4:決死の突破戦 -Cloudburst-
-↯-
断音。過負荷に耐え切れなくなった支柱が軋みを上げて折れ砕ける。
撃音。支えを失ったあらゆるものが雷雹の如き怒濤の勢いで降り注ぐ。
破音。重量物同士が激突し合うことで生じた破壊がさらなる被害を生む。
そこでは地獄めいた惨状が広がっていた。もはや原形を留めている器物は幾つもなく、なにもかもが歪み砕け捻じれ潰れ曲がり割れている。雪崩の最中かはたまた大嵐の渦中か、周辺一帯は崩壊する廃工場が生み出す多重奏に支配されていた。
音の津波は反響と共振を繰り返して極限まで増幅し、物理的な威力にも等しい圧力を伴って荒れ狂っている。常人ならば鼓膜が破けるか、全身を叩きのめされ頽れるか、脳を揺さ振られ意識を断ち切られるかだろう。
そんな、本来であれば立っていることさえ困難な状況下にあって――
「……はっ。我ながら派手にやったモンだな、こりゃ」
――ジェイ・オライアーは平時の軽薄な笑みを小動もさせぬまま、まるでホームドラマでも眺めるような寛いだ態度で、破壊の中心点に佇んでいる。
彼の周囲を満たすのは、地の底から突き上げるような凄まじい振動と、天が砕けたような無数の落下物だ。鋼撃兵といえども下手をすれば行動不能になるだけの破損を被りかねない状況にも拘わらず、ジェイには微塵たりとも恐怖の様子がない。
「さて、と……そろそろ避難するかね」
何故ならば、彼には逃げ込める場所があるからだ。
ジェイは散歩にでも赴くような気軽さで歩を進めると、当初に定めた安全地帯へと辿り着いた。薄暗い中に雑多な物品が並べられ混沌とした雰囲気の空間に、ジェイは僅かに眉をひそめる。
「なあ、<カエデ>? 見た感じだと彼方此方かなり派手にぶっ壊れてきてるが、この区画は安全地帯ってことで間違いないんだよな?」
彼は右手に提げた赤熱散弾銃の模造品をぶらぶらと揺らしながら、己の補助知能へと問い掛ける。応じるのは落ち着いた女性の声音を再現した電子音声だ。
《はい。分析の結果、仮に工場施設が全壊してもこの区画だけは完全崩壊を免れます。貴官の行った破壊工作が瑕疵なく完遂されていれば、ここに居る限りにおいて貴官の安全は保障されています》
「はっ。壊すことにかけて俺がミスを犯すかよ。きっちりお前の分析通り、綺麗に正確に几帳面に壊してきてやったぜ。解体作業にゃミリ単位のズレもねぇよ」
そう語るジェイの口調には絶対の自信があった。
故に、不意に崩れた天井板が数メートル大の塊として彼の爪先付近に落下し、轟音と粉塵を盛大に巻き上げたとしても余裕を失うことなく――
「……おい、本当に大丈夫なんだろうな?」
《問題ありません、ジェイ。現に今の落下物も当たりませんでした》
――訂正。ジェイの顔色は目に見えて悪くなった。
「なあ、もう一度聞くぞ<カエデ>。ここは安全地帯なんだよな?」
《先に申し上げた通りです。この区画が完全崩壊することはありません》
「……つまり半壊くらいはするかも知れないってことじゃねぇか!?」
言った直後に再び大きめの落下物が生じた。ジェイは「マジかよ」とぼやきつつ、近くにあった工作機械の下に急いで避難する。切削機と思しきそれは頑強な造りのようで、ひとまず鉄と石の豪雨を凌ぐ傘の代わりを果たしてくれそうだった。
「……やれやれ。潰れはしなくても崩れはするよな、そりゃ。まあ、よっぽど油断してなけりゃ下敷きになることはまず有り得ないし、俺基準なら十分に安全か」
ジェイは溜息混じりに呟くと、元の姿を着実に失っていく廃工場の有様を遠目に眺めながら、ふと表情に色濃い失望を表した。
「あいつ、今頃慌ててやがるだろうな。どうせ、いつもみたいに俺が速攻仕掛けてくると思い込んで、攻めるかどうかうだうだ悩んでたんだろう?」
それは、見事に罠に嵌ってくれたであろう相手へ向けた言葉であり感情だった。ジェイは瓦礫の下敷きになった同僚の姿を想像し、一瞬だけ小馬鹿にするような苦笑を口の端に浮かべるも――
「ケイ、もう少し想像力を使えよ」
――すぐにそれを消し去ると、憤りを込めた声色で吐き捨てた。
「……俺たちが戦場に合わせてどうするんだ。俺たちに、戦場を、合わせるんだろうが。ンなことくらいこれまでの経験から心得てると思ったがな。生半可の馬鹿野郎め、それでも鋼撃兵か」
言い終えてから舌打ちをひとつ。ジェイの双眸は苛立たし気に眇められ、細まった眼光には明確な怒りの色が宿っている。事実として彼の胸中には今、どす黒い憤怒が燻りつつあった。
「あんな威勢の良い啖呵を切っておいて、俺と会敵する前に戦闘不能になろうもんなら手足の一本や二本マジでもぎ取ってやるぞ、あの野郎。それとも本当に腑抜けにされちまったのか? クソ、悲劇のヒロイン如きに入れ込みやがって……」
不機嫌を隠そうともせず悪罵を重ねるジェイに対し、そこで不意に<カエデ>が問うた。
《……ジェイ。もしケイ・サーヴァー少尉が危機回避に失敗した場合、重度の物理的損傷を負うことが懸念されます。特戦型鋼撃兵といえども大質量の荷重を受ければ致命傷になり得ますが、この後救助に向かわれるつもりですか?》
「は? 行くわけねぇだろ、ンなもん」
即答。ジェイは言下に<カエデ>の問いを切り捨てた。
「オツムの足りないあいつの自業自得だ。精々、瓦礫に埋まって反省すりゃいい。それに電磁斥力場がある以上、滅多なことで死にゃしないさ。仮に死んでもその時はその時だ」
《警告。その発言は連合国軍規特記事項第二条に抵触する恐れがあります》
<カエデ>の指摘にジェイは「冗談だよ」と、実際にその言葉が冗談であったとは思えないような酷薄な表情で返す。そうして「大体な」と前置きしてから、
「……特戦型鋼撃兵には生命維持用の機能が数多く搭載されてるし、そもそもこの廃工場を造ってるのはあの便利で不思議なネバネバだ。色も硬さも質感も再現できちゃいるが、重さだけは変わらない」
偶然頸部に積載物が集中でもしなけりゃ、例え全身埋まったって死なねぇよ。そう言うジェイの口調には、むしろ『本当にケイが不慮の事故で死亡すること』を望んでいるような気配すら滲んでいた。
それについて<カエデ>が咎めを発しようとした時――
「……ほう?」
――ジェイの表情が急変する。それまでの氷刃めいた鋭さが和らぎ、代わりに明確な期待と喜悦が浮かび上がったのだ。
《どうしましたか、ジェイ》
<カエデ>の問い掛けにも応じないまま、ジェイの視線は崩れゆく風景の先、風通しの良くなった壁へと向いている。彼の各種感覚機能は壁の向こうから高速で接近する『なにか』を捉えていたのだ。
「……どうやら、オツムはともかく身体の方は腐っちゃいないらしいな」
ジェイは言う。心の底から楽しんでいるような、しかしまだ懸念が被さった笑みを浮かべながら。
「だが、不意打ちを躱しただけじゃまだ落第点だ。ここまで辿り着けてギリギリ及第点だぜ。さて、ケイよ。見込み違いだったとは思わせないでくれよ……?」
-↯-
走る。走る。走る。
折れて倒れ込んでくる支柱の真下を潜り抜け。
絶え間なく降り注ぐあらゆるものを躱しながら。
そこかしこで巻き起こる破壊に足を取られぬよう。
「……、くっ!」
圧倒的な破壊奔流の真っ只中を、ケイは一心不乱に駆け抜けていた。
この廃工場に“外”はない。建築物として固形化した範囲以外には、件の液状素材が粘着く海の如くに敷き詰められているからだ。そこに飛び出せば無事を得られるだろうが、この模擬戦闘に於いては戦域離脱として『敗北』扱いとなる。
だからこそケイは、ただでさえ入り組んだ廃工場内部を進むしかない。
圧潰した三階工作室から廊下へ逃れ、粉砕されていく廊下を渡る最中に無事な部屋を見つけては飛び込み、しかしすぐに押し寄せる崩落に一息付く間もなくまた廊下へと追いやられ。
事務室に続くドアを蹴破り、砕けた壁の隙間に身を捻じ込んで隣室へと渡り、給湯室の中を錆びて欠けたケトルや皿などをぶちまけながら突っ切って、断裂した床の亀裂を飛び越え、すでに半壊した食堂内の長机を足場代わりに通過し、
「……ああ、クソッ!!」
思わずケイは悪態を吐く。
彼の進路を塞ぐのは降り注ぐ瓦礫や構造体の断裂だけではない。固定を剥がれ高速で横滑りしてくる工作機械や、振動によって宙を舞う螺子や工具などの飛散物、凄まじい圧力で捻じ曲げられた配管や防柵など、廃工場内に残されたあらゆる物品が障害物と化していた。
それら単体は鋼の五体を傷付けるに及ばなくとも、大質量を伴って突っ込んできたならば話は別だ。なにより対処に一々時間を取られていれば、致命的な崩落に身を飲み込まれかねない。
――<イチョウ>ッ!! 崩壊状況の予測演算をこのまま続けろッ!! 分析が完了したものから随時体表感知器へ反映、緊急性の高い情報を最優先ッ!! 回避判断は適宜こっちでやる、ルート選択は任せるぞッ!!
《了解。――多機能視覚装置からの知覚情報を更新。危険判定は貴官の0.01秒先の到達予測地点に合わせます》
そんなケイの極限下の道行きを助けるのは、怜悧な補助知能がもたらす正確無比の危機予測だ。ケイは五体が風切る涼やかさの中に灼熱の感覚を得る。それは彼の体表感知器が報せる危険の合図だ。ケイは文字通り“肌”で行くべき道を選び取っていた。
その速度はまさに疾風、否、稲妻の如し。内部構造図を利用した<イチョウ>の進路案内に支えられながら、ケイは一瞬の停滞さえ生じさせることなく突き進んで行く。
「――……ッ!!」
しかしそれでも、彼の行く手に横たわるのは決定的な破滅だ。すべては待ったなしの速度で崩れ、砕け、散って行く。
ケイの足が向かう先、廃工場の風景は既に欠片も残っていない。その構成部品を荒っぽく切り刻んで掻き混ぜた残骸が、彼方此方を好き勝手に跳ねて飛び回り、完全なる無法地帯を作り上げていた。四方八方、目に見える箇所に無事のまま存在している物はひとつもない。
壁に深々と走った罅は間を置かずに亀裂へと変じ、そのまま昏い断面を覗かせて倒壊する。こちらを圧し潰さんと迫る巨人の掌に捕らわれまいと、ケイは速度を上げて振り切りを試みる。
果たして50mを一秒足らずで駆け抜ける鋼撃兵の速力はこの脅威を退けた。しかし窮地は続く。ケイが通り過ぎた直後、彼のすぐ背後で壁の成れ果ては床と激突。凄まじい轟音と粉塵を巻き上げた。
細かな瓦礫を含んだ灰白色の粉塵はケイの行く手へと素早く回り込み、濃密な霧めいて彼の視界を閉ざす。ケイは頓着しない。多機能視覚装置は完全なる暗闇も、障壁の如き吹雪の最中も、晴天の真昼間も同然に見通す猛禽の眼だ。
故に危険は眼前ではなく足元に潜む。激震を繰り返す床にはもはや平らな箇所がなく、峻険な岩山のほうが大人しいほどの荒れ様だ。罅割れ隆起し突起物塗れとなったそこは、踏んだ傍から崩れ落ちて奈落の落とし穴を生み出す。
退路は断たれた。そして進む道は徐々に閉ざされつつある。見出すべき活路はあまりにか細く、文字通りに足の踏み場も定かではない。今もまた新たな破壊が発生し、半ばから捻じ折れた配管が無数の打鞭となってケイに襲い掛かる。
「……馳ッ!!」
ケイは更に加速。激しくがなり立てる甲高い金属音を置き去りに成功。が、その踏み出した足先を待ち受けるのは、右へ向かって折れる直角の曲がり角だ。
このまま進めば激突。速度を緩めれば崩落に呑み込まれる。突き付けられた二者択一に対し、ケイは曲がり角に差し掛かる寸前、左手の壁へ跳躍するという手段で以て応じた。
疾走速度はそのまま。ケイは空中で身を捻り、両足の裏を壁へと向けた。接地は刹那。ケイは壁を足場として身を一瞬だけ屈めると、直後に力強く蹴り付け、前方へ向けて発条のように跳んだ。
「――と、ぁッ!!」
気勢一声。ケイは壁を蹴った際の横倒し姿勢のまま、高速で空を駆けた。そして急激に本来の床が接近し、あわや右肩を強打するという寸前で右腕を突き出す。
花の如く開いた五指が床に触れる。直後にケイは手首から肘、肘から肩へと衝撃を逃がしつつ、片手のみの変則的な前転を行った。受け身だ。ケイの身体は速度をほぼ失うことなく滑らかに転がり、そして再び両足が床に着く。
「……疾ッ!!」
足裏に感触を得たと同時、ケイは前方へ身を飛ばすようにして跳ね上がり、疾走を再開。一帯が崩壊したのはその僅か一秒後のことだった。
……このような瀬戸際の回避行動は、逃走劇が始まってからすでに数十回以上行われている。当然ながら五体を最大限に躍動させる彼の表情には殆ど余裕がなかった。
(一度でも足を止めたら、その瞬間に俺は下敷きだ……!)
尤も、仮にそうなったとしても、恐らく死にはしないだろう。
液状素材製の建造物は実物よりも遥かに軽い。最悪全身が埋まっても、緊急事態として人工筋肉のリミッターを外せば脱出は容易だ。その際に手足の一本か二本は拉げるかもしれないが、頭部と心臓部さえ無事なら後で修繕は利く。
しかしそんな慰めはこの戦いに於いては無意味。実際の死よりも無様な『敗北』を決定付ける要素にしかならない。
脱出時に純熱量を使い切ればその後の継戦は不可能だ。そもそも身動きが取れなくなった時点で、ケイの立場は『戦闘者』ではなく『要救助者』となる。もしも瓦礫に埋まった自分がジェイに救われたとしたら、
(それは、言い訳のしようもないほどに『敗北』だろうよ……!)
だから足は止められない。絶対に。
ケイは迫る危険に応じて、時に身を屈め、時に跳躍し、時に両腕で打ち払っていく。彼が直面しているのは超高速かつ絶え間ない選択の繰り返しであり、一手の誤りが即死に直結する抜き差しならない鉄火場だ。
「――……くッ!!」
ケイの口端から零れた呻きは冬でもないのに白い息となる。連続で実行される高速運動がケイの身体に負荷を掛け、体内温度を徐々に上昇させつつあるのだ。緊急排熱のために人工皮膚から発散する冷却液は、もはや水蒸気としてケイの背後に尾を引いている。
(――過熱状態まではまだ猶予がある。だが、暑いな……!)
無論、その程度で支障を来すほど鋼撃兵の肉体は柔ではないが、疲労とは肉体だけでなく精神にも蓄積するもの。いわんや人間としての判断能力と情緒を持ち合わせるケイにとっては決して少なくない負担だ。見かねた<イチョウ>が発言する。
《提案。加速装置の使用を推奨します》
――却下だ。このままでいい!
しかしケイはその気遣いを受け入れない。何故ならば、
――ここで加速装置を使えば一気に純熱量を消費する。俺の目的はこの窮地を乗り越えるだけじゃなく、その先で待ち構えるジェイとの戦闘だ。少しでも余裕を残しておきたい……!
特戦型鋼撃兵の内蔵武装は強力な威力を発揮するが、当然ながらその使用には多くのエネルギーが費やされる。純熱量が満タンの状態でも連続使用をすれば――どの武装を使うかにもよるが――おおよそ四~五回でガス欠だ。当然、なんらかの身体運動を行えばそれだけ残り回数は減少する。
そして、ガス欠寸前で無理を重ねれば、鋼撃兵の機能は最低限の生命維持装置を除いて停止する。そうなれば立って歩くのがやっとの有様、戦うどころか走ることすらできない。戦場の死神が抱える数少ない致命的な弱点は、平たく言えば空腹だった。
故に普段の作戦行動においては燃料棒と水分の定期的な補給が欠かせず、またそれらを常時携帯しているのだが、
(今はそんなもの、持ってないしな……ッ!!)
だからこそ、ここから戦局を覆すにはギリギリの遣り繰りが不可欠となる。
できれば三回分、最低でも二回分は武装を使用するための猶予を残しておきたい。ジェイは廃工場を崩すために一度加速装置を用いているので、付け込むべき隙はエネルギー残量の差にある。
そう。ケイはこの期に及んで勝つつもりだった。初手に大きく水を空けられ状況は依然として敗色濃厚だが、それでもまだ敗けてはいない。ならば諦めるのはまだ早い。
ケイの脳殻内を占めるものはすでに先の失策とそれに伴う後悔や恥辱ではなく、眼前の現実をなんとしてでも切り抜けるという決意と、そのために必要な決断的思考だった。
道はある。五体は無事で思考も働く。そして意気は絶えていない。
ならばどうして諦められようか? そうとも、降参を告げるのは全身が瓦礫に埋もれてからでも遅くはない。あるいは実際に致命傷判定を喰らって正しく「敗北」した瞬間だ。そのどちらの条件もまだケイは満たしていない。
死んでいない限り動き続け、手段がある限りは戦い続ける。
兵士の本分はつまるところそれに尽きる。ましてやケイ・サーヴァーは鋼撃兵だ。人間の限界点を遥かに超越した人造人間戦士。戦鬼の如く敵を屠り、死神の如く死を振り撒く、連合国軍最強戦力のひとつだ。
そんな存在が、易々と勝負を放棄するような柔い精神しか持ち合わせていないならば、とっくに<エクィアス連合国>は滅びているだろう。
それは根性論などという曖昧で愚劣なものではない。ケイの背を立たせているのは偏に、彼がこれまで数多の戦場を踏み越えてきたという自負であり、己の力量を正しく信じ振るおうとするが故の誇りであった。
(逆境の中でこそ輝け。それが超人的な武力を与えられ、それを発揮する権限と責任を課された俺の胸に刻み込まれた、たったひとつの戦闘標語だ……ッ!!)
故にケイは、崩と壊の音色が逆巻く嵐の中へ――
「おぉ……ッ!!」
――怖れることなく、全速力で突っ込み続ける。
-↯-
……そして、ついに辿り着いた。
「――ここ、か……ッ!」
疾走速度をそのままに俺が踏み込んだのはひどく広大な空間だ。その正体は廃工場の中心部、主要生産ラインが敷かれた大部屋である。一階から三階までを貫く吹き抜け状に張り巡らされた通路の一端、そこから侵入に成功したのだ。
眼前を埋め尽くすのは巨大な奈落。俺は素早く左右に視線を巡らせ、下に降りるための連絡路が既に崩落していることを認識する。
ならば他に選択肢はない。背後から襲い掛かる破壊の波に背を押されるようにして、俺は断崖絶壁の縁に足を掛けそのまま下へと飛び降りた。
(……なんだか今日は、飛び降りてばかりだな)
過る思考を苦笑と共に振り捨て、高速で迫る一階の床へと意識を集中する。着地に関しては語るほどのこともなく、普段通りに空中前転を絡めた動きで無事に到達。俺が通り抜けてきた通路が完全に崩落したのはそれとほぼ同時だった。
「間一髪、か」
振り返りもせずに言い捨てると、俺は再び疾走を再開。そうしながら周囲の風景を見回せば、ひとつの事実に気が付く。
(やはり、この辺りはまだあまり壊れていない、か)
大部屋の間取りはかなり広く、等間隔で敷き詰められた朽ちた工作機械群とその間隙を繋ぐ無数のベルトコンベアの上には多くの落下物が降り積もっていたが、全体の様子としてはほぼ原形を留めている。道中に比べれば天国のような光景だ。
無論、地響きは建造物全体を包むようにその規模を増しつつあり、落下物の勢い自体は変わらず激しい。今もすぐ傍に大きな塊が落ちてきたし、天井や壁にも亀裂が及び始めているので、暢気に立ち止まってはいられないが。
(どうやら、予想は当たっていたらしいな)
納得は得れど進足は緩めず。思考内に浮かぶ廃工場の構造図と照らし合わせながら、俺は大部屋のど真ん中を突っ切って行く。そうして脇目も振らずに目指すのは、崩壊が始まったと同時に<イチョウ>に探索を指示した、
(安全地帯と予測される一区画……!)
そして<イチョウ>の分析は今回も正しかったようだ。この一帯に破壊が及んでいないのは、単純に敷地が広く構造が頑丈なためでもあろうが、それ以上に壊れるタイミングが意図的に遅らされているからだろう。
その理由について、俺はすでに理解している。
(ジェイが意図的にそうしたからだろうな)
そうした理由は二つ考えられる。ひとつには、奴自身の安全のためだろう。
俺を罠に嵌めるつもりで、自分が建造物の崩壊に巻き込まれていれば世話はない。そして当然あの強かな男は、最大限に自分の身の安全を図った上で行動するはず。即ち、自分が安全地帯に逃げ込むだけの猶予を持たせたのだ。
加えてもうひとつ。それは正直に言って考えるだけでも癪だが――
(……俺がここまで来れるように、ってか)
――ジェイが俺を誘い込むため、敢えて破壊に緩急を付けたという可能性だ。
考えてみれば建物全体が崩れようとしているのに、その中を走り抜けられるだけの道筋が残っているのは不自然だ。加速装置を用いていたならばともかく、俺は本来備わった脚力と判断能力のみでここまで到達できた。
(俺は舐められている、のか。それとも……)
蟠りかけた思考を俺は振り払う。
疑問は奴を叩きのめしてから聞き出せば良い。今は奴の元へ辿り着き、決着を付けることだけに集中すべきだ。
……そんなことを考えているうち、ほどなくして目的地が見えてきた。十数メートルほど前方に門を構えるそれは、この主要生産ラインと直結する大型資材倉庫の入口である。
(確かにあそこなら最後まで生き残りそうだな)
資材倉庫の造りは、遠目にも際立って頑丈に見えた。
改めてこの廃工場の構造について確認してみれば、なるほど、あの資材倉庫は非常時にはシェルター代わりにもなるようだ。実際、壁面に多少の罅割れは見られるものの、これまで見てきた区画と比べて明らかに破損状況は小さく留まっている。
その一方で、資材倉庫の重厚な鉄扉はすでに何者かの手によって抉じ開けられていた。間違いなくその内部、雑多な物品が作り出す混沌とした陰りの何処かに潜む“敵”の仕業だろう。
つまり、ほぼ確実にジェイはそこに居るのだ。
俺は我知らず戦意が昂るのを感じ、冷静になれと己に命じる。道中も危険だったが、ここから先は明確な“敵”の攻撃が害意を伴い送り込まれる鉄火場だ。どれだけ警戒してもし過ぎるということはない。
「…………、」
俺は走りながら、右腰の拳銃型武装を構えた。刀剣を装備すべきかとも考えたが、ジェイの得物が予想通り赤熱散弾銃だった場合は、射程の差で後れを取りかねない。そして炸裂短針銃には着弾部位を確実に破壊可能な威力がある。
(問題は、奴相手に先手を打てるかどうかだが……)
すでに俺の到着は察知されていると考えるべきだろう。ならば、この瞬間にも奇襲攻撃を送り込まれる可能性がある。俺は<イチョウ>に索敵を命じると同時、体表感知器の感度を最大まで引き上げた。
そして俺の足先が資材倉庫の入口に差し掛かる、瞬間――
《警告。五時の方向より高速で接近する飛来物を確認》
「――……ッ!!」
――忠実な補助知能が迅速な警句を告げたと同時、俺は反射的な動きでそちらへ振り返り右腕を振った。
流れる視界の端に飛来物を捉え、銃を握った手で無事に打ち落とす。果たしてそれは菱形に近い幅広の接触センサーを備えた大型ナイフであった。俺はその正体を知っている。
(――ジェイのククリナイフか!)
奴が普段から愛用している近接武装だ。やはりジェイは俺を待ち構えており、こうして奇襲に及んだというわけか。それは不発に終わったようだが――
(……待てよ?)
――俺の脳裡を疑念が掠める。
ジェイともあろう男が、こんな単純かつ見え透いた奇襲を行うだろうか? 俺の視線の先、威力を失った凶器が床へ落ち、軽い音を立てる。背後に強烈な殺意の気配を感じたのはその瞬間だった。
-↯-
「――よう、ケイ。待ってたぜ」
-↯-
(――工作機械の影に、身を隠していたのか……!)
背筋を戦慄が駆け上る。耳元で囁くように告げられた一言に、ケイは瞬発を以て返答した。それはようやく巡り合った同僚へ向けての再会の挨拶ではなく、
「――《武装選択:電磁斥力場――開始》ッ!!」
宣言と同時、大気を焼き焦がす微かな音を響かせながら、ケイの全身から不可視の力場が発せられる。銃撃。斬撃。打撃。火焔。放電。冷気。圧力。毒ガス。あらゆる危害を跳ね除ける無敵の盾は、しかし今回の状況に於いては――
「油断禁物、だぜ?」
「――ッ!!」
――たった一度の攻撃を凌ぐのが精一杯だった。
無防備なケイの背後目掛けて、ジェイは赤熱散弾銃の引き金を弾いた。模造品であるその銃口からは、灼熱の劣化ウラン弾が撒き散らされることはない。なんとも玩具めいた銃声を響かせながら、攻撃判定用の赤外線ポインターが放射状に放たれるだけだ。
しかし、その結果は無情かつ厳正に下される。
《警告。電磁斥力場の処理能力が飽和しました。過電流による機構破損を避けるため、強制的に電磁斥力場を解除します》
<イチョウ>はあくまでも公正な立場として、ケイの展開した電磁斥力場が、大量の赤熱散弾を至近距離で受けたと判定。急激に上昇した負荷を電磁斥力場は耐え切れず、ケイの身体から純熱量をごっそりと奪い取って消滅した。
(――畜生ッ!!)
益体もない悪態がケイの胸中に響く。
ここまでケイが後生大事に抱えてきたアドバンテージは一瞬で消滅した。それどころか状況は彼が最も恐れていたパターンに陥りつつある。それでも彼は込み上げる憤りと躊躇を強引に捻じ伏せ、次なる内蔵武装を起動した。
「――《武装選択:加速装置――開始》ッ!!」
ケイの時間感覚が急激に引き伸ばされる。最大駆動を以てすれば音速の数倍にも達する鋼撃兵保有の絶技は、攻守両面で大きな威力を発揮する万能の力だ。それをケイは迎撃のために用いる。用いらざるを得ない。
「――疾ッ!!」
ケイは腰を落としながら身を時計回りに百八十度転回し、背後へ向けて足払いを放つ。風切る蹴撃は文字通り虚空のみを断った。ジェイはすでに後方へ飛び退き、空中にて赤熱散弾銃の弾倉交換を行っていた。
刹那、視線が克ち合う。ジェイは悪戯を成功させた子供のように笑っていた。
――させるかよッ!
冷えた怒りがケイを突き動かす。拳銃型武装を収納したケイは、足払いに使用した方の足を軸とし、そちらへ身を引きつけて強引に瞬発。瓦礫と粉塵に塗れた床を蹴り付けて跳び、滞空中のジェイを追う。
片足のみで行う踏み切りは全速に及ばないが――
「――おォッ!!」
――いまだ距離の離れていないジェイを捉えるには十分だった。
「はは、来るかよ!」
「応、行くともさ!」
交わす言葉は烈の風に断ち切られる。ケイは踏み込みの勢いを乗せた拳を突き込んだ。顔面狙いの右直突き。しかしそれをジェイは首を傾げるだけで回避した。大気をぶち抜く音が虚しく弾ける。
(――ジェイも加速装置を発動している)
互いが認識する世界の速度は同じだ。ケイが放った渾身の一撃は不発に終わったが、
「それは、予想通りだ……ッ!!」
ケイは放った拳を素早く引き戻しつつ、空いている左手で逆袈裟を打つ。その狙いはジェイ本人でなく、彼の赤熱散弾銃だ。武器破壊。ケイの狙いを悟ったジェイが目を見開くが、もう遅い。
「――ッ!!」
割裂音が鋭く鳴り響き、弾倉交換のために保持が緩んでいたジェイの手から、赤熱散弾銃が破片を散らして弾け飛ぶ。これでジェイは無手。そして奇襲に用いたククリナイフは床の上だ。
好機。この瞬間この距離は、ケイ・サーヴァーの間合いだ。
「行くぞ……ッ!!」
ケイは気勢を上げ、宙に浮いたままのジェイへ連撃を叩き込んで行く。初発の右ジャブは防がれるが、それで防御が開いた。ジェイが引き攣った苦笑を浮かべる。ケイは容赦しない。続く左の胴打ちは見事にジェイのどてっ腹へ突き刺さった。
重低音。ジェイの表情が苦悶に歪み、その身体が綺麗なくの時に折れる。
確かな手応えを得たケイは、丁度良い位置に下がってきたジェイの顔面へ右フックを叩き込む。滑らかな弧を描いた拳は見事に直撃。透明な飛沫が舞い散り、風船を破裂させたような小気味の好い音が響いた。
「――がっ!」
横面を張り飛ばされたジェイが、呻き声を零して盛大に吹き飛ぶ。
「逃がすかよ、この野郎!」
ケイは叫び、追撃を試みる。
(……今のところ順調にダメージを与えられているが、ジェイは油断ならない相手だ。絶対に立て直しの機会を与えたくない)
決断は一瞬。着地の前に勝負を決める。そのためにケイが選択した攻め手は、右の打ち下ろしだ。
(――頸椎狙いの一撃で、意識を刈り取る……!)
射程圏内には一歩で到達した。ケイの眼前、仰向けで空中を流れるジェイの身体は弛緩し、すでに戦意を失っているよう見える。無論、ケイは情けをかけない。
(……大方、俺の油断を誘うためのブラフだろう)
《警告。ジェイ・オライアーは意識を保っています》
案の定だった。<イチョウ>の警句にケイは右拳を振り上げ、逃げ場のないジェイへトドメの打ち下ろしを叩き込む――
「甘いぜ、ケイ!」
「……なっ!?」
――寸前、突如として復活したジェイは身を素早く屈めると、下半身だけの力でケイへと両足蹴りを放った。顔面狙い。攻撃態勢に入っていたケイには回避する時間がない。
「――ぃぎッ!?」
顎下を強かに打ち抜かれ、ケイは仰け反りながら吹き飛ばされる。威力自体は大したものではなくとも、不意打ちであることに加え命中箇所が問題だ。思い切り脳を揺らされたケイの意識は途切れかけるが、
《――衝撃緩和機能を起動。……脳殻へのダメージ、軽減に成功。ケイ、しっかりしてください。傷は浅いですよ》
補助知能に救われ、ケイの意識は瞬時に鮮明さを取り戻す。まったく頼りになる相棒だ。ケイは彼女に深い感謝を抱きつつ、同時に改めて警戒を強くする。何故ならばこの条件に於いてはジェイの側も同じだからだ。
(ジェイのダメージが抑えられているのは<カエデ>の仕業か……!)
そう、ジェイにも補助知能が居るのだ。それを失念していた代償は即座に払わされる。
「……おお、痛ぇ痛ぇ。ったく、思う存分殴ってくれやがったな」
ケイがどうにか態勢を立て直した時、とっくにジェイは立ち上がっていた。その手にはククリナイフが握られており、戦闘衣の接続部には赤熱散弾銃が再装着されている。
(……武装を取り戻されたか)
ケイは内心で舌打ち。これで戦況は振り出しに戻ってしまった。否、純熱量の消耗を鑑みれば劣勢と言うべきだ。
(内蔵武装を二連続使用。片方は無理矢理破られた分、受けた反動も大きい。その上、ここまで走らされた分も合わせれば……クソ! もう俺には後がない!)
使えて精々、低出力での発動が一回程度だろう。使い所を誤れば致命的である。
そんなケイの苦慮を嘲笑うように、ジェイは厭らしい笑みを満面に浮かべて言った。
「しかし、あれだな。拳での決着に拘らず炸裂短針銃を使うべきだったな、ケイ。そうすりゃあ無様に反撃を食らうこともなく、今頃俺を倒せていたはずだ。それとも、いつもとは違う状況に戦闘勘が狂ったか?」
ケイは歯噛みする。返す言葉もなかった。そんなケイに対し、ジェイはふと表情から力を抜いた。
「だが、まあ。ここまで来れたことは褒めてやるよ、ケイ」
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