その存在、その価値 その2
スカートの中に手を突っ込まれたり、尻を撫で回されたりする事はあまりないものの、セクハラ紛い――いや、セクハラそのもののの行為は、閑人によりほぼ日常的に受け続けてきた悠凪。
そもそもの間違いは、二次性徴過程において変に意識するのも可笑しいと、幼い頃は何とも思わなかった彼の行為を甘受してしまったところにある訳だが、そんな関係を続けているにも関わらず、露出している肌の中、一度として触れられた事のない場所があった。
それは今現在、閑人の吐息に舐められている――唇。
(ど、どうしよう……このままなし崩しにされてしまうの?)
指にせよ、何にせよ、今まで無事だったのが不思議なくらい、閑人から触れられた憶えのない其処。
正確には閑人どころか誰にも触れられた憶えはないのだが。
だというのに、初めて触れるところが閑人の唇である事に、悠凪は酷く狼狽していた。
しかしそれと同時に、来るべくして来た、とも思っていた。
彼女は薄々、ファーストキスの相手は閑人になる、そう予感していたのだ。
叔父と姪なのに、という野暮な声は最初から悠凪の方にはない。
元よりその関係とて戸籍上での事、二人の間には一滴の血の繋がりさえない。
犯罪級の年齢差にしてみても悠凪が気にした事はなく、だからこそ彼女は触れるか触れないかの位置に、心をざわめかせていた。
(うぅ……どうしたら良い? 待っていればいいの? それとも私から――はなんかやだし。か、閑人さん! するならするで、さっさと済ませてよ!)
言えばそれだけで交わされそうな近さに、雰囲気台無しの叫びを内でする悠凪。
斜め頭上の壁に固定された手首が、閑人の親指に撫でられては、出て行こうとする声すら飲み込んで、その時をじっと待つものの、
(こ、こういうのを蛇の生殺しっていうのかしら? ああでもそれって女としてどうなの?)
焦らされれば焦らされるほど、仕様もない考えが悠凪の頭の中をグルグル回っていく。
いっそ目でも閉じてしまおうか、準備は出来ていると暗に示してしまおうか。
そんな風に思考が追い詰められてきたなら、更に閑人の身体が寄せられ、乗じて起こる刺激に悠凪の首が竦められた。
と、ふいに閑人が笑い含みに言う。
「三人で愉しむってのもアリか」
(さ、三人って?)
「俺と悠凪と、あの嬢ちゃんとさ。ほれ、いつだったか見せただろう? アレみてぇに、男一人女二人でよォ」
悠凪の心を読んだていで熱っぽく語りかける閑人。
皆まで言われずとも、「三人で愉しむ」意味を正しく理解した悠凪は、「あの嬢ちゃん」と示された早苗を浮かべ、今の状況が依頼料から発展した事であると思い出した。
しかし、だからといって、悠凪が我を取り戻して怒鳴り散らすかと言えば。
(閑人さんと、私と……早苗さん、も?)
現在の状況と件の佳人の妖しさが為せる業か、掠めた妄想に悠凪の喉がこくんと鳴った。
(――って、何考えているのよ、私。早苗さんの好きな人は、ちゃんと男の人だったじゃない。……じゃなくて! そもそも三人とか、ううん、そうでもなくて!!)
続け様、正気を取り戻した悠凪は、一瞬でも妄想に耽った後悔に苛まれつつ、閑人を睨みつける。
熱に潤んだ瞳では、ほとんど効果は望めないものの。
「駄目だよ、閑人。そんなの、絶対駄目。早苗さんの身体は早苗さんのモノ、だから」
「……ああ。判っているさ、んなモン。俺もコレで夢見がちな性分だからよォ? 心の伴わねェモンよか、はなっから心のねェモンの方がイイ。ってな訳で、この報酬は俺のモンでイイな?」
「……うん」
ぴらっと現れた五枚の紙幣に片手が解放されたと気づいた悠凪は、その手を胸の前に持ってくると軽く握り締めた。
本当は良いも悪いも、悠凪に言う権利はない。
幻魔を相手にするのは閑人であって、彼女ではないのだ。
それなのに悠凪が閑人が報酬を得るのを好まない理由は唯一つ。
彼が報酬の全てを悠凪に費やしてくるせいだ。
悠凪が好むと好まざるとに関わらず――。
そんな悠凪から満足の行く答えを得られたからだろう、それまでの雰囲気はどこへやら、身体を起こした閑人は、紙幣を再び懐に仕舞うとほくほく顔で尋ねてきた。
「で、悠凪? 出前にするか? それとも買い物行って、何か豪勢なモンでも――」
「ちょ、閑人さん!? 先に幻魔でしょ!?」
「アア? 何言ってんだ、お前? 空腹を満たすのが先だろ? 昔からよく言うじゃねェか。腹が減っては戦は出来ぬって。こんなにぺったんこな腹で、幻魔なんか相手に出来ねェだろ?」
「相手って、それは閑人さんが――ひゃっ!?」
伸びて来た手が問答無用で触れたのは、扉に張り付いたままの悠凪の胃の辺り。
胸の真下にある見えない指先には身じろげても、依然として左手が斜め上方に押さえつけられていたなら、逃げることは叶わず。
「か、閑人さん、離して!」
蹴り上げたところでどうせ避けられてしまうため、胃に置かれた閑人の手を引き剥がすように右手を添える。
するとこれを嫌うように手の平が下方へ移動していく。
「!」
撫でられる服越しの動きに悠凪の息が詰まれば、再び近づいてきた閑人の唇がぽつりと言った。
「前々から言おう言おうと思っていたんだが……悠凪って着やせするタイプだよな」
「何をっ」
「身体の線がくっきり出る服だと、そこそこ増量して」
「ど、どこ見て――」
「胸」
「見んな!」
添えていた手を振り上げれば、ひょいと離れる閑人の顔。
乗じて腹部から手まで離れたなら、ほっとする間もなく囚われたままの手首がぐっと引かれた。
「きゃっ」
反動でダンスでも踊っているかのようにくるりと身体が回転すれば、閑人の身体を背後に感じて意味なく熱が上がっていく。
回された手が腹部に戻ってきても、悠凪の意識はこれを捉えきれず。
「! か、閑人さん……」
それもそのはず、早苗に掴まれた赤みを残す右手首に、閑人が唇を押し当てているのだ。
幾度となく寄せられる、かさついた柔らかさ。
舐めるでも、啄ばむでもないソレをぽーっと眺めていたなら、悠凪の視線に気づいた閑人が唇の感触を馴染ませるように、あるいは消すように、親指で口付けていた箇所を擦っていく。
「あの嬢ちゃんに付けられた痕だろ、コレ。余程切羽詰ってたんだろうが、俺の悠凪にこんなモン付けたのは頂けねェ。っつう事で、俺は飯を優先する」
「誰が閑人さんのですか、誰が!」
きっぱり断言する閑人に、緩くなった拘束から手首を取り戻した悠凪が叫んだ。
ついでに身を捩って向かい合えば、面白くなさそうに息をついた閑人が頭を掻いた。
「皆まで言わせたいってんなら、言ってやらん事もないが」
「……結構です。聞きたくありません」
否定にぷいっと横を向く悠凪。
「だろ?」
閑人は知った風にそう言うと、掻く手を下ろして悠凪の頭を軽く撫でた。
今更ご機嫌取りもないだろう、そう思って悠凪が睨みつけたなら、にやっと笑った閑人が言う。
「で、悠凪。何が喰いたい?」
「……はあ」
結局、どれだけ言っても堂々巡り、夕食を優先させる閑人へこれ見よがしに溜息をついた悠凪は、小さく首を振って撫でる手を払うと、「あるもので、適当に」と答えた。
階下へ向かいつつ「りょーかい」と請け負った閑人は、しかし足を止めると、後ろに続くつもりだった悠凪へ告げる。
「そーいや悠凪、言ってなかったな――」