噂の君 その2
明らかに、風に捲れたスカートの中身を撮ったであろう、カメラのシャッター音。
ぞっとするほど冷たい機械音に、悠凪の心臓が早鐘を打つ。
これを払うように後ろを振り返った彼女は、そこで見知らぬ男子生徒が携帯電話を弄る姿を見つけた。
屋上の出入り口の丁度裏側、壁を背にして座る彼以外、背後には誰もいなかったと目だけで確かめた悠凪は、不安げに喉を鳴らしながら恐る恐る近づいていく。
知らばっくれたり、脅してきたりしたら、と不穏な予想が頭を過ぎった。
と、その時。
ふいに男子生徒の顔が上がり、合った視線に萎縮してしまった悠凪の喉が「ひぎっ」と可笑しな声を上げた。
そんな彼女に対し、さらさらした薄茶色の髪の下で、眠そうにしている薄墨色の目を向けた男子生徒は、特に表情を動かすでもなく、悠凪を見つめ続ける。
じーっと、ただずっと、じぃーっと。
最初は何を言われるのかと身構え、強張っていた悠凪だが、とろんとした目つきの男子生徒に、段々この人は起きているのだろうか、という疑問が湧いてきた。
いや、携帯電話を直前まで弄っていたのだから、起きてはいるのだろうが、それにしては随分とリアクションが少ない。
「あのぉ……?」
だが、音の方向やタイミングから推察するに、悠凪のスカートの中身を撮ったのは、間違いなく彼。
困惑と恐怖、どちらも感じつつ悠凪が声をかければ、ワンテンポ遅れて眠そうな目を瞬かせた男子生徒は、何も言わずに自分の隣をぽんぽんと叩いてみせた。
座れ、ということだろうか。
男子生徒の終始のんびりした行動に、いまいち現状への危機感を保てない悠凪は、それでも彼が手にする携帯電話は脅しの材料になると、示された通り彼の隣へ腰を下ろした。
するとどういうつもりか、ぽんっと手渡される、件の携帯電話。
「え……?」
思わず男子生徒へ目を向けたなら、前だけを見つめる彼は眠そうな声で言った。
「……削除した。確認してみるといい」
「削除って」
「……パンツ。撮るつもりはなかった。御免」
「…………」
またしてもワンテンポずれはしたものの、嘘ごまかしのない、ストレートな謝罪が伸べられた。
抑揚のない謝罪は平坦に尽きるが、試しに携帯電話を操作してみれば、確かにスカートが捲れている悠凪の写真は存在していなかった。
「あの、SDも確認していいですか?」
「……いいよ。君の気が済むまで」
「では失礼して」
一応、断りを入れて確認してみても、やはり悠凪の危惧する画像はどこにも見当たらず。
「すみません、お返しします」
「……ん」
携帯電話を受け取る時になって、ようやく悠凪の方を向いた彼は、黒と緑の機体をポケットにしまうと、その手の平をこちらへ向けてきた。
お手でもしろというのか――一瞬浮かんだ叔父の顔に、悠凪が知らず知らず青筋を立てていけば、男子生徒は眠そうな声で言った。
「……手、出して」
「手?」
悠凪としては、スカートの画像が削除されている以上、ここに留まる理由はない。
しかし、全動作がスローテンポな彼が、差し出した手に何をするのかは少々気になるところでもある。
まさか閑人や焔でもあるまいに、白昼堂々、破廉恥な行為に走りはしないだろう。
そう思って、悠凪が言われた通り手の平を向けたなら、おもむろに懐から何かを取り出す男子生徒。
謝罪の一環でその何か寄越すつもりなのかと、悠凪の眉間に皺が寄れば、果たして手渡されるその何か。
ずっしりと重く、それでいて冷たく、先端に不恰好な円筒をつけた黒いソレは――
「……え? ど、どういう……?」
だらだら流れる汗を感じ、動揺した悠凪の目が男子生徒に向けられる。
相変わらずの眠たそうな顔をした彼は、ソレごと悠凪の手を握り締めると、円筒の先端に自分の眉間を据え、彼女の人差し指をソレの引き金へと差し入れていく。
そう、何を隠そう彼が悠凪に手渡したソレは紛れもない――銃。
(こっ、こっこっこっここはっ、日本、ですよね!?)
一介の男子高校生が携帯して良い代物ではない、一生涯に渡って縁遠くありたい物体。
そんなものの引き金に指を連れ込まれた悠凪の黒目は、答えを求めるように男子生徒と銃の間を行ったり来たり。
しかし男子生徒はゆっくり頷くと、穏やかな調子はそのままに、しっかりとした声で言った。
「……大丈夫、モデルガンじゃなくて本物だから」
「どっ!?」
(どこが大丈夫!?)
素っ頓狂な叫びを上げかけた悠凪は、どうにかこれを飲み込みつつ、見開いた目で男子生徒を凝視する。
「……大丈夫、誰も見ていないから」
照準を眉間に合わせた手とは逆の手で、男子生徒がぐっと親指を突き立てる。
心なし、寝ぼけ眼の目が自信ありげに輝いた、気がした。
「い、いやいやいや! そういう問題じゃないでしょ!?」
青地の校章から二年生、一つ上の先輩だと思い、取り繕ってきた悠凪の敬語が崩れていく。
これへ少し困惑した男子生徒は、もう一度ぐっと親指に力を込めてきた。
「……大丈夫、サイレンサー付いているから。すぐ逃げれば、位置的にバレないバレない」
「すみません、安心を見出すべき箇所が全くと言って良いくらい見当たらないのですが」
「……そうかな?」
「そうですよ!?」
(何なのこの人!? どういう人!?)
十年近く、化生のものや幻魔といった、人外の者たちと相見えてきた悠凪だが、ここまで何を考えているのか判らない相手は初めてだった。
だがしかし、それは相手も同じだったようで、悠凪の心情を写し取った顔つきをした彼は、眠たそうな目で困ったように言う。
「……でもさ、頭ぶち抜いておかないと、俺が死ぬまで君のパンツは此処に保存されちゃうんだよ?」
「こだわりそこですか!?」
「……うん。だって綺麗に撮れてたんだ。忘れたくても忘れられない。……ん、そうか。こういうのを恋って」
「言いません! それは完全に変って言うんです!」
「……そうなの?」
「そうなんです!」
「……そうかー。恋って難しいね」
「私には貴方のほうが色んな意味で難しいんですけど」
噛み合っているのかいないのか、それ以前に不毛としか思えない会話である。
「とにかく、保存は嫌ですが、コレを使うつもりもありませんから! いい加減、手を離しては貰えませんか?」
行動でも指し示すように、力一杯、拳銃を握らされた手を引く悠凪。
寝ぼけ眼とは裏腹に、彼女の手ごと銃口を眉間に固定し続けていた男子生徒は、悠凪の必死な姿へ小首を傾げると、ようやくそこから銃を避けた。
そうしてやはりワンテンポずれた調子で、困ったような顔をする。
「……手を離したら危ないよ? 君みたいな素人が銃を軽々しく扱っちゃ駄目」
「誰がっ――いえ、いいんです。判っていますから。私にソレは扱えません。だから手だけ、離して貰っても良いですか?」
「……うん、いいよ。なんだ。それならそうと、早く言ってくれれば良かったのに」
「…………」
(こ、この人……まともに相手すると閑人さんより疲れるかもしれない)
自分から銃を握らせたくせに、どうも彼の中では、悠凪が自分で銃を握った事になっているらしい。
対処に困る電波気味の変人とは、あまりお近づきにならない方が良い。
直感でそう思った悠凪は、取り戻した手を擦りさすり、男子生徒とは反対側に置いていた自分の弁当を掴むと、一目散に逃げるべく足に力を入れた。
が、しかし。
「……式部晶だよ」
「……は?」
唐突に語られる、聞き慣れない人物の名前。
絶妙のタイミングで発せられた名から逃げの力を取られたなら、男子生徒はぼぉーっとした目で、
「……俺の名前。式部晶。でね、百歳早苗なら今日は学校に来てないよ?」
そう、告げてきた。