川越舟運の歴史
川越舟運の歴史を調べ始めます。
先輩から急にハグさられた時、フリーズしながらもイヤな気はしなかった。
それよりも嬉しかった。
もしかしたら先輩も私のことが好きなの?
そう思いたかった。
(それなのに先輩ときたら。何が単なるお礼の意味だよだ)
そうなんだ。
私は先輩との絆が出来たと喜んでいたんだ。
ホームページに記事をアップさせたことで、川越舟運のことが気になった。
先輩はそっちを調べたがっていると感じていた。
だからきっと早目にアップしたのだと思った。
助言したのは私だったけどね。
「先輩、そろそろ別行動にしますか?」
「ん!? 一体何の話しだ?」
「だから川越舟運……」
「あっ、それか?」
「確か、日枝神社のイベントが4月29日にあるはずでしたが……」
「そうだな。そろそろ始めないとな」
「そうですよ。私は川越の桜を調べてみますね」
「お、一人でズルい」
先輩の言葉で本当は先輩も桜を見たいのだと感じた。
それはそうだ。日本人だったら誰でも桜は大好きなのだから。
「だったら一緒にやりますか?」
「うん、それがいい」
先輩の一言で共同作業に従事することが決まり、早速図書館で借りた川越舟運の本をとり出した。
「借りていたのか?」
「地元の図書館にもありましたので」
「やはりあの二冊か?」
「作者が同じなのです。だから挿し絵が写真集にも載っていたのです」
「そう言うことか? 其処まで気が回らなかった」
「新河岸川の傍にあった日枝神社って、喜多院傍にもありましたね?」
「そうだったな。氷川神社もアチコチあるしな」
「そんな、沢山ある神社の由来も調べてみたら面白いかも知れませんね」
「あっ、熊野神社だけはテレビでやっていたな」
「あっ、私も見ました。確か全国に多い名前の由来を調べていたら、その名字の人が熊野神社を創建したってことでしたよね?」
その時、先輩の目が点になった気がした。私は又先輩のお株を奪ってしまったのかも知れない。
「凄いですね。みんな此処から始まったのですね」
私は先輩そっちのけで、新河岸駅の近くにある地下道の舟の映像を見ていた。
でも、何はさておき本を読むことにした。
その本で大まかの歴史が解るはずだった。
「文章より写真集の方が解りやすいな」
先輩は一旦手にした本を写真集に変えた言い訳をしていた。
「文章苦手ですか?」
でも私のそんな突っ込みも無視された。
見ると、先輩はページをパラパラと捲っていた。
(何よ)
私は面白くない。
せっかく用意した本のお礼を期待していたからだ。
(先輩のバカ)
チラチラとアイコンタクトを送る。
それでも気付かない。
仕方ないので、私も本を読むことにした。
確かに写真集の方が細部まで映っているので解りやすい。
でも仕方ない。
私は開き直った。
私の見ている本の写真は最初の2枚だけだ。でもそれだけじゃなかった。
何と浅草からの河岸の地図が示されていたのだ。
それによると、どうやら新河岸川は伊佐沼より始まっているように見える。
「荒川の河岸で15。新河岸川で21もの河岸があったのね」
私はそう言ってやった。
「浅草花川戸、先住、尾久、熊ノ木、野新田、赤羽、川口、浮間、小豆沢、戸田、次は何だ、虫ヘンに栃……」
「あっ、それ辞書に載っていないんです。先輩も読めないのですか?」
「ま、いいか。赤塚、早瀬芝宮、大野。本当に15だ」
「でしょ? 荒川の方が距離が長いのね。それなのに新河岸川の方が河岸が多い」
「本当だな」
「あれっ、もう数えないのですか?」
「又読めない字があると癪だから」
先輩は私から取り上げていた本をぶっ綺羅棒に渡した。
「止めてください。もし破いたりしたら弁償するのは私ですよ」
私は中に挟まっていた地図を丁寧に畳んで本に仕舞った。
其処に道祖神の絵があった。
私はそれが気になり、数ページ戻ってみた。
今から約3百年ほど前のことのようだ。
川越城主の松平伊豆守信綱が元は内川と言った荒川の支流の新河岸川を改修して、川越と江戸の間に舟運を開いたのが始まりだ。
当初は年貢米を主としたが、のちに客の輸送が増え旭橋を中心に船問屋や商家が軒を並べ、日夜発着の船が絶えなかった。
しかし鉄道の開通により、次第に傾いて行ったそうだ。
そう碑に刻まれているらしい。
私は慌てて、あの日日枝神社裏で撮影した碑と見比べていた。
「確かにそう刻まれている」
「ん?」
「いえ、何でも……」
「そう言えばさっき、河岸の数15と21って言わなかった?」
「それが何か?」
「俺の本には37って書いてある。15と21たら36だろ?」
「あれっ、1つ抜かしたかな?」
「どれどれ、今度は俺が数えてみるか」
「あれっ、可笑しい。確かに21だな。あっ、解った。この台・大根河岸ってのが食わせものだ」
「確かに……、でも食わせものですか?」
私は笑い出した。
早速検索したところ、台・大根は別な河岸だと判明した。
でも、そんなことやって何になるの?
私の頭の中にはまだそんな疑問が残っていた。
「37の河岸場を結んで色々な物資が運ばれて来た。だから今の川越があるんだ」
「明治26年の火災の後、木材を運んで来たりしたからかな?」
「その通り。川越の歴史はこの舟運によってもたらせられたんだ」
先輩が調べていたのは舟運を通しての川越の歴史だったのだ。
地下道には馬車の絵ももあったけど……
「先輩、この川で町おこしをって言ってた気がするのですが?」
「ああ、そう思ってる。川越は確かに悪天候によって去年の観光客は41万人減った。それでも年間を通してみれば凄いと思う。しかし新河岸川は寂れる一方だと思ったんだよ」
「この前見た、あの船着き場はいつ頃出来たのですか?」
「仙波河岸は明治2年に延長されたそうだ」
「えっ、そんなものなんですか?」
「どうして?」
「だって3百年の歴史があるって聞いたのに、明治からだって言うとその約半分かなって思ったの」
「そう考えると確かに短いね。それに鉄道が出来たからそれからの船は……」
「そう言えば鉄道って、いつ頃の話ですか?」
「この本によれば明治28年に川越鉄道が開通し大正3年5月に東上鉄道が開通したそうだ」
「それから衰退の道を辿った訳ですね」
「そう言うことだ。でも鉄道のせいだけじゃない。大正9年に新河岸川でも改修工事が始まり、川の蛇行を無くして直線にしたために浅瀬が出来たりしたそうだ」
「船の往来が難しくなりますね」
「そう言うことだ」
「ところで先輩、どんな町おこしを計画しているのですか?」
私がいきなり振ると先輩は声を詰まらせた。
「もしかしたら何も考えていなかったりして」
でも何も先輩は言わなかった。
「え、えっー!?」
呆れたと言わんばかりに声を張り上げた。
「しっ!!」
先輩は人指し指を唇にあてた。
「一応は考えているさ。でも既にあったんだ」
「あっ、もしかしたら4月29日のイベントですか?」
「いや、もう一つの方のも……」
「もう一つ? 一体何だろう?」
私は首を傾げた。
「あっ、これが4月29日の方だ。ちょっと知人から送ってもらっておいた」
そう言いながら、ひらた舟の画像を見せてくれた。
「本当は此処から幾つかの川港を回れればなんてとこだ」
「でも舟底があたるんでしたよね?」
私の指摘に先輩は黙ってしまった。
川越舟運はそのまま川越の歴史だと思った。
でも何も此処だけのことではないようだ。
江戸川、荒川など関東各地方でも同じように賑わっていたそうだ。
利根川から江戸を結んで関東平野で最大な農業用水路兼運河の見沼代用水が造られた。
用水と芝川を結ぶため1730享保16年に堰で水位を調整しながら船を上下させるパナマ運河と同じ閘門式構造の見沼通船堀が完成した。
これはパナマ運河に先立つこと180年も前のことだそうだ。
我が国の船舶や運行に関した技術は相当な物だったと判断した。
「河川利用は新河岸川に限らない。埼玉や関東、いや全国の発展に寄与していたんだな」
先輩の言葉に頷く。
「そんな歴史に触れさせていただきまして、本当にありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。
「しかし、明治16年に上野から熊谷間に開通した鉄道にその地位を奪われたんだ。きっと他の河川も同じなのかも知れないな」
先輩がしんみり言う。
その言葉が寂しげに聞こえた。
「川越の一番街は城下町だった。でも此処も鉄道に地位を奪われた。川越や本川越駅周辺に人足が流れたんだ」
「でも、本川越に近いですよ」
「それでもだ。観光客は古い店舗よりモダンな建物を好んだ」
「そんなものですか?」
「それが人の道理かも知れない。だけどそれに立ち上がった人がいる。蔵造りの店構えは旧いと隠す店主なでを説得して盛り上げようとした人が……」
「松平伊豆守が新河岸川に水路を築いたように、新しい街造りを始めた訳ですね。例えば、電柱を無くして地下ケーブルにしたりして……」
「お、勉強してるな?」
「当たり前です。私も川越がもっと発展することを願っていますので」
そう言ったら、又先輩にハグされた。
「ありがとう。この前はごめん」
「えっ、どう言う意味ですか?」
でも先輩は何も言わずに私をハグし続けていた。
二人の絆はより深くなって行った。