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迷鏡堂の閑人さん  作者: 大山
第一話 ご主人サマと下僕
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鏡の中の攻防 その3

 悠凪は走っていた。

 どこまでも続く夜の中を、変わり映えしない無人の道を。

 住宅街に点在する灯は明るく、しかし悠凪が走る街には誰もいない。

 この”世界”の中、悠凪以外にいるとすれば、それは閑人か幻魔か。

「ど、どこにいるの、閑人さん!」

 いるはずの、どこにいるかは判らない男に向けて、少女の口から甲高い声が上がる。

 いい加減、悠凪は疲れていたのだ。

 ”世界”の中の自宅から走り続けていた悠凪は、それがいつから始まった行為なのか、既に覚えていなかった。

 それくらい長い間、この夜の街を走っている。

 だというのに、疲れたと言っても悠凪にあるのは肉体的なものではなく、延々と似たような場所を横に流してきた精神的な疲労感のみ。

 体力は未だに有り余っている状態だった。

 静止した現実同様、人間である悠凪の体力は、この”世界”にいる限り、入ってきた状態を維持したまま、磨耗せず延々と続く。

 裏を返せば、悠凪が疲労困憊だった場合、この”世界”にいる限り、その状態はどれだけ待っても回復しないことになる。

 とはいえ、この”世界”の主である閑人が、そんな状態の悠凪を此処に連れて来ることはなかった。

 閑人が悠凪を此処へ連れてくる時は、いつだって彼女を万全の状態にしてからだ。

 夕飯を先にさせたのも、そのため。


 悠凪はもう一度、夜の闇に向けて、姿形のない者の名を呼んだ。

「ねえ、閑人さん、ったらあ!」

 精神が疲弊し切っているせいで、甘ったれた声になってしまったのはご愛嬌。

 ともすれば、遊び慣れした女が誘惑するに似たその呼び声は、しかして別の存在を招き寄せてしまう。

「ちぃっ! かくなる上は!」

「きゃあっ!?」

 斜め上空より地に降り立った影が、悪態を付きながらも、悠凪の身体を横から掻っ攫っていく。

 腹に回された腕に、危うく「ぐぇ」と押し潰された蛙さながらの声を上げかけた悠凪は、両手を押さえることで何とか回避に成功。

 しかし悠凪の身体を抱えた相手は、そんな行動が気に入らないとばかりに、乱暴な手つきで彼女の口から両手を遠のけてしまう。

 乗じて長い黒髪を結い上げていた紐が解け落ち、悠凪の視界が少しだけ狭まった。

「殊勝だなぁ、人間。だが、口を封じられちゃあ、情に訴える事も出来ん。……まあ、あんな奴に情なんてもんが果たしてあるのかは、さて置くとしても」

「う、わ……高っ」

「お前……この状況下でよくも呑気な」

 一度の跳躍で遠くなる街並みに悠凪が感嘆したなら、ざらざらした雑音混じりの低音が、半分呆れ返った口調で呟いた。

 決してヒトに馴染まない声を耳にし、悠凪の黒い瞳が自分を小脇に抱えた相手の姿を、ここに来てようやく視界に入れた。

「……某ライダーに出てくる怪人みたい。着ぐるみ?」

「中の人なぞおらんわ! 全く、どういう神経しとるのだ、お前は!」

 とはいえ、悠凪がそう思ってしまうのも無理はない。

 特定は出来ないものの、何かの昆虫を人型に象った緑色のその姿は、どっからどう見ても特撮の範囲内。

 後ろにチャックがあるかどうか、確認したくなるクオリティである。

 だが悠凪は軽口を叩きつつも、自分を抱える相手が本物の化け物であると知っていた。


(早苗さんの幻魔、よね? ってことは閑人さん、まさか負け……ううん、でもこの幻魔、追われている口振りだったし。それなのにわざわざ私を小脇に抱えるなんて、人質のつもりなのかしら?)

 生々しい虫の感触から目を逸らすように、悠凪は現在の状況を考える。

 此処に幻魔がいるということは、誘き寄せるのには成功したのだろう。

 だが、珍しくも閑人は取り逃がしてしまった。

 こそこそ対象を嗅ぎ回るストーカーの幻魔ゆえ、物陰に逃げるのが得意なのかもしれない。

 しかし、閑人の幻魔退治に付き合わされて早十年近く。

 時々は危険な目に遭ってきたため、悠凪には何となく判っていた。

 どんなに逃げるのが得意でも、この幻魔は小者だ、と。

 最終的には閑人に屠られる相手、人質に取られたところであまり危険はないと判断した悠凪は、仰々しい溜息をついた。

「はあ。それにしても今時人質って。後手に回ったも同然じゃない? 貴方の言う通り、閑人さんって情に薄い人よ? 最悪、逃げ切れる攻撃を人質(あしかせ)のせいでばっさり、なんて事も」

「……よくこの状態でその様な事を言えるな? せめて、助けて~、と貧相に叫べんのか?」

「叫んで、もいいけどさ……そうすると貴方、もう後がなくなるわよ? いや、まあ、この空間に誘い込まれた時点で、終わったも同然なんだけど。第一、叫んだりしたら私だって――」

「この空間?……言われてみれば、何か違うな、此処?」

「え……今頃気づいたの?」

 住宅街の屋根を飛び跳ねて移動する相手が、辺りを見渡す様を見て、続く言葉を忘れた悠凪の目が点になってしまった。

 人間よりも優れた感覚を持っている幻魔。

 通常なら、この空間に入った時点で何か可笑しいと気づくはずだ。

 なのに、この鈍さ。

「うわーい……さすがは早苗さんのストーカー。幻魔も鈍いんだ」

「? さなえさん? 何の話だ?」

「いえいえ、こちらの話でして」

 疑問符を散した割に、「早苗さん」というワードへ、幻魔がぐるんっと顔を寄せてくる。

 気持ち悪い動きとあまりの近さに、悠凪は内心で悲鳴を上げつつ、昆虫の顔へは愛想笑いを向けると、両手を振って何でもないと示した。

 幻魔は悠凪の反応を訝しむものの、はっと何かに気づいては、着地するはずだった屋根を蹴り、後方へと跳躍した。


 刹那、幻魔が蹴った屋根の一角が、鋭い切り口だけを残して寸断されてしまう。


「ちぃっ! 来たな、世捨ての庵!」

「えっ!? き、来たってもう!?」

 得体の知れない得物の存在に、慄きながら幻魔が吠えた先。

 それまで誰もいなかった、切られた屋根の上には、一人の男が立っていた。

 長さがまちまちの飴色のざんばら髪に、ノンフレームの四角い眼鏡越しに輝く青鈍の双眸。

 柄の悪さが滲み出る顔つきには凶悪なまでの苛立ちが宿り、軋む歯は人間のそれに比べてどれも鋭い。

 渋い色合いの着流しから覗く身体は、顔に引けを取らぬ勇ましさで、屋根の上でも均衡を保つ下駄の足は、脚力を物語るように引き締まっている。

 青年と呼べるほどの若々しさはないものの、どの齢に該当するとも断定できない容姿と雰囲気は、ただただ男の性を物語るのみ。

 目の前にいるのは紛れもなく、先程まで悠凪が探していた、今最も会いたくない人物、影浦閑人。

「……よォ、悠凪。てめェ、なぁにとっ捕まってんだ? あァ?」

「か、閑人さん……」

 そして怯える悠凪を呼ぶ閑人の声は、彼を警戒する幻魔を丸っきり無視した剣呑さで、彼女の所在が其処に在る事を攻めていた。

 即ち、幻魔の小脇に抱えられている事を。

 経験上、不可抗力を訴えても聞き入れて貰えないのは判っている。

 このため悠凪は顔を青褪めさせると、視線は彼に囚われたまま、自分を抱える幻魔へ叫ぶ。

「わ、私をあの人に投げつけて! じゃなかったら、どっかその辺に投げ捨てて!」

「は、はあ? 何だってこの場面で人質のお前を」

「いいから、早く――」

「人質、だと?」

 幻魔を怒鳴りつけるために、一瞬、目を逸らしたのが悪かったのか、至近から届く閑人の声。

「何っ!!?」

「ひぃっ、遅かった!?」

 彼が発していた威圧感を間近に受け、悠凪の眦に涙が浮かべば、彼女を抱えていた幻魔の胸に、下駄の足が自然な動きで添えられた。

 と同時に、吹き飛ぶ幻魔の身体。

 悠凪の身体に抱えた腕を留め置いたままで。

「ぃやっ……!」

 黄色い飛沫を上げる腕の生温かい血が服越しの左脇腹に滲み、宙に浮いた事よりもそちらを恐れたなら、新たに悠凪の身体を抱えた別の腕が、身体を失った幻魔の腕をパシッと払い落とす。

 千切れた腕を恐れもしないその動きに、悠凪が顔を上げれば、にやりと底意地の悪い笑み彼女を迎えた。

「人質、か。人選は間違っちゃいないが、そもそも相手が悪過ぎる。なァ、そう思わないか、悠凪?」

「ひゃっ」

 悠凪を腕にした途端、憤怒の相を綺麗さっぱり消し去った閑人は、ぞっとするほど甘ったるい低音を奏でて彼女を呼ぶと、涙の滲む眦に乾いた薄い唇を寄せた。

 雫を啄ばんで離せば、仄かに上気する悠凪を認め、閑人が満足げに笑う。


 しかし、当の悠凪は微笑み返す訳にもいかない。

 彼女の身体を腕一本で支える閑人のその手が、器用に太腿を撫で回してくるために。

 幾ら足の大半がベージュのスカートに内包されていても、長く節くれ立った手の艶かしい動きは、素肌を弄られているのとそう変わらない感覚を、悠凪にもたらしていた。

「や、閑人さん!? 何を考えているんですか、こんな場面で!」

 居心地の悪さに身じろぐ悠凪に対し、抱く腕を引き寄せて距離を縮めた閑人は、暖色のニットの先にある鼓動へ耳を寄せながら、心地良さそうに目を閉じ頬ずりをする。

「んー? こんな場面ってのは……どんな場面だ」

「どっ、どんなって――ふひゃあっ! やだもう、この人! だから人質なんて嫌なのに!」

 幻魔の腕を引き千切っておきながら、すっかり悠凪の体温に興じる閑人は、どれだけ彼女が頭を遠ざけようとしても我関せず。

「いいじゃねぇか、減るモンでもナシ。ご主人サマと下僕にゃ、こういう触れ合いも大切だぜ?」

「減る! 減ります! 滅茶苦茶減りますから!」

「判った、判った。なら後で、元の大きさになるまでたっぷり揉んでやるからよ。しばらく黙っとけ」

「全っっっ然っっ、判ってない! いいから離せ、このセクハラオヤジ!」

「お前……齢の話は言うなよ。これでもナイーブな四十代後半だってぇのに。はあ、傷ついた。傷ついた俺の心はもう、悠凪の胸でしか癒せねぇなあ。それも真っ裸の」

「ぃ、やあーっ! 止めろ、変態、ロリコン、若作り!!」

「おいおい。最後のは別に悪口でもね――ぉう?」

 悠凪の胸に顔を埋めながら、激昂する彼女とのやり取りを愉しんでいた閑人の顔が、突然、あらぬ方向を見やった。

 一時休戦、つられて悠凪もそちらを見たが、あるのはただ、閑静な住宅街の夜だけ。

(……ん? 夜だけ(・・)?)

 何かが引っ掛かって首を傾げた悠凪。

 程なく、ぽふっと閑人の頭がまたしても胸に寄せられるものの、今度は特に抵抗もせず、その頭を抱くようにして髪のひと筋を指に巻きつけていく。

 ざんばら髪のくせして、自分よりさらさらした髪質にちょっぴり嫉妬心を擽られたなら、そんな悠凪の手を掻い潜った閑人の右手が、がしがし乱暴に頭を掻いた。

「あーらら。幻魔の野郎、こっから出て行っちまった」

「……はい?」

 飄々とした閑人の言葉に、悠凪の理解が追いつくまで数秒。

 その間に「しゃあねぇ、今日は帰るとすっか」と呟いた閑人は、悠凪を抱えた状態で、屋根の上から一気に飛び降りていく。

 瞬間、閑人共々悠凪の姿が宙に掻き消えたなら、残された街には静けさが戻り――否。


 ”世界”全体が、途方もない闇に喰われていった。







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