出発、のその前に
居間に続く踏み板へ腰を下ろした焔は、まるで自分こそが迷鏡堂の主だというように、立ったままの悠凪と閑人へ問いかける。
「それで? 今から行くのですか? 百歳早苗に取り付いたという幻魔を排除しに」
「相変わらず、耳が早ェな」
「耳ではなく目、ですがね。幻魔臭い輩が此処へ入っていくのが視えましたから」
焔は閉じた瞳を閑人に向けると、嫌そうな顔をして袖口を口に当てた。
化生のものである焔には、瞼を下ろした状態でも、悠凪たちが視えているという。
ただし、今の優男の姿が彼の本当の姿とは言い切れないため、どういう風に視えているのかまでは、人間である悠凪は勿論、閑人にも判らないらしい。
判るのは、いつ何時でも幻魔を感知できる程、彼の視野が広い事だけ。
そんな視野に入ってくる幻魔を何故か毛嫌いしている焔は、ここで一旦、表情に笑みを戻すと、当てていた手も下ろして悪戯っぽく言った。
「とはいえ、早いというなら影浦殿の方ではありませんか?」
「アア?」
「いつもなら、もう少し日を置いて様子を見るというのに、この対応の早さ。百歳早苗……美人でしたよねぇ? しかも悠凪殿とは趣の異なる秀逸な曲線美に、影浦殿の大好物である制服とくれば、それはもう」
「ああ。否定はしねェな。女に美人であの身体つき。三拍子揃って十分なところを、制服で納められちまったら、これはもうやる気出すしかねェだろう?」
(この人たちって……それしか頭にないのかしら?)
にやにや似たような顔で、好き勝手並べる男二人に頭痛を覚えた悠凪は、それとなく閑人から距離を取った。
焔が言う通り、閑人の依頼の受け方とこなし方には、彼の偏見によって優劣の差があった。
良い働きっぷりをする条件を上げるなら、第一に依頼人は女である事。
第二条件は依頼人が肩書き付の制服を着ている事だ。
要は閑人、尻フェチではないが、制服にやる気を出すタイプだった。
今回の百歳を例にとれば、性別・女で、女子高校生の肩書き通り制服で来た事が効いたらしい。
オプション扱いではあるものの、美人でプロポーションが良いのも、閑人のやる気に火を点けたようだ。
いつもなら第一・第二条件を満たしていても、一日くらい間を置くというのに、言われてみればこの早さ。
(そうだった。閑人さん、いつもはもっと腰重かったんだ。もも――早苗さんの話を聞いて、急かす事ばかりに気を取られていたけど。話を聞く時は眠っていたくせに、そうよね、この早さは異常だわ)
いつもであれば、どんなに急かしても動かない閑人の、稀に見る行動力の高さに気づき、早く解決して欲しいのとは裏腹に、もやもやした気持ちが再び悠凪の胸に宿っていく。
不可思議な自分の思いに顔を顰めた悠凪は、これが何なのか知るのを嫌うように、もう一歩、閑人から身体を離した。
するとそんな悠凪へすかさず閑人の手が伸ばされる。
ぐいっと無造作に引き寄せられ、頭が厚い胸板を叩けば、こちらを見ないまま閑人が焔へ言った。
「だが、勿論それだけじゃねェさ。何せ相手はコイツ憧れの先輩様みてェだからな。さっさと終わらせてやろうと思ってよ」
「閑人さん……」
「なるほど。悠凪殿絡みでは、百歳早苗の美貌もあまり関係ありませんでしたね」
思いの外あっさり晴れていく、胸のもやもや。
宿った時同様、不可思議な移り変わりに、悠凪が小さく息をついたなら、にやっと笑う気配が閑人からやって来た。
「いいや? アレくらいの美人だからイイんじゃねェか。悠凪が成功した暁にはどっちが上で下か、焔よ、賭けてみるか?」
「? 私が成功? 閑人さんじゃなくて?」
突然の不可解な話。
悠凪が何の事かと首を傾げれば、それより先に手を打った焔が、訳知り顔で優雅に微笑んだ。
「おお、それはそれは。悠凪殿もなかなかどうして、隅に置けない方ですね」
「? 私が、何?」
一人、ついていけない現状に困惑すれば、悠凪を話題にしながらも理解を待たない二人の男は、人の悪い笑みを浮かべて話を続けていった。
「それでは僕は――」
「無論、俺は悠凪が下に賭けるがな」
「そんな! 卑怯ですよ、影浦殿! 僕だってそちらに賭けたかったのに!」
「ハッ、こういうのは言ったモン勝ちなんだよ」
「くぅっ! こうなったら、悠凪殿に僕が持ちうるテクを全て伝授してっ」
「だーから。悠凪には手ェ出すなっつってんだろ? で、どうする? 掛け金は――」
盛り上がる二人を前に、耳にした情報をかき集めた悠凪は、気になる単語をピックアップすると、何の話をしているのかを推測する。
(私が成功した暁……上下……私が下……焔さんもそっち……伝授……手を出すな…………ん? あれ? この感じ、今日もどこかで)
頭の中で聞いた言葉を分解し、整理する。
似たような事をやっていたと思い出せば、みるみる内に閑人と焔が何の賭けをしようとしているのかを知り、悠凪の拳が握られていった。
(つまりこの人たちっ!)
怒りを込めて腕を振り上げれば、それは閑人に避けられ、悠凪の身体をぐるりと回す。
「ぅおっと、悠凪?」
容易く避けたくせに、彼女が暴力に訴えた理由は察せないのか、戸惑う閑人の声。
これを聞いて益々目を吊り上げた悠凪は、真正面から叔父の顔に指を突きつけて吠えた。
「言っときますけどね!? 私は百歳先輩にそんな感情抱いたりしませんから! 百歳先輩だってそうです! 大体、百歳先輩、言ってたじゃないですか! 好きだったのは男の人だって! 私だってそうです! 私だって――」
ここですぅっと息を吸い込んだ悠凪。
しかしそれは冷静になるためではなく、声を張り上げて主張するためであり。
「私だって、男好きなんですからぁっ!!」
「男……」
「好き……」
興奮した悠凪の言葉に、呆然とする男が二人。
自分が何を口走ったのかも未だ判らず、肩で息をする悠凪に対し、閑人と焔は互いに顔を見合わせると、どちらともなく視線を逸らした。
「あー……じゃあ、その、なんだ。行ってくる」
「え、ええ。どうぞ。朗報をお待ちしております」
「俺に限ってしくじりはねェよ。ほれ、悠凪。行くぞ」
悠凪の頭に置いていた手を肩へ回した閑人。
赤い顔で睨みつける悠凪からそれとなく視線を外しては、何も言わずにそのまま来た道を引き返し、入ってきたばかりの玄関と対峙する。
悠凪は腹に堪った怒りをまだまだ閑人たちにぶつけたいところだったが、ふっと吐かれた息を聞くなり、燻る苛立ちごと唾を飲み込んで、何の変哲もない玄関口を凝視した。
俄かに緊張を帯び始めた彼女を回した腕に感じてか、安心させるように肩を叩いた閑人は、おもむろに引き戸へ手を押し当てると、窓越しの闇に浮かぶ自分を見つめて口を開く。
『鏡、鏡、お前は誰か。鏡、鏡、お前は私』
発せられる声は悠凪の正面、窓の向こうから。
対し、応える声は悠凪の隣、閑人の喉から。
「――だから俺は、お前に”世界”をくれてやる」
閑人が傲慢にそう言い放てば、闇に浮かぶ閑人も同じ顔で不敵に笑った。
と同時に、その姿が周囲の闇ごと薄まっていったなら、現れ始める光景は――
「ああっ!!」
「うぉっ!? ど、どうした、悠凪?」
引き戸の窓越しが完全に変われば、いきなり素っ頓狂な声を上げた悠凪に、閑人が必要以上に驚く。
「悠凪殿?」
後方、焔までもが不思議そうな声を悠凪へと投げかけたなら、二人を交互に見た彼女は、顔色を赤と青で行ったり来たりさせつつ、大きく頭を振った。
「いやあの……て、訂正させて下さい。わ、私、別に男好きでもありませんからっ!」
今頃になって、猛然と主張した言葉が異様だった事に気づいたらしい。
最終的に悠凪が顔色を赤に決めて息を切らせば、互いの顔を見合わせた閑人と焔は溜息をついた。
「……ああ、アレか。つぅかお前、これから行くぞっていう時にぶり返す話か?」
「だ、だって」
「全く。律儀ですね、悠凪殿。こちらはスルーして差し上げたというのに。アレですか? そのネタで虐めて欲しいという前振りですか?」
「そんなわけないでしょう!? 私に変な性癖を求めないで下さい! 閑人さんじゃあるまいし」
「俺?」
呆れる二人の視線に挟まれ、悠凪が指を差せば、自身を指差して閑人が首を捻った。
何を言われているのか判っていない顔に、カチッと来た悠凪は、自分の不要な発言を亡失させるていで、閑人を睨みつけた。
「ご、ご主人サマっていうアレです! 早苗さんにまで言って! 絶対誤解されちゃったじゃないですか!」
「ああ……アア? 何言ってんだ、お前? 俺は事実を述べただけだぞ? 関係を聞かれたから、正しく答えてやっただけだ」
閑人が胸を張る勢いで断言すれば、悠凪はその胸倉を掴んでビクともしない身体を揺さぶった。
肩を抱かれている自分だけが揺れている状況もかえりみず。
「ど、どこが正しいって言うんですか!?」
「どこってお前……うん? なんだ、そういう事か」
一人得心いったと頷いた閑人、悠凪の肩から腕を離しては、彼女の手を取って真っ直ぐに言った。
「つまり悠凪は、ご主人サマと下僕じゃ不服、奴隷だって言いたいんだな?」
「ちっがう!!」
「ほおほお。扱い最低だろうが奴隷じゃ人間、ブタが打倒だと?」
「何でそっち!?」
「ああ、そうか。ブタは有用だもんな。しっかし、ゴミやクズじゃ、ご主人サマの優位性がイマイチ発揮されんぞ? どうすりゃイイんだ?」
「……もういい」
どうあっても変わらない上下関係に、説くことを止めた悠凪は、苛立ちに閑人の手を払うと、拳を作って力を込めた。