ゆずれない、モノ・コト その1
焔が告げた相反する語り口の殺意に呼応し、ぐっと低くなる周囲の温度。
怯んだのはこの中で唯一、只の人間でしかない悠凪であり。
「へいへい」
閑人が軽く応じれば、本当に判っているのかと呆れた素振りで焔が首を振った。
「僕ら化生のものにとって、幻魔なんていう欠陥品が、一時でも世に出てくるのは不愉快ですからね。全く、人間が僕らと幻魔の違いを理解していた頃は良かったのに。嫌な時代になりましたよ、ホント」
最後に仰々しくため息をついた焔は、閑人から悠凪へ閉じた瞼を向けると、ビクついた彼女へ朗らかに笑いかけた。
「ふふふ。そんなに怯えないで下さいよ、悠凪殿。僕はあなたを害したりしませんから――性的な事以外では」
「なっ!?」
わざわざ口元に手の平を当て、内緒話をする要領で告げられた言葉に、悠凪から怯む心が取り除かれたなら、焔は恭しく頭を垂れた。
「それでは本日はこれにて失礼させて頂きます。悠凪殿、ご馳走様でした」
「え、ああ、はい。お粗末さまでした。何のお構いも出来ませんで」
上がった顔に別れの握手を求められれば、再燃しかけた怒りも忘れて、悠凪の右手が焔の右手に重なった。
これへ気障ったらしく唇を寄せ、甲へ吐息を落とした焔は、転じて羞恥に頬を染める悠凪を認めると、手を離しながらくすり笑ってこう言った。
「いえいえ、お粗末なんてとんでもない。お構いも十分して頂きましたよ。出会い頭の良い肉置きに続き、壁に耳あり、障子に目あり。障子とは窓や扉といった、あちらとこちらを繋ぐ道なれば……そこの飾り窓からじっくりと、たわわに実った瑞々しい二つの果実を拝見させて頂きました。収穫時は是非、僕にご一報下さればすぐにでも、頬張りに伺いますゆえ」
「はあ……? そこの飾り窓って…………………………まさかっ!?」
焔を視界の端に追いやり、悠凪が見たのは着替えのあった箪笥の近く。
壁だけでは窮屈に感じるそこへ付けられた、丸い障子窓。
理解した瞬間に腕で胸を覆い隠し、キッと焔を睨みつけたなら、店先までとんずらした彼は優雅に一礼してみせた。
「悠凪殿、本日の下着姿も大変可愛らしゅうございました。そしてその内にある、思わず口付けたくなるような淡い先端の色づき、触れたくなるような二つの膨らみは、まさに僕好みの芸術品。次、お逢いします時には、真下の花も愛でさせて下さいね」
「花って!!? こ、このぉ――っ!!」
裸の胸を見られたと知った悠凪は、焔を殴る拳を携えて靴下のまま、土間へ飛び出そうとする。
「だーから、悠凪。そこで応じたら奴の壺だ。ほぉうら、お見送りしてやれー」
「ぎゃあっ!? 閑人さん、何して!? ひやっ」
そんな彼女の脇から腕を伸ばして床に戻した閑人は、着物の中に両手を突っ込むと、襦袢の上から両方の膨らみを包んできた。
予想だにしなかった暴挙に、体勢を崩した悠凪の手が閑人の後ろ首を掴めば、焔から訪れる呆れ果てたため息。
「影浦殿……そんなに悔しいのですか? 悠凪殿の肌を先に見られてしまって」
「違ぇよ。後先は関係ねェ。俺以外の化生のものが、コイツをどうこうするのが気に食わないだけだ。”視”られたってなら隠す。それだけの事よ」
「か、勝手な事言わないで――んっ」
添えられた状態で抱き寄せられ、接した事のない手形に悠凪がきゅっと目を閉じれば、暗闇の向こうで焔が苦笑する。
「まあ、良いでしょう。恋は奪い、奪われるものとも言いますし。駄目と言われれば余計欲しくなるのが人の業」
「人じゃないじゃん!」
そこだけは譲れないと、横を締められ下ろせなくなった腕のまま、悠凪が叫ぶ。
どれだけ噛み付く声を上げようとも、着物を歪にさせる無骨な手と染まった頬があっては、迫力も何もあったものではないのだが。
しかし、自称・悠凪専属のストーカーたる焔には威力があったようで、閉ざした瞼の上で眉根を寄せた彼は、がっかりだと言わんばかりにため息をついた。
「やれ、悠凪殿は酷いお方だ。人ではないから僕を蔑み、化生のものであっても人の世に籍を置く影浦殿になら、進んで股を開くのですね」
「何言ってんの、貴方!?――ぁうっ。か、閑人さん! いい加減、離して下さい!」
羞恥を誘う焔の言葉に反応し、殴り掛かろうとすれば自然に掛かる圧。
甲高い声で訴えても、閑人は詰まらなさそうな顔で焔を見るのみ。
早く帰れ、と伝わる視線を受けてもなお、首を振る焔は立ち去る気配を見せずに悠凪へ言った。
「悠凪殿、言葉だけで行動が伴っておりませんね。本当にお嫌なら、きちんと仰られるはずでしょうに。それとも目の前で痴態を演ずることにより、僕の劣情を引き出して眠れぬ夜を過ごせというのですか。なんて非道な。ゾクゾクしますね」
「くっ! この変態っ!」
「今もって痴女を演じてらっしゃる方に言われる筋合いはありませんが」
「うっ……」
罵れば途端に至極冷静な声で断じる焔。
自覚はあるのか悠凪が押し黙れば、焔がくすりと笑う。
「さて。そろそろ本当に去らなければ、齢若い方を惨たらしく殺して、咽び泣く幼い君へ無理矢理己を咥え込ませてしまいそうですね。永き刻を生きる僕に付き合わせて、悠凪殿に永劫の地獄をお見せするのもやぶさかではございませんが」
「え、遠慮させて下さい」
真の入った焔の言い草を受け、威勢を失くした悠凪が顔を青ざめさせながら拒否をする。
焔はそんな彼女へ微笑みかけると、うっとりした声音で言った。
「おや、慎み深い事で。そこで急にしおらしくされると、帰る身を惜しんで実行したくなってしまうではありませんか」
「…………」
最早、何を言っても無駄らしい。
いや、何も言うなということか。
見た目二十代前半にしか見えない焔だが、その目で”視”続けてきた刻は、見た目は年齢不詳でも列記とした四十代後半の閑人より遥かに永い。
そのような真性のものに、妙なところで気に入られてしまった悠凪は、笑みの中に混じる不穏な空気を察し、一切の動きを止めた。
交差していた閑人の手の一本が引き抜かれ、腹に回って更に身を引き寄せられてもされるがまま。
涼しくなった片一方の胸へ留まる腕を押し付けた閑人は、ようやく両腕を下ろせても抵抗しない悠凪の耳元に顎を近づけると、焔に向けて呆れた声を投げ掛けた。
「からかうのは構わないと言ったが、限度を知れ。コイツから元気を奪ったら何が残る? 容姿も並、性格も並、身体つきは……まあまあ。抱き心地も程ほど良いが」
「なっ!」
失いかけた己を取り戻し、閑人に抗議しようとする悠凪だったが、黙っていろと言うように頬ずりされては何も言えず。
「お人形サン遊びがしてェなら、余所で探せ。お前だったら具合の良い女の十や百、誘わずとも向こうからやってくんだろ」
「それはまあ、そうですが……大概、あなたも酷い方だ、影浦殿。悠凪殿ひと筋という僕の印象が台無しではありませんか。恋敵には持って来いのゾクゾク感ですよ、全く。大好きです、あなたのそういうところ。そうですね、この無聊はご同胞のいたいけな、年端もいかない生娘にでも慰めて貰いましょうか」
「……俺が言う台詞でもねぇが、お前の変態っぷりはホンモノだな」
「お褒めに預かり光栄です。では、悠凪殿、影浦殿。百歳早苗の幻魔退治、次こそは成功させて下さいね。百目の焔、吉報をお待ちしておりますゆえ」
「おおよ。ひとつめの焔、そのいこうあらば」
悠凪の眼前、声だけを残して騙し絵のように、すーっと姿を消す焔。
応じる閑人は横柄な態度とは裏腹に、恭しく目だけを伏せさせた。
しばし余韻に浸る沈黙が店内を満たして――
のち。
「いっっっっっつまで人の胸揉んでんのよ、このどスケベオヤジ!!」
「ああ? 誰がいつ揉んだ。添えただけだろ、こんなの」
閑人の腕の中で身体の向きを勢い良く変えた悠凪。
引き抜かれる感触に肌を粟立たせつつも、肘鉄を食らわせようとするが、これを綺麗に避けた閑人は、そんな彼女の両手首を押さえると、くるり身体を元の位置に据えて抱き寄せる。
背中から覆い被さる男の身体に悠凪の喉が小さく震えれば、大人しくなった右手が絡め取られていった。
「確かに、触り心地は思いの外良かったが」
「このっ! かっ…………閑人、さん?」
ぽつりと零された呟きに、怒りの火を取り戻して閑人を睨みつけた悠凪だが、忌々しいと言わんばかりの表情を視界に納めては小首を傾げてしまう。
閑人はそんな彼女を一瞥すると、すぐさま目を逸らし、取った右手の甲へ軽く唇を寄せてきた。
「お前が悪い。”視”られたのは、不可抗力だったとしても、だ……帰り際の挨拶にしたって、甲に口付けなんぞ受けやがって」
「口付けって、真似事だけだったんだけど」
「……あ?」
かさつく柔らかな感触の後、続く文句にぽかんとした表情で悠凪が真実を告げれば、それ以上に惚けた顔を向けてきた閑人。
しばらく互いに見詰め合い、根負けしたように項垂れた閑人は、額を悠凪の肩に押し付けてきた。
これでも勘違いに相当ショックを受けていると知っている悠凪は、怒りをため息で落とすと、飴色の髪に頬を寄せる。
なんて面倒臭い人なんだろう、と思いつつ。