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アリシアとローゼンの山あり谷ありシリーズ

「浮気じゃないよね!?」と聞いたら、友人に会いに行くだけだと言っていました (アリシアver.)

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/07/06

アリシアver. です。前作はシリーズからどうぞ!

 アリシア・レインフォードが北国へ嫁ぐことになった時、周囲の反応は決して明るいものばかりではなかった。


 大陸南部で生まれ育った彼女にとって、クライゼン領はあまりにも遠い土地だった。冬でも雪が珍しく、春になれば早くから花が咲き、夏には果実が甘く熟れる南部とは違い、北の果てにあるその領地は、一年の半分を雪と氷に閉ざされるという。春が来ても土は固く、夏になっても風は冷たい。王都の者たちはその地を辺境と呼び、地図の端にある寂しい土地だと語っていた。


 けれど、アリシアはそれを聞いても、不幸だとは思わなかった。


 もちろん、不安がなかったわけではない。寒さに耐えられるだろうか。屋敷の者たちとうまくやっていけるだろうか。南部で当たり前だったものが、北国では何一つ通じないかもしれない。そんな心配はあった。だが、それでもアリシアは、まだ見ぬ土地に少しだけ胸を高鳴らせていた。雪に閉ざされた領地。短い夏に麦を育てる人々。厳しい冬を家族で越す暮らし。聞けば聞くほど、それはただ寂しいだけの場所ではないのだと思えた。


 そして、その土地を治めているのが、ローゼン・クライゼンという男だった。


 彼について聞かされた話は、どれも重かった。若くして領主となり、戦乱を越え、多くの友人と部下を失い、それでも荒れた北国を立て直した人。冷静で、判断が早く、どれほど困難な状況でも取り乱さない人。国境に敵影があると聞けばすぐ兵を動かし、冬の食糧が足りないと分かれば、自分の屋敷の備蓄を先に開ける人。


 人々は彼を、強い領主だと言っていた。


 アリシアが初めてローゼンに会った時、彼はとても静かな人だった。ただ、必要以上に自分のことを語らない人でもあった。


 結婚の話も、彼が自ら望んだものではないらしいと、アリシアは屋敷に来てから知った。


 古くからクライゼン家に仕える者たちが、ローゼンに婚姻を願い続けたのだという。クライゼン家の存続のため。領地の安定のため。そして、ローゼンがこのまま一人で生き続けることを案じていたためだった。彼は何度も断ったらしい。自分に家庭を持つ資格はない。誰かを迎え入れても、良い夫にはなれない。北国の暮らしは厳しく、南部や王都の令嬢にとって幸せな場所とは言えない。そう言って、婚約の話を遠ざけようとしたのだと、屋敷の古い侍女がこっそり教えてくれた。


 アリシアはその話を聞いて、しばらく黙ってしまった。


 ローゼン本人は、そのことをアリシアにほとんど話さなかった。屋敷の者たちも、そう詳しく語りすぎることはなかった。ただ、皆が彼を大切に思っていることだけは、すぐに分かった。家令も、侍女も、屋敷の管理を担う者たちも。領主として敬っているだけではない。長くそばで見てきた人を案じるような空気感が、屋敷のあちこちにあった。


 そんなこんなで、アリシアは北国へ嫁ぎ、ローゼンと夫婦になった。


 結婚した直後のローゼンは、どこかぎこちなかった。アリシアを粗末に扱うことはない。むしろ、彼は彼女が北国で困らないように、かなり気を配ってくれていた。部屋の暖炉には必ず火が入っていたし、南部の食事が恋しくないかと尋ねてくれたこともある。寒さに慣れるまで外出は無理をしない方がいいと、真面目な顔で言われたこともあった。


 けれど、アリシアが夫婦として距離を縮めようとすると、彼は時々、言葉を探すように黙ってしまう。


 アリシアが「おはよう」と言えば、少し遅れて「おはよう」と返してくれる。夜に「おやすみ」と言えば、穏やかな声で返事をしてくれる。食事の席でその日の天気や使用人に教わった北国の習慣について話せば、短くても必ず聞いてくれる。けれど、彼自身の話になると、ローゼンは急に言葉を少なくした。


 それでも、アリシアは彼に話しかけることをやめなかった。


 だって、夫婦になったのだ。遠慮ばかりしていては、いつまで経っても他人のままだ。ローゼンがあまり話さないなら、自分が少し多めに話せばいい。ローゼンが心配を口にしない人なら、自分は隠さず心配すればいい。そう思っていた。


「もー!ローゼンったらまたそんな薄着して!」


 その夜も、アリシアは廊下でローゼンを見つけた瞬間、思わず声を上げていた。


 屋敷の中とはいえ、北国の夜は冷える。窓の隙間から入り込む冷気は、南部育ちのアリシアには今でも少し厳しい。なのにローゼンは、厚手とは言えない上着を一枚羽織っているだけだった。本人は平気そうに立っているが、手の先は冷えているし、肩にも寒さが残っている。それを見逃せるはずがなかった。


「これで外に出るつもりだったの?だめだよ。雪国の人だからって、寒さに勝てるわけじゃないんだから。貴方はすぐ平気そうにするけど、手も冷たいし、肩も冷えてるし、絶対にちゃんと寒いでしょ」


 ローゼンは自分の服装を見下ろした。


「これくらい大丈夫だよ。心配しないで。外に出るつもりはなくて、廊下を歩くだけだったから」

「廊下も寒いの。特にこの辺り、窓から冷気が入るでしょう?私、もう覚えたんだから。ほら、こっち来て。上着をもう一枚持ってくるから、そこで待ってて」

「アリシア、そこまでしなくても」

「します。私が気になるからします。あなたは領地のことなら小さな不安でも放っておかないのに、自分のことになると急に雑になるんだから。そういうところ、よくないよ」


 そう言うと、ローゼンは困ったように黙った。


 領主として人前に立つ時の彼は、いつも迷いがないように見える。けれど、こうして自分のことを叱られると、少しだけ返事に困るらしい。強く断ることもせず、かといってすぐ頷くこともせず、ただ静かにこちらを見る。


「それに、あんまり夜中に屋敷中を歩き回るのは良くないよ。身体にも悪いし、一緒に戻ろう?」


 アリシアはそう言って、彼の袖をそっと掴んだ。


 ローゼンは少しだけ視線を落とした。


「ごめん、アリシア。迷惑かけちゃって」


 その謝り方に、アリシアは胸が詰まりそうになった。


「なーんも!大丈夫だよ。迷惑っていうなら、私が勝手に心配しているだけだもん。貴方が謝るところじゃないよ。まあ、薄着で歩き回ったことについては、ちょっと反省してほしいけど」

「そこは反省するよ。君に心配をかけるつもりはなかったんだ。ただ、少し眠れなくて、部屋にいるより歩いた方が落ち着くかと思っただけなんだ」


 眠れなかった。


 その一言で、アリシアは少しだけ言葉を失った。風の音が気になったのかもしれない。仕事のことを考えていたのかもしれない。理由は分からない。ただ、夜中の廊下に一人で立つ彼の姿は、あまりにも寒そうだった。


 アリシアは彼の隣へ寄り、肩をぎゅっと寄せた。


「眠れない日があるのは、仕方ないよ。私だって、南部からここに来たばかりの頃は、風の音が気になってなかなか眠れなかったもん。窓が鳴るたびに、何かが外にいるんじゃないかって思ったし、暖炉の火が小さくなると急に寂しくなった。でもね、そういう時、一人で我慢してると、どんどん寂しくなるんだよ」


 ローゼンは黙ってアリシアを見た。


「だから、もっと私を頼って頂戴?私達、夫婦なんだから。貴方が全部一人で抱えようとするのは、あなたが優しいからだって分かってるよ。私に怖い思いをさせたくないとか、眠れない夜に付き合わせたくないとか、きっと色々考えてくれてるんだと思う。でもね、何も知らされないまま遠くに置かれる方が、私はずっと寂しいの。あなたが苦しんでるのに、私だけ何も出来ない方が嫌だよ」


 ローゼンは、すぐには答えなかった。


 廊下の窓が小さく鳴る。外では風が吹いていた。アリシアは、彼の袖を掴んだまま待った。返事を急かすつもりはなかった。


 しばらくして、ローゼンは小さく息を吐いた。


「……ありがとう、アリシア」


 その言葉だけで、アリシアは十分だった。


「うん。どういたしまして」


 ローゼンは彼女の肩に視線を落とし、少しだけ眉を寄せた。


「君も冷えただろう。とりあえず、何か温かい飲み物を作るよ。何か飲むかい?」


 アリシアは目を丸くした。


「じゃあ、私は蜂蜜を入れたお茶がいいな。少し甘いやつ。ローゼンも同じの飲もう?眠れない夜には、苦いお茶より甘いお茶の方がいいと思うの」

「甘いものは、君の方が詳しいね」

「任せて。南部育ちだから、こういうのは詳しいのよ」


 そうして二人は並んで、暖炉のある部屋へ戻った。




 ◇




 そんなある夜のことだった。


 夕食を終え、暖炉の火が静かに揺れている部屋で、アリシアは温かいお茶の入ったカップを両手で包んでいた。窓の外では雪が降っている。


 ローゼンは向かいの椅子に座り、読みかけの書類に目を落としていた。仕事をしているわけではない。ただ、手元にある紙を何度かめくり、時折カップへ手を伸ばすだけだった。


 アリシアはしばらくその様子を見てから、思い切って口を開いた。


「ねえ、ローゼン」


 彼が顔を上げる。


「何かな」

「今日から、一緒の部屋に寝よう?」


 ローゼンは、びっくりしすぎて、持っていたものを全て落とした。


「えっ、そんなに驚くことだった?」

「ごめんね、ちょっといきなりだったからびっくりしたよ。でも、どうして?」


 ローゼンはそう言いながら、床に落ちた書類を拾おうとした。けれど、手を伸ばしたところでまた止まる。先に返事を聞くべきか、それとも散らばった物を片づけるべきか迷っているように見えて、アリシアは思わず口元を緩めた。


「もー!そんなの寂しいからに決まってるじゃない。それに一人よりも二人の方が温かいわよ」


 言ってから、少しだけ頬が熱くなった。勢いで言えば平気だと思っていたのに、いざ口に出してみると、思っていたよりもずっと照れくさい。


「夫婦になったのに、夜になったら別々の部屋に戻るのって、少し寂しいよ。朝に会って、おはようって言えるのは嬉しいけど、本当は眠る前にも、貴方の隣にいたいの」


 アリシアは続けて話す。


「貴方がどんなふうに眠るのかとか、朝はどんな顔で起きるのかとか、寒い夜にちゃんと布団をかけているのかとか。そういう、小さなことを知りたいの」


 アリシアは、自分の言葉が少し子どもっぽいかもしれないと思った。けれど、言い始めた以上、ここで引っ込める方が恥ずかしい。だから彼女は、頬の熱さをごまかすように、少し早口になった。


「分かった。一緒に寝よう」


 あまりにもあっさりした返事だった。

 アリシアは、思わず瞬きをした。


「……本当?」

「本当だよ」

「本当にいいの?」

「ああ。君がそう言ってくれるなら」


 さっきまでの照れくささが少しずつ嬉しさに変わっていく。


「ありがとうね」


 アリシアはそう言い、椅子から立ち上がった。


 ローゼンのそばまで歩み寄ると、彼は少し不思議そうにこちらを見た。その顔があまりにも無防備に見えて、アリシアはつい笑ってしまいそうになった。


 そして、背伸びをして、ローゼンの頬にそっと口づけた。


 ほんの一瞬の、軽いキスだった。


 今度は何も落とさなかったが、動きは完全に止まっていた。まるで時間ごと止まってしまったみたいに、頬に触れられたまま、しばらく瞬きもしない。


 アリシアはその反応を見て、急に自分のしたことが恥ずかしくなった。


「……あ、今のは、その、ありがとうのキスだからね」


 慌てて説明すると、ローゼンはようやく小さく瞬きをした。


「そ、そうよ!南部では、親しい人にすることもあるの。……多分」

「多分?」

「細かいところは気にしないで。今は夫婦だから問題ありません」


 アリシアが少し強引に言い切ると、ローゼンは頬に触れた。そこにまだ口づけの感触が残っているかのように、指先でそっと確かめる。


 その仕草を見て、アリシアの頬がさらに熱くなった。


「も、もう!そんなに確認しなくてもいいでしょ。私だって恥ずかしいんだから!」


 その返事が少しおかしくて、気づけば、二人はいつの間にか笑っていた。


「じゃあ、今日からよろしくね」

「ああ。こちらこそ」


 結婚して初めて、ほんの少しだけ、二人は打ち解けたような気がしたのだった。




 ◇




 雪解けの日の朝、アリシアはふと目を覚ました。


 いつもなら隣にあるはずの温もりが、なかった。


 最初は、少し早く執務へ向かったのかと思った。ローゼンは朝が早い。領主としての仕事が多いことも知っている。けれど、その日は何かが違った。部屋の空気が妙に静かで、寝ぼけた頭のまま隣を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 ローゼンがいない。


 アリシアは慌てて羽織を引っかけた。髪を整える余裕もなかった。寝間着の上に厚手の羽織を重ね、冷たい床に足をつける。部屋を出ると、廊下はまだ薄暗かった。使用人たちが本格的に動き始めるには少し早い時間だ。窓の外からは、屋根の雪が解けて落ちる水音が聞こえていた。


 アリシアは足早に玄関へ向かう。

 そして、扉の近くに立つ彼を見つけた。


 普段の執務服ではない。外出用の厚手の上着を着て、使い込まれた黒い外套を肩に掛けている。手には小さな花束があった。北国で春の初めに咲く、淡い色の花。アリシアも最近、その花がこの土地で春を告げるものとして大切にされていると教わったばかりだった。


 その姿を見た瞬間、ただの外出ではないと分かった。


「……ローゼン?」


 振り向いた彼は、少しだけ目を見開いた。

 アリシアは息を整えながら近づいた。


「貴方が部屋からいなくなっていたから」


 それだけ言うと、ローゼンの視線がわずかに下がった。すぐに謝られそうな気がして、アリシアはあえて少し明るい声を出した。


「こんな朝早くに出かけるの?一人で?ま、ま、まさか浮気じゃないよね!?」


 本気で疑っていたわけではない。


 ローゼンに限って、そんなことをするとは思っていなかった。それでも、重くなりすぎそうな空気を少しだけ軽くしたかっただけだ。


 ローゼンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから少し笑いながら答えた。


「北方の地に君より可愛い人なんていないよ。そういうのじゃないから心配しないで」


 思わぬ返事に、アリシアはぱちりと瞬きをした。


 そして、すぐに笑ってしまった。


「あはは!冗談だよ。貴方に限ってそんな事をしないって分かってるわ。起きたらいなかったのには、ちょっとびっくりしたけど」


 ローゼンは視線を伏せた。


「……悪かった。君を心配させるつもりはなかったんだ」

「うん。貴方がそういうつもりじゃないのは分かってる。でも、つもりがなくても心配はするの」


 アリシアはそう言って、彼の手元を見た。


 花束。黒い外套。まだ明けきらない朝。誰にも告げずに出て行こうとしていたこと。


「どこか、大事なところへ行くの?」


 ローゼンはしばらく黙っていた。


 玄関の外では、雪解け水の音がしている。アリシアはそれ以上、急かさなかった。ここで無理に問い詰めれば、彼はまた言葉を飲み込んでしまう気がした。


 やがてローゼンは、小さく口を開いた。


「……友人に会いに行くんだ」

「そう……昔からの友人?」

「そうだね」


 アリシアは花束をもう一度見た。


「一人で行くつもりだったの?」

「そのつもりだった」

「私も行っていい?」


 ローゼンは驚いたようにこちらを見た。


「楽しい場所ではないよ」

「うん。でも、貴方が毎年会いに行くくらい大事な人なら、私もちゃんとご挨拶したい」

「……挨拶?」

「そう。あなたの妻ですって。いつもローゼンを心配している妻ですって、ちゃんと言うの。それに話したい事も色々あるしね」


 アリシアは少しだけ笑った。


 本当は、もう一つ伝えたいことがあった。


 まだローゼンにも、屋敷の者たちにも言っていないこと。先に彼に伝えたいと思っていたこと。けれど、こんな朝早くに一人で出て行こうとするものだから、少しだけ困ってしまったのだ。


 だから、アリシアはついていくことにした。


 ◇


 山の麓へ着く頃には、朝の光が雪解けの地面を淡く照らしていた。


 屋敷を出た時には白く霞んでいた空も、少しずつ青みを帯びている。道の端には冬の名残が残り、踏みしめるたびに湿った土が小さく音を立てた。アリシアは厚手の外套に身を包み、ローゼンの隣を歩いていた。


 北国の春は、南部の春とはまるで違う。


 南部なら、春はもっと明るく、柔らかく、花の匂いを連れてくる。けれどクライゼン領の春は、雪の下からゆっくり息を吹き返すような季節だった。冷たい風の中に、ほんの少しだけ土の匂いが混じる。白い雪の隙間から、小さな草が顔を出す。それを見つけるたび、アリシアはこの土地の人々が春を大切にする理由が少し分かる気がした。


「ここ、思っていたより歩くね」


 息を整えながら言うと、ローゼンがこちらを見た。


「疲れた?」

「大丈夫。ちゃんと歩けるよ」

「もう少ししたら着くよ」


 山の麓に近づくにつれて、道は細くなっていった。屋敷から続いていた踏み固められた道は途中で途切れ、木々の間を抜けるような小道になる。雪解け水がところどころに浅い流れを作り、土は柔らかく沈みやすい。


 アリシアは足元を確かめながら歩いた。


 ローゼンがこれほど大切にしている場所へ、自分が本当に踏み込んでいいのかは分からなかった。だが、隣を歩く彼が時折こちらを気にしてくれるたび、来てよかったとも思った。彼が一人でここを歩いていたのだと思うと、それだけで胸が苦しくなる。


「ここ、毎年来ているの?一人で?」

「そうだね。そんな感じかな」


 アリシアは、それ以上は尋ねなかった。

 少し遅れそうになると、ローゼンが手を差し出してくれた。


「転ばないように」


 アリシアは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しくなってその手を取った。


「ありがとう。今日はちゃんと頼るね」

「……それは、君に言われると少し困るね」

「いーの!夫婦だから、どっちが言ってもいいんです」


 そう言って笑うと、ローゼンの目元がほんの少しだけ和らいだ。


 ◇


 二人は、やがて目的地へ着いた。


 そこは、山の麓にひっそりと広がる墓地だった。


 城下の墓地のように人の出入りが多い場所ではない。木々に囲まれ、雪解け水の音だけが静かに響いている。地面にはまだ白い雪が薄く残り、その間から春の淡い草が少しだけ顔を出していた。


 いくつもの十字架が立て付けられていた。


 新しいものではない。風雪に晒され、木の表面は少しずつ色を失っている。中には傾いたものもあり、根元に苔をまとったものもあった。その一つ一つに、かつて誰かがいた。名前があり、帰る場所があり、待っている人がいた。


 アリシアは、そこでようやく理解した。

 ローゼンが「友人に会いに行く」と言った意味を。


 胸がきゅっと痛んだ。ローゼンが毎年一人でここへ来ていたこと。誰にも告げず、朝早くに屋敷を出て、花と酒を持って、この場所まで歩いてきていたこと。その姿を想像すると、喉の奥が熱くなった。


 ローゼンは、アリシアの手をそっと離した。


 そして、持ってきていた花束とは別に、外套の内側から小さな酒瓶を取り出した。飾り気のない透明な瓶に、琥珀色の酒が入っている。


 彼は一番手前の十字架の前で足を止めた。


 膝をつき、瓶の栓を開ける。冷えた空気の中に、強い酒の匂いがわずかに広がった。ローゼンはその酒を、ほんの少しだけ十字架の根元へ注いだ。雪解けの土に、琥珀色の酒が染み込んでいく。


 それから、次の十字架へ向かう。


 そこでも同じように膝をつき、酒を注ぐ。さらに次の十字架へ。ひとつ、またひとつ。どの十字架の前でも、必ず少しだけ足を止める。言葉はない。ただ、彼は一つ一つの十字架の前で膝をつき、酒を注ぎ、目を伏せた。


 アリシアは少し離れたところで見守っていた。


 声をかけていいのか分からなかった。明るく励ますには、あまりにも静かな場所だった。ここで軽い言葉を口にすれば、この場所の静けさを乱してしまいそうで、彼女はただ黙っていた。


 やがてローゼンは、空になった瓶を外套の内側へしまった。


 そして、十字架の並ぶ墓地へ向き直ると、その場に膝をついた。


 冷たい土に片膝をつき、両手を静かに組む。目を閉じ、頭を垂れるその姿は、領主として民の前に立つ時の彼とは違って見えた。いつも背筋を伸ばしているローゼンが、今はただ一人で、十字架の前に膝をついていた。


 アリシアも、彼の後ろでそっと膝をついた。


 裾が土に触れることも、冷たさが膝に染みることも気にならなかった。ローゼンと同じように手を組み、十字架の並ぶ方へ静かに頭を下げる。


 彼女は、ここに眠る人たちの名前を知らない。


 どんな声で笑ったのかも、どんな酒を好んだのかも、誰を待たせていたのかも知らない。ローゼンが彼らとどんな話をして、どんな夜を越え、どんな別れをしたのかも分からない。


 それでも、祈ることはできると思った。


 どうか、安らかでありますように。どうか、ローゼンが今日ここへ来たことが、少しでも届きますように。


 そして、もし許されるなら。


 アリシアはそっと、自分のお腹に意識を向けた。


 まだ誰にも言っていない。目に見えて分かるほどでもない。けれど、そこには確かに新しい命がある。ローゼンと自分の子がいる。


 彼女は心の中で、十字架に向かって語りかけた。


 ローゼンを守ってくれて、ありがとうございます。貴方たちが命を懸けて守ってくれたから、私は彼に出会えました。だから、どうか。どうか彼が、自分だけを責め続けませんように。


 やがて、ローゼンがゆっくりと目を開けた。


 アリシアはまだ頭を下げていた。すると、彼の外套がほんの少しだけこちらへ寄せられる気配がした。風に冷えないよう気遣ってくれたのだと分かって、胸がまた熱くなった。


 アリシアはそっと顔を上げた。


「……終わった?」


 ローゼンは少しだけ間を置いてから、頷いた。


「うん。終わったよ」


 二人は立ち上がった。アリシアの裾には、雪解けの泥が少しついていた。ローゼンがそれを見て何か言おうとする前に、アリシアは小さく笑った。


「大丈夫。これくらい、ちゃんと落ちるよ」

「……すまない。寒い中、付き合わせた」

「いいのいいの!伝えたいこともちゃんと伝えられたし」


 アリシアは十字架の並ぶ方へもう一度だけ頭を下げた。


 それからローゼンの隣に戻り、来た道の方を見る。


「戻ろうか」




 ◇




 山の麓を後にすると、来る時よりも道は少し明るく見えた。


 しばらく、二人は黙って歩いた。


 アリシアは、ローゼンが何かを言おうとしているように見えた。彼の横顔はいつもより硬く、手も少し冷たい。無理に聞き出すつもりはなかった。けれど、彼が口を開くなら、どんな言葉でも受け止めたいと思った。


 先に口を開いたのは、ローゼンだった。


「時々分からなくなるんだ。何故、自分は生きているのだろうって。人より少し偉かったからなのか、それとも自分が愚かだったからなのか。私は、彼らの人生を見殺したような気がしてならない。彼らを殺したのは敵だけなのか。私の判断は、本当に彼らの死と無関係だったのかってね」


 アリシアは足を止めた。


「ローゼン」


 アリシアは、そっと彼の手を離した。


 それから彼の後ろへ回り、その背中に額を寄せるようにして、両腕を回した。


 ローゼンの体が、一瞬だけ強張った。


 外套越しに伝わる彼の体温は、思ったよりも冷えていた。アリシアの腕は細く、彼を支えるには頼りないかもしれない。それでも、今はこうして抱きしめたかった。言葉より先に、貴方はここにいるのだと伝えたかった。


「貴方が後ろめたい気持ちは分かるよ。簡単に忘れられるものじゃないし、きっと誰に何を言われても、貴方はこれからも考えてしまうんだと思う。でもね、救われた命にも目を向けて欲しい。私だって南部の生まれだけれども、貴方たちが北部で奮闘していなければ、今頃、死んでいたのかもしれないのよ。戦火が広がれば、北も南も関係なかったでしょう?誰かが止めなければ、私の家も、私が知っていた町も、全部なくなっていたかもしれないわ」


 ローゼンは何も言わなかった。


 アリシアは腕に少しだけ力を込めた。


「私は、貴方が救えなかった人たちのことを、なかったことにしてほしいわけじゃない。忘れてほしいわけでもないよ。でも、貴方が救ったものまで見ないふりをしないでほしいの。救われた人のことを考えるのは、亡くなった人を軽んじることじゃないよ。貴方が守ったものを認めることは、貴方が失ったものを忘れることとは違うよ。どちらも、貴方の中にあっていいんだと思う」


 返事はなかった。


 ただ、ローゼンは逃げなかった。振りほどくこともせず、アリシアの腕の中でじっと立っていた。


 アリシアは、彼の背中に額を寄せたまま、少しだけ声を柔らかくした。


「それに、私がなんで貴方についていったと思っているの」


 ローゼンが、わずかに身じろぎした。


「彼らがいなかったら、この子もいなかったから。ちゃんと感謝を伝えようと思ったの」


 そう言って、アリシアはそっと腕を緩めた。


 ローゼンが振り返る。


 アリシアは彼を見上げた。頬が少し熱い。こんな場所で伝えることになるとは思っていなかった。もっと暖かい部屋で、蜂蜜入りのお茶でも飲みながら、ゆっくり話すつもりだったのだ。けれど、今なら、この言葉はきっと彼に届くと思った。


 アリシアは厚い外套の上から、自分のお腹へ静かに手を添えた。


 ローゼンは、その手元を見た。

 数秒、何も言わなかった。


 それから、彼の視線がアリシアの顔へ戻る。


「まさか、アリシア……!」


 ようやく出た声は、掠れていた。

 アリシアは、照れ隠しのように軽い調子で言った。


「あら、毎日、貴方と同じ部屋にいるのよ。それくらいは分かっていた事でしょう?」


 ローゼンは息を呑んだまま、アリシアを見つめていた。


「……本当に?」


 ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。


 アリシアは頷いた。


「うん。本当。まだ皆には言ってないけど、先に貴方にはちゃんと言いたかったの。なのに、貴方ったら朝早くに一人で出て行こうとするんだもの。もう、びっくりしたんだからね」

「すまない……いや、違う。今は、謝るところではないね」

「そうだよ。今は謝るところじゃありません」


 アリシアは少しだけ得意げに言った。

 ローゼンは一歩近づいた。


 けれど、そこで動きが止まる。手を伸ばしかけて、途中で止める。アリシアのお腹へ視線を落とし、それからまた彼女の顔を見る。その様子を見て、アリシアは小さく笑って、両腕を広げた。


「そんなに困らなくても大丈夫だよ。抱きしめるくらいなら、してくれていいの」


 その言葉で、ローゼンはようやく動いた。

 アリシアを、そっと抱きしめる。


 強くはなかった。壊れ物に触れるような抱き方だった。それでも、離したくないと思ってくれているのだと、アリシアには感じられた。彼女はローゼンの胸元に頬を寄せ、満足そうに息を吐いた。


 この腕の中に、彼はちゃんといる。


「……アリシア」

「うん」

「私は、父親になれるだろうか」


 その問いに、アリシアは少しだけ目を閉じた。


「なれるよ。最初から完璧じゃなくていいの。私だって、母親になるのは初めてだもの。二人で少しずつ覚えればいいよ」


 アリシアは彼の腕の中で顔を上げた。


「良い?貴方は生きなきゃいけないのよ。民の為に、私の為に、そしてお腹のこの子の為に」


 ローゼンは何も言わなかった。


 ただ、ゆっくりと息を吐き、アリシアの肩にかかっていた外套を少し直した。山の麓から吹いてくる風はまだ冷たい。雪解けの日とはいえ、南部育ちの彼女には十分すぎるほど寒い。


「帰ろう、家に。……もう少し厚いものを着せておけば良かったと思っている」


 アリシアは、ぱちりと瞬きをしたあと、少しだけ照れたように笑ったのだった。


「ええ、家に帰ったら温かいものを頂戴ね?」

続きは絶対に書きます。絶対

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