手負いの行く末 その3
踏み板に座った焔へ茶を出した悠凪は、必要最低限の礼だけ取ると、居間に片膝を立てて応対する閑人の斜め後方へ腰を下ろした。
逃げ腰に俯いた顔が赤いのは、幻魔を追っていた空間より帰ってきてからの間、焔の前で下着姿を晒していたと知ったためである。
声を掛けられるまで気づけないほど、焔の気配が薄いとはいえ、大失態を演じてしまった。
後悔する悠凪に対し、焔は墨色の短髪の下で目を閉ざしたまま、澄まし顔で茶を啜る。
そうして一息ついてから、閑人に背を向けた状態で喋り出した。
「百歳早苗の幻魔、取り逃がしたようですね」
「ああ。悪いか」
「ええ、かなり」
閑人の開き直りも何のその、ばっさり断じた焔。
幻魔退治の帰りには必ずと言って良いほど顔を出し、成功だけを望む彼にとって、どんな理由があろうとも失敗は許せないらしい。
そんな感情など知ったことかと閑人が舌打ちすれば、焔はもう一口茶を含んでから首を振った。
「影浦殿。仕留めるからには一回で終わらせて下さらねば困ります。それなのに逃がすばかりか、一部欠損などと。ただ逃がすよりたちが悪い」
「……判っているさ、んな事はよ。つーか、てめぇこそ”視”てたんならトドメさせ。お前ならあっちにも顕現出来るはずだろう?」
「それは出来ません。あなたの仕事はあなたの仕事。僕が口を出す範疇にはありませんから」
苦い口調の閑人へ焔は淡々と応じると、ネクタイのないスーツの肩を居間へ傾け、閉じたままの目で閑人の陰にいる悠凪を”視”つめた。
「それに、どうせ”視”るなら女体の方が好ましい。勿論、トドメをさすのも」
口元を笑みで結ぶと、カッと顔を赤くする悠凪にクツクツ喉を鳴らしていく。
「焔。てめぇ、悠凪に手ェ出してみろ。その目、全部綺麗にくり貫いてやる」
「やれ、剛毅な方だ。僕という男がいるというのに見せ付けといて、ねえ悠凪殿?」
「う……」
悠凪は気安く声を掛けてくる焔を恐れるように、更に身体を閑人の陰に隠していった。
とはいえ、そんな悠凪の恐れだけでも十分愉しめたのか、口元を綻ばせた焔は残った茶を飲み干すと、再び背中を向けて口を開いた。
「手負いの幻魔ならば、しばらくは為りを潜めるでしょう。そして百歳早苗は勘違いする。ストーカーはいなくなった、と。しかし、終わりはしない。それどころか、あなたが中途半端に手を出したせいで、幻魔ごと宿主は盛り上がるでしょうね。障害が多ければ多いほど、自分の世界に固執する。……否、自分”たち”の世界に執着すると言った方が正しいでしょう。あの手の輩は、相手を取り込んだ被害妄想が大好きですから」
「相手を取り込んだ、被害妄想?」
不思議な言い回しに、閑人の陰から悠凪がおずおず問いかければ、再び振り向いた焔が嬉しそうに頷いた。
「ええ、そうです。自分”たち”という表現、あれは宿主と幻魔の事ではなく、宿主と百歳早苗の事を指しているのです」
「え? なんで早苗さん? だって早苗さんが言ってたんですよ? ストーカー被害に遭っているって」
それなのに「自分たちの世界」に含まれるのが、早苗とストーカーとはどういう事なのか。
悠凪が眉根を寄せて困惑すれば、下ろした瞼はそのままに、焔が苦笑を浮かべた。
「ええ。でも、ストーカーの方は自分をストーカーだと認識しておりません。彼は自分を百歳早苗の恋人、もしくはそれに近い存在だと自負し、百歳早苗も自分を心から愛している――と思っています」
「それって……妄想、ってやつなんじゃ」
「はい、紛れもなく。しかし、彼にとってはそれが真実、それが現実なのですよ。だから、相手を取り込んだ被害妄想に成り得る。この場合の相手とはつまり、現実の百歳早苗をモチーフに捏造された、彼の中の”百歳早苗”の事なんですよ」
「じゃあストーカーは、早苗さん自体が好きって訳じゃないのね。自分の思い描いた、自分の思い通りになる”百歳早苗”が好きなんだ」
「なかなか手厳しいご意見ですが、ええ、そういう事です。しかし百歳早苗は百歳早苗であって、彼の”百歳早苗”ではない。そのズレは彼の中で彼女との関係が進めば進むほど、大きくなっていく」
「そっか。だからストーカー行為なんていう、滅茶苦茶自分勝手な行動に移るんですね」
「でしょうね。とはいえ、一概にそうとも言い切れない輩もいますよ? ほら、悠凪殿専属のストーカーである僕とか」
「……は?」
けろっとした顔でいきなり不穏を吐く焔。
話の展開について行けず、悠凪がピシッと固まってしまったなら、それまで二人のやり取りに、膝を土台として頬杖をついていただけの閑人が手を上げた。
「なあ? 独自の見解行き交うストーカー談義はそのくらいにして、さっさと本題に戻らねェか?」
「ふふふ。僕と悠凪殿が仲良いからって拗ねちゃって。影浦殿ったら、かっわい~」
甲側の手首に口を当て、焔がクスクス笑えば、怒るのはまたしても話を逸らされた閑人ではなく、
「だ、誰が焔さんなんかと仲が良いんですか! さっきのはただの質問であって!」
「止めとけ、悠凪。そこで前に出たら奴の思う壺だ」
「ぐぬぬ……っ! だって、だって、閑人さん!」
「判った判った。後で聞いてやっからよ。今は大人しく俺の後ろに隠れてろ」
「……はい」
閑人の言葉に、立ち上がり掛けた足を渋々床に付ける悠凪。
これに閉じた瞼の眉を上げた焔は、少々詰まらなさそうに唇を尖らせた。
「おや酷い。僕と悠凪殿の睦み刻を邪魔するなんて。恋する二人の間には、何人たりとも入ってはいけない決まりなのですよ?」
誰がっ! とまたしても憤る悠凪に対し、手を伸ばした閑人は面倒臭そうにこれを制した。
「あーはいはい。そうやってすぐ、悠凪の神経を逆撫でするな、焔。からかうのは勝手だがな。さっき言った通り、コイツに手ェ出したら」
「判っていますよ。ご主人サマと下僕の関係は複雑ですからね。ご主人サマ思いの下僕に噛み付かれる前に、僕は退散させて貰いますよ」
「っ! だ、誰がご主人サマ思いの下僕よ!?」
さすがに我慢出来ないと立ち上がった悠凪は、閑人の制止を払うようにその手を叩き落とすと、彼を指差して立ち上がった焔を睨みつけた。
「ケチつけなくってもイイとこじゃねェか。事実なんだからよォ?」
「どこがっ!」
閑人が何を今更といった調子で首を傾げたなら、焔から標的を変えた悠凪が小さな犬歯を剥いた。
そんな二人のやり取りに、蚊帳の外に置かれてしまった焔が、不満げなため息をつく。
これにより焔の存在を思い出した悠凪は、忘れていた事へ若干の罪悪感は抱くものの、元を正せば彼の要らぬ一言のせいである。
そのまま怒り顔で焔を睨みつけた悠凪に対し、当の彼は閉じた瞼を閑人へ向けると言った。
「兎に角、です。勝負は宿主の中で幻魔が回復してから。僕の見立ててでは一週間後、といったところでしょうか。影浦殿、お願いですから今度はちゃんと――」
一旦切っては、今までの気安さを忘れたぞっとするような声音で続け様、
「殺しておいて下さいよ?」
明日の天気の話をするぐらい、軽い調子で焔は告げる。