抗天夢装ゼド・ザンバナル
今となってはいつのことだか、ウスタムという村があったという。そこは季節の巡りに色が移ろう美しい木々に囲まれた、静かな村だった。
だがこの村は、一頭のバケモノに悩まされていた。
いつからか、村のはずれの祠に棲みついたソレは、猿に似てが大きく、腕は大人一人を簡単に抱え上げられる程に長くて力が強かった。貌は人に似て面は赤く、目は金色とも真紅とも言われる光を放ち、見た者は恐れて動けなくなった。
メシカは村を往来する者を襲っては喰った。これを恐れて人通りが乏しくなると、今度は村の者、特に女子供を好んで狙うようになった。村の男衆が集まっても、巨体に見合わず素早く飛び跳ねるこの化け物を追うことすらままならない。村で一番強かった、アビと呼ばれる若者が、一度だけ首元に刃傷をつけたのみだった。
深紅の木の葉が、寒気を察して落ちる頃。忌々しきバケモノが、そろそろ出るかという時期である。村はずれに一人の男が現れた。男はいずこのものかもわからぬ言語を発し、髪も、瞳も、身にまとっている獣の毛皮のような服も、墨に浸したかのように黒かった。村の者はメシカの手下か眷属の類ではないかと気味悪がり、男が村に現れる度に追い払う。3度目に怒ったアビが槍を振るって脅してやると、這う這うの体で逃げ出し、それ以来は見なくなった。
男が見えなくなってしばらく経ったある日の夕方、強い風雪に乗じ、ついにメシカが村に現れた。大きな腕を振るい上げ、家の外壁をたちまちのうちに叩き崩して上がり込むと、人間一人を担ぎ上げ、にもかかわらず恐るべき速さで飛び跳ねて去って行ったのだ。
襲われたのはニナイという、村でも特に美しいと評判の娘であった。ニナイへ密かな想いを寄せていたアビはこれを知るや、今日こそメシカを討ち取らんと決意を固め、この猿妖が根城とする祠へと、単身乗り込んで行った。
何を祀っていたのかもわからぬほどに古ぼけた祠。アビがその前に立つと、満月のような眼を光らせ、笑みを張り付けた赤い貌が屋根の上から此方を覗く。何年も村を脅かし続けた怪物である。
アビは眼光に怯むことなく矢のように飛び出し、槍を振り上げた。
暗雲から辛うじて差しこむ月明かりの下で、槍を繰り出すアビ。しかしメシカの毛皮は編み込まれた針金のように硬く、更には飛び回るために狙いが定まらず傷付けることもままならない。
奮戦するも打つ手が無くなり、やがてアビはがくりと膝を突く。万事休す、その時であった。
一つの影が、アビを庇うように飛び出して、メシカの前に立ちはだかった。
周囲の闇に溶け出してしまいそうな、黒ずくめの姿。それはいつか追い払ったはずの、知らない言葉を発する男だった。
前に見たときよりも目に見えて痩せこけたその男が、手にした黒い刃を持って突進すると、メシカも腕を振り上げてこれを迎え撃った。
それはあまりに醜い、戦いとも言えない凄惨なものだった。
男は明らかに戦い慣れておらず、メシカの振るう腕に当たると、容易に弾き飛ばされた。鋭い爪は男の服と、肌と、肉を易々と切り裂き、鮮血を辺りに散りばめた。しかし男は痛みを感じないのか、まるで怯まず、長いナイフのような得物をメシカの片目に突き立てる。
それでも、この巨大な猿を討ち取るには及ばない。痛みと怒りによりおもいきり殴り飛ばされた男は服諸共ズタズタに引き裂かれ、全身が赤黒く濡れている。もはや二本足で立ちあがることもできず、手を地につけて体を支えているのがやっとだった。それでも男は背を向けず、両手を地から離して頭を上げて、狂ったように吠え上げた。
すると、月を覆っていた暗雲が、男に吸い寄せられてゆき、月明りを浴びたアビの槍が鈍く輝く。
それまで草陰に伏していたアビは、男の咆哮に奮い立つと、猛然とメシカに立ち向かって行った。暴れ狂うメシカの懐に飛び込むと、痛む両腕にあらん限りの力を込める。そして槍の穂先が月下に閃くと、猿妖の首は遂に胴から斬り放たれ、喉元から溢れる血だまりの中に落ちた。
決着する頃には空が白んでいた。
男は、メシカの片目に突き刺さった刃を引き抜く。薄明りに見えたのは、刃先から柄までが黒く、先が剣のように尖った鉈であった。そしてその鉈を、メシカの胴に突き立て、腹を破り、心臓をえぐり取って貪りだした。喰らい終わってしばらくすると、呆気に取られていたアビに向かって、片言の人語で話し始めた。
「自分は、この世より縁なき地にて生まれた者である。怪異を喰らってその知と魔力を奪い、多少の言葉を得たものの、もはや人の姿では正気を保てない……」
見ると、地に着いていた両手の爪は厚く、鋭くなっている。纏っていた黒い衣服は、月から吸い寄せられた黒雲のようなたてがみとともに風を受けてたなびき、その姿はすっかり獣と化していた。
獣は背にニナイを乗せ、満身創痍のアビを横に支え、討ち取ったメシカの首を口に咥えて山を降りた。
村へと着く頃には空が白んでいた。獣は姿が変われど傷がふさがらず、出迎えた村人に二人を預けると同時に倒れた。アビが、ニナイが、そして村人たちが見守る中、村の長が獣に名を問うた。獣は、自分にはもう名前が無いと答えると、そのまま目を閉じたという。
かつて村を脅かした怪物が根城としていた祠があった。今、その祠には、一頭の獣の像が、村の往来を見守っている。
村の外からやってきた、壮烈にして奇怪なこの獣に村の長は"ゼド"という名前を送った。人が変じた名も無き獣に送られたその名は、名前以外の全てを忘れ去られた、とある古い神に由来すると伝えられている。