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はじまりの画帳  作者: うえのきくの
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 翌朝遅番出勤で透が売り場に出ていくと、そこは異様な雰囲気だった。

 元々が活気溢れたという会社ではないのだが(やる気がないという意味ではなく、扱う商品のイメージで落ち着きや優雅さの方を大事にしている社風だ)何かうっそりとして大事なパーツを抜かれたような様子の面々が午前中のルーチンワークに追われていた。

「おはようございます」

 でも朝イチは元気な挨拶からを信条に、透は明るくフロアに入っていく。すると、陳列棚の影からカウンターから、同僚がわらわらと出てくる。


「うわ、なに。みんな揃って?」

「何って、知らないんですか? 小澤さんのこと」

「小澤さん? 一昨日飲んだけど、それが?」

「今日から自宅謹慎なんですよっ!」


 女子社員の一人が小声なのに目を向いて熱弁する。器用だ。


「なんで!?」

「ナンパした女の子が会社に突撃してきて『子供ができました』って。お父さんと」

「……わー」

「わーじゃないですよ、酒井さん! ここだけじゃなくて会社中大騒ぎなんですから!」


 昨日の時点で大騒ぎだったならせめて心の準備のために連絡くらいくれ……透はぐらぐらする頭で考えをまとめようとするが、しかし休み明けは仕事もたまっている。

 一旦、それは切り離してとりあえず午前中にしなくてはならないことをやっつけることにする。


「あれ、でも、どうして相模屋の社員だってわかったの? その彼女」


 発注を調べながら隣にいた同僚に小声で聞いた。


「ああ、小澤さんご丁寧に名刺お渡ししてたそうですよ?」


 彼女のことを考えればとても懸命な行動だが、会社名は伏せて自分の番号だけ渡せよバカヤロー、とはきっと本人には言わない。



「鈴木さんも知ってたんですか? 教えてくれればいいのに」

「お前はもう知ってると思ったんだよ。休み前呑みに行っただろ? だから相談でもうけてるんじゃないかと」


 ランチはいつもの通り、社食で取る。いつものAランチに心惹かれるが今日は『アジと切り干し大根の南蛮漬け』にご飯と味噌汁とひじきをつけた。カルシウム強化だ。食堂のおばちゃんに教えてもらった。

 おばちゃんもだが、社食にいるほとんどの人が透に話しかけたそうにチラチラと見ている。こういうとき、鈴木は便利だ。絶対に誰も話しかけてこないことを知っている。二人でゆっくり話したかったので本当に助かる。

  

「どんな感じだったんですか?」

「なかなかいい女だったぞ。あいつ、酔ってるときもそこは外さないって流石だな」

「そうじゃなくてー」

「俺もじっくり見てた訳じゃないし、すぐに騒ぎになるからって応接室に全員連れていかれたしな。ただ、そんなにド修羅場って感じじゃなくて、小澤がちゃんと会う約束をしてくれないからって、逃げられないところに会いに来た、って結構娘も父ちゃんも冷静だったぞ」

「小澤さん、逃げてたんだ」

「詳しくはわからんがな」


 電話を気にしていた様子を思い出す。きっとコンタクトが来はじめたのは最近なのだろう。

 それにしてもあの人は何をやっているんだろう。


「ただまあ、問題なのはあいつもお前と同じ丁稚組だろう? 専務や社長の耳にも入っちまってるからな。このまま穏便にって訳にはいかないだろう」


 丁稚組、とは透たちのように地方の同業の家の跡取りが、仕事のノウハウを学ぶために会社に入ることを揶揄ってつけられた名前だ。実際には給料も休みも普通にもらっているので正しくはないのだが。

 確かにそういう待遇で入社に至っている透たちにとって相模屋を巻き込むトラブルを起こすというのは非常にまずい。


 第一に、相模屋は業界最大手である。同じ職種でありながらその会社に睨まれるのは大変辛い。実際、ここはオリジナル商品や直接取引して輸入している商品も多い。それらを他店に下ろす業務もあるのだ。今、現在小沢の実家がそれらを扱っていて取引中止などということになったら大打撃だ。

 第二に丁稚として来る跡継ぎたちはほとんどが専務か社長と個人的な付き合いから始まって、子供らを預けるに至っている。ということは、親密であった彼らの間をも揺るがすことになってしまうのだ。

 それよりも何よりも、学生も多く足を向ける店に、問題を起こすような社員がいるということが公になれば、相模屋としてのダメージは大きい。

 今は情報も音より早く人の間を駆け抜けていく。そんなこと田舎だけかと思ったが、夜にくしゃみをしたら翌朝には『風邪引いたんだって?』と聞かれる、なんて冗談も現代なら本当に起こりそうだ。


「クビになっちゃったりするんですかね……」

「今は、よっぽどのことがなければ解雇はねえけどな……ただ今回のこれは、よっぽどになるかもな……」


 奥歯にしっかりと噛みごたえのある南蛮漬けは非常に美味しいのだけれど、イライラは消えてくれないようだ。


 相手が警察に行くとか弁護士を連れてくるとかじゃなかったところを見ると、恐らくは合意だったのだろう。しかしお互い大人の男女なのだから、嗜み、とかあるだろう?

 なぜ、こんなことになってしまう可能性を見落として快楽に走ってしまったのだろうか。


「こんなこと言ったらあいつらの肩を持ってるみたいだけどさ、男も女も、そんな夜があるってことじゃないのかね?」

「全部忘れてやらかしちゃうようなって、ことですか?」

「まあな」

「鈴木さんにもそういう夜がありますか?」


 鈴木は珍しく言葉をつまらせた。すぐに透は自分の言葉の失敗に気付いたが、先に彼の方が口を出した。


「……お前は意外と意地が悪いねえ」

「すいません、失言でした」

「いいよ。小澤がこんなことになって社内で一番悔しいのはお前と大月だろ」

「……」

「小澤も色々考えてるだろうから、顔見に行ってやったらいいさ。反省したところで会社の考えはひっくり返らんだろうけどな」


「ちょっと待って」

 社食からフロアに戻るときに、透に話しかけてきた猛者がいた。

 彼女は少数派の小澤ファンだ。これはれっきとした恋愛の意味で。ほとんどの女子社員は酒を呑む小澤の姿に幻滅して、恋心など粉砕させてしまうのだが彼女は違った。

 小澤もさすがに社内の女に手を出すことはなかったから、彼女の気持ちに気づいてはいても特になにもしなかった。特別に話しかけることもなければ避けることもない。他の誰かと同じ扱いだ。

 彼女も噂で婚約者のことなど耳に入っていただろうから、何がなんでも付き合おうとか強行に出るわけでもない。しかし透のような回りにいるものがわかってしまうほどあからさまな恋心を小澤に向けていた。


「酒井くん、小澤さんのこと何か知らない? 今日、おうちにうかがっても大丈夫だと思う?」


 回答者が透じゃなくても、答えはノーだ。女性問題で謹慎食らっている男の家に、家族でもない女子社員が様子を見に行くなんて。誰が見ているわけでもないだろうが、常識で考えての、ない。


「おうち訪問はまずいと思いますよ。謹慎が解けたら顔出すでしょうから、それまでは見守っているしかないと思いますがね」

「そんな意地悪言わないで。私、本当に心配で……」


 意地悪で言ってるんじゃなくて、当然の考えを述べたまでで。そう言おうとした透の横から、鋭い声が走った。


「品性のない女だな。あいつが今どんな立場か解ってりゃ、そんなこと言えるわけねえよな。それともあれか、この機にあんた自身で慰めてやって落とそうっていう魂胆か? あのバカにはあんたみたいのが似合いかも」

 

 鈴木は最後まで言い切れなかった。女子社員が平手で彼を張ったからだ。長い爪が顔の表面を抉ってしまった。


「鈴木さんっ」

「大丈夫だ、なんでもない」


 鈴木より五センチは背の高い彼女(+ヒールが六センチ)から繰り出された平手にダメージがないわけがない。狭い廊下に響いた衝撃音に、様子をうかがっていた誰もが静まり返った。


「あいつは自分のしたことに責任を取る必要がある。成人はしててもまだ親の保護下にあるのと一緒なんだよ、あいつは。その大事なときに下らない下心で引っ掻き回すな」


 彼女は怒りに肩を震わせていたが、相当悔しかったのだろうエクステに涙が引っ掛かっている。

 鈴木は舌打ちをひとつすると「いくぞ」歩き出してしまった。

 透は彼女と通路に残され途方にくれる。とりあえずポケットからハンカチをだし彼女に渡すと(新しいのが入ってて良かった)

「心配は俺も一緒だけど、今はそっとしとくしかない。鈴木さんがいった通り、小澤さんは責任をとらなきゃいけない。しかも、命に対する責任ですよね。俺たちにできることなんて一つもないんですよ」


 そう言ってその場を離れた。

 顔も知らない女の人の中に、小澤の遺伝子を持った命がある。本当なら感動と祝福で迎えられるはずの命の行く末を、透は想像もできなかった。


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