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そんなわけで会社中の誰もが透を腫れ物に触るように扱ってくれたので午後は誰からも質問されることなく過ぎた。お陰でサクサク仕事が片付き、時間ぴったりに上がることができた。こんなことは珍しい。
だからというわけでもないが、会社帰りに小澤の家に寄ってみることにした。
会社から徒歩十分。高級住宅街に彼のマンションはある。
食事もとってないだろうからコンビニで買い物をしていこうと思っていたら、閉店作業をしている透のところに食堂のおばちゃんがやって来た。涙ぐみながら「これ食べさせてやって」とタッパーの入った紙袋を渡され言葉につまった。
感激したからじゃない。どれだけ懐柔されてんだ? まさか、このおばちゃんとも……と、良からぬ考えが駆け巡ったからだ。
エレベーターで小澤の部屋があるフロアに降りると、廊下が少し騒がしかった。
「開けなさい、閉じ籠ってたって解決するものでもないだろう?」
「ねえ、祥ちゃん? ここ開けて! 話しよう?」
こっちがド修羅場か。小澤の部屋の前には年の頃五十代のナイスミドルと写真で見たような美人がドアをどんどんと叩いている。
小澤はああ見えてかなり小心だ。あの勢いで来られたらわかっていたって出られないだろう。
「あの、こんばんは」
「……どちら様ですか? 今ちょっとたて込んでおりまして……」
「申し遅れました。相模屋で小澤さんに大変お世話になっております、酒井と申します」
名刺を差し出しスマートに挨拶した。会社社長と地主の娘だ。おどおどしているところを見せたら敗けだ。
「ああ、これはどうも……ご丁寧に。しかし今日は……」
「いえ、すぐに失礼します。今は小澤さんも一人で考えたい時でしょうから……本当に親切な先輩で、どれだけ助けてもらったかわからない位なんです……今日はただ、ご飯も食べてないかと思って差し入れを」
助けてもらっているのは本当だ。いつも酔いつぶれてタクシーにぶち込んでいるだけではないのだ。
透の悩みを彼はよく理解してくれた。環境が似ているせいだと笑っていた。
解決の方法は本当に難しすぎてわからないのだ。透が帰ってある程度したら、両親には引退勧告をすればいい。今度は透が自分のやり方で、家族なり従業員なりと店を回していけばいい。
だけど、両親はそれでいいのだろうか。
祖父から引き継いだ店を大きくはならなかったかもしれないが維持してきたのは彼らだ。その自尊心を傷つけることにはならないか。その失望がそのまま痴呆や運動機能の低下に繋がらないとも限らない。
そうかといって両親がいるままの店に入れば、思い通りにならないストレスを抱えるのは目に見えている。
親子だからと遠慮もなくぶつかっていけばこれから先介護などが絡んでくるだろう難しい関係が、スタート前から危うくなってしまう。
こんなこと、親元を離れるまで考えたこともなかった。社会に出て年齢がバラバラの同僚と同じ大人として話をすれば、こんな話題には事欠かない。不安しかない。
そんな中、小澤の明るさは透だけでなくみんなにとって救いだった。
彼が大丈夫だよ、と言えば本当にそうだと思えたし、あまり頑張らなくていいよと言えば、涙が出るほど安心した。
そういう人っているんだ、と感心してしまうほど彼の持つ緩い空気は回りを和ませた。
酒が入ると和むどころではなくなるのだが。
「小澤さーん、酒井です。社食のおばちゃんが小澤さんにってご飯作ってくれたの、持ってきました。ここに下げときますから、ちゃんと食べてくださいね?」
透はそう言うとドアノブに紙袋をぶら下げた。
「お二人も。昨日の今日ですからきっとまだ……特にお付き合いされている方の顔を見て話すのは辛いかもしれませんよ? ご宿泊の予定でしたら、近くのホテルにご案内しますよ?」
このままここで騒がれていれば近所迷惑にもなる。一旦頭をクールダウンさせた方がいいと思い、透は提案した。
二人もそれはそうかもしれないと納得したようで、そこから離れようとしたその時だった。
「さかいーー……」
「小澤さん?」
そこには恐らく昨日のままの服装なのであろう小澤が、よれよれで立っていた。足元は素足で髪もボサボサだ。
眠っていないのか目は赤くその回りはぼんやりと黒い。
「まったく……お父さんと紗智さん来てくださってるのに、閉め出してどうするんですか」
「だって……もうどうしていいかわかんなくてさあ」
「それを一緒に考えるために来てくださったんでしょ? さ、とりあえずご飯食べましょう? シャワーくらい浴びた方がいいですよ」
観念したのか抵抗することなく部屋の中に入れてくれた。先に小澤を部屋に入れ、後ろをついてきた父親と紗智に小声でささやく。
「やっぱり、相当堪えてますね……お父さんたちだけで話聞いてあげた方がいいと思うんで、私このまま帰りますね?」
「いやっ! ちょっと待ってくれっ。あんな祥一を見るのは初めてで、正直、どうしていいかわからん。良ければ話を聞いてやってくれないだろうか?」
「部外者ですけど、そんな立ち入った話まで聞いてしまうかもしれないのに……いいんですか?」
「……頼みます」
父親の憔悴しきった表情に、透も断りの言葉を飲み込んでしまった。ちらと紗智を見れば、こちらも複雑な表情をしている。それはそうだろう。これから赤の他人と恋人が浮気をした話を聞かなければならないなんて。
とりあえずシャワーを浴びさせた小澤は、こざっぱりとした衣類を身に付けテーブルについた。
彼が風呂にいる間、紗智の手を借りて夕飯の支度をした。上京した二人も連絡を受けた昨日の夜からあまり眠れてもおらず食事もまともにしていなかったそうだ。
社食のおばちゃんはおにぎりとタラの野菜あんかけ、それにカボチャのサラダをタッパー三つにたっぷり詰めてくれていた。合わせて透が買ってきたゼリーなどのデザート類とお茶を並べる。
その間紗智はなにも話さなかった。顔色は悪く動作にも機敏さはない。今度のことで一番ショックを受けているのは彼女だろう。それをわかっているのかあの馬鹿は。今会ったばかりの彼女に同情めいた感情を抱く。
「それで、どういうことがあったのかもう一度説明してもらえますか? お父さんたちも詳しくはなにも聞いていないそうなので」
腹が減ってはなんとやら。まずは食事だということで人生で一番重い雰囲気のなか、美味しいはずの食事を腹に詰め込んだ。おばちゃんの作ったタラあんかけは社食でも人気のメニューだ。でも、今日は喉に張り付くような気がして、お茶で流し込んでしまう。
そして落ち着いたところで、透は切り出した。
「……三ヶ月くらい前、池袋で呑んでたんだ。隣のテーブルの女の子と気があって、彼女フラれて一月もしない間に元カレが結婚して、ものすごく荒れてたんだけど、なんか、話が合って……気がついたらお互いのグループとはぐれて二人で飲んでた。もう電車がなくなって、お互いに愚痴とかも尽きて、それで、目が覚めたら一緒のベッドで寝てた」
「……」
「それで、名刺渡して別れたんですか?」
「その日の彼女、本当に危ない感じだったんだ。異常にテンション高かったと思ったら、泣き出したり、笑い出したり。そういう、なんかヤケになる感じってわかるから、そのまま帰しちゃいけないような気がして……」
こういう、万人に優しいところは彼の美点のひとつであるけれど、酒を呑んでいるときには正しく判断できなくなるからスルーしてほしい。過ぎてしまったことなのだが。
「相手のかたは、何を希望していらっしゃるんですか?」
相手だって、まさかゆきずりの男に結婚を迫ったりはしないだろう。だとすると慰謝料ということになるのだろうが。
「今、妊娠七週目で、その、中絶できるのは二十二……三週までか。だけど、十四周を過ぎると……あの……死産、ていう扱いになって、死亡届けを出さなくちゃいけないらしくて……」
ごくり、喉がなった。わかってはいたことだけれど、これはひとつの命の話だ。あと、たった七週間で、彼らはその命をどうするかを選択しなければならない。
「……あれ、さっき三ヶ月前って……」
それなのに妊娠期間は七週目ってことは小澤の子供の可能性は低いんじゃないか?
「ああ、それな」
「妊娠期間は着床前の最後の月経の日から数えるの」
「着床?」
口を開いたのは紗智だった。
何やら聞きなれない言葉が出てきて透は聞き返す。すると、紗智は電話の横にあったメモを持ってきて説明してくれた。
「ここが最後の生理の最終日。これが妊娠一周目」
「どこで妊娠したんですか?」
「まだしてない。でも、こうやって数えるの。この辺で着床だとすると、これで妊娠三週目」
「実際の妊娠の前に約一ヶ月あるんですね……」
「で、今ここ」
確かに、これなら可能性はありありだ。いつもと同じだったとしたら、小澤はその夜の自分の行動を覚えていない確率が高い。なにもなかった、ということだって大いにあると思っていたのだが。
「あの夜のことは、うっすら覚えてる」
「珍しい」
「な」
近くのホテルに彼女を連れていったこと、置いて帰ろうと思ったのだがやはり最後には心配になってしまったこと。
そのあと、二人に起こったこと。切れ切れではあるが、記憶に残っているというのだ。
そして朝になって、名刺を渡して朝マックして帰った。
「認知してくれとか、金を寄越せとか、ましてや結婚してくれ何てことは言わないって」
相手の父親は、とても冷静にこう言ったそうだ。娘が傷物になったと殴られたって仕方がないと思っていた小澤には、それより堪えた。
間違いなくきみが父親で、正しい中絶のプロセスを踏むのであれば、きみの同意がなければつまり書類にサインしなければ手術は受けられない。
最終的にどういう判断をするかは娘に任せることにした。産んで一人で育てるにしろ、あとはこちらで責任を持つからきみは知らなくていい。
けれど、時間一杯よく考えてみてほしい。そしてよく話し合いなさい。あなたたちの責任の無い行動で、今、何が起こっているか。あなたたちにはそれをしなきゃいけない義務がある。
「……お父さんは産むって可能性も視野に入れているわけ?」
「やっぱり人工中絶って、女性側に物凄いリスクがあるんだって。その辺りも含めて、よく考えろって彼女にも言ってた」
「でも、敢えて未婚の母を勧める親って……」
「俺もそう思ったんだけど、あとで専務に言われた。そもそも妊娠すること事態が奇跡に近いことなんだって。その上、出産まで無事に継続できないことだってよくある。彼女がそうだかわからないけれど妊娠しにくい体質の人の奇跡の妊娠だったとしたら、最後のチャンスかもしれない。そしてその体質の人の中絶手術だとしたら……」
抱えるリスクは果てしないということだ。それにしても子供にとってはどうなんだろう。はじめから父親のいない家庭に生まれて、幸せになんかなれないんじゃないだろうか。
「……それは、私たちが決めることじゃないと思う」
「紗智さん……」
「そんなの、生まれてからいくらでも、その子が自分で変えていくわ。生まれるチャンスももらえなかったら、幸も不幸も、決められないじゃない」
両手で握りしめたグラスをじっと見つめて、紗智は言葉を絞り出した。
彼女は強い。自分の感情に蓋をして、公平なことを言おうとしている。透たちは大人だからその事がいかに難しいかを知っている。
小澤の父親と紗智を、近くのホテルまで送ってから、透は家路についた。
タイムリミットは彼女の体のことを考えるなら三週間。謹慎が解けるのかそのまま退社という流れになるのかはもっと早くわかるだろう。小澤の部屋に泊まるのかと思った父親も少し冷静に考える時間があった方がいい、とホテルを取ることにしたという。
こちらにいる間に相手の女性と親に会わなければと言っていた。最後まで父親も紗智も自分の気持ちを訴えることはなかった。透の方が慌てていたぐらいだ。
みんな、強いな。
二人と別れて駅までの道を歩く。ことの大きさは違うかもしれないけれど、まだ突き当たってもいない事柄に悩んで落ち込んでいる自分がバカみたいに思える。親が自分の言うことを聞いてくれそうにないからってへそを曲げるなんて、子供と一緒だ。
でも一緒なのかもしれない。
昼間、鈴木も言っていたではないか。──成人はしててもまだ親の保護下にあるのと一緒なんだよ、あいつは──あれは『あいつは』ではなくて『あいつらは』だ。
会社同士の話し合いでここに寄越されている自分たちは、まだ学生も同じなのだ。それでは、父親だってなにも任せられないと思って当然だ。
帰ってはじめて、社会の一員としての自分が始まるのか。それまでに、積みあげられるものを全部抱えたい。ここで学べることを全部身に付けて、胸を張って帰りたい。
何ができるかなんてわからないけれど、例えば子供に初めて選ばれるクレヨンでも、自信をもって用意できるように。きっと、曾祖父はそんな気持ちで店を興したのだろうから。
そろそろ終電に近い時間だ。透は駅に向かって駆け出した。