8
一体何がどうなっているの。抱きあげられた体勢のまま意識を飛ばしていたけれど、周囲からざわめきと視線が突き刺さり、誰とも目が合わないように顔を俯ける。自然と千郷の胸に顔を埋めるような形になってしまい、しまったぁ!と心の中で唸り声をあげた。突き刺さる視線がちくちくとした針から、ぐさぐさとナイフに変わってしまったように感じる。
「あの、千里のお兄さん……?」
「千郷でいいよ」
「ち、千郷さん……もう大丈夫ですから下ろしてください。っお、重たいでしょうし……!」
食べた直後なんて余計に嫌!
「なんだそんなこと。軽いから気にしなくてもいいよ」
「でも……」
「それに千里で慣れてるしねー。この子、すっげぇ食べるだろ? 見かけによらず食べた直後とか総重量酷いから」
「ちょ、ちーちゃん酷いっ! そういうことは言わなくてもいいのっ」
「あれ気にしてたんだ?」
「もう!」
笑い飛ばすような明るい声。一人の人間を抱き上げているにもかかわらず、びくともしない腕は安定感があり、先ほどちらりと見えた印象よりも胸は厚くがっしりとしている。二人の横をついてきている千里と見比べると、143センチの千里より頭二つ分は身長もありそうで、そこから自分の身長と計算すると大体190センチ近くはある。
千里の話からは聞いていたけど、改めてこうして会話しているところを見ると、本当に仲がいいんだなぁ。
そっと見上げた先には、笑顔を浮かべた精悍な顔立ち。蒼井くんよりも先輩ということもあるんだろうけど、体格の差が激しく、高身長なのも合わさって一見怖そうに見えるのに、垂れ目がそれを和らげている。
……うん、確かにモテるだろうな、この人。
何度頼んでも心配だからと拒否された私は、結局北館にある生徒会室まで、お姫様だっこのまま連れて行かれたのだった。
もう羞恥心に私の精神は燃え尽きたわ。
救いは千里が傍にいることと、同じ階の四階に生徒会室があったことくらい。北館は元々生徒数が少ない上に、北館の四階は生徒会室や化学室などの特別教室しかないようで、お昼休みである今は特に人の気配がなかった。それぞれの校舎を分ける扉をくぐり抜けてしまえば、追いかけてきていた視線も届かなくなる。
それにしても、どうして保健室じゃなくて、生徒会室なんだろうか?
「あの、保健室じゃないんですか?」
「保健室では無理だろうしなぁ」
「無理?」
何のこっちゃ、と首を傾げる。
「あー……千里、説明は?」
「ちょっとだけしたよ。詳しくは言ってないけど……」
「そっか。どうすっかなぁ」
二人だけで納得されても分かりません。千里の方が話してくれそうだと見て、視線を移す。
「千里……?」
そこには、悲しみに暮れた暗い色を瞳に宿した千里がいた。
縋りつこうと手を伸ばし、けれどその手を振り解かれて、諦めきった人の目だ。倭刀の記憶にも、そんな目を持った人は何度も登場した。人一人が生きていくのがやっとだという、生きにくい時代。ただでさえ魔物という驚異的な存在すら登場した倭刀の記憶には、それ以外にも天災による飢饉、戦という人災が齎す賊の発生。生まれた子どもが満足に成長すら出来ない世界では、数多くの人の目に、絶望と諦めが宿っていた。
田舎の小さな集落に生まれ落ちた倭刀は、生きていくために幼い頃から戦へと駆り出され、多くの村々を巡った。そうして辿り着いた先が、一人の少女によって護られた平和な国。
その国のように平和な現代で、こんな目を見るとは夢にも思っていなかった。
「どうしたの、千里」
「……あとで説明するね」
「そうじゃなくて」
「わかちゃん。――友達止めたかったら、遠慮なく言ってね」
意味がわからない。
「止めるわけないじゃない!」
「……だと、いいな」
まるで信じていない様子の千里。千郷先輩は私たちの会話を聞いていなかったかのように、無言で足を進めている。もう一度否定しようとして、タイミング悪く、生徒会室の前に到着した。
手の塞がっている千郷先輩に代わって、三回ノックした千里が扉を開ける。
「失礼します」
「おー、楠木兄妹と……なんだそいつ、気持ち悪ぃな」
「はぁ!?」
いきなり飛び込んできた失礼な発言に声を荒げる。千里に対するもどかしさが、そのまま苛立ちとして出てしまっていた。生徒会室に入った途端、千郷先輩がやっと床に降ろしてくれる。睨みつけるように室内を見渡した。向かい合うように机が四つ並べられていて、そこから少し離れた場所にもう一つ机が置かれている。日当たりのいい部屋の隅には、応接間のように、くの字型の大きなソファーが置かれていて、更に二つ一人用のソファーが並んでいた。
離れた机は生徒会長のものだろう。そこに座っている男子生徒が一人。くの字型ソファーには横になって眠っている女子生徒が一人と、彼女の枕に膝を提供している男子生徒が一人。全員美形ってどういうことだよ。ここにいるってことは生徒会役員だろうけど、千郷先輩も含めて、この学校は顔で役員を選んでいるのか? 今までの常識が通用しない宮之原学園だとそれもあり得そうな気がする。
一人型ソファーにはそれぞれ男子生徒が座っていて、驚いたように振り返ったその顔は、春日と蒼井くんだった。
「え、若菜?」
「何して連行されてきたんだ」
「何もしてないよっ」
さっきから失礼すぎるだろ! 誰だよ、さっき悪口言ってきたのは!
春日と蒼井くんを抜いて、男の声だったから寝ている女生徒は除外。残ったのは生徒会長席に座っている人と、膝枕をしている人の二択。見比べていると、生徒会長が手招きして私を呼んだ。
「おいそこの気持ち悪いの」
お前か犯人!
「睨んでねぇでさっさと来い。取ってやらねぇぞ」
「は?」
「わかちゃん、行ってきて」
「千里?」
「大丈夫だよ。優一は口が悪いだけで中身は少ししか悪くないから」
千郷先輩、それフォローになってないです。生徒会長が「ああ?」と唸り声を上げてても笑顔でスルーする千郷先輩の本性を見た気がして背筋が冷たく感じる。けれど様子のおかしい千里にも促されたので、渋々会長席の前に立った。
光を反射させる金色の、肩に落ちるほど長い髪。近づいてみると根元まで綺麗な金色で、地毛なのだと気付いた。睫毛まで金色に輝いていて、遠くから陰になっていると黒に錯覚するほど深い青色をした瞳が、私の全身をくまなく見つめる。目を逸らすのも癪なので会長を観察していたが、一つ一つのパーツは女性的なのに、こうして顔全体を見てみると男性としか思えないことに気付く。
「全身絡みついてやがんな……おいお前、名前は」
「み、宮守若菜です」
会長は立ち上がると、すっと右腕を伸ばして私の喉を指さした。
「≪الصعود إلى الطريق إلى السماء الأبيض الذي يحرق في بلدي النار المقدسة التي أنت شي ولدوا لحسد الظل شي ساق اليك ناري تجسد الوحش يحكم شي لنا النار≫」
低い声が、何重にも重なって聞こえてくる。それなのに何を話しているのか、まったく聞き取れない。言葉がまるで歌のような、単なる音のように聞こえる。違和感さえ、覚えない。
夢心地のようなふわふわとした感覚。
眠くもないのにこのまま眠ってしまいそうなほど気持ちがよくて、うっとりと瞼を落としたとき、胸の奥から倭刀が目を覚ます。落ちつかない鼓動に先ほどまでの心地よさは消え、再び目を開けた。
「ひっ」
目を丸くした会長の腕に、踊る炎が蛇のように巻きついている。悲鳴が喉から零れ落ちたとき、炎は私に襲いかかってきた。