おかえりの行方
仕事で不在の父と病ゆえに家にいない母――。
物心ついた時、彼女の生活にはいくつかの”当たり前”があった。
それが他の家庭と少し違う”当たり前”だと知ったのは、母の死後、父が再婚した時の事。
今まで仕事の鬼だった新しい母は、幼い彼女を思って慣れない家庭に数日間入り、そしてまた仕事に戻っていったのだが、その間、とても不思議な挨拶を彼女にしていた。
学校から帰ってきた彼女に対して、「おかえり」――と。
彼女にとってソレは、帰ってきた父を迎えるための台詞であり、返す「ただいま」は帰ってきた父の台詞。
なのに新しい母は当然のように彼女へ「おかえり」と言い、これを聞く度、彼女は胸を痛めたものである。
(あねかあさんは、ゆうのことがきらいなのかな……)
たかが挨拶、されど自分の役割を取られたと、小さいながらに彼女は思ってしまったのだ。
これが勘違いだと判ったのは、新しい母が仕事に戻る前日、日中だけでも彼女を預かるよう、半ば強制された叔父と出会ってから。
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階段でわざわざ振り返り、何を言うのかと思えば「おかえり」の一言。
「ただいま」とは返したものの、虚を衝かれてしまった悠凪は、居間のテーブルに頭を乗せながら、ぼんやり昔の事を思い出していた。
あれは、小学校から真っ直ぐ迷鏡堂へ行くようになった数日後。
母と同じく「おかえり」と言って迎える閑人に、その日、とうとう我慢できなった悠凪は、鞄を投げつけ怒鳴り散らした。
「おかえりはゆうがいうの! ただいまもいちとうさんのなの! かんじんはいっちゃだめ! ゆうもいわないの!」
優しい母には言えなかった事を言えたのは、相手がいい加減そうな閑人だったからだろう。
対し、投げられた鞄を胡坐をかいたまま片手で受け止めた閑人は、眉根を寄せて「アア?」と不機嫌な声を上げた。
途端に悠凪がビクついたなら、閑人は仰々しい溜息をついて立ち上がり、怯える彼女を有無も言わさず抱き上げる。
父に抱き上げられた時より高い視界に悠凪の目が丸くなれば、彼女を足の上に、再び胡坐を掻いた閑人は言った。
「お前、何か勘違いしてねェか?」
「……かんちがい?」
「ああ。あのな、おかえりってのは、家にいる奴が外から戻ってきた奴に言うんだよ。よく帰ってきたってな。で、ただいまってのは、外から戻ってきた奴が家にいる奴に言うんだよ。今戻ってきたぞってな」
噛み砕いて説明する閑人の顔をじっと見つめていた悠凪は、自分なりにソレを頭に入れると、おもむろに無精ひげの頬へぺたっと手をくっつけた。
「……じゃあ、かんじんは」
「うん?」
「ゆうがかえってきてうれしい? よくかえってきたって、よろこんでくれる?」
「そうだな。とりあえず、いきなり鞄を投げつけてきたり、ただいまと返さなかったりしねェならな」
「ごめんね? もうしないから」
「そうか? なら、イイ。よく帰ってきたな、悠凪」
「うん。ただいま、かんじん」
髪をくしゃくしゃにされたものの、頭を撫でられるのが好きだった悠凪は、この後しばらく閑人に抱きついたまま。
そうして「おかえり」の意味を正しく知った彼女は、掛けられる言葉のくすぐったさも同時に知り――
だからなのか、あれ以来、律儀に「おかえり」を忘れず言い続ける閑人へ、悠凪は小さく息をついた。
テーブルから返ってきた温もりが唇を湿らせれば、余計に大きな吐息が零れていく。
(結局、ファーストキスにはならなかったなぁ。閑人さんって、いつも変なところで手を引くよね。……って、これじゃあキスしたかったみたいだけど)
身体を起こし、翳した指に火照った息を吹きかける。
思い起こしても、今より少し若いだけであまり変わらない閑人の姿に、悠凪の気分が少しだけ傾いだ。
(まあ、そりゃそうだよね。今じゃ完全にセクハラばかりだけど、それだって昔の延長線みたいなものだし。際どい台詞にしたところで、閑人さんにとってはからかっているだけ。たちの悪さは折り紙付きだけど、実際、本当に、そういう目で見られた事ないもの。キスの予感にしても、拍子の事故でありそうってだけ。あんな雰囲気の中じゃ、まずない話よね)
異性としてみられたいとは思わないが、何とも思われていないのは、それはそれでもやもやする。
複雑な乙女心を抱えた悠凪がもう一度溜息をつけば、湿った手が大きな手に包まれた。
見上げたなら野菜炒めを手にした閑人が、それをテーブルの上に置きながら困惑気味に眉を寄せた。
「寒いのか、悠凪?」
どうやら意味もなく手の平に息を吹きかけるのを見て、部屋が寒いのだと解釈したらしい。
擦る温かなくすぐったさに首を振った悠凪は、からかいはしても大抵過保護な閑人に「違う、大丈夫だから」と言うと、用意された野菜炒めに箸を伸ばした。
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夕飯を執拗に勧め、自分で作りもしたくせに、何も食べなかった閑人は、食べ終わった悠凪が食器を片付けるのを見計らい、居間のソファーから身を起こした。
待っている間、見るともなしに見ていたテレビを消すと、軽い柔軟をして悠凪へと視線を寄越す。
「よし。じゃあ、とっととやんぞ」
「うん……」
閑人の「やる」が百歳を脅かす幻魔の退治だと知っている悠凪は、しかし、夕飯前に急かしたのが嘘のように渋い顔をしていた。
百歳を助けたい気持ちには、今も変わりはない。
だが――
(毎度毎度……はっきり言って私が行く必要ないよね)
ついて来ると信じて疑わない閑人の背を追い、自宅に鍵を掛けて迷鏡堂へ行く中で、そんな事を悠凪は思う。
キスされるかどうかの瀬戸際ですっかり失念していたものの、悠凪の夕飯を優先させたところで、閑人が彼女を待つ必要性は全くといって良いほどなかった。
何せ彼一人でも、いや、彼一人の方が幻魔を退治するには都合が良いのだから。
だというのに閑人は、毎回幻魔退治に悠凪を連れて行く。
悠凪がどんなに足手纏いになると主張しても、実際何の役に立たなくても。
時には邪魔にしかならないというのに、懲りもせず。
「悠凪」
「あ、うん」
呼び声に応えて見やれば、迷鏡堂の扉を開ける姿。
暗に入れという動作を受けて先に店内へ入った悠凪は、主不在でも照らし続ける光に目を細め――
「おかえりなさい、悠凪殿」
「きゃあっ!?」
誰もいないと思っていた店側からの、突然の抱擁。
ついでに尻まで撫でられたなら、相手が誰であるかを察し、その胸板を思いっきり突き飛ばした。
が、意外に強い腕の持ち主は離れる事もなく、逆に悠凪を責めるていで引き寄せてくる。
両手で臀部を鷲掴みながら。
「いっやああっ! 止めて下さい、訴えますよ!?」
閑人が触れていた時以上に嫌がる悠凪が、もぞもぞする尻に身を捩りつつ睨み付ければ、その先で目を閉じた男が口元だけを微笑ませた。
「久しぶりにお会いしたというのに、なんとつれないお言葉。このまま足を割って強引に捻じ込みたくなってしまうではありませんか」
「ひぃっ!? い、言いつつ足を捻り込ませないで下さい! っていうか放して!!」
「そうは申されましても、この、若さの為せる弾力性は何とも手放し難く――おっと?」
悠凪がどれだけ叫んでも離れなかった男は、彼女へ摺り寄せていた身体を唐突に後方へ離した。
その理由が、悠凪の後ろから男の顔面目掛けて起こった強烈な一打だと気づいた頃には、彼女の身は閑人の腕の中に在り。
「てめェ……焔。誰が悠凪のケツに触れてイイと言った?」
「ちょ、閑人さんっ!?」
「おや? では、お許しを頂ければ触り放題だと」
「んな屁理屈通るわけねェだろ? つぅか、お前……毎度毎度、無断で人ン家入りやがって」
「だってぇ、開いているんですもんっ! 駄目ですよぉ、影浦殿ぉ。最近物騒なんですから、戸締りはきちんとしなきゃ、めっ!」
やたらと身体をくねくねさせ、最後に至っては腰に手を当て前屈みで、人差し指を振る男・焔。
「野郎……どうやらマジで殺り合いてェようだな?」
音がしそうな怒りを貼り付けた閑人は、青筋を立てながら握り拳を翳し、臨戦態勢を取る――が。
「いい加減にしろ、このド変態ども!!」
「いっ、てっ!? 甲を抓るな、甲を! 地味に痛ェぞ、悠凪」
引き寄せると同時に焔と同じ行動を取り始めた閑人へ、ようやく効果的な攻撃を加えられた悠凪は、二人の男から距離を置くと、フーッと荒い息をついた。