鏡よ鏡
”人の世に溢れる、実在の有無を問わない、人智を超えたもの”
化生のものの定義がそれならば、影浦閑人は何の化生か。
同じ化生のものにしても、焔は遠い昔、自然に生じたといい、対する閑人の生まれは、列記とした人間の、とある一族の中。
何代か前に化生のものの血を混じらせたこの一族には時折、隔世遺伝というには些か高い頻度で、その血筋を色濃く受け継いだ子が生まれる。
ただし、産まれながらにして化生のものの能力を持っているかと言えば、そうではないらしい。
事実、今では飴色の髪と青鈍の瞳、土の気の肌をした閑人、古いアルバムを紐解けば、黒髪黒目の至って健康そうな肌で写っていた。
彼が今の色彩に近づいたのは、大学に通い始めた頃。
それまでにも段々と明るくなりつつある髪色、青が滲んできた瞳、病気を疑われそうな肌は認めていたため、何も知らない周囲の心配を余所に、閑人は緩やかに進む己の変化を受け入れたという。
一族に伝わる化生のものの血筋――小さい頃から聞かされ続け、眉唾物だと思っていたそれが実在し、自分の身に起こった事には驚いたものの。
しかし、髪や瞳、肌の色は変わっても、大学時代の彼にそれ以上の変化は起こらなかった。
化生のものの血筋を確実に継いでいる証拠が外見に現れても、閑人はまだ、戸籍通り人間だった。
それが一気に化生のものと為ったのは、迷鏡堂の主を継いでから。
以来、幻魔に脅かされる人間を時に救い、時に見捨てる閑人は、血筋に伝わる化生のものの力を使ってきた。
人の内にある幻魔、それすら映し出せる鏡の化生としての――
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閑人が度重ねた歪な関係の話にいきり立った悠凪は、不愉快な気分を抱えたまま、迷鏡堂を出て行った。
早苗の依頼を忘れたわけではないが、付き合い切れないと感じたのだ。
一方で、こんなに頭に血が昇っていては、幻魔退治の時、自分がどんな失態を犯すか判らないとも思っていた。
閑人に怒りながらも、彼の邪魔になりたくはない悠凪。
心掛けは立派だったと言えよう――時はすでに遅くとも。
悠凪がその事に気づいたのは、「悠凪!」と鋭く呼ぶ閑人の、伸ばされた手を払った直後。
「あ」
迷鏡堂から外へ。
身体が完全に出てしまったなら、彼女は背後を振り返り、呆然とした面持ちで立ち尽くしてしまった。
眼前、本来ならば迷鏡堂があるはずのそこには、夜中でも明るいコンビニがあり。
「どうしよう。やっちゃった……」
勝手に開く自動ドアへ、吸い込まれるようにして入った悠凪は、店内を見渡して頭を抱えた。
来客を告げる気の抜けた音が流れても誰も来ないカウンター同様、ひと気のない周囲。
普段は気づかない、電化製品の音だけが支配する空間。
だというのに、漂う匂いは日常と差して変わらず。
「どこのコンビニだろ、ここ?」
途方に暮れた顔で、カウンターに腰掛けた悠凪は、そのまま視線をガラス張りの雑誌コーナーへと向けた。
並ぶ雑誌はどこかで見たタイトルロゴばかり。
しかし可笑しな事に、どのロゴも一様に文字が裏返しになっている。
よくよく見れば、背表紙も開き慣れた右側ではなく、全部が全部、左側。
些細な変化だが知れば奇妙に映る光景だった。
そんな中で悠凪が見つめ続けているのは、雑誌ではなく、その上のガラスである。
誰もいない店内にも関わらず、そこにはガラス越し、映る幾つもの影があった。
「あ、あの制服! かなり着崩しているけど、うちの高校っぽい。ってことは、そんなに遠くないのかな?」
常人であれば居もしない人間の影に怯えるところを、明るく歓迎した悠凪は、カウンターから飛び降りると目を留めた影の下へ。
至近でまじまじ見つめても、雑誌を立ち読みする強面の少年は、悠凪に気づく様子もなく、食い入るように真剣に、その紙面を読み漁っていた。
「うん、やっぱりこの校章、間違いない。間違いなくうちの高校だ、けど……」
近づいた事で、少年が何を読んでいるのかを知り、思わず半眼になってしまった悠凪。
上手く隠しているつもりなのだろうが、いかがわしいタイトルロゴが、陳列棚の上から半分近く覗いていた。
悠凪の前に並ぶ雑誌と違い、きちんと読める文字列に自然と溜息が出てくる。
「それにしても、何で制服で読むかなぁ? お陰で助かったけど、明らかに成人向けでしょ、これ」
年齢制限に関して突っ込めないのは、閑人に見せられた映像のせいだろう。
なんともなしに「成人向け」と書かれた仕切りの、間にある本へ目を通した悠凪は、具体的な内容が並ぶ煽り文に眉を顰めると、頭痛を抱えるていで頭を振った。
「老け顔なんだから私服にすりゃいいのに。しかも、何読んでいるか隠す割に、表情にしまりがないし」
散々な感想を呆れ半分に少年へ投げかける。
しかし、やはり少年はそんな悠凪には気づかず、雑誌に顔を伏せたまま。
――いや、そもそも先程から微動だにしていない。
ガラスに映った他の人影も、ぼんやりとした像を結ぶばかりで、一向に動く気配がなかった。
まるで、ある日の店内の様子がガラスに染み付いたかのようである。
とはいえ、自分の姿がガラス越しの相手に知覚できないと知っている悠凪にとって、そんな気づきは最早過去のもの。
仕切り直しとばかりに溜息をついた悠凪は、今為すべき事のためにコンビニを後にする。
次いで辺りを見渡した彼女は、現在位置に凡その検討をつけると、一歩足を踏み出し、
「ととっ。違う違う。ここは鏡面だから、左じゃなくて右」
身体を反転させては、真逆の方向へつま先を降ろしていった。
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迷鏡堂から奇妙な空間へと、迷い込んでしまった悠凪の落ち着きようは、彼女の神経が人並み外れて図太いから、では勿論ない。
この空間が、閑人の造り出した”世界”だと知っているためだ。
かといって、閑人とはぐれた悠凪が現在位置を把握できるように、この”世界”はゼロから造り出されたモノではなかった。
平たく言えばこの”世界”は、現実を写し取って形成された、鏡の中の世界なのである。
ただし、此処には動くモノ、たとえば人間や走行中の車は写し取られておらず、存在してもいない。
それらは全て、閑人が不要なモノとして切り捨てている。
必要なのは、幻魔を此処へ誘き寄せるための背景のみ。
ガラスに映る人影は、此処が形成された瞬間に映り込んだ、現実のその場所にある光景で、彼らが一様に動かないのは、この”世界”が現実の時間でも止まっているため。
つまり、此処から出ない限り、この”世界”にいる者は現実の時間には戻れないのである。
そんな”世界”へ、只人である悠凪が行くには、制約があって当然だろう。
制約の内容は、閑人の存在と彼の招き。
この”世界”を造ったのが閑人である以上、存在の必要性は言わずもがな。
対し、招きというのは文字通り、呪によって形成された”世界”へ、閑人が手ずから招く事を差す。
迷鏡堂から”世界”へ続く引き戸は、閑人が開けて初めて無事に通れるのだ。
現実の世界へ出た時のように、迷鏡堂を背にした状態で。
そう、悠凪が見知らぬコンビニの前に現れてしまったのは、まさに、この招きの過程を飛ばしたせい。
鏡の中という不安定な”世界”へ入る際には、閑人という造り手の存在が必要不可欠。
にも関わらず、悠凪は自分で引き戸を開け、どこへ繋がるのかも考えず怒り任せに出てしまった。
結果、彼女は迷鏡堂とは関係のないところへ飛ばされ、時間干渉のない”世界”の中で、余計な時間を喰っているのである。
この”世界”で異質な存在である悠凪とは違い、飛ばされる危険のない閑人は、迷鏡堂の前で彼女の到着を待っている事だろう。
だからこそ悠凪はひた走る。
向かう先では確実に、閑人が怒っていると知りながらも。