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リュッツェンの奇跡  作者: 塩野さち


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第1話 北方の獅子、リュッツェンの霧に立つ

 1632年11月16日。

 ドイツの地、リュッツェンの平原は、朝から深い霧に包まれていた。


 一寸先も見えない白濁とした世界の中で、数万の兵たちが息を潜めている。湿った空気が鉄の鎧を冷やし、馬の荒い鼻息だけが低く響いていた。


 スウェーデン国王、グスタフ・アドルフは、愛馬の背に跨がりながら静かに目を閉じていた。


(この霧……天の与えた試練か、あるいは加護か)


『北方の獅子』と恐れられる王の胸中には、冷徹な戦術家としての計算と、信仰への熱き情熱が同居していた。


 対峙するのは、皇帝軍の総司令官、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン。これまで何度も煮え湯を飲まされてきた宿敵である。

 ここでヴァレンシュタインを叩かねば、プロテスタント諸侯の結束は崩れ、ドイツは再びカトリックの手に落ちるだろう。


◇◆◇


 午前11時。

 ようやく太陽の光が霧を押し返し、戦場の全貌が姿を現した。


「主は我らの砦なり!」


 グスタフ・アドルフの鋭い号令が響き渡る。

 それを合図に、スウェーデン軍の砲列が一斉に火を噴いた。ドカーン! という鼓膜を震わせる轟音が、リュッツェンの静寂を切り裂く。


「前進せよ! 正義は我らにあり!」


 王自らが率いる右翼の騎兵隊が、地響きを立てて突撃を開始した。

 スウェーデン軍の戦術は柔軟だ。歩兵と騎兵が密に連携し、敵の隙を突く。中央の歩兵旅団も、泥濘をものともせずに敵の塹壕へと肉薄していった。


◇◆◇


 一方、風車の丘に陣取ったヴァレンシュタインは、冷ややかな眼差しで戦況を見つめていた。


「スウェーデン王め、やはり強引に来たか」


 ヴァレンシュタインは細い指で顎を撫でる。

 中央の歩兵戦列がスウェーデン軍の猛攻にさらされ、じりじりと後退を始めていた。自軍の大砲が奪われたとの報告も入る。


「焦るな。パッペンハイムが戻れば、形勢は逆転する」


 彼は予備兵力を投入し、中央の混乱を食い止めるよう命じた。

 ヴァレンシュタインにとって、この戦いはチェスのようなものだった。犠牲を払い、最後の一手で王を詰ませばよいと考えていた。


◇◆◇


 戦場は再び、硝煙と戻り始めた霧によって視界を奪われつつあった。

 グスタフ・アドルフは焦燥に駆られていた。右翼は優勢だが、中央の歩兵が敵の反撃を受けて苦戦している。


「私に続け! 中央を援護する!」


 王は数人の護衛兵だけを連れ、馬を走らせた。

 しかし、近眼の王にとって、煙の立ち込める戦場は迷宮も同然だった。


「王よ、危のうございます! 敵の影が……!」


 護衛兵の叫びも虚しく、グスタフ・アドルフの一団は、霧の中から現れた皇帝軍の騎兵隊と正面からぶつかってしまった。


「死ね! プロテスタントの犬め!」


 敵兵の放った銃弾が、王の左腕を撃ち抜く。

 激痛が走り、手綱を握る力が抜けた。


「陛下!」


「案ずるな……ただのかすり傷だ……」


 王は歯を食いしばり、馬を反転させようとした。

 だが、運命の歯車はここで非情な回転を見せる。背後に回り込んだ別の騎兵が、王の背に向けてピストルを構えた。


 本来の歴史であれば、ここで放たれた弾丸が王を落馬させ、その命を奪うはずだった。


 パァン!


 乾いた音が響く。

 しかし、その瞬間、王の愛馬が泥に足を取られて大きくつんのめった。


「……っ!」


 弾丸は王の肩をかすめ、虚空へと消えた。

 落馬は免れなかったが、致命傷は避けた。地面に叩きつけられたグスタフ・アドルフは、泥まみれになりながらも意識を保っていた。


(まだだ……私は、まだ死ぬわけにはいかん……!)


 霧の向こうから、さらなる蹄の音が近づいてくる。

 それは、歴史が大きく分岐し始めた瞬間だった。


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