まぼろし
春の光がまだ街のガラスに冷たく反射する頃、愛子は上京した。
親元を離れた自由は、風のように軽く、そして思いのほか、掴みどころがなかった。
大学の講義は退屈ではなかったが、誰かと深く話すことはほとんどなかった。
だからこそ、夜になると、愛子は人の中に自分の輪郭を探しに出かけた。
彼女の周りにはいつも男たちがいた。講義の帰り、駅前のカフェ、下宿の小さな部屋。
笑い声と煙草のにおい、誰かの手が伸びてきて、愛子の存在を確認する。
そのたびに「ここにいる」と思えた。
けれど、その温もりは、朝になると薄れていく。
彼女はまた、鏡の前で自分を見つめ、誰だったのかを思い出そうとする。
女子学生たちは彼女を避けた。
「近づかない方がいい」――そんな目線の中で、愛子はますます笑顔を濃くした。
笑えば、誰かがこちらを見る。
見られれば、少しだけ、心が落ち着く。
けれど、その視線の先には、愛子自身ではなく、彼女の“姿”だけが映っていた。
取り巻く男たちは、数週間ごとに顔ぶれを変えた。
彼らは愛子を“特別な存在”だと言った。
だがその言葉を信じるほど、愛子は不安になった。
誰かの欲望に映し出された「特別」は、次の瞬間には別の誰かの手に渡ってしまう。
だからこそ、愛子は笑顔を崩せなかった。
笑顔を保つことが、存在の条件だった。
ある夕暮れ、駅前で声をかけられた。
「かわいいね、夜のお店で働いてみない?」
愛子は立ち止まった。
その言葉は、まるで彼女の心の空白を見透かしたようだった。
数日後、彼女は小さなピンク色の名札をつけて、照明のまぶしい店内に立っていた。
“初心者マーク”のピンが光り、男たちの視線が集まる。
愛子はその視線に包まれながら、自分の価値が上がったような錯覚におちいった。
「ここなら、わたしを必要としてくれる」
そう思った。
けれど、夜が深くなるほど、愛子は自分の声が薄くなっていくのを感じた。
笑うたびに、誰かの記憶に名前が消えていく。
自分が男たちを操っていると思っていた。
実際には、彼らの欲望が愛子の心を操作していた。
笑顔をつくる筋肉が痛むほど笑っても、その先に何も残らなかった。
帰り道、駅のホームで、愛子はスマートフォンの黒い画面に自分の顔を映した。
メッセージアプリの通知は鳴らない。
誰も彼女を待っていない。
「わたしは、誰だったんだろう」
唇が微かに動いた。
自由とは、こんなにも静かで、孤独なものなのか。
街の明かりが滲む。
その光の一つひとつが、愛子にとっての“他者”のように見えた。
触れられそうで、決して触れられない。
愛子は息を吸い、笑みを作り直した。
明日もまた、誰かの視線の中で生きていくために。
~
春が終わる頃、愛子はふと気づいた。
夜の街で笑う自分が、もう以前ほど鮮やかに見えないことに。
鏡の中の自分は、何かを演じるように口角を上げていた。
光の下で磨かれたガラス靴のように、輝くほど脆かった。
店の常連のひとりが言った。
「君は、誰かの夢みたいだね」
その言葉が不意に胸に刺さった。
夢――。それは目覚めれば消えるものだ。
愛子は、自分が誰かの夢の中でしか生きられないことに気づいた。
そして、夢の終わりを恐れていた。
ある夜、店の帰り道、ビルの谷間で雨が降り始めた。
傘を持たない愛子は、濡れたアスファルトの上を静かに歩いた。
雨音が、誰の声よりも優しかった。
駅の階段を下りる途中、見覚えのある顔があった。
大学の同級生――講義の最後列で、いつも静かにノートを取っていた男。
彼は、驚いたように微笑んだ。
「久しぶり。最近、学校で見かけなかったね」
愛子は答えようとしたが、声が出なかった。
その日から、彼はときどきメッセージを送ってきた。
何気ない話題。授業のこと、本のこと、天気のこと。
最初は返す気にもなれなかった。
けれど、不思議とその言葉は軽くなく、押しつけがましくもなかった。
愛子の中で何かが、少しずつ溶けていくのを感じた。
ある日、彼に誘われて大学の図書館へ行った。
久しぶりに開いた参考書のページから、紙の匂いが立ちのぼる。
愛子は自分の指が、文字をなぞる感覚を思い出した。
「ねえ、愛子って、本当は何が好きなの?」
彼の問いに、愛子は少し考えてから、
「……わからない」
と答えた。
その瞬間、涙がこぼれた。
ずっと心の中にあった空洞が、やっと言葉になった気がした。
それからの日々、愛子は少しずつ夜の街から離れた。
代わりに、朝の光を感じるようになった。
講義の教室、カフェの窓際、図書館の静けさ――
どこにいても、少しだけ息がしやすくなった。
愛子は気づいた。
「わたしは、誰かに見られることでしか存在できない」と思い込んでいたけれど、
見つめる相手を“他人”ではなく“自分”に変えることができるのだと。
それは簡単ではなかった。
時々、孤独がまた顔を出した。
それでも、愛子は逃げなかった。
夜の街を歩くと、今もネオンの明かりが彼女を誘うように瞬いている。
でも、愛子はもう立ち止まらない。
その光は、彼女のためではなく、過去の誰かのために灯っているのだ。
夏の風が頬を撫でた。
愛子はふと笑った。
あの頃の笑顔とは違う、少し不器用な、でも確かな笑顔だった。
誰かのためではなく、自分を肯定するための笑顔。
その瞬間、愛子の中で、何かが静かに芽吹いた。
自由とは、誰かに与えられるものではない。
自分で掴み取るものだと、やっと知った。
空虚の中にこそ、希望の種が眠っている。
愛子は、初めて“自分”という名前の人生を歩き始めた。




