婚約破棄が義務化された世界でのお話
「アリアネーラ=ミーチャリア侯爵令嬢。貴女との婚約は破棄させてもらう」
「ええ、よろしいですわ」
学園主催の卒業パーティーでのことだった。卒業生である大勢の令息、令嬢やその両親に見守れながら『婚約破棄』がなされていた。
淡々と、作業をこなすように。
「…………、」
それを、第一王子レオン=ランクルフォードはくだらなさそうに眺めていた。その間にも『次』が始まっていた。
「ミーズ=フォトンレント伯爵令嬢。貴女との婚約はこの場で破棄とさせてもらって良いか」
「了承いたします」
一昔前ではあり得ない光景だった。
社交界の縮図とされている王立学園の卒業パーティーで公然と婚約破棄を突きつけるなどは。
だが、それが今の常識だった。
第一王子の父親、すなわち国王が若き頃に真実の愛とやらに目覚め、十六年前の卒業パーティーの際に当時の婚約者であったファリア=シークミリア公爵令嬢との婚約を破棄、その場でとある男爵令嬢との婚約を宣言したのだ。
また、政略的な婚約に縛られることなく、真に愛する者との幸せを掴むこと。それこそが民の見本となるべき貴族として正しい姿である、ということにするために、若き頃の国王はある法律を制定した。
すなわち学園からの卒業生は卒業パーティーという晴れの舞台にて親より定められた婚約を打ち破り、本当に好きな別の人物との真実の愛を掴め、という法律が。
もしもこの法律を破り、卒業パーティーで婚約を破棄しなかった場合は罰則として貴族の地位を剥奪、家から追放して平民に落とすというのだから、誰もが従う他なかった。
……とはいえ真実の愛なんて当人の言葉以外では証明できるものでもないので『仮の』婚約を破棄した後、政略的に本命の相手との婚約を結べばいい。そういう背景もあって国王の反感を買ってまでこの法案に反対する者はいなかった。
これが今の常識。
それを踏まえて第一王子は内心こう吐き捨てた。
(参ったよな。まさか『仮の』婚約者に惚れ込むことになるとはなあ)
若き頃の国王は自身の行動を正当化するために(とはいってもどこかズレている気がしないでもないが)婚約破棄の義務化なんて無茶な法律を押し通した。その暴挙が、時を経て息子の障害となって立ち塞がっている。
こんな法律がなければ『仮の』婚約なんて結ぶ必要はなく、彼女の魅力に気づくことはなかった。こんなにも惚れ込むことはなく、彼女を失うことに怯えることもなかったのだ。
知らなければ、幸せだった。
それでも知ってしまったからには、婚約破棄と共に幸せは失われてしまう。
それでも王族として生まれたからには相応の生き方というものがある。誰もがくだらないと思っていても、他ならぬ王族である彼がぶち壊しては王家の沽券に関わるのだから。
順番がやってくる。
最後の最後、第一王子の番が。
周囲の空気に背中を押される形で第一王子は前に出る。正面。腰まで伸びた輝く金髪に透き通るような碧眼。どんな絵画に描かれた美女だって霞む、彼にとっての最愛は堂々としたものだった。
シャルナ=シークミリア公爵令嬢。いつ見ても一目惚れのように第一王子の心臓は高鳴っていた。
「すう、はあ……。よしっ」
第一王子という己の身分から生じる義務、婚約破棄しなければ王族といえども身分を剥奪されて平民と落ちること。全てを天秤にかけて、第一王子レオン=ランクルフォードはこう言った。
「シャルナ、俺と結婚してくれないか?」
きょとん、と。
いつだって堂々と戦女神のように揺るぎないシャルナ=シークミリア公爵令嬢が何を言われたのか理解できないといった風に目を瞬いていた。
じっくりと十秒は静止していただろう。その後、ようやく認識が追いついたのか、爆発した。
「何を言っているんですか殿下っ。貴方様は国王となるお方です! それがっ、それを、シークミリア公爵家との確執をっ、いいえそれ以前にこの場で婚約破棄して別の人と結ばれなければ身分を剥奪されるんですよ!? それがわかってのお言葉ですか!?」
「覚悟はできている。とはいえ、だ。身分を剥奪されるのはシャルナも同じこと。無理にとは言わない。こんなことやらかした俺の言葉になんて何の強制力もないから、シャルナが望む通りに答えてくれればいい」
「っ……!!」
「ただ、まあ、なんだ。俺としてはシャルナのいない玉座でふんぞりかえっているよりも、シャルナと一緒に畑でも耕して生きていければいいなとは思っている。シャルナは、どうだ? 全部捨てて、俺と共に生きてくれるか?」
もっと格好良く決める予定だったのだが、意図せずしてか弱い声が出ていた。不安をそのまま表に出すなど王族として失格だが、そもそも第一王子は腕っ節以外は弟に敵わない男なのだ。王族らしくなんていられるわけもなく、だからこそこんな風にやらかしているのだ。
対して。
シャルナ=シークミリア公爵令嬢は呆れたように瞳を閉じる。大きく息を吐いて、肩を竦めて、そして──開いた瞳で真っ直ぐに第一王子レオン=ランクルフォードを見つめてこう答えた。
「わかりました」
「え?」
「ですから、わかりましたと言っているんです。そこまでの覚悟があるのならば、わたくしも自分の心に素直になることにします。ええ、貴方様も同じ気持ちだったのならば我慢する必要なんてないのですから」
「本当、に?」
「本当ですよ」
「そっか。そっか! ははっ、ははは!! やったーっ! シャルナと結婚だーっ!!」
「ちょっ。そんなにはしゃがないでください!! はっ恥ずかしいじゃないですかっ」
「いやいやシャルナと結婚だぜ? はしゃぐなってほうが無理があるって!!」
「いい加減にするであるぞ!!!!」
一喝だった。
緩みに緩んだ空気を引き裂くように叫んだのは帯剣した筋肉質な大男、すなわち国王であった。
隣に真実の愛とやらで射止めた王妃を侍らせたその男は第一王子レオン=ランクルフォードを睨みつけて、
「貴様、自分が何をやったかわかっているのか?」
「そりゃもちろん。テメェのように権力にものを言わせて『装飾』する必要のない己が心からの望みを叶えただけだ!! なぁに、ちゃんと法律に従って王族としての身分は捨ててやるよ。元より俺に王族だなんだ堅苦しいのは性に合ってなかったんだ。優秀な上に王様になりたがっていた弟に王位を譲ることもできるし、王族としての身分を捨てるくらい何の不都合もないってもんだ!!」
「貴様……」
「テメェがシークミリア公爵家を気に食わないからって、テメェの鬱憤晴らしに付き合ってやれるか。俺は、俺の好きにさせてもらう。十六年前、テメェがこの場で婚約破棄だなんだと好きにしたようにな!!」
「貴様ァッ!!」
ついに腰の剣に手をかける国王。
対して第一王子……いいや、ただのレオンは自分から大きく踏み込んで、固く強く拳を握りしめる。
そして。
そして。
そして。
ーーー☆ーーー
『俺、シャルナに結婚を申し込むことにしたから』
卒業パーティーの数ヶ月前。
第一王子レオン=ランクルフォードは三十も後半だというのに若々しい王妃にそう告げた。
元は男爵令嬢ながら真実の愛を叶えて王妃となったとされる彼女。まさしく絵本の中の理想をそのまま突き進んだ女ではあるが、現実は御伽噺のように美しいものではなかった。
元は男爵令嬢であること、王妃としての教育が不十分であったことなど周囲に『攻撃』の材料をこれでもかと与えているのだから困難な道を歩むのは当然だった。
……それらに対しての国王の対応が例の法律による婚約破棄騒動の正当化というのだから、役に立たないにもほどがあるというものだ。
それでも彼女は懸命に生きてきた。
そうするしか、なかったから。
『あ、もちろん強要はしないけどなっ。結婚ともなればシャルナにも色々と捨ててもらうことになるんだ。それでもいいと望んでくれたなら嬉しいけど、嫌だってなら仕方ない。シャルナと一緒になりたいのは俺の幸せだが、シャルナが幸せじゃなかったら何の意味もないんだから』
『そうですか。うまくいくといいですね』
『あれ、止めないのか?』
『止める理由がありません。正直、レオンには陛下以上に玉座は似合わないと思っていましたから。といいますか、どうにかレオンから王位継承権を剥奪できないかと考えていたくらいですもの』
一度は退いた陛下などに『助言』という形で騙されて好きに操られる未来しか見えていなかったので、自ら王位継承権を捨ててくれるのは都合がいいですしね、と呆れ顔で付け加える王妃。
『はっはっはっ! え、まじで?』
『マジです』
『そっかー。いや確かに王様なんて柄じゃない自覚はあったが、なんか複雑な気持ちだなあ!!』
『あの子と違って脳筋になってしまいましたが、それはそれで男らしいので自信を持つことです』
『それ、褒めてる?』
『もちろんです。王妃としては置いておいて、母親としては真っ直ぐに育ってくれた自慢の息子ですもの』
『王妃としては置いておくのかあ……。いやまあ自覚あるからいいけどさっ!!』
『それより、レオン。後のことはうまくやっておきます。ですから、先の言葉を違えないよう真っ直ぐに生きてくださいね』
『先の……?』
『シャルナ嬢が幸せでなければ意味がない。そのことさえ貫くことができれば、道を誤ることもないでしょうから』
『……、おう』
彼女は国王のことなんて好きでも何でもなかった。それでも彼女は男爵令嬢であったから『大きな流れ』に逆らうことができなかった。
どこかで誰かが止めてくれるのではと淡い期待を抱いていたが、流されに流されて彼女は王妃として生きていくことになった。
苦労の連続だった。何度逃げたいと思ったかはもうわからない。
それでもやってこれたのはレオンやその弟といった子供ができたから。彼らの母親として生きるために、彼女は王妃であり続けることができた。
だから。
十六年前、王族に逆らって己の望みを口にすることができず、王妃となってしまった女はこう言ったのだ。
『幸せになるんですよ、レオン。それが、わたしの望みです』
『ああ、もちろんだ!!』
ーーー☆ーーー
ゴグシャアッッッ!!!! と。
勢いよく国王の顔面へとレオンの拳が叩き込まれた。
ーーー☆ーーー
潰れた鼻から血を噴き出し、転がっていく国王を見据えて、彼はこう言い放った。
「できることなら十六年前にこうしたかったものだ」
王妃は隠していたつもりのようだが、レオンは知っていた。目の前の男が男爵令嬢だった母親の人生を歪めたことを。少なくとも、真実の愛なんて母親は抱いていなかったのだと。
そんな風にしか愛を貫けない父親とは違う道を彼は進む。王族としては正しくなくとも、せめて男として惚れた女の幸せを望めるように。
「母さん。俺もういくよ」
「ええ。幸せにね、レオン」
そうして彼我の距離は無限に広がった。
ここまで好き勝手にやらかした以上、もう生きて再会することは叶わないだろう。
ーーー☆ーーー
卒業パーティーの会場を飛び出したシャルナは隣を歩くレオンにこう問いかけた。
「殿下、これからどうしましょうか?」
「シャルナ、俺はもう王族じゃないんだ。殿下ってのはおかしいだろう」
「あっ、それでは何とお呼びすれば?」
「普通に名前でいいんじゃないか」
そう答えたレオンはしばらく待っても返事がないことに首を傾げる。ふと並んで歩いているシャルナを見れば、何やら顔を真っ赤にして俯いていた。
というか、何やらあわあわしていた。
「どうした?」
「いえっ、その名前というのはそのいきなりでしてそのですねっ」
令嬢のお手本、常に冷静な戦乙女のような少女、それが世間一般が知るシャルナである。
だけど、彼女にはこんな一面もある。
そういった多種多様な『シャルナ』を見てきたからこそ、レオンは彼女のことを好きになったのだ。
「まあゆっくりでいいさ。時間はたっぷり──」
「レオン、さまっ!!」
ぐいっと。
真っ赤な顔を勢いよく近づけて、叩きつけるようにそう叫んだシャルナ。
と、次の瞬間には唸りながら両手で顔を隠していた。
「や、やっぱり恥ずかしいです……」
そんなの。
我慢なんてできるわけもなく、シャルナを抱きしめるのも無理ないことだろう。
「ああもうシャルナは可愛いなーっ!!」
「わ、わっ、殿下何をっ!!」
「殿下じゃないって!!」
「あ、ふっ、ううう……れっれれ、レオンさま、その、抱き、抱きしめてっ」
「嫌だったか?」
「嫌……では、ありません」
「そりゃあ良かった」
恥ずかしそうに、それでいてちょんと服の端を掴む胸の中の最愛へとレオンは言う。
「大好きだ、シャルナ」
「っ!? わ、わたくしも……レオンさまのこと、好き……です」
その後、レオンの一連の『やらかし』のお陰で国王の正当化のためだけの法律をレオンの弟によって廃止することができたり、そのことをきっかけにレオンの弟が国王の横暴を食い止める名目で国家上層部を取りまとめて早期に王の座に君臨したり、不自然なまでに権力を削ぎ落とされた元国王にしてレオンたちの父親がそのことを不服として何事か企んでいたり、そのまま『病死』したりするのだが、それはまた別のお話。
また、レオンとシャルナは田舎町の片隅で畑を耕しながら過ごすことになるのだが、それは起承転結が整った波乱万丈な物語とはかけ離れた、穏やかで幸せなだけの生活だったという。