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まぼろし

作者: コンちゃん
掲載日:2025/11/04

 春の光がまだ街のガラスに冷たく反射する頃、愛子は上京した。

 親元を離れた自由は、風のように軽く、そして思いのほか、掴みどころがなかった。

 大学の講義は退屈ではなかったが、誰かと深く話すことはほとんどなかった。

 だからこそ、夜になると、愛子は人の中に自分の輪郭を探しに出かけた。

 彼女の周りにはいつも男たちがいた。講義の帰り、駅前のカフェ、下宿の小さな部屋。

 笑い声と煙草のにおい、誰かの手が伸びてきて、愛子の存在を確認する。

 そのたびに「ここにいる」と思えた。

 けれど、その温もりは、朝になると薄れていく。

 彼女はまた、鏡の前で自分を見つめ、誰だったのかを思い出そうとする。

 女子学生たちは彼女を避けた。

 「近づかない方がいい」――そんな目線の中で、愛子はますます笑顔を濃くした。

 笑えば、誰かがこちらを見る。

 見られれば、少しだけ、心が落ち着く。

 けれど、その視線の先には、愛子自身ではなく、彼女の“姿”だけが映っていた。

 取り巻く男たちは、数週間ごとに顔ぶれを変えた。

 彼らは愛子を“特別な存在”だと言った。

 だがその言葉を信じるほど、愛子は不安になった。

 誰かの欲望に映し出された「特別」は、次の瞬間には別の誰かの手に渡ってしまう。

 だからこそ、愛子は笑顔を崩せなかった。

 笑顔を保つことが、存在の条件だった。

 ある夕暮れ、駅前で声をかけられた。

 「かわいいね、夜のお店で働いてみない?」

 愛子は立ち止まった。

 その言葉は、まるで彼女の心の空白を見透かしたようだった。

 数日後、彼女は小さなピンク色の名札をつけて、照明のまぶしい店内に立っていた。

 “初心者マーク”のピンが光り、男たちの視線が集まる。

 愛子はその視線に包まれながら、自分の価値が上がったような錯覚におちいった。

 「ここなら、わたしを必要としてくれる」

 そう思った。

 けれど、夜が深くなるほど、愛子は自分の声が薄くなっていくのを感じた。

 笑うたびに、誰かの記憶に名前が消えていく。

 自分が男たちを操っていると思っていた。

 実際には、彼らの欲望が愛子の心を操作していた。

 笑顔をつくる筋肉が痛むほど笑っても、その先に何も残らなかった。

 帰り道、駅のホームで、愛子はスマートフォンの黒い画面に自分の顔を映した。

 メッセージアプリの通知は鳴らない。

 誰も彼女を待っていない。

 「わたしは、誰だったんだろう」

 唇が微かに動いた。

 自由とは、こんなにも静かで、孤独なものなのか。

 街の明かりが滲む。

 その光の一つひとつが、愛子にとっての“他者”のように見えた。

 触れられそうで、決して触れられない。

 愛子は息を吸い、笑みを作り直した。

 明日もまた、誰かの視線の中で生きていくために。

 春が終わる頃、愛子はふと気づいた。

 夜の街で笑う自分が、もう以前ほど鮮やかに見えないことに。

 鏡の中の自分は、何かを演じるように口角を上げていた。

 光の下で磨かれたガラス靴のように、輝くほど脆かった。

 店の常連のひとりが言った。

 「君は、誰かの夢みたいだね」

 その言葉が不意に胸に刺さった。

 夢――。それは目覚めれば消えるものだ。

 愛子は、自分が誰かの夢の中でしか生きられないことに気づいた。

 そして、夢の終わりを恐れていた。

 ある夜、店の帰り道、ビルの谷間で雨が降り始めた。

 傘を持たない愛子は、濡れたアスファルトの上を静かに歩いた。

 雨音が、誰の声よりも優しかった。

 駅の階段を下りる途中、見覚えのある顔があった。

 大学の同級生――講義の最後列で、いつも静かにノートを取っていた男。

 彼は、驚いたように微笑んだ。

 「久しぶり。最近、学校で見かけなかったね」

 愛子は答えようとしたが、声が出なかった。

 その日から、彼はときどきメッセージを送ってきた。

 何気ない話題。授業のこと、本のこと、天気のこと。

 最初は返す気にもなれなかった。

 けれど、不思議とその言葉は軽くなく、押しつけがましくもなかった。

 愛子の中で何かが、少しずつ溶けていくのを感じた。

 ある日、彼に誘われて大学の図書館へ行った。

 久しぶりに開いた参考書のページから、紙の匂いが立ちのぼる。

 愛子は自分の指が、文字をなぞる感覚を思い出した。

 「ねえ、愛子って、本当は何が好きなの?」

 彼の問いに、愛子は少し考えてから、

 「……わからない」

 と答えた。

 その瞬間、涙がこぼれた。

 ずっと心の中にあった空洞が、やっと言葉になった気がした。

 それからの日々、愛子は少しずつ夜の街から離れた。

 代わりに、朝の光を感じるようになった。

 講義の教室、カフェの窓際、図書館の静けさ――

 どこにいても、少しだけ息がしやすくなった。

 愛子は気づいた。

 「わたしは、誰かに見られることでしか存在できない」と思い込んでいたけれど、

 見つめる相手を“他人”ではなく“自分”に変えることができるのだと。

 それは簡単ではなかった。

 時々、孤独がまた顔を出した。

 それでも、愛子は逃げなかった。

 夜の街を歩くと、今もネオンの明かりが彼女を誘うように瞬いている。

 でも、愛子はもう立ち止まらない。

 その光は、彼女のためではなく、過去の誰かのために灯っているのだ。

 夏の風が頬を撫でた。

 愛子はふと笑った。

 あの頃の笑顔とは違う、少し不器用な、でも確かな笑顔だった。

 誰かのためではなく、自分を肯定するための笑顔。

 その瞬間、愛子の中で、何かが静かに芽吹いた。

 自由とは、誰かに与えられるものではない。

 自分で掴み取るものだと、やっと知った。

 空虚の中にこそ、希望の種が眠っている。

 愛子は、初めて“自分”という名前の人生を歩き始めた。


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