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私は、夢の中で生きている倭刀を、前世の私だと思っていた。
だから若菜としての私がいる以上もしかしたら姫だってこの世界に生まれ変わっているかもしれないと思っていたし、倭刀があれだけ会いたがっているのだから出来れば会えたらいいなと思っていた。
けれど、会えないだろうなという思いが、前提にあったんだと知る。
「若菜? ……なんだか顔色が悪いようだけど、大丈夫?」
「うん、平気」
「ならいいけど……緊張しているのかもしれないし、気をつけてね」
ふわりと柔らかく微笑んだ春日の笑みが、目に焼きつく。風であおられた桜吹雪の中に佇む姿は、澄んだ空気を感じさせた。離れていく手を、寂しく思う。
名前が同じだけなんだろうか。
――名前を知る前から惹かれるものがあったというのに?
姫以外に、こんなに綺麗な人を見たことはなかった。
春日が目を開き、潤んだ黒目を見たときの鼓動の高鳴りを思い出す。
嬉しくて、喜びを感じている倭刀の気持ちが流れ込んでくる。
どうしてだろう、すごく怖い。
倭刀の気持ちが強すぎて、いつもなら切り替えられる若菜としての自分が押し潰されそう。だって春日とは会ったばかりなのに、姫への思慕が春日へと形を変えていく。会えたと心の中で叫ぶ倭刀の声から耳を塞ぐ。
今まで倭刀を否定したことはなかった。
けれど今は、今だけは、倭刀の全てを否定したい。
春日に感じた鼓動の高鳴りは、倭刀が感じたものなのか、若菜が感じたものなのか。いつもならくっきりと別れていた筈の境界線は、それすら分からないほどに曖昧になっている。
「春日……」
「うん?」
自分が何を口にしているのかも、分かっていなかった。
「どうしてここで寝ていたの?」
「どうしてって?」
「だってこんな朝早くから、眠いなら寮で寝ていればよかったのに」
突然の質問に、春日の目が丸くなる。嫌な顔一つしないで頷いた春日は、
「この木って学園で一番大きな木なんだ。こうして横になると視界一面が桜で染まって、風に揺れる度に、時間が過ぎていく度に、景色が変わる。一瞬だって同じ景色は見られない」
そう言って桜の木を慈しむように目を細めて見上げた。
「世界って本当に綺麗だと思う……ここはそんな世界に近づける場所だから、つい足を運んで寝ころんじゃうんだ。そしたらあんまり気持ちいいから、気がついたら寝ちゃってる」
「気持ちは分かるけど、危ないよ」
「うん、友達にもよく言われるんだけど、ついね」
腕に抱えたブレザーを指さしながら肩を竦める春日に、再び鼓動が鳴り響く。
――――姫と同じ言葉だ。
また一つ、春日が姫へと近づいていく。
それでもまだ、若菜としての私は認められない。だって認めてしまったら、春日に惹かれた思いが全て、倭刀による姫のものになってしまいそうで。頭で否定して、心で肯定する。なにより春日が本当に姫だったとしても、きっと過去の記憶は持っていないだろう。だったら、春日は姫じゃないと思いたい。
ぐるぐると思考がめぐる。
その時だった。
「春日!」
鋭く低い声が響いた。棘のある声色に、思考の波に呑まれていた意識が浮上する。同時にあれだけ心を乱していた倭刀の感情が空気に溶けるかのように掻き消えた。
何事かと振り返った先には、怒ったように眉を寄せて睨む男子生徒がいた。短く切り揃えた黒髪と細いフレームの眼鏡が一層冷たい印象を感じさせる。
「おはよう、瑞樹。ブレザーありがとう」
「そんなことはいつものことだ。……ここで女子生徒と何をしている」
瑞樹と呼ばれた人がブレザーを受け取りながら、春日に向けていた視線を私に向ける。その視線の温度差に、彼が怒っているのは春日にではなく、私にだと察する。
でも私、怒られるようなことは何もしてない。入学式はさぼったけど!
「彼女は宮守若菜さん。僕を起こしてくれたんだよ」
「起こした? ……おいお前、春日に何もしてないだろうな」
ちょっ、何てこと言うの、この人!
「するわけないでしょ!?」
「どうだか。昼寝中の春日に触れようとした奴は老若男女問わずだ」
「はぁ!?」
ちょっと待て! それが本当なら危ないなんてもんじゃない!
春日はさっき気がついたら寝てるとかなんとか言ってなかったか!?
思わず愕然とした表情を春日に向けると、照れ臭そうな笑顔が返ってきた。――可愛い。いやいや見惚れてる場合じゃないよ、私! せっかく落ちついている倭刀までまた騒ぎ出しそうになってるしっ!
「瑞樹は大げさなんだよ。皆起こそうとしてくれただけなのに」
「春日は危機感が無さ過ぎる。だから俺が傍にいるんだが、少しは自分でも危機管理くらいしてくれ」
瑞樹が春日の髪を指に絡めた。目尻を指の甲で撫でながら髪を梳いている。
慣れたように受け入れている春日だけど、どう見ても男同士の距離にしては近すぎる。というか、瑞樹の目から険が消えて、とろけそうなほど甘い眼差しで春日を見つめてる姿からは、友情以上のものを感じる。
「……あの」
「まだ居たのか」
こっちを向いた目にはまたしても険が宿る。
「春日、俺たちは先に教室に向かうぞ。千郷先輩から先にクラスは教えてもらった」
「そうなんだ?」
「ああ。……そこのお前は、入学式で教えてもらわないとホームルームに間に合わないんじゃないか」
「そんなっ」
「この学園は人数が多すぎて入学式の最後に担任が生徒を集めるんだよ。ごめんね、僕に付き合わせちゃって。いつも瑞樹が僕のクラスを教えてくれるから他の子の場合を忘れてて……」
鼻で笑う瑞樹の隣で、残念そうにする春日。
ああ、なんかもう、倭刀がどうとか、姫がどうとか、どうでもよくなってきた。そんなことよりも、この、春日の横で怪しすぎる瑞樹に腹が立つっ!
クラスを知るためにはこのまま入学式に向かうしかない私の前で、瑞樹は春日の手を取るとこっちに見向きもせず校舎に向かう。
「またね」
鮮やかな笑顔を残して手を振る春日に、私も手を振り返しながら反対の手を握り締めた。
あいつは絶対、私の敵だっ!