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はじまりの画帳  作者: うえのきくの
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 小澤が菓子折りをどっさり携えて会社に帰ってきたのは、鈴木の退院から三日の後だった。

 少しやつれただろうか。それも致し方ないだろう。

 鈴木のドタバタの影で、小澤はなんの連絡も寄越さず誰にも相談を持ちかけてこなかった。いつもであれば透はたまらず電話していたかもしれないが、事が事だけにそれもできずにいた。

 陽気な男の少し湿った帰還に、それでもほっとして胸を撫で下ろした。本当はそんなにのんきな案件ではなかったのだが。


「ご迷惑お掛けしましたっっっ」

「ほんとだよ。お前なんかとっとと田舎帰っちまえばよかったんだよ」

「まあまあ。鈴木さんだってぶっ倒れたじゃないですか」

「え、倒れる鈴木さんとか超レア」

「お前は二度と帰ってくんな」


 相変わらず辛辣なことを言っているにも関わらず、最近は鈴木の回りにも人が座ってくるので、食堂では込み入った話は出来ない。

 話を早く聞きたいのは山々だが、それはそこにいる全員が同じ気持ちのようで、静かに聞き耳を立てている。


 そこで会社終わりに、週は始まったばかりだが酒や弁当やつまみを買い込み小澤の家に突撃した透と鈴木だ。    


「……それで、どういう落としどころで決着ついたんですか?」

「うーんと。まず俺の処分はこの謹慎と向こう半年減給三割カット。よそから跡取りを預かって教育している立場で、今回のことは会社の監督不行き届きもあるからって社長が。期間中はしごいてやるから覚悟しとけって」

「……寛大」

「うん。でも、お前がこれ以上粗相をするなら、これから修行を希望する者は断らざるを得ないし、今いる奴等にも即刻帰ってもらう。そのくらいの責任をもってここにいることを心しておけって」

「わあ」


 会社としては十分温情的な処分だろう。最初に売り場で騒ぎを起こしていることや、土曜で人の多い時間帯だったことであっという間に話は広がった。社員ばかりでなく、フロアにいた客でそれに気づいたものも少なくなかった。

 全てを確認したわけではないけれど『相模屋本店でもめてるみたい』とSNSに上がっていたのを誰かが確認していた。ただし『客のクレームに大慌ての社員、半泣き(笑)』『クレーマー大暴れ』位のものであったが。


「……で、相手の女のほうは?」


 実は鈴木はこの件に関して物凄く憤慨していたのだ。

 彼が、自分の全てをなげうつ勢いで内縁の妻を愛していたことを、透も小澤も知っていた。だから余計に小澤の一晩の恋の話を、毎度苦々しい思いで聞いていたのはわかっている。

 鈴木は、お互い自業自得だ、バカは死んでも治らねえな、と言いながらきっと相手の女性を憐れんでいたに違いない。

 健康でどこにでもひとりで行かれて、子供を授かることが出来る。幸せなプロセスならばみんなに祝福されただろうことを選べなかった女。

 自分の妻が病床に伏せている姿を見て、二人の女を重ね合わせたりしたかもしれない。

 透がそんなことを思ってしまうほど、鈴木はこの件に関して厳しい顔を崩さなかったのだ。


「うん……子供は、堕しました。彼女は最後まで迷ってて……それは認知とか養育費とかそんなんじゃなくて……最初に病院行ったとき、お腹の写真、もらったんだって」

「写真?」

「うん。エコーって、なんか機械を当てるとお腹の中が見えるの。で、写真を撮ってもらって、大きさは一センチにも満たないのに、もう心臓が動いてて、手足もちっちゃいのが生えてるんだって」

「……」


 遠い昔に教科書か何かで見た覚えがある、まだ人の形にはほど遠い、でも確かに鼓動を打つ命。


「レイプとか、されたんなら考えるまでもないけど、自分で望んで、合意でそうなったことだから、産んで育てるのが、自分なりの責任だとも考えたって」


 一時の感情で産んだって幸せになれないと言う人もいるだろう。でも、本当にそうだろうか。

 鈴木の妻のように健康でなくても幸せを感じられる人もいる。夏希のようにハンデがあっても突き進める人もいる。

 反対に健康で仕事があっても、燻っていたときの透は幸せではなかったかもしれない。それは、親や配偶者や友人であっても決められない。その人本人にしかわからないことなのだろう。

 独りで子供を生むと決めたなら、母となったその人は苦労をするだろう。でも、多かれ少なかれどの母親も苦労なしで子育てなど出来ない。それでも、子供の幸せを願って日々奮闘しているに違いない。

 そんな母を見て育つ子供は、不幸だろうか。


「産まないでくれとか、産んだほうがいいとかはなんにも言わなかった。でも、一緒に考えて考えて、最後に彼女が、産まないって」

「……うん」

「彼女が決断して、手術して帰ってくるまで、親父も彼女もこっちにいて……俺は、承諾書も書かなきゃいけないから、向こうのお父さんと一緒に病院行って、処置が終わって、そしたら二人も病院来てて……最後みんなで、抱き合って泣いた」


 話しているうちに小澤はまた涙が出てきたようで、ティッシュを抱え込んだ。


「……今まで、考えたこともなかった。自分がしてることが命に繋がってるなんて、理屈ではわかってたつもりだったけど、わかってなかった……きみも見ておくべきかもしれないって、そのエコー写真、見たんだ。本当に小さい手が、もう、胸の前で握ってんだよ……この子が消えたら、誰の手も触れないんだぁって思ったらさあ……」


 あぐらをかいたズボンの膝に、涙がいくつも落ちていった。さすがの鈴木もかける言葉すらなく、ただじっと小澤を見ていた。


「彼女……紗智さんの方は……」

「……さっちゃんも、物凄く悩ませた。あの人、彼女が産むことを選んだら、わたしが育ててもいいって、そんなこと言ってくれて……」


 もしも子供がいることが仕事や結婚の妨げになるなら、自分が育てるっていう選択もあるから、産むと決めたなら安心してそうしてほしい、と言ったそうだ。その時には小澤の首に縄をつけて故郷に連れて帰り、自分は妊娠も出産もせずその子だけを全力で育てるからと。


「……じゃあ、許してくれたんですか?」

「許す、っていうのかな……俺たち幼馴染みだったから、小さいころからの悪行、全部知られてて。おとなしく東京で仕事だけしてるとは思ってなかったけど、他のひとを巻き込んで傷つけるなんて言語道断。て怒られた、けどあの人の中で別れる選択は、なかったみたい」

「豪傑って言葉、人生ではじめて使うけど、紗智さんみたいな人ののことだねー……」

「すげえな……」


 ぽっかりと開いた口を慌てて閉じる鈴木、という稀有なものを見た。でも同じ表情をしてしまうほど、透も驚いた。


「ただ、自分の中で感情が消化しきれない、あなたを殴ったら気持ちが晴れるかっていったらそんなこともない。許すって言ったら、その事をもう二度と引き合いに出さないことだから、そうできるまで連絡はしない、そっちからもしてこないで、って」

「収まってないじゃん!」

「許せなかったらごめんて」


 ……丸く収まってはいないようだが、小澤はそれだけのことをしでかしたのだ、そういうこともありだろう。

 今日はお前だけ禁酒、と鈴木が小澤に言い渡し、主に透が酒を呑んだ。何しろ鈴木も病み上がりなのだ。

 そして夜も更けて、鈴木は妻のところに帰っていった。

 妻は鈴木に遅れて昨日、退院したといっていたが、全快したわけではない。それでも、少しの間、二人で生活が出来る。なんでもないことだけれど二人にとってはこれほどの幸せはないだろう。


 透は少し残っていたビールを飲み、小澤は手を付けず冷えてしまった弁当を思い出したように開け、モソモソと食べ始めた。

 しばらくはなにも話さずに食べるためだけに口を動かしていたが、不意に透が言葉を発した。


「そういえば、あの小澤さんファンの人、大暴れして大変だったんですよ」

「えー、何それー」


 透は小澤が休んでいた間、相模屋で起きたことの顛末を話して聞かせた。


「はぁー……いてもいなくても、大迷惑だねー、俺」

「まあ、今回に限っては。でも鈴木さん、ここ何ヶ月か病院と会社の往復みたいな感じで、小澤さんのことがなくてもそのうち倒れてたと思います」


 朝、シャワーして着替えて病院に行ってそのまま出社。帰りに病院に寄り、待合室で横になって翌朝、着替えとシャワーのためだけに家に帰る生活だったようだ。そんなことをしていれば倒れるのは当たり前だ。


「最初はICUには入れないし、容体が変わったりしても連絡ももらえない。治療の説明さえ、同席させてもらえなかったんですって……」

「そうなんだ……」


 病院にもよるそうだが、基本的に肉親がいる場合にはそちらに連絡が行くことになるそうだ。つまり、何年も同居している内縁関係の夫より、数年に一度しか会わない親戚というわけだ。

 ICUは感染防止や患者の状態を守るためのボーダーとして『肉親』『中学生以上』などが決められていて、規則なので例外は認めないと断られることもある。

 治療方針の説明、同意書の記入はあとから問題になったとき、または支払いなどの問題事をクリアにしておくためにやはり院内の規定として内縁関係は家族にならないこともあるという。


 鈴木の妻に関しては、両親が健在であったからそちらに説明がされ、決定が委ねられる。しかし、体の弱い娘を長い間見てくれている鈴木に対し、両親は彼を娘の夫と認めていた。その許可があってはじめて治療方針の説明も聞くことができたのだという。


「色々大変だったんだなー……」

「そうですね……濃厚な一ヶ月でしたよ……」

「俺たぶん、今回のことは一生忘れないんだよな……。いっつもきっと考えちゃうんだよ。小さい子見たら、あんな風に歩くのはどのくらいだろう。お前とこうやって飲んでても、ああ、二十年たったら、あの子と酒が呑めたのかな、とかさ」

「それでいいんじゃないですか? 忘れたら、なかったことになっちゃうじゃないですか。その子は確かにいて、小澤さんと彼女とその家族に、すごく大事な時間を連れてきたでしょう。それをずっと覚えてて、あなたも彼女も本当に子供に恵まれたとき全力で大事に育てればいいんですよ。だって、もうそれしか出来ない」


 確かにいたはずなのに出生届も死亡届けも出されない命。戸籍も持たない、なかったことにされる小さなパルス。

 その子のために出来ることは、もうない。何もないのだ。

 だとしたら残った大人たちが自分の人生をかけて誠実に生きていくしかない。その子のためではない。自分のためだ。


「たられば、なんてなんの役にもたたない。後悔したってもう遅い。でも、辛い思いをしたから気がつくこともあるし、これからは間違えない。そうじゃなきゃ」

「……うん」

「……でも、厳しいこと言いますけど、それは大人の勝手な言い分だってことも忘れないでくださいね」

「……うん、忘れない」


 本当であれば命は、その人のためだけのものだ、と透は思っている。誰かのために、と投げ出していい命などない。

 だから、彼らに正しいことを教えるためにその命があったなどとは考えることを、透はできない。

 だけど、もう、それを反論することは出来ないのだ。いやいやそれはちがうよ、何言ってんだなんて、言えないのだ。その子は。


 それこそ透は当事者ではない。誰に意見することも、誰の心を穏やかにすることも出来ない。

 それでもやっぱり、小澤と同じようにきっと、一生忘れられないと思うのだ。自分のことじゃなくても、小さい子供を見たら思い出す。何年かして少し老けた小澤や鈴木に会うことがあれば思い出すのだろう。

 この短い時間の中にあった二つの命のことを。  





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