺症が残るかもしれません。もしくはこのままずっと起きないこともありえます」

「どうにかならんのか?」

「最善は尽くしますが。後は神に祈ることしかできません」

 医者が神に祈るというぐらいだ、事態は深刻なのだろう。

「そうか」

 ワシは目の前が真っ暗になった。

「ごめんなさい。あたしのせいです」

 目の前は真っ暗だったけど、ワシはこの少女を助けなければならないという使命感に駆られた。でなければ孝治のことが無駄になってしまう。

「君のせいじゃないよ。君のせいじゃないんだ」

 この少女にちゃんと事実を教えよう。あの暴行事件の事をちゃんと教えようと思った。


 身をていして少女を助けた孝治にワタシは悲しみはあるけれど拍手を送りたい。孝治の生き様はまるで英雄のようであると。



 事件の翌日になっても孝治はいまだ目を覚ましていない。昏睡状態を続けていた。

 ワシは家に知美ちゃんを呼んだ。ちゃんと事件について話すためだ。

 だけど、この日ワシの知らない事実を知ることになる。

「これ、井伏孝治さんのポケットに入っていたんですけど」と彼女はマッチ箱よりも小さな箱を取り出した。これはたしかUSBとか言うやつだ。

「この中に、あるファイルが入っていました」

「ほうファイルとな?」

「ええ。パソコンは持ってきたので見てください」

 知美ちゃんはUSBメモリをパソコンに刺して、文書ファイルを開く。そこには今までのことが書かれていた。ワシが説明するまでもなく、知美ちゃんは全ての事を知れたのだ。そのファイルを読んだわしの反応を見て納得するように言った。

「なるほど、おじいさんはしっていたのですね」

「まぁの」

「あたしは勘違いしていたんですね。謝って許される事じゃないですけど本当にごめんなさい」

 少女は頭を下げた。

「まぁ、孝治は死んでないんだ。死んでないならまぁいいじゃないか」

「ごめんなさい」少女はもう一回謝った。

 ワシはもしかしてこの引きこもった少女を助けるために遼太郎とは違う高校に赴任したのかと思った。でもそれは違った。

「ではこの人の事も知ってますか?」

 知美ちゃんはかばんから清水君が写っている写真を取り出した。まるで盗撮したかのような角度で一人で写っている写真だった。

「おお、知ってるよ。何を隠そう知美ちゃんが家を外出していることに気づいたのは彼なんだ」

「本当ですか!よくわかりましたね」

「ならやはり小川さんの家を通路にしていたのか?」

「ええ。おばさんが協力というか。半分脅していたんです。遼太郎に出生の秘密をばらすぞとね」そう知美ちゃんは言った。

「しかし。これも知っていたんですね。では全て知っていたということですか」

「こいつも孝治に関係があるのか?」

「なに言ってるんですか。おじいさん」

 少女は可愛く笑った。昨日怒りに身を任せた嘲笑を見ていたからその違いに驚く。だけどその笑顔から発せられた言葉のほうがワシに驚きを与えた。

「この鈴木優二と遼太郎は双子じゃないですか」

「え?誰と誰が双子なんじゃ?」ワシは思わず聞き返していた。

「だから、この写真に写っている鈴木優二と小川遼太郎ですよ」

「本当に?」

「本当です。優二のことは知っているのに。双子だという事は知らなかったんですか?」

「一旦まず、確認したいことがあるんじゃが」

「何でしょう」

「この写真に写っているのは鈴木優二というのか?」

「はい。鈴木優二本人ですね」

 偽名だったのか。ちゃんと清水名義の証明証を用意するなんて手の込んだことを。

「その顔を見るに、偽名を使われていたんですかね」

「まったくじゃ。ってことはなんじゃ、あいつもワシの孫だったのか」

「そこは少し違うんです。彼はDNA検査で判明したんですが、孝治とは違うDNAでした。つまりレイプ犯の子なんです」

「そんなバカな。いったいどういうことなんじゃ?」

「精子は膣内に入っても一週間生存することもあるそうなんです。つまり奇跡的に精子のDNAが違う二卵性双生児が生まれたわけです」

 そんな事があるのか。

「一週間も生存する事があるとは思いませんでした。二卵性双生児で精子が違うから孝治さんをレイプ犯の一人だと勘違いしたんです。戸籍謄本には孝治さんしか載っていなかったので名前ばれしたレイプ犯だと」

「優二のDNAが違うから勘違いしたのか。もし一卵性だったらこんな事にはならなかったのに」

「それはしょうがない事ですし、勘違いしたあたしが悪いんです」

「このことは遼太郎やその優二は知っておるのか?」

「おそらく知らないと思います。このことを知っているのは孝治さんとあたしだけです」

「小川さんはどうなんだ?」

「遼太郎君のお母さんのことですね。おばさんはきっと知らないでしょう。そのことはこのUSBの隠しファイルに書いてありました」

「隠しファイルとはなんじゃ?」

「普通にしていたら見えないようにできているファイルの事です」

「そうなのか。まぁいい。なんて書いてあったんじゃ」

 彼女は再びパソコンを開いていろいろとクリックしていく。そしてパスワードが要求された。

「パスワードが必要みたいじゃが」

「昨日yuujiと打ったら開きました」

「さすがじゃ」

 隠しファイルは後悔が書かれていた。見ているこっちが後悔の念に押しつぶされそうなくらいだ。

 後悔の分を抜いて内容をまとめると、出産直後に小川さんが気絶したことから始まる。

 たしかに首をへその緒によって締められていたが赤子は両方無事だった。でも首を絞めていたほうの赤ん坊をみるとなんともいえない悪寒を感じた。だから担当した医者に実は暴行事件の子だと伝えてさらに経済的にも厳しいということを伝えた。すると医者はある事を告げた。それは悪魔のささやきのような救いの声だった。まもなくして一人の男性が部屋に来る。彼は先ほど帝王切開したにもかかわらず赤ん坊が死んでしまったという人だった。そして彼の奥さんはまだ麻酔で眠っているんだと。

 ファイルの最後は『オレのしたことは間違っているのかもしれない。せめて償いをしよう。この子の人生に関わるんだ。オレは教師になってこの子を導く』と言う言葉で締めくくられていた。

「なるほどな」とわしは納得した。知美ちゃんの件に優二を関わらせようとしたのは遼太郎と会わせようとしていたのか。そして優二の家に行きたがらなかったのは、このときの父親と会いたくなかったからだろう。

 最初から最後まで孝治は優二に対する罪滅ぼしのつもりだったのだろう。

「教えてくれてありがとう」とワシは知美ちゃんに礼を言う。

「いえ、本当に申し訳ありませんでした。孝治さんの回復を心から祈ってます」

 彼女は最後にまたそう謝ってから別れた。

 それからというものワシは孝治の世話をして生きていた。清水と偽る優二にも、正しい道を歩き始めただろう知美ちゃんにも、社長を相変わらず続けているだろう根本君にも会うことはなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ