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お久しぶりでございます。
どどんと一気にアップします。
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酒井透は誰かが後ろに立った気がして振り返ると、大きなスケッチブックがこちらを向いていた。
「……」
ちらりと見える表紙は彼の会社のオリジナルのものとよく似ている。クリムゾンレッドの紙にパレットが簡略化されたトレードマークがかわいい超定番商品なので、うちの社員なら誰でも知っている。
よく観察するとそこには不揃いに書きなぐったような字がたくさん書いてあって、それを支える両脇からは細い指が覗いていた。
「えっと……」
スケッチブックを支える誰かに声をかけようとしたらその上の方から顔が出てきた。二十歳前後の女の子だ。
「なにかお探しですか?」
極力笑顔でそう話しかけると、それまでスケッチブックを支えていた手を離してトントン、と画用紙の一点を叩いた。
『ルブリ社のグラファイト鉛筆は、もうありませんか? あればあと二本欲しいのですが』
彼女が言いたかったことを理解して、売り場へ足を向ける。なにしろここに配属になったのは先月の頭。まだ、どこにあるのかわからない商品も多い。その上しょっちゅうディスプレイを変えやがる上司のお陰でこっちはてんやわんやだ。などと文句を言っても始まらない。
「あー、あれ廃番になっちゃったから……それが最後だと思います……」
彼女の手には一本だけ、それが握られていた。常であればすぐ下の在庫入れにあるはずなのだがそれもない。
結構ファンがいただろうこの会社の画材は、片っ端から生産終了になっている。どうも画材部門から手を引いて筆記用具中心にシフトを変えるらしい。
そういったわけでうちも在庫がなくなればそれで終了の方針だった。
「申し訳ありません。一応入荷予定を調べて参りますので、少々お待ちいただけますか?」
彼女は透の顔をじっと見た。そして一拍おいて、スケッチブックとジェットストリームを差し出した。
「……」
「……」
これは、ここに書けということか!
その時になって初めて彼女の風貌を見る。染めた様子のない髪の毛を後ろで無造作なお団子に結っている。化粧っ気のあまりない顔立ちはまだ幼く見えた。
洋服はといえばインテリアなどによく見かけるような大きな花柄のワンピース……北欧調とでも言ったらいいか。全身が自己を激しく主張している分、本人はおとなしい、のか?
不意に透は見つけた。彼女の耳に小さなイヤフォンのようなものが装着されているのを。
(……補聴器?)
なにしろ初めての経験に戸惑ってると、彼女は自身がペンの後ろをノックして何やらスケッチブックに書き始めた。
『私は聞こえません。さっき言ったことを書いてもらえませんか?』
そこで透は彼女の耳についているものがイヤフォンではなく補聴器であることを確信する。
それにしてもお年寄りの耳についているようなベージュのものしかイメージになかったが彼女のそれはとてもかわいらしい。
ベースはブルーのようだが、そこにレタリングが施されたりラインストーンが散りばめられ、それこそワイヤレスのイヤフォンみたいだ。
最近はいろいろ変わってきたんだなー、などと思いながら透はペンを受け取った。
「ルブリ社のグラファイト鉛筆は廃番になっております。まだ取り寄せできるか聞いて参りますので、少々お待ちいただけますか?」
たいして字の上手い方ではないが、会話としての文章だ。間違いのないように丁寧に書いた。
彼女はそれを読むと、回りを伺った。誰かを探しているのか、もしかして伝わらなかったか?
しかし再び紙に向かい
『じゃあ、お願いします』
と伝える。
透は笑顔で了承を表すと小走りにカウンターに急いだ。
「小澤さん。ルブリ社のグラファイト、代理店の方にももうないですかね?」
声をかけたのは透よりひとつ年上の同僚、小澤。少し眠そうに気だるげに答える。どうやら二日酔いのようだ。朝からブレスケアが手放せない。
「あー、あれはないぞー? この間これが最後ですって、誰か言ってたし」
「ですよねー」
それでもと透は問い合わせの電話を掛けてみた。しかし何度聞いても答えは一緒だ。
透の勤める『相模屋 渋谷本店』は全国でも一、二の規模を誇る画材専門店だ。彼の配属されている渋谷本店はここになければ日本のどこを探してもないだろうという品揃えで、その謳い文句は大袈裟ではない。つまり、もうどこの倉庫を探しても手に入らないということだ。
透が売り場に戻ると、彼女のそばに男女がひとりずつ立っていた。三人とも同じ年頃だろうか。
一人はショートボブの黒髪に全身黒い服装。足元だけが派手なスニーカーだった。身長は三人のなかでも一番高い。でも学生だからかやはりメイクは薄く、大人の女性なら近寄りがたく見えるファッションもそれも相まってかわいらしい。
もう一人は、帽子と眼鏡が個性的な雰囲気の青年だった。身長は三人の真ん中。緩いイメージのカットソーを着こなし、パンツのフォルムも独特だ。
三人はさっき彼女が持っていた画用紙を囲んで頭を付き合わせている。つまり、彼らの会話は日常、あの状態で進んでいるのだろう。確か、透が見せられたスケッチブックも、それ以前の会話(彼らにとってはそうであろう)がいくつも残されていた。
『大変お待たせしました。やはり、あちらの商品は廃番で倉庫にも残っていないそうなんです。よろしければニードリッヒ社のグラファイトも近い書き味になっているそうなので、お試しいただければ……』
透はカウンターでメモにメッセージを書いたものを持参し、それを彼女に見せた。
三人は同じようにしっかりとそのメモを読んでいる。なんだか小学校の先生にでもなった気分だった。
するとショートボブの子がペンを持ち彼女のスケッチブックに書き付ける。
『やっぱりないって。ニードリッッッッッッヒーーーの似てるって。私も使ったことあるけどチョーデッサンしやすい。どうする?』
『リッッッッッッヒーーーwwwww 買ってく買ってく マジ課題、間に合わないし』
北欧ワンピースがそれに答えると、二人は透に向かって頭を下げ、売り場へと歩いていった。
会話は、とても静かだ。それはそうだ。二人とも一切声を出さず紙の上でだけ話をしていた。
しかしその紙の上でさえ、女の子同士の会話だとわかる。
「リッッッッッヒーーー……」
電車などで他人の会話に笑ってしまうと気まずいのものだが、ここはもう二人とも行ってしまったから遠慮なく。
「あ、ありがとうございました」
あ、もう一人いた。帽子眼鏡の青年はこの場に残っていたのだ。二人の歩いていった方を見つめ、ぼんやりと礼を言った。
「いえ、とんでもない」
全力で笑いを封じ込め、透は微笑む。
「美大の学生さんですか?」
この界隈は大学もたくさんあるが専門学校も多い。美術だけでなくデザイン、アニメーション、ゲームなども含めたらいくつあったか咄嗟に出てこないほどだ。
「はい。近くの宮脇大の造形学部です」
「あー、お客さんであそこの学生さんも多いですね」
「僕が美術史専攻で、黒い方が視覚伝達デザイン、花柄の方がクラフトデザイン学んでます」
「みんな違う科なのに仲がいいんですね」
「一、二年は基礎美術とか基礎デザインとかで授業が一緒になったりするので自然に」
一本向こうの通路で二人の女の子たちは鉛筆を物色しているようだ。
このフロアは主に絵を描く道具、油絵以外を取り扱っている。鉛筆、水彩、色鉛筆、マーカー、コンテ、クレパス・・・・・・。アイテム数は一万とか二万とか聞いたことがあるが忘れることにする。始めてきたお客さんのなかには棚卸しの心配をしてくださるかたも少なくない。
彼女たちが探していたグラファイト鉛筆は、主にデッサンの時に使う鉛筆だ。文字を書くときのものと比べると芯が太く、削りかたによって表情を出しやすい。ルブリ社のものとお薦めしたニードリッヒ社のものは全芯タイプ(芯を囲む木の部分がなく全部芯。手が汚れないように紙が巻いてある)。ルブリはフランスの会社で、芯を包む紙やダース入りの箱がなんだかおしゃれでさすがおフランス、と透も密かに気に入っていた商品だった。
それもこれも、先輩社員小澤からの教えを丸暗記したものだが。
「あ、決まったみたいですねー」
「ほんとだ。あんなに手ぇ振らなくても・・・・・・」
「女の子同士の会話って面白いですね。さっき堪えるのに必死で、もう……」
「・・・・・・」
「ん?」
帽子眼鏡が透を凝視している。ちょっと輝いた瞳すら見せて。
「いえ、また来ます! ありがとうございました」
そう言って女の子たちの方へ駆けていった。そしてまた三人で会話を始めた。・・・・・・ん? 普通に話してる。
三人はノートを挟んで言葉を交わしてはいない。離れてしまったので話している内容まではわからないが、筆談をしている様子はない。
「からかわれたのかな・・・・・・」
後ろ姿を見送って透は頭をかいた。そしてカウンターに戻っていった。
透の実家は信州でそう大きくない画材店を営んでいる。彼はそこの四代目になる予定だ。
創業は戦後まもなく。曾祖父は陸軍に所属する従軍画家だった。
戦後、従軍画家の立場は危うくなった。つまり、軍に言われるがままに、あたかも日本が有利である、敵国が恐れをなしているといわんばかりの絵を描いた。そしてそれが新聞で大きく取り上げられ、国民の心に更なる憎しみと、戦争へ向かう気持ちを煽った罪は思いといった意見が出たからだ。
もちろん、戦争中はすべての国民が戦争に備えて耐え、忍び、力を合わせて戦ってきたのだから誰にも罪はないという声もあった。しかし曾祖父は軍人にも戦争犯罪者というものがあるのだから自分もそれに等しい、と絵筆を置いた。
そしてかわりに、子供たちが平和に絵を描ける時代のために画材店を開業したのだそうだ。
曾祖父は透が生まれる前に、祖父も十五年程年前に亡くなった。今は透の両親がそれを継ぐ形で続けている。
透自身は、さして絵画にも美術にも興味はなかった。画材屋さんの子供なのに・・・・・・と言われても美術の成績は三以上になったことはないし、この会社にいる誰よりも画材について知らない自信ならある。
大学も商学部出身。これは商売をするのには絵の勉強よりもこちらの知識の方が必要だと考えて選んだことだが、そもそも透はやる気の欠片もなかった。
今の世の中、家にいて手に入らないものなんかない。指先ひとつで世界中から商品が取り寄せられる。透の実家のように少しの絵の具や筆だけを扱っていてはそのうち消費者に忘れ去られてしまう。
しかも、その地域には美大も専学もなく、それこそ、扱い商品は小中学校で使う水彩絵の具や彫刻刀くらいなものだ。それだって最近はホームセンターや百均に押されていて、もうどうしようもないところに来ている。
店は開店休業状態。仕方なし靴下やエプロン、ちょっとした駄菓子などをおけばそれだけを求めて子供が日参する始末。
それだけならまだいい。透が修行を終えて実家に入り絵画教室を開いたり、ネットショップを始めたりすれば売り上げを伸ばし知名度をあげることはできるかもしれない。
ところが彼は聞いてしまった。
あれは就職が決まって一度実家に帰ったときのことだ。
店のなかでお客さんと父親が話をしていた。彼は透も小さい頃から知っている人だったので、挨拶をと思い住宅スペースからそちらに体を向けたときだった。
「それにしても透くん、すごいねえ。相模屋さんなんて大企業で最大手じゃないか」
「どうだか」
「またまた、そんなこと言って」
「まあ、東京でなに教わってきたって、こっちじゃ通用しない。こっちにはこっちのやり方があるからな。俺の目が黒いうちはあいつの好きになんかさせんわ」
正直、愕然とした。自分達のおかれた危機的状況を知ろうともしないで商品を並べてさえおけば売れると信じている旧石器時代的考え方。
子供の時からうっすらとは思っていたが、父も母も自分達の売っているものにさして興味はないのだ。ただ、店を持っている、仕事をしている、そしてそうすれば誰かが頼り、持ち上げてくれるだけの充実感。
現に父親はたいして店が流行っているわけでもないのに、若い頃は商工会議所の青年部に所属して日本中を駆け回っていた。今は商店街の理事などやって寧ろ店よりもそっちの方が忙しいような有り様だ。
母親は山登りの会とフラダンスサークルに精を出し週に何度も店を空けている。
それだというのに業界では一、二を争う企業で学んできた息子に、俺が死ぬまで自由にさせないとは……父親はまだ五十四だ。あと二十五年なんとか店にいたとして、透だってもう五十を越えている。それから新しい事業を展開させる? やる気を引っ張り出して天日干しして奮い起たせる?……気が遠くなった。
それから、何となくもうやる気がでない。就職が決まったときは、たくさんいろいろなことを吸収しても持って帰ろう。自分のように地方から来ている跡取りたちと連絡を取りあって情報を共有できるネットワークを作ろうなどと張り切っていた。しかしそれもなんだかむなしい。
会社との約束は十年。父親と相模屋の専務が古くからの知り合いで一応は試験を受けたが、まあ半ばコネ入社のようなものだ。そして十年のうちに自分の更なる進路……つまり実家に戻るのか、ここに残って相模屋の幹部候補として勤めていくのか。または違う道に進むのか。それを考えるようにと言われている。
ただしその事は、つまり実家に帰る以外の選択が用意されていることは両親は知らない。透と専務の大月の間だけの話だ。
大月は透をとても気にかけてくれていて、透の方でもそんな実家に対する悩みを打ち明けていた。父親の人となりをよく知る大月もさすがに苦笑いして、その案を示してくれたのだ。
「俺が……私が帰らなかったら、店はどうなるんでしょうか」
「俺でいいよ。そんなの君が構うこたあない。父ちゃんと母ちゃんでどうにでもするだろうよ」
「……」
さすがに考えてしまう。老いてゆく二人を残して違う仕事を始めてしまったら。大学の学費もこっちで生活する上での初期費用も全部頼っている。帰って向こうで仕事をすればそれが恩返しになると思っていたからなにも考えず受け取っていたが。
「それとこれとは別の話だぞ?」
「そうでしょうか」
「子供に教育を受けさせるのは親の義務で特権だからな」
「特権」
「学びたいという子供の意思を尊重してやれる特権だ。親にしかできない」
そういうものだろうか。親になどなったこともなければ、想像したことすらないので全くイメージできない。
透には妹がいるがこちらは誰にも似ずに絵を描いている。今年大学受験の予定だが、どこからも門前払いされるような成績らしい。せめて構内推薦枠内の成績であれば、芸術学部がある私大にでもAO入学が望めるかも知れなかったのに。
本人は回りの心配などどこ吹く風、「先生になりたい訳じゃないから大学なんか行かないよー。バイトしながら絵ぇ書いてればいいもん」と呑気なものだ。
恐らく彼女は店を継ぐ気など更々ないだろう。家に戻って老いた父と母の面倒を見て妹が就職さえままならなかったらその生活も支えて……もう絶望しかない。
約束まではあと六年。このあと透は本店の売り場をいくつか回って最後は企画開発の方へいくことになっている。それまでに、本当に自分のやるべきこと、やりたいことが見つかるだろうか。




