心騒がす、噂と百合とあの男 その1
学業から解放された生徒が、思い思いに席を立つ放課後。
六応高等学校の一年生である上谷悠凪も例外なく、帰り支度に勤しんでいた。
結い上げた黒髪の下には愛嬌が先立つ顔立ち。
白いブラウスとベージュのベスト、灰が基調のチェックのプリーツスカートが象る輪郭は、細くもなく太くもなく、女性らしい健康的な丸みを携えている。
かといって、同じ世代しかいないクラス内にあっては、特に目を惹く容姿でもあるまい。
赤いネクタイがベストから覗く胸元も、クラスの平均値を叩き出すばかりだ。
悠凪本人にしてみても、そんな自分は重々承知しているため、何かを警戒するでもなく鞄を机の上へ置くと、肌寒くなってきた秋には必須のコートを取りに席を立たった。
ついでに考えるのは、帰ってからのアレやソレ。
(取り合えず、家に帰って着替えて。ああ、そうだ。確か玉子がもうすぐ切れそうだったから、ちょっと寄り道――は駄目よね。あの人、絶対怒るし)
表面には出さないものの、ふと浮かんだ男の姿に、心の中でげっそり溜息をつく悠凪。
以前、牛乳のストックがなかったと寄り道した時は、それを知った彼の気が済むまで、見たくもない映像の鑑賞を強要されたのだ。
お陰で二、三日はイヤな悪夢にうなされたものである。
丁度休みだったから良かった、とは過ぎてからの感想でしかなく、実際にはもう二度とされたくない仕置きだった。
(大体、何だってあんなのがあの人の手元にあるのよ。預かり物とか押し付けられたとか、理由は知っているけどさ。わざわざ私に見せなくてもいいじゃない。しかも自分は何観ても平然としてるんだもん。それならいっそ、観なけりゃいいのに)
あくまで表には出さず、悠凪は内側で愚痴り続けていた。
彼女の脳裏で飄々とした態度を取る男には、日頃から鬱憤を溜めているのだ。
一度思い出せば、中々晴れてくれない気分を引き摺りつつ、後ろにあるコート掛けまで辿り着いた悠凪は、紺のそれに手を伸ばしかけ。
「すみません。上谷悠凪さんは、いらっしゃいますか?」
少し距離を感じるところから届く、鈴の音のように綺麗な声。
(かみやゆなさん……って、私の事、よね?)
そのあまりの美しさに、自分の名を呼ばれながらもすぐに反応出来なかった悠凪は、数拍の間を置いて、ゆっくりと件の音源を振り返っていった。
まず知ったのは、苛立っていたせいで気づかなかった、教室内に漂う水を打ったような静けさ。
声の主が悠凪を呼んだからだろう、こちらを見る目はどれも一様に、間の抜けた点を打っていた。
何故、悠凪が呼ばれたのか理解出来ない――そんな風に解する事が出来る、実に見事な点。
はっきり言ってかなり不愉快な視線だが、声の主を認めたなら悠凪自身、同じ思いに囚われてしまった。
教室前方の扉からおずおず顔を覗かせる相手が、校内で一、二位を争う有名人・百歳早苗、その人だったのだから。
一年を表す緑地の校章とは違う、橙地の校章は三年生の証。
だというのに、一年生の注目を受けて恥ずかしそうにしている百歳は、その様子が奇異に映らないほど整った容姿をしていた。
栗色の長い髪は思わず触れたくなる、ふわふわした質感を持ち、羞恥からほんのり桜色に染まった肌は甘さを匂わせる滑らかさ。
弄った形跡が見当たらない眉は柔和な弧を描き、化粧っ気がないにも関わらず長い睫に縁取られた琥珀の虹彩は、ずっと見つめられていたいと思わせるほど美しい。
ちょこんとある鼻の下、程よくふっくらとした朱唇はあどけなさを残しつつも、艶めく色香を纏わせている。
すらりとした手足は楚々とした造形を湛えながらも、同じ高校の制服とは思えない女の妖艶さを肢体に宿していた。
少女よりも女に近い、しかし、美女というには清純な印象を抱かせる佳人。
「あの……上谷悠凪、さん?」
教室内を満たす沈黙に焦れてか、クラスメイトから注目を受けている悠凪へと、再度声を掛けてきた百歳。
「は、はい」
一人だけ百歳へ視線を合わせていたからだろうに、当てられてしまった悠凪は狼狽えた返事をすると、帰り支度を忘れ、追ってくるクラスメイトの視線の中をふらふら進んでいった。
まるで催眠にでも掛かったような動きで悠凪が百歳の前に立てば、佳人の表情に安堵が宿る間もなく、背後の教室内がざわめき始めた。
「百歳先輩……あれって”あの”百歳先輩だよな?」
男子生徒の誰かが呆然と呟けば、別の男子生徒が応じて、冗談混じりに悔しがる。
「当然。あんな美人、この高校に二人といるかよ。にしても、俺じゃねぇのかよぉ」
「んなもん当たり前だろ? しっかし女に先越されるとはなー」
しみじみ好き勝手な低音が並べば、遅れて発せられる女子生徒たちの甲高い声。
「え? え? マジで?」
「あの噂、本当だったんだ……」
「悠凪ファイト!」
(ふぁ、ふぁいとって……ちょっと待て!?)
百歳に気取られ、背後のざわめきを聞き流していた悠凪は、ここに来て明らかに可笑しい単語が入り混じっている事に気づいた。
(何か可笑しくない? ファイトって、そりゃ百歳先輩クラスの人と対峙するためには、応援の一つや二つは欲しいトコだけど)
校内とその周辺限定であっても有名人な百歳と、烏合の衆の一人でしかない自分。
そんな相手に名指しされた悠凪は、その緊張感を保ちながらも、聞こえたざわめきを頭の中で整理してみた。
そうして再び「ファイト」の掛け声を再生すれば、別方向からやって来る、目の前の佳人に関するとある噂。
曰く、あんな美人に浮いた話が一つもないのは、彼女が百合だからに他ならない――。
(じょ、冗談……でしょ?)
誰に確認するでもなく、そんな疑問符が頭を占拠したなら、当の百歳が悠凪の手首を掴んできた。
それはもう、か弱い外見からは想像出来ない力でがっしりと。
「御免なさい。でも、ここでは話しにくいの。だからどこか二人きりで話せる場所まで移動しましょう?」
「え?」
「どなたか、上谷さんの鞄とコートを」
「は?」
悠凪の了承も得ず、百歳の目が背後に投げられれば、さして間を置かず視界へ入ってくる、見慣れた鞄とコート。
それらを悠凪を掴む手とは逆の、自分の鞄とコートを持った右腕に受け取った百歳は、差し出した相手へだろう、「ありがとう」と柔らかく微笑んでみせた。
うっかりその表情を間近で見てしまった悠凪は、麗しい微笑みに一瞬惚けてしまったものの、「では行きましょう」と促す声を聞くなり、足を強張らせて抵抗を試みる。
するとこの反応にキッと悠凪を睨みつけた百歳は、美人の迫力に気圧される彼女へ力を込めて言った。
桜色の頬を更に紅潮させながら。
「大事なお話なんです! 私の将来に関わる、とても、大切な」
「う、え」
そのまま潤んだ瞳で迫ってくる、自分より少しだけ背の高い先輩に怯む悠凪。
しかし、ペースを握られては危険だと察しては、何か反論しようと口を開きかけた――
矢先。
背後から轟く、数多の歓声。
何事かと振り返ったなら、男女の別なく、クラスメイト全員が一様に異常な興奮を示していた。
鼻息も荒く、誰か彼かが言う。
うっそあの噂本気でホントだったのか!?、うわー私リアルでこういうの本当は駄目なんだけど……百歳先輩ならありかも、でもなー相手が上谷っていうのがなー、いやいや中々どうして釣り合いは取れてんじゃね?、だよねー美人同士なら出来すぎて逆にキモいけど悠凪だったら悪くないんじゃない?――等々。
(な、何を仰っていやがるの、貴方がた……?)
具体的には示されていない言葉を察し、悠凪の顔が段々と青ざめていく。
ショックの余り荒げる声まで忘れたなら、この機会を逃すかと言わんばかりに、百歳に掴まれた手首が足早にどこかへ引っ張られ始めた。
クラスメイトの祝福を受け、抵抗する気力をごっそり持っていかれた悠凪は、先行する百歳の背中を見つめながら、幻聴に「ドナドナ」の歌を聞いた気がした。