溺愛されている奥様の悩み。
わたくしの可愛いアレン。
冬の厳しさも一層増す頃ですが、お体のほうは大丈夫でしょうか?
貴方は季節の変わり目になるといつも体調を崩していたので、お母様は心配です。
くれぐれも、お腹を出して寝てはいけませんよ。
わたくしのことは心配しないで。
最近は体力をつけるために、散歩をしていますの。
お庭だけではなくて、最近は屋敷の外まで出れるようになりましたのよ。
そうそう、前の手紙にあったお見合いのご令嬢とはその後如何かしら。
あなたももう15歳ですもの、きっと仲良くしているのですね。
気付けば、あなたを産んだ16歳にあなたは近づいているのですね……。
早くあなたに会いたいものです。
お母様の病気も確実によくなってきていますのよ。
はやく、あなたの顔が見たいわ。
それもこれも、すべては……。
「……奥様、ペンが折れてしまっております」
冷静な侍女の言葉なんて無くとも、わかっているわよ!
それでもわたくしは己のうちにある怒りを抑えることはできなかった。
それが分かっているのか、この冷静な侍女はそっとペンを引き抜く。
ちょっと、これで今月何本目ですか?なんていう目をするのは止めなさい!
「メリッサ、わたくしは病人ですのよね?」
「奥様、早朝から5キロの走り込みをされてその後乗馬の練習、剣の素振り、はては筋トレまでされていて毎日規則正しく生活を送る方を病人扱いすることは、むしろ病人に対しての冒涜になります」
「そう、そうよ!毎日愛する息子であるアレンに会うためにと体力をつけてこんなにも元気ですのよ!」
そもそも、ここへ療養にきたのだって、ただの風邪だ。
しかも重篤な症状が出たわけでもなく、一晩寝て次の日にはケロッと治る様な風邪でなぜ療養に行かなくては行けないのか。
確かにここは気候も穏やかで過ごしやすい。
でもなにより王都の屋敷には、馬車で一日かかるほど遠い。
愛する息子と離れ離れになる理由など、何一つ見当たらないのに!
「ですが奥様、旦那様のお許しもなく王都の屋敷には戻れません」
「あんのおとこ……!」
「奥様、言葉遣いが悪いです」
「知っていますのよ!わたくしはもう2年近くあの子に会えていないのに、あの男は定期的にアレンに会いに行っていることを!」
あの男だって、自分の息子は可愛いのだ。
そう、アレンは可愛い。とてもかわいい。
髪の色とか運悪く似てしまったが、全体的にはわたくしの遺伝子が勝ったのか可愛らしい顔立ちをしている。
性格も心優しくて、あの男に似なくてほんっとうに良かった!
ただその性格のせいであの男に振り回されていることも知っている。
可哀そうなアレン、お母様では止めることはできないの……。
むしろ出来ていたら今頃離婚しているというか、そもそも結婚などしていないわ!!
「今だってアレンに会いに行っているのでしょう!?あの男がわたくしを連れずに数週間留守にするときはいっつもそうだということは知っていてよ!」
「まあ、旦那様は隠そうともしておりませんし」
「そこがムカつくのよ!わたくしはいつも会いたいと懇願しているのにあの男よりにもよって……『泣いている顔も可愛いなぁ、シンシアは。』ですって……!」
見た目はぽやぽやした優男風なのに、中身はドSってどういうことよ!!
お人よしそうな気弱そうな見た目で騙される人も多い。
けれど、それでいて国内有力の伯爵家の当主であり、実は国王陛下からも信頼が厚く王都から離れているのだって外交や貿易などで暗躍しているからだけど。
大体性格がよさそうな人だったら、社交界デビューしたての15歳の少女を拉致るかのように求婚して孕ませるような真似なんてしないのよ!
それを勝手に美談にして広めるのはよしてちょうだい!
「奥様、思考がちょっと品がない上に言葉が悪いです」
「思考まで勝手にツッコみを入れないでちょうだい!」
「そうは言われましても、私は奥様に嘘を申すことはできませんので。あ、ちなみに黙っておくこともできませんので」
メリッサは、個性派ぞろいの伯爵家従者の中で唯一わたくしに嘘をつけない。
大体ここの侍従は全員が全員、面白ければそれでいいという迷惑極まりない集団だ。
それで何度泣きを見たことか……平気で『どっきりでした!』とか何度殺意が湧いたわ……。
全く、主があれだと仕える者もみんなそうなのかしら。
あまりにも酷いものだから、離婚を盾にメリッサだけは嘘をつかせないようにすることを迫った。
もともとメリッサはわたくしの実家から連れてきて幼少からの知り合いだから嘘をつくことも少なかったのだけれど。
「メリッサ、あの男の帰りはいつになるのかしら?」
「私の夫の情報によれば、三日後ですね」
メリッサは伯爵家の執事、しかもあの男が信頼の置く側近と結婚している。
だから意外にあの男の行動予定は把握できる。
ともすれば、行動をするというのなら今しかないということだ。
「わたくしは、家に帰りますわ!」
そのために、体力をつけるためにマラソンや剣の素振り、乗馬練習などをしていたのだ。
待っていてね、アレン!
お母様は単身あなたの元に帰って貴方のお父様みたいなロクデナシ男とは速攻離婚をするわ!
そしてとっとと穏やかな男性と再婚して、可愛いアレンと穏やかな人生をゲットするのよ!
「……奥様、ことはそう簡単には運びませんよ」
「お黙りなさい。思い立ったら吉日です、準備をなさい」
「……どうなってもしれませんよ?」
いつものようにため息をついたメリッサは、もう一人の側仕えのメイドに目配せをする。
その表情はもう既に顛末を予想しきったもの。
いいえ、今回ばかりは簡単に邪魔はさせませんわ。
わたくしが一体何のために早朝5キロの走り込みを行い、剣を扱えるようにし、馬に乗れるようになったか。
すべてはこの日のために!
見てなさい、ロイド・サディアス・アーウィン!
今日という今日は、その3秒で泣けるというお得意の嘘泣きを本当の涙にかえてみせるわ。
そして可愛いアレンに再会するために。
「分かりましたぁ、プランDの発動ですねっ!」
「ええ、そのように通達してください」
……プランD……?
ちょ、ちょっとお待ちなさい?
止めるすべなく、側仕えのメイドは何故か嬉しそうに部屋を飛び出していく。
「ちょ、ちょっと、どういうこと?」
「奥様の脱走計画を阻止する任務でございます。雇用者全員に徹底通知されております」
「こ、雇用者全員?」
「ええ、側仕えのメイドからシェフ、厩舎を管理する下男や屋敷に出入りする買付業者まで」
「い、いいいいいったい、いつのまに……!?」
「雇用契約書にも最初からばっちり。ちなみにプランは全部で26通りございます」
「何が起こるというのですか!?」
落ち着きなさい、シンシア!
すべてはこの日のために頑張ってきたのですから、何も怖いものなどあるはずがないのですよ!
あの男の策略がなんですか、そんなもの叩きつぶしてあげるわ!!
「残念ながら奥様、私はプランの存在は知っていても内容までは聞かされておりません」
だから本当に脱走するなら、ファイト!
って、メリッサ!本当あなたは誰の味方だというの!!
「とにかく、馬です!馬さえあれば王都には一日でつけるはずでしょう!」
厩舎に先回りされる前に、足を押さえておかなければ帰る手段がなくなってしまう!
プランDが一体どういうものは分からないけど、こちらがそれより早く動けば良いこと。
あの男がいない今しかチャンスはないの!
と思い立ちながらドアノブを回すけど、開かない。
「……え?」
「奥様、先ほどのガチャリという施錠音は聞いていなかったのですか?」
「それを早く言いなさいよ!」
「いえてっきり気付いているものかと」
ちょっと仮にも、この屋敷の主の妻であるわたくしを閉じ込めてもいいと思っているの!?
しかも主であるあの男がいない今、ここの管理責任者はわたくしでしょうが!
どういう従者よ、主を閉じ込める従者なんて聞いたことないわよー!
「奥様、心の声はすべて声に出ていますが大丈夫ですかぁ?」
大丈夫なわけないでしょうが!
この息絶え絶えなのは扉の向こうにいる貴女だってわかっているでしょう!
メリッサ、背中をさすってないで、この扉を開けるように何とか言ってちょうだい!
「ちなみにプランDの意味は、ドア施錠のDでーす!」
「ああ、なるほど」
「なるほど、じゃないでしょう!開けなさい、これは命令です!」
「でも~奥様ぁ、わたしここを開けると解雇されちゃうんです。窮屈ですけどちょっとだけ我慢してくださいね!」
そして遠ざかる足音。
本当に開ける気ゼロね……いいわ、分かったわ。
そこまで徹底するというならばこちらも覚悟が甘かった。
それなら窓から脱出するのみ!
「奥様、ここは2階ですのでおやめください。それに旦那様に知られたらどうなるかわかりませんよ?」
「いいから手伝いなさい!カーテンを切り裂いてロープを作るのです」
絶対に脱出してやる!
あの男の思い通りになるものですか!
筋トレの成果を見せるときですもの。
そこらの軟なご令嬢とか夫人とかと一緒にしてもらっては困るわ。
こう見えても15年、あの男に浚われるようにして嫌々なった伯爵夫人をただ務めていたわけではないのよ!
「奥様、先ほど言っていた『ちょっとだけ』というのは……」
「いいからメリッサ、ロープが揺れなよう押さえていて」
2階とはいえ、結構高さはある。
頼りになるのは心もとないカーテンで作ったロープのみ。
落ちたら大けがだけど……やるしかない。
アレン、待っていて。お母様はあなたの元へ戻るために命を懸けます。
いいえ、決して命を落とすつもりなどないけど!
「本当にやるおつもりですか?奥様はちょっと……いえかなりのドジッ子じゃないですか」
「お黙りなさい!ドジッ子とはなんですか、ちょっとそそっかしいだけです!!」
下を見なければ大丈夫、下を見るからこそ怖いのよ!
やれるわ、すべては愛しのアレンのために!
慎重にロープを握ってゆっくり降りる。
大丈夫、怖くない怖くない。
こんな高さ、幼いころ一杯木登りしたじゃない。
……そういえば降りるときに滑って落ちて、大けがはしなかったもののとても叱られたのを思い出した。
確か大怪我をしたらどうするんだとか、淑女たるものがスカートを捲らせてはしたない!とか……。
今のこの姿に比べたら、あの時なんて可愛いものね……。
「え?」
「奥様!」
っと考え事していたら、カーテンを掴んでいた手が滑ったぁ!!?
何でこんなにツルツルしているのよ、このカーテンは!
高さはまだ結構あるはずだ。
襲う衝撃に恐ろしくなって思いっきり目を瞑るけど……こない?
というか、なにやらふわっという感じがしたような……。
「おや、天使がこの腕の中に落ちてきたのかと思ったよ」
ここここの、嗅ぎ慣れたコロンの匂いは……!?
そんなバカな……だって帰りは三日後だって言っていたはずじゃ!
しかしこの聞くだけだったら優しげで落ち着いたテノールは、嫌というほど聞いたそれで……。
信じたくないからか、目が開かないというか開きたくない……!
「僕の天使は、お目覚めのキスが必要かな?」
「起きていますわ!これ以上になく目は開いていますから必要ないです!」
あああああ、やっぱりロイド・サディアス・アーウィン!
どうしてここに!?だって帰りは三日後って言っていたじゃないの!
まさか、メリッサの夫が嘘をついていたというの?
妻であるメリッサに嘘を言っていいと思っているの!?
とにかく逃げなきゃ!今までと同じように警報が鳴っている、これは危険だと!
けど、わたくしの身はこの男に囚われているんだった!
「君の瞳は口ほどにも物を言うね、シンシア」
「……あなたは相変わらず胡散臭い笑顔ですこと!」
「病弱な君は今日が元気みたいだね」
メリッサ!メリッサ、助けて頂戴!
と二階に視線をやるも、無表情に頭を横に振る。
完全に見捨てられているというか、最初からこうなることがわかりきっていたようで……そんなこと言わずに助けて!
しかしゆっくりとロイドは歩き出してバルコニーから屋敷に入るものだから、二階で事の成り行きを見守っていたメリッサの姿は見えなくなった。
……ねえ、ちょっと待って、どこいくというの?
この屋敷は知り尽くしているからなんとなく、ロイドの行く方向は分かるけどわかるけど!
今はまだ太陽が空の真上にあって、アフタヌーンティーもまだの時間ですのよ!?
「泣いている顔も可愛いね、シンシアは」
「誰が泣かせていると思っているの!?」
「勿論僕さ。それに僕以外の男が君を泣かせて良い訳がないだろう?」
……ひいっ!
ほ、本性が、にじみ出ている!
見た目は優男でひ弱そうなのに、先ほどから逃げ出そうとしているこの腕はびくともしない。
歩調は優雅に、だけどしっかりとその方向に向かっている。
こ、このままでは間違いなく捕食される運命……!
「先ほどのスカートを捲らせて覗いていた君の白い足はなまめかしかったけど、もし誰かに見られていたらどうするんだ?」
「どうもしませんわ!それより問題はそこではないでしょう!」
「そう、危険だったという認識があったにも関わらず君は実行した、と」
うっ!
先ほどから笑顔だけど、目が全く笑っていないのよ!
こういうときの、ロイドは大変な危険人物だ。
早く逃げ出さないと!わたくしを降ろすときがチャンスね!
しかし思いは裏腹にじっと機会を伺うわたくしの耳元に、そっと囁きかける。
「……それじゃあ、悪い子にはお仕置きだ」
ぞっとするほど冷たくて。
ぞっとするほど愉快そうで。
ぞっとするほど妖艶なその声で。
「い……いやあああぁぁぁっ!!!!」
わたくしの声は扉の向こうへと吸い込まれるように消えていったのは言うまででもない……。
「あ、メリッサ!結局奥様は勝てたの?」
「見てわかるでしょう。奥様の敗戦記録更新よ」
「やっぱりそうよねー今日も賭けにならなかったわ。だれか大穴の奥様に賭ける人いないのかしら」
「いる訳ないわ。大体旦那様が奥様をそう簡単に手放すわけないでしょう」
「それもそうよねぇ」
アーウィン伯爵家はいつもどおり平和である。
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シンシア・メアリ・アーウィン
溺愛される伯爵夫人。
社交界デビューの将来に夢見たその日に目をつけられたのが運の尽き。
夫である伯爵をいつかぎゃふんと言わせるために日々鍛えているドジッ子奥様。
メリッサ・コールマン
奥様の幼少からの付き合いである側仕え。
お嬢様であった奥様に泣き落としされて伯爵家についてきて、ついでに旦那様の側近と結婚。
奥様の味方に見えて結構微妙だけど、奥様にちゃんと好意は持っている。
ロイド・サディアス・アーウィン
妻も息子も溺愛する伯爵。二人の泣き顔大好き。
見た目は優男なのに、実はかなりのやり手のドS。
ドS設定がいまいち生かし切れなかった人物。
アーウィン伯爵家従者のみなさん
面白いこと大好きな愉快者集団だけど、旦那様は怒ったら怖いから命令は遵守。
旦那様と奥様のやり取りを微笑ましく見守っている。
奥様が旦那様に勝てる日がくるか賭けをしているが、奥様に賭ける人がいないため成立していない。
後書きが長くて申し訳ございません。
思いつくままに、溺愛される奥様というある意味王道設定を書いてみました。
非常に楽しかったです!
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
また宜しくお願い致します。