化生のもの
常では冷やかしの客さえ寄り付かない迷鏡堂。
だというのに、主人もいないそこへ勝手に一人で入り、悠凪たちをのほほん待っていた焔。
一見すると、墨色の髪と下弦を描く閉じた瞳、黒スーツ姿の優男だが、彼は見た目通りの人間ではない。
もっと言えば文字通り、人間ではなかった。
焔属するその存在――
これを悠凪が知ったのは、彼と知り合うずっと前。
閑人と過ごすようになった、ある晩の事だった。
**********
切っ掛けがなんだったのかはもう忘れてしまったが、その日、悠凪は唐突に疑問に思ったのだ。
(どうしてかんじんは、ごはんをたべないのかな?)
学校にいる間は判らないものの、悠凪が帰ってからは、何かを食べる素振りもない閑人。
夕飯作りでも摘み食いなどしない彼は、悠凪が食べている時も見ているだけ。
お腹が空くと元気がなくなってしまう悠凪には、とても不思議な事だった。
そしてその疑問は、何のクッションも置かずに、そのまま悠凪の口から出て行った。
「ねえねえ、かんじん」
「んー?」
「どうしてかんじんは、ごはんをたべないの?」
「あ? 喰ってるぞ」
寝転がっている後ろから覗き込むようにして問えば、簡潔な答えがやってくる。
これをふざけているのだと感じ、膨れっ面をした悠凪は、真面目に答えて欲しい一心で、閑人の脇腹から身を乗り出した。
「ええ? だってかんじん、いっつもたべてないよ?」
「喰ってるんだよ。悠凪のいないとこで、ガリガリバリバリムシャムシャと」
「……それっておいしいの?」
「まあまあだな。つっても、悠凪には美味しくないだろうな」
「ええ? どうして? ゆう、すききらいしないよ?」
「そういう問題じゃなくてだな……って、おい。危ないからそれ以上身を乗り出すな」
「やだ。かんじんが、なにたべてるのか、おしえるまで、ゆうは――ひゃあ!?」
「っうぉ!」
乗り出していた上体が頭から落ちれば、咄嗟に両手を伸ばした閑人が悠凪の肩を押さえた。
畳との激突は免れたものの、「教えなきゃもう一回やるぞ」という目で閑人を見た悠凪。
急な動きをしたせいで、体勢を立て直すまでに時間を要した閑人は、怒るタイミングを失した事に肩を落とすと、悠凪を自分の隣に横たえてから、人差し指を口元に持っていった。
「判った判った。教えてやる。けど、これは悠凪と俺との秘密だから、誰にも言うなよ?」
「ひみつ? いちとうさんにも?」
「ああ」
「あねかあさんにも?」
「勿論だ。つぅか、特にアカ姉には絶対言うな。後が怖過ぎる」
「うん、わかった。あねかあさん、やさしいけど、かんじんにはきびしいもんね」
「そういう事。まあ、どうせその内、アカ姉からも言われると思うんだが。……アイツの性格からして、弟に先越されたって知ったら、暴れるだろうからなァ」
「そうなんだ。じゃあ、指きりげんまんしよ?」
「おお、いいぞ。ほれ」
頬杖を付いて差し出された大きい小指に、寝転がったまま小さい指を絡める悠凪。
自分の節で手を揺らしていけば、閑人が歌うよう促してきた。
ゆーびきーりげーんまーん、うっそついたら
ゆうがかんじん、まもってあげる
ゆーびきった!
「……おい? 守ってあげるってお前、どうやって?」
「うーん、とね。なんかいっぱい?」
「いっぱい?」
「うん。いっぱい。あねかあさんからもまもってあげるし、ほかにもたくさん、まもってあげる」
「そーかそーか。つまりお前、約束破る気満々なんだな?」
「ち、ちがうよ? ゆうはいわないよ? でも、あねかあさんにわからないようにするのって、とっても、とぉっても、たいへんだから」
得意げに言えばじろりと睨まれた悠凪。
たじろぎながらも、折角の聞けるチャンスを逃してなるものかと弁解を図ったなら、クツクツ笑った閑人は彼女の頭をぽんぽん撫で叩いた。
「判った判った。じゃあ教えてやる。その代わり、破ったら絶対、だからな?」
「うん。ぜったい。それで、かんじんのひみつって?」
神妙な顔で頷きつつも、好奇心を隠せないキラキラした瞳で見つめれば、「ホントに判ってんのか」と意地悪く笑いながら閑人は言った。
「実はな、俺は人間じゃないんだ」
「えっ、じゃあやっぱりオニ?」
「おいおい。何で人間じゃなかったら、即・鬼になんだよ。しかもやっぱりってお前、そこまでヤバい面してたか、俺?……まあ、似たようなモンだが。って訳だから、俺の喰いモンは悠凪と違うモンで」
「じゃあ、ゆうのこと、バリバリ食べるの?」
「アア? 違ェよ。似たようなモンであって鬼じゃねェし、そもそも人間なんざ喰わねェ。変な想像力働かせんな」
ぽんぽん出てくる言葉に呆れた様子の閑人は、不思議そうな顔をした悠凪の頭を柔らかく撫でていく。
これに擦り寄るていで近づいた悠凪は、覗き込むようにして青鈍の瞳を見つめた。
「じゃあ、かんじんはなに?」
「うん? 俺か? 俺はなァ、化生のものだ」
「けしょうの、もの?」
難しい響きに悠凪が首を傾げれば、そんな彼女を抱え、仰向けになった閑人。
頬杖に疲れた手を解すように悠凪の背を撫で、幼い顔が這い上がってきたなら、その頭を自分の首に埋めさせた。
まるで無垢な瞳に、真っ直ぐ射られるのを嫌うていで。
「そう。判り易く言や、魔獣・怪獣・妖怪・妖精・精霊・幽霊――等など。常識ぶった大人が言う、空想上の生き物の総称だ。だから鬼も含まれている。種類は可愛らしいのから、寄って欲しくない奴まで色々。能力も人智を超えたのが多い」
「じんち?」
「ああ。たとえば、火のないところに火柱を立ち上らせたり、青天の霹靂どころか真夏の太陽の下に馬鹿でかい氷玉を降らせたり出来る。人間じゃ道具を使わないと出来ないだろ?」
「すごいね。まほうみたい」
「だな」
「じゃあ、かんじんはまほうがつかえるんだ」
「いいや俺は……いや、使えねェこともねェか。そうだな。アカ姉がイイって言ったら、今度見せてやるよ」
「ほんとう!?」
それまで閑人に撫でられるがままだった悠凪が、期待に満ちた顔を上げると、虚を衝かれた青鈍の目が苦笑する。
「ああ。オレサマの名にかけてな」
そう告げる閑人へ、悠凪は何度も「絶対見せてね!」を繰り返し。
無論この後、魔法につられて閑人との約束をすっかり忘れてしまった悠凪は、一日と持たずにこの話を母にしてしまうのだが――それはそれとして。
**********
化生のもの――
それは、ともすれば類稀なる神秘性を持つ、幼い子どもが夢見るような存在。
だがしかし、今現在の悠凪にしてみれば、人間の世俗に塗れた変態の総称でしかない。
閑人は元より、彼経由で知り合った化生のもの・焔にしても、最初は気の良いお兄さんだったはずが、年と回を重ねていく内、悠凪を男として苛めたくなってきた、と本人の前で平然と言うのだから。
だからこそ悠凪は、出会い頭に撫で揉み回された尻を両手で隠しながら、元凶である男二人を左右に睨んで言った。
「さっきからスベスベだの、弾力性だの、人のお尻を何だと思っているんですか! 貴方がたみたいな尻フェチのおもちゃじゃないんですよ!?」
「それは違うぞ、悠凪」
「それは違いますよ、悠凪殿」
すると二人の男は、それまで言い合いしていたとは思えない調子で、声を合わせて首を振った。
双子のようなその動きに、何が違うと悠凪が睨めば、大真面目な顔でまず閑人が力強く言う。
「尻だけじゃない、俺は女の肉感全てが好きだ」
「……は?」
(何の告白? っていうか、なにその無駄に堂々とした態度)
対処し切れない脱力感に苛まれ、庇う手を忘れて悠凪が呆然とすれば、続いて焔も同じ様に言う。
「ええ、そうですとも。悠凪殿の魅力は臀部だけに留まりません。瑞々しい唇も、臀部以上に揉みがいのありそうな胸も、擦りたくなるような太腿も、秘められた花園も――その全てが僕の大好物。それを玩具だなんて、そんな……そんな卑猥な表現をするなんて、悠凪殿も案外好き者ですねぇ。僕はいつでも大歓迎ですよ?」
「ひぃっ!? 私はご遠慮申し上げます!」
どれだけ距離を取っても足りない、焔からのラブコール(舌なめずり付き)を受け、反抗心を一気に削がれた悠凪は、閑人の元へ逃走。
「焔……言い過ぎだ。悠凪が萎縮しちまうだろ?」
後ろに回ってしがみつけば、悠凪の頭へ当然のように手を置いた閑人が、呆れた声を焔へ投げかけた。
悠凪にしてみれば、どちらの言い分も十二分に変質者。
それでも信頼の度合いは、閑人の方が遥かに高い。
従って、思うところはあっても、閑人の言う通りだと更に身を寄せる。
そんな彼女の様子を受け、やれやれと首を振った焔は「悠凪殿ったら、恥しがり屋さんなんですから」と検討違いも甚だしい事を懲りずに呟いた。