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『自由研究?』
『そうなんだよー。うちあんまり関係ないと思ってたんだけどさぁ』
五月になれば、もう夏の計画をたてる。夏休みを旅行などで楽しむ人たちはもちろん、よその家の子供のために宿題を考えるお店屋さんも同じだ。
透が以前勤めていた支店は、高級百貨店の上層階にテナントを構えていたため子供向けの商品構成を考えたこともない。
今の店も渋谷といっても比較的落ちついたエリアであるが近隣小学校などの子供たちがヒントを求めてやってくるらしい。夏休みはまだ先でも七月に入る前にはコーナーを展開させ見せておかなければいけない。
一番派手にスペースをとるのは一階入り口付近と六階クラフトフロアだが、それぞれの売り場でも大小はあれど何かしら企画を打ち出すのだ。
今日も芸大生三人組は透の休憩時間の頃に店にフラりと現れた。そこで近くのファミレスでドリンクバーとスケッチブックを囲み、透のぼやきを聞かせていたのだ。
『もう、自分の自由研究何て忘れちゃったよ。君らの方が現役に近いじゃない。なにかなーい?』
『なにやったかなー。必ず防犯ポスターとか描かなかった?』
『あったあった! あと貯金箱とか』
『懐かしー』
読書感想文やドリルなどは苦労した覚えがあるが、美術系の提出物にはあまり記憶がない。なぜだろうと思い返してみると、実験、研究、図工、手芸の中から一点提出せよ、とかの選択式だったような。いずれにしても遠い思い出だ。
透ならその選択肢であれば図工関係は選ばなかったであろう。せいぜいコーヒーに砂糖を何杯入れたら甘くて飲めなくなるかのレポート(下らない)とか、う○い棒は何本食べるとお腹が一杯になるのかの研究(怒られる)位なものだったような気がする。
アホをさらしたくないので、この場では打ち明けなかったが。
しばらくみんなでああでもないこうでもないとメモしていると、夏希が人差し指をたてた。いい考え、の時の彼女の癖らしい。
『酒井さんの売り場の商品なら、名画を模写する、とかは?』
『んん? 名画?』
『そうそう、誰でも知ってる絵画をここの道具を使って模写するの。元絵が油でも水彩でかいたっていいし、鉛筆だけでかいたっていいし』
『……ああ、いいかも』
『そしたらコーナーの回りに売り場の人たちが描いた模写も展示してみたらいいんじゃない?』
泉が提案すると、賢一郎はにやにやしながら乗ってきた。
『ああ、思わぬ画伯がデビューするかも』
このニュアンスは絵が上手な人、の意味ではない。まさに美術三以上をとったことのない透へのジョークだろう。
『また、勝手なこと言ってー』
自分の立場はすこぶる悪くなりそうだがその提案は面白いと思った。筆やキャンバスを他の売り場から移動してきてセットを組むのもいいかもしれない。ポップを発注して、発砲ボードを手配して……とりあえず企画書が先だ。スペースの予想パースを用意しよう……
『酒井さん、自分の世界に入っちゃったよ』
『頭で色々考えてるんだよ。そっとしとけ』
『……酒井さんて、たまに子供みたいになるよね。なんか夢中で一心不乱、みたいな』
『これで本人、画材の知識がないからついていけないし仕事に対して情熱がないとか言ってるから、大人ってわからんな』
ささっとスケッチブックをめくる音がして、透は目の前の三人のことを思い出した。白い紙の回りでにやにや笑っている男女がいる。怪しい。
『なに書いてたんだよー』
『何でもないですよー』
『そうですよー』
『嘘くさーい……あ、ねえところでさ、この企画が通ったら、模写少し手伝ってよ。バイト代は……上の人に相談してみるから』
すると三人は楽しそうな顔をして紙に大きく書き出した。
『楽しそう!』
『お願いします!』
『やってみたいっ』
そうして透の夏休み自由研究企画は提出されたのだ。
「いいじゃないか、これ」
「はい、ありがとうございます! 夏休みだけじゃなくて大人の人にも楽しいと思うんですよね。いま、大人の塗り絵とか流行ってるじゃないですか。それの進化系みたいな感じで」
企画書を携えて、フロアマネージャーに説明をする。大人の塗り絵うんぬんは透も今回の企画書を作るときに調べて知った。
写経とか、漢字ドリルとか正確に写して脳の活性化を目指す教材は多数出版されている。そしてなかなか売れているのだ。
だったら、なにもないところから形や色をよく見て描き写すという作業は、年配者にこそ受けるのかもしれない。
今回は自由研究がテーマだが、引き続き展開してもいいかもしれないとの補足をつけ提出した書類はいい手応えだ。
「うん。これでいこうか」
「やったっ! それでなんですけれど、これディスプレイで実際に色々な画材を使って描いた作品を少し飾りたいんですけど、売り場で用意するのも大変なので、宮脇の学生さん手伝ってもらってもいいですか? 少しでもバイト代とか出ると、彼らも助かると思うんですけど」
「ああ、それは上の方に話しておく。まあ、そんなにたくさんは期待できないと思うぞ」
「ありがとうございます!」
『と、いうわけでお願いします!』
かくして企画は通り、透はさまざまなディスプレイに使う資材を発注し、そこに飾る絵を夏希たちに依頼した。
『はーい。画材はなに使ってもいいの?』
『うん。台紙は飾る都合もあるから、このイラストボードを使ってもらって画材は自由。みんな違う方が望ましい。なにを使ったっていうことだけコメント残してくれれば』
『アクリルですよ、とか色鉛筆ですよとか?』
『うん。名前も出すよー。宮脇大学造形学部二年 泉 有紗、とかってでかでかと』
『え、ほんとに? 下手なもの描けないなー』
一週間後三人が持ってきたのは誰もが知っている名画の模写だった。
賢一郎のチョイスは『モナリザ』。例のアクリル絵の具を使って描いたのだという。生真面目な彼の性格をそのまま写し取ったような、そっくりに美しい絵だった。
「タドケン、上手いなー」
「ありがとうございます。めちゃめちゃ一生懸命描きました!」
泉の絵はアンディーウォーホル。キャンベル缶のイラストを水彩で表現してくれた。淡い色合いが実物のイメージとは違い柔らかな雰囲気に仕上がっていた。
夏希はディックブルーナのミッフィーをなんと油絵で描いてきた。ブルーナの絵といえば七色のブルーナカラーとアウトラインの黒のみで表現されるが、そこは油絵。原型をとどめるのはもはやアウトラインのみ。こんもり塗り重ねた絵の具がミッフィーの表情をなにかとても複雑に見せていた。
これにはフロアのスタッフも大ウケだ。
「みんな、すごくいいねー。あれ、これってこっちの彼女には伝わらないのかな?」
マネージャーが慌てて透に聞く。今まで透と親しくしている学生、という認識はあったし客と店員としては顔も会わせてきたが、それ以上のことはなかった。スタッフたちもどう話しかけたものか困惑しているようだ。
「顔を見て、シンプルな言葉でゆっくり話せば大丈夫ですよ」
透が助言すると、マネージャーは
「あなたの絵は、斬新でおもしろい。とても素敵です。どうもありがとう」
とゆっくり声をかけた。近くでゆっくり話したこともあって、夏希の耳にも届いたのであろう。持っていたスケッチブックを広げるとそこに返事を書き綴った。
『ありがとうございます。こちらこそ貴重な体験でした。子供さんも楽しんでくれるといいですね』
そう言って笑った。
『ところで、酒井画伯の絵は?』
夏希のメッセージの横に泉が書き足す。
実は透も必ず描いてくるように三人に強く言われていたのだ。
美術三以下の実力の絵を誰が見たいものか。しかもそれを売り場に見本として飾る利点とは……透は頭を抱えたが、すぐに考え直した。
マイナスプロモーションになるほど下手だったら、飾らなければいい話だ。要は、企画に乗ってくれてありがとう、の余興の様なものだと。
そして堂々と皆の前に提出したのは北斎の富岳三十六景神奈川沖浪裏、のモザイク加工されたものだった。
『えっと、これは?』
『俺、絵なんて描けないからどうしようかと思ってたんだけど。この間、なっちゃんが五ミリの方眼に色を塗ったっていう話をヒントに』
スキャンした絵にモザイク加工を施し、それを手本にブロックで分けたボードをひたすら塗ったというわけだ。B4版の大きさではあるが大変な手間である。
『これなら絵心なくても、なんとかなるかと思ったんだけど、ほんとに頭おかしくなりそうになるねー、なっちゃん』
透としてはムードメーカの小澤が抜けた穴を埋めようと必死だった。彼がいたならきっと、子供が飛び付きそうなアイデアもたくさん出てフロアも活気づいたことだろう。
そんな思いがあるものだから、朝も早くから出勤してリーフレットを用意したり、ビギナー用のセットを作ったりと一日中忙しくしていた。
今日、模写のサンプルが用意できて無事に飾ることができたので、後は売り場全体で客に案内できればいい。子供だけでなく、大人にも喜んでもらえるコーナーができたと、透はとても満足していた。
「どうもありがとうございました。これ、少ないけど会社からお礼だそうです」
バイト代というには作業時間を考えれば少ないだろう金額と、相模屋の商品券をいれた封筒をそれぞれに渡した。
お礼にご馳走する、と透は三人を近くのファミレスまでつれてきていた。居酒屋でもいいかと思っていたら、なんと泉はまだ未成年だった。
『もっといいものご馳走できればいいんだけど、なにぶん薄給なもので。あ、でもここは遠慮しなくていいからね?』
筆談で、非常に難しいのは食事をしながらの会話だ。お茶を飲みながら程度だと小さいスケッチブックなら広げられるが、テーブルに料理が乗っている状態でしかも両手、口の中が自由にならない状態では大変に難しい。
よって、このメンバーで食事をするときは、最中はしゃべらない、そして終わってから食事についての感想や、雑談をする流れが出来上がっていた。
静かに食事をしていると、ものの味がよくわかる気がする。
食べなれているはずなのに、少ししょっぱく感じる。というか『味』をとても強く感じられるのだ。
こういうところは友達同士、家族同士賑やかに会話をしながら食べるものだから、味が少し濃いのだろうか。そうじゃないと話に夢中になって、味もわからないのかもしれない。
そして小さいしぐさにとても敏感になる。誰かが視線をあげてそれを動かせば、例えば今、夏希が粉チーズのありかを目で探しているのがすぐにわかる。
目を見交わして微笑むだけで『おいしいね』の気持ちが伝わる。
みんなでいるのに慣れたから、ふんわりとシンプルな気持ちや感情が汲み取りやすい。
もちろん人は複雑で、目に見えない深層でなにを考えているか、どんなに親しくたって、どんなに会話を重ねたってわからないことの方が多い。
それでも透は、この居心地のよさに心休まる、穏やかさを感じていた。
『それにしても、相模屋さんみんな喜んでくれてよかったね』
『商品券、すごく嬉しい』
『酒井さんもやりますよねー。モザイク面白かった』
食事が終わりテーブルを片付けてもらうと、スケッチブックを広げる。各々今回の企画について話していたが、透のペンは動かなかった。
「わ、酒井さん、寝てない? それ」
コクコクと何度も夏希が頷く。
透は隣に座っていた夏希の肩にもたれて眠ってしまっていた。ここ数日、睡眠時間は明らかに足りていなかったと自覚はあった。
そこへ来て完成したコーナーを見て安心して、ご飯を久しぶりに落ち着いてお腹一杯食べて、寒くも暑くもなくて、和やかな雰囲気に起きていなければというストッパーさえどこかにいってしまった。
すうすうと夏希の肩で眠る透を見て、三人は微笑んだ。
本当に面白い人だ。彼が将来、実家に帰って作る店を、きっと見に行きたいと誰かが言った。それは今彼が勤める相模屋に比べれば、小さく品揃えだって足元にも及ばないだろう。
けれどそこには透がいる。夏休みの宿題に親身に相談に乗ったり、少ない予算で道具を揃える手伝いをしてくれるだろう。
そこではじめての画材のに触れる人たちが羨ましい。
『そういえばさ、なっちゃんのミッフィーも好評だったよね』
『リアルミッフィー実は怖いwwww』
『子供ギャン泣きwwww』
そうして透が浅い眠りから覚めるまで、静かなおしゃべりは続いたのだった。