ゆずれない、モノ・コト その2
「……閑人さん? そろそろいいですか?」
「もう少し」
「はあ……」
悠凪の肩に額を乗せたまま、腹に回した腕をぎゅっと締める閑人。
依然として、不用意に手の甲へ口付けたことを後悔する背後の彼に、悠凪は小さく息をついた。
「閑人、私は許すよ?」
「だとしても、俺が許せねェ」
「……胸に触ったことは?」
「あれは許せる」
(そこは謝るべきでしょうが)
間髪入れずに断言した閑人に対し、少々ムッとした悠凪が唇を尖らせた。
「あのね」
「るせェよ。問題なのは部位じゃねェ。もしも焔が腕フェチだってんなら、俺はお前の腕を覆う。それだけの話だ。奴の目を惹いたのがたまたま胸だったってだけだろ」
「た、たまたまって!」
「第一、ガキの頃はお前、脇腹弱いからって、何度もその辺触らせて高い高い強要してたじゃねェか。アレはその延長線上だと思えば良いんだよ」
「思えるか! 大体、高い高いって、言ったとしても小学生低学年まででしょう? わ、私だってこれでも女なんですから、いつまでも小さい時と同じ感覚って訳にはいかないんです!」
気づけば肩の上、額ではなく顎を乗せていた閑人に、挑むような眼差しで憤る悠凪。
今にも牙を剥いて唸りそうな彼女の視線に負けてか、眼鏡の奥で青鈍の瞳を逸らした閑人は、口元だけ嫌味ったらしく笑ませて言った。
「へェへェ。女、確かに女の胸だった。触り心地も悪かねェし、顔を埋めりゃ気持ちイイ」
「このっ……!」
「だが、それだけだ。俺にとっての女なんてのはな。それ以上の価値はねェのさ」
「…………」
仕舞いに鼻で笑われ、悠凪の怒りが急激に萎んでいく。
自分が怒るほどにはその性を重要視していない閑人。
普段は、閑人にどう思われようが知ったことか、と啖呵が切れる悠凪なのだが、こういう時は多少なりともへこんでしまう。
特に悠凪が、女である部分を閑人に刺激されて怒った後は、非常に気まずい。
閑人はそうでなくとも、自分は彼を異性として意識している、それが嫌というほど判ってしまうために。
(別にさ、恋人とか、そういう感情を閑人さんに求めている訳じゃないのよ。ただ、もうちょっとこう、デリカシーがあっても良いじゃない? この人に紳士的な態度なんて最初っから期待してないけどさ、最低限は必要でしょ? ああ、もうっ! 私だけこんな悶々としてしまうなんて! 悔しいったらないわ……虚し過ぎる)
仕舞いには顔を前へと戻し、遠い目をしてたそがれる悠凪。
「はあ……」
口を開けば出るため息に、更に気分が落ち込んだなら、腹に回った閑人の腕が悠凪の身体を引き寄せた。
解けたままの長い黒髪が閑人の胸と自分の背に挟まっても、肩から頭頂部に顔が埋められても、悠凪はされるがまま。
するとそんな彼女を宥めるていで、閑人の鼻が頭頂部に擦りつけられた。
「なぁに一丁前にたそがれてんだ? 女として愛でろってんなら、俺はいつだって男としてお前を求めてやるぞ?」
だがしかし、閑人の語る内容にはやはり悠凪が求める繊細さはない。
なればこそ、今度はわざとらしく大きなため息をついた悠凪、頭頂部の鼻を打つように倒れると、察知して避けた先の胸に頭を押し付ける。
次いで、不愉快極まりないという顔で見上げれば、ニタニタ笑う閑人の逆さの顔が出迎えた。
「ずぇっっったいに、イヤ。そんなことで求められたくないし」
「だよなァ。お前はそーいう奴だ。だからこそ、俺は悠凪を見初めたんだ」
腹に巻かれた腕の一本が放され、悠凪の頬を柔らかく撫でていく。
これをぱしっと叩いて払った悠凪は、不満そうな顔は持続しながらも、依然として目の前にある逆さ顔の頬へ手を伸ばした。
悠凪とは違い、目を細めて受け入れた閑人は、這わされた手に自ら擦り寄りつつ、満足げに息をついた。
この様子に悠凪は眉根を寄せるが、手は下ろさず静かに閑人へ問いかける。
「ねえ、閑人さん。早苗さんのストーカーって、誰なのかしら?」
「さあな。今日び、想い想われなんて話は、ざらに転がってんだろ? 曲がり角でぶつかったら運命の人、だったか」
「なにそれ古っ!……でも、そうよね。ちょっと親切にされたぐらいでも、この人いいかも、なんて」
「あ? 何の話だそりゃ? まさかお前」
少しばかり目を見張って問う閑人に、頬へ添えていた手を下ろした悠凪が、急いで首と共に横に振った。
「違う違う、友達の話! しかも頻度が尋常じゃなくてさ」
悠凪の呆れた顔を見たからだろうか、同じ顔をした閑人が苦笑混じりに首を傾けた。
「ほぼノリだな、運命の人」
「うん。だからこそ、早苗さんもさ、もしかしたら」
「――と、思ったら実は隣人だった、ってのもよくある話だよな」
「えーっ? 閑人さん、自分でふっといて、いきなり矛先変えるのはナシ」
「ハッ、言っただろ? 今日び、どこにでも転がってるってな。案外近くの奴だったりしてな。近所でなくとも、あの嬢ちゃんの知り合い連中とか」
「……そういうのって下衆の勘繰りじゃない?」
「それこそ、話ふってきたのはお前だろ。俺が下衆ならお前も下衆。いいねェ。ご主人サマと下僕は今日も仲良し」
「うっわ。そっちに持って行くか、フツー。最悪」
閑人が愉しそうにクツクツ笑えば、首を前に戻した悠凪が小さく毒づく。
男の震えが止まるまで、揺れる視界に仏頂面をしていた悠凪は、そんな背後に手を取られると、動きを追ってもう一度上を向いた。
指に絡む吐息の向こう、それまでの笑いをなくした青鈍の瞳と交わる視線。
年齢不詳の男の顔にドキリと悠凪の心臓が跳ねれば、あまり聞かない真面目な声音で閑人が告げた。
「どっちにしろ、俺には理解できねェ話さ。自由であるはずなのに、てめェからその想いに縛られる。そうでなくてはならないと追い込む。……不自由を強いられる身からすりゃ、何とも馬鹿馬鹿しい話だよ」
「閑人さん……」
紡げる言葉もなく、手を取られたまま、閑人の膝の上で悠凪が身体の向きを変える。
滅多に聞かない心情。
人間には決して得られない化生のものの能力を引き継ぐ代わりに、閑人に科せられた制約は、悠凪の心をも重くしていく。
此処にこうして彼女が在るのも、全ては制約のためなればこそ。
悠凪を見初めたのは閑人であっても、制約さえなければ彼はもっと自由に生きられるのだ。
彼女の手を必要としなくても――。
取られた手で閑人の親指をきゅっと握り締めたなら、一転、青鈍の瞳がにやりと笑った。
「とまァ、らしくねェ話は置いといて、だ。どうだ、悠凪? この際、賭けでもしようじゃねェか。お前の先輩のストーカーが、身近な人間か、それとも見知らぬ人間か」
「…………………………はい?」
いきなりの暴言に悠凪が目を丸くすれば、額をくっつけた閑人は更に笑みを強めた。
まるで落ち込んだ悠凪の気分が、盛り上がるのを待つていで。
「ばっ、ばっかじゃないの!? 人の不幸を賭けに使うなんて!!」
果たして、数瞬遅れで激昂した悠凪に、暗い影は認められず。
迎える閑人は、なお笑う。