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リュッツェンの奇跡  作者: 塩野さち


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第9話 エーゲルの断罪、孤独な巨星の墜落

 1634年2月。バイエルンを席巻し、ドナウ川を血に染めて進軍するグスタフ・アドルフの軍勢に、神聖ローマ皇帝フェルディナント二世は震え上がっていた。


 皇帝が最期の望みを託したはずの軍司令官ヴァレンシュタインは、ボヘミアの拠点エーゲルに引き籠もったまま、動こうとしない。それどころか、スウェーデン王やザクセン選帝侯と密使を交わし、自らが「ボヘミア王」として独立する和平案を画策しているという噂が、ウィーンの宮廷を駆け巡っていた。


「ヴァレンシュタインは、もはや帝国の将軍ではない。反逆者だ」


 皇帝の側近たちの冷酷な進言により、ついに秘密の「罷免状」と「逮捕命令」が発せられた。それは事実上の暗殺許可証であった。


◇◆◇


 2月25日の夜。エーゲルの街は深い雪に閉ざされていた。

 ヴァレンシュタインは持病の痛風に苦しみ、寝台に横たわっていた。かつて戦場を俯瞰し、数万の運命を操った魔術師のような瞳も、今は濁り、虚空を見つめている。


「……ハルク、星の巡りはどうだ。私の運命は、まだ尽きてはおらぬか」


 傍らに控える占星術師に問いかけるが、返ってくるのは冷たい風の音だけだった。

 その直後、屋敷の重い扉がドーン! と蹴破られた。


「裏切り者ヴァレンシュタイン! 皇帝陛下の名において、成敗いたす!」


 乱入してきたのは、かつての部下でありながら、皇帝に忠誠を誓い直したアイルランド人将校デヴルーの一団だった。

 ヴァレンシュタインは、震える手で寝台の脇にある杖を掴もうとした。だが、彼の命運は、リュッツェンの霧の中でグスタフ・アドルフを仕留め損ねた時に、すでに尽きていたのだ。


「待て……。私には、まだなすべきことが……」


 デヴルーの放ったパルチザン(長柄の武器)が、ヴァレンシュタインの胸を深く貫いた。

 声にならない呻きを上げ、帝国最強にして最大の反逆者は、冷たい床へと崩れ落ちた。


◇◆◇


 数日後、この報はミュンヘンで冬営中のグスタフ・アドルフのもとへ届けられた。

 王は報告書を読み終えると、長く重い沈黙を保った。


「ヴァレンシュタインが死んだか。……惜しい男を失ったものだ」


 ベルンハルト公は、王の意外な言葉に眉をひそめた。


「陛下、奴は我らの不倶戴天の敵ではありませんか。これでウィーンへの道に、立ちふさがる巨壁は消えたのです」


「左様。だが、奴は私と同じく、この古い欧州という盤面を理解していた唯一の男だった」


 グスタフ・アドルフは立ち上がり、窓の外の南の空――ウィーンの方角を見据えた。

 最大のライバルが、戦場ではなく暗殺という卑劣な手段で消されたことに、王は言いようのない不快感と、そして奇妙な解放感を覚えていた。


「ヴァレンシュタインという重石が取れた今、帝国はもはや形を保てまい。アクセル、全軍に触れを出せ。雪解けとともに、我々はウィーンへ向かう」


 リュッツェンの奇跡から始まった歴史の奔流は、ついにハプスブルク家の心臓部を飲み込もうとしていた。


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