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はじまりの画帳  作者: うえのきくの
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 鈴木の顔色がすこぶる悪い。

 ここ数日は普段の慌ただしさに輪をかけて忙しいらしく、彼を見かけると少し心配になる。

「鈴木さん、どうしちゃったの?」

「あーーー、あの小澤さんのファンの人いるじゃないですかー。あの人がなんかすごい怒ってて。女子社員のリーダーなんでみんなで言われた仕事無視してるらしくって」

「え、じゃあ鈴木さん一人で仕事してるの?」

「一人ではないですけど、酒井さんの同期の人と、あと一人? その人たちにも残業させないで帰してるっていうから、負担大きいかも」


 鈴木は商品管理部の主任を務めている。相模屋は各階でテーマの違う商品を扱っているが、ダブるものもある。例えば、油絵の下書きに使うコンテは透の画材フロアーにもあるが油絵材料のフロアーにもある。筆談をするときの相模屋オリジナルスケッチブックは紙を扱うフロアーとアクリル水彩の道具のフロアー両方で扱っている。

 それら、支店を含めるすべての階から出た発注をまとめて各メーカーや問屋に流し、入ってきたものの管理、振り分けなどをする重要な部署だ。しかし、いくら鈴木が仕事ができてもその仕事量は一人で賄えるものではない。彼の下には六人ほどが在籍していたはずだ。それで目一杯回していたのだから。


「鈴木さん!」

「おー、酒井。どうした、慌てて?」

「どうしたじゃないですよ。あれからずっと少ない人数で仕事してるって」

「あーーー、まあな。大したことじゃない」

「大したことでしょう?! このままじゃ倒れちゃいますよ」

 カカカ、と軽やかに笑い鈴木は透の肩をたたく。

「まあ、そのうちなんとかなるだろうさ」

 そのまま廊下の向こうに消えていった。


 鈴木が倒れて入院したと聞いたのはそれから一週間後のことだった。

 当然、商管部はパニックになった。今まで仕事をボイコットしていた社員が慌てて戻ってきてなんとか建て直そうと右往左往したが、鈴木の抜けた穴は想像よりはるかに大きかった。

 彼らがいなくなって仕事が滞ったわけではなかった。鈴木にしかわからないことがあまりに多すぎて、手のつけられないような状態になってしまったのだ。

 途方にくれた商管部だったが、鈴木のデスクに仕事のマニュアルを見つけ、その通りに仕事を進めなんとか形になって来た。

 そのマニュアルは、引き継ぎなしでも仕事が円滑に進められそうに、詳細にかかれていた。

 商管部に所属する同期にその話を聞いたとき透は、鈴木は遅かれ早かれ会社をやめるつもりだったのだと気づいた。だとすると理由は一つしかない。

 なんでそんなこと誰にも言わずに黙っていたのだろう。

 悔しい。なんの力にもなれなかったことが、すごく悔しい。


 そんなことをしても誰が救われるわけでもないし、かえって状況が悪くなることがあるのもわかっていた。でも、せずにはいられなかった。


「なんでわたしが行かなきゃいけないのよ」

「……あなたが先頭をきって鈴木さんを嫌っていたからです」

「当たり前じゃない。ネチネチ小言が多いし、すぐ怒るし、嫌み言うし。大体あれでかっこよかったら少しは許せるかもしれないけど、なんでもっと愛想よくしてられないのか、ほんっと不思議!」


 ボイコットを勧めていた、あの小澤の件の時に鈴木に平手を食らわせた女子社員をお供に、彼を見舞うことにしたのだ。

 どんな情報を入れたって嫌いなものは嫌いだ。それが変わらないことくらい透にだってわかる。

 それでも、言わなければ気がすまなかったのだ。聞かせなければ透の方が怒りに任せて何をするかわからなかったのだ。


「予備知識からお知らせしておきますが、彼が商品管理においてしつこいほどに言うのは、数年前に会社に打撃を与えるようなミスをしでかした社員がいたからです。なるべくその社員を守ろうと鈴木さんは駆けずり回りましたが、無駄に終わりました。なぜならその社員が第二波をかましたからです」


 システムの関係で卸の関係先に発注方法や入金方法が変わったことを連絡するよう任されていた担当者が、それをすっかり忘れた。 システムの移動が完了したあと、どこにもその案内が届いていないことが判明し商管部及び社長、専務など役職者がお詫びの全国行脚に出る一幕となった。

 半分以上は原因が単純な連絡ミスだとわかると今までの付き合いもあって、水に流してくれた。しかし、タイミング悪く代金を振り込もうとしてくれていた会社や発注でエラーになってしまった業者は怒りが収まらなかった。

 なぜ数ヵ月も前からわかっていたことをシステムが始動してから連絡してくるのか、馬鹿にするものいい加減にしろ、と社長に食って掛かった店主もいたそうだ。


 そしてその件が終息したかという頃、同じミスを同じ人物がしでかしたのだ。しかも、海外の取引先相手に。

 透はまだ入社していない頃だが、その話を聞かされる度に背筋を寒いものが走る。

 結局なんとか騒ぎは納めたが、一時期相模屋の信用はがた落ちだった。


「それから、鈴木さんはかなりしつこく仕事の確認をするようになったって聞いてます。しかも、本当に重要な仕事は人に任せるのが怖いって」

「……だからって、普段でもあんなに嫌みっぽく話さなくてもいと思うけど」

「あれも、自分を守るための鎧らしいですよ。元々あんな性格じゃなかったんだあの人は」


 これは大月から聞いた話だ。

 十五年ほど前までは彼は気のいい、穏やかな性格の男だった。身長こそは高いとは言えないが、顔立ちは人好きのする優しさがあふれていた。纏う空気が変わったからか、今だって面影はあると思うのだが。

 そこそこ女子社員にも人気があったのだ。しかし、度が過ぎる好意はいつの時代にもどこの世界にもある。

 一人の社員がしつこく言い寄っていた。鈴木には相手に好意を抱いていない他に気持ちに答えられない理由があった。しかし断っているにも関わらずそれが相手の気持ちの中までは伝わっていなかったらしく


「ある日勝手に婚姻届を出されてしまいました」

「……はぁっ?!」

「本当に、はぁっ? って感じです」


 結局その社員は偽造有印私文書行使罪で逮捕。不起訴にはなったが上へ下への大騒ぎになった。

 それ以来鈴木は完全に女子社員をシャットアウト。片っ端から嫌み、罵詈雑言を浴びせかけそばに寄せなかったというわけだ。


「本当は仕事もできて会社思いの、心の優しい人なんですよ。最初の社員だって勝手に婚姻届の人だって最後まで守ろうとしたんだ」

「……どうしても気持ちに答えられない理由ってのを、突きつけてやればよかったんじゃないの?」

「そうですね、たぶんその答えはこれからわかります」


 鈴木が入院していたのは、都心にある大きな総合病院だった。教えられていた病室に二人で向かう。


「失礼します」

「はい、どうぞ」


 中からは細い女性の声が聞こえた。引き戸を開けて中にはいると個室のベッドに鈴木が横になっていた。


「どうですか? 具合は」

「大袈裟なんだよ、叔父貴は」

「やっぱりこの部屋、専務ですか」


 強気なことをいう口は、乾燥して白く皮が剥けていた。胃の疾患だと聞いていたから、見舞いに食べ物は厳禁だ。持参した週刊紙を数冊、ベッドにかけられたテーブルにのせた。


「悪いな。なんだ、珍しいお連れさんと一緒だな」

「……この度は、子供っぽい振る舞いをしてしまい……本当に申し訳ありませんでした」

「まあな、俺が言い過ぎたんだろうよ。謝ることなんかない」

「でも……」

「あの……」


 二人の会話を誰かが遮る。先程の女性の声だった。


「よろしかったら、かけてください。ペットで申し訳ないけど、お茶もどうぞ」


 色の白い、線の細い女性だった。よく見ると、この病院の入院着の上にピンク色のガウンを羽織っている。


「紹介してくださいよ、鈴木さん」

「ああ、うん。妻、の史恵です」

「なんで敬語?」


 透は思わず笑うが、同行した女子社員は面食らった顔になる。


「え、結婚? そんな話どこにもっ……」

「……私の体が弱いものだから、彼のお父様に反対されてしまって……でも、ずっと近くにいてくださって」

「親父が死んでからって思ってたけど、結構しぶとくてな。こいつの方が先に逝っちまいそうだから、入籍だけでもって思ってた矢先に俺の方がこんなことになっちまってなあ」

「なんてこと言うんですかっ」

「いいのよ。この人いつもこんな感じなんだから」


 小さく笑って、史恵は言う。

 鈴木は、きっと彼女のために会社を辞めようとしていたのだろう。あのまとめられた資料を見たときにすぐにわかった。


「お前、もう部屋にもどれよ。ちゃんと横になってるんだぞ」

「はぁい。子供じゃないんだから大丈夫ですよ。私の方が入院の先輩なんだから」


 そういって彼女は自分の病室に帰っていった。


「彼女が、理由です」

「なんの話だ?」

「いいえ別に」


 その短い言葉だけで彼女には通じたらしい。唇を噛んでうつむいた。


「……さっき、叔父貴って」

「あ? 余計なことを……」


 ふう、とため息を一つつくと、鈴木は嫌そうに答えた。


「大月専務は俺の母親の弟。俺にとっては叔父」

「奥さまのために昇格も転勤もないように頼んでたんですよね」

「……うっせー」

「なんで……」

「役職ついちゃうと、残業や休日出勤も多くなるし、海外国内問わず出張も免れない。彼女が心配で、おうちを長く空けられなかったんですよね?」


 ただでさえ悪い顔色なのに、さらに歪めた鈴木は本当にどこか痛そうで、ちょっと言い過ぎたかと、透は焦った。


「お前は本当に……最近は大分よかったんだけど、一時本当にヤバかったんだよ。籍も入れてないからICUにも入れないし万が一のことがあったって……何にもしてやれないからなー」


 それでも、仕事に穴を開けなかった。どんなに後ろ髪引かれる思いで会社に来ていたのだろう。


「だから、会社辞めるつもりだったんですか?」

「ははは、バレてたか」

「鈴木さんの人生だから俺は口出しできないけど……でも、もっと一緒に仕事したいです」

「そうか」


 正味十五分くらいだったか。患者の具合を考えて、早々に退散してきた二人は電車を待ちながらずっとなにも話さなかった。

 先に口を開いたのは彼女の方だった。


「なんで、私のこと連れてきたのか聞いてもいい?」

「……鈴木さんにどんな理由があって、今の彼になったかを知ったって、あなたが彼を嫌いだと思う気持ちは変わらないとわかっています。だけど、言わずにはいられなかった。彼がどんな人か知ってほしかった。俺たちは人の話を聞こうと思えば聞けるんだから、それをしないなんてもったいないって……それだけです」


 小さな枯れ葉が落ちる音だって、虫の羽音だって、困っている誰かの囁きだって自分たちの耳は拾うことができる。その権利を放棄して聞きたいことだけ聞くなんて、失礼だしもったいない。

 そうして、また誰かに伝えることができる。

 例えば、あのスケッチブックの上に。



 しばらくして鈴木は出社してきた。でも、体も本調子ではないし妻のことも気になるから退社するつもりだ、と言った。

 しかし叔父である専務に引き留められ必要とあらば休職ということで落ち着いたらしい。

 万が一、そうなったとして透がこちらにいる間に戻れるかはわからないが、それでもいい。ここで繋がっていれば近況はわかるのだから。


 最近社員食堂で話をしていても、回りの人が散ってくれなくなった。あのときの彼女が話をしているのかはわからないが、少し嬉しい。

 ただ、聞かれたくない話はしにくくなった。


「鈴木さんが嫌われてた方が便利だったかなー」

「てめえ、ぶっとばすぞ」

「ふふふ」




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