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北原中学校吹奏楽部  作者: 星野 美織
挑む、関西大会へ
419/423

在り方

「ごめん、みんな揃ってるうちに1回だけコンクールの通しさせて」

 中途半端に午前練習を終えてしまったため、午後の合奏の1発目にコンクール曲の流れを通すことになった。今日は途中で3年生が3人進路関係で早退するのだ。

 課題曲が始まってしばらく経つが、本音を言うと凛奈は全く集中していない。

 原因は多い気がするが、凛奈の頭を離れずにいるのが昼休憩の蒼だった。冷静沈着で、余裕があって、時には温かな頼れる存在。先輩としても、彼氏としても蒼にはそんなイメージがあったから。あんなにも声を荒らげて同級生と衝突する彼を見たのは初めてだった。

 全くもって集中できていないまま、楽器に息を吹き込むと、突然自分のものではない楽器のベルが視界に入る。杏が楽器を吹きながらこちらを見ていたのだ。我に返って自分の発した音を聞くと、場違いな程に飛び出していた。

「すみません」

「うん、いいよ」

 小声で謝ると、杏が手を軽く振る。こんな風に許してくれる先輩はきっと杏だけだ。隣が茜だったら大激怒だっただろう。そう、今はコンクールの通し練習をしているのだ。深く息を吸って吐く。深呼吸しても晴れない心に項垂れる。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて、楽器を構える。集中、とその2文字を頭にたたきつけて息を吹きかけた。

 こんなに複雑な心のままの自分の演奏は、いつも通りと言えばいつも通りではあるが、納得のいく演奏ではない。そのまま頷けないまま、課題曲が終わってしまった。

 打楽器の準備、管楽器の席の入れ替えが終わるとすぐに小林は指揮棒を構える。そう、誰もたった1人の都合なんかに合わせないのだ。誰も待ってくれない。間に合わない凛奈の心境を置いてきぼりで、オーシャンドラムが音楽室を海に変える。いつも通りのフルートの音色。綾乃のホルンソロ。ああ、リムショットは不発だ。いつも通りの音と、外す音。絶対に音が確実に的中する訳では無いこの音楽と言う概念に、県大会の光景がちらつく。自分のソロが近付いていると言うのになにも準備が出来ない。焦っているうちにその時はやってきて、慌てて息を吸い込んだ。

「……!っげほっ、」

 息を吸ったと当時にむせ返ってしまった。小林や他の部員たちの目線が一気にこちらに集中する。伴奏だけが続く状況に焦って、楽器を構えて途中から吹こうとするが、ソロの代わりにこんこん、けんけんと自分のみっともない咳が響く。

「大丈夫ですか」

 さすがの茜も心配そうに凛奈の背中をさする。少し収まった頃には自分の出番は終わっていて、録音をしていることを思い出して手で顔を覆った。

 今起こったことがもし本番だったら。そう考えると恐ろしくて仕方がない。

 そんなタイミングで、トロンボーンのコラールが聞こえてきた。午前とは違って人数が増え、そのぶんばらつきが目立ってしまう。もっと気にするところではあるが、今の凛奈はそれどころではなかった。

───これは偶然なんかじゃなくて、自分がソロを吹くことに恐怖を覚えている気がした。

 2度目の失敗は許されない。例え周りが許したとしても、自分自身が。

 ぐちゃぐちゃになった思いのまま、演奏は終盤を迎える。ソロの後は暫くして落ち着いて吹いていたが、果たして周りにはどのように聴こえていたのだろう。

 クライマックスを迎えようとしているところ、今度は自分の一瞬隣の音が途切れた気がした。

 とにかくせめて、最後だけは吹ききろう。その一心で、凛奈は1番最後の音を決めた。

「───はい。録音OK。おい、大丈夫か?」

 録音機のスイッチを押した小林に、凛奈は自分のことだと返事をしようと口を開いた。

「はい、すみませ───」

「蒼。手、どうした」

 え、と声を漏らし、隣にいる蒼に目をやった。

「ひっ!?」

 誰かの小さな悲鳴と同時に凛奈も目を見開いてしまった。

「蒼くん、手……」

 隣にいた蒼の左手から、真っ赤な液体が流れ落ちていた。

「すみません、スライドで左手挟んじゃって」

「保健室行ってきなさい。みんなも、今の振り返りだけしたら休憩にするから」

「いや、ほんとに大したことないので。俺も振り返りだけ聞いていきます」

 一見大怪我ではあるが、蒼は至って冷静だ。蒼の隣にいる愛菜も顔を青くしながら今すぐ外に出るように促すが、本人は聞く耳も持たない。蒼はじっと話を聞きながら、肩にかけていたタオルで手を押さえていた。言うことを聞かないことをわかっていたのか、小林も察して反省点を簡潔に纏めて話した。

「じゃあ、いまから10分休憩。自由曲から返します」

「「はい」」

「蒼、風馬と保健室に───」

「いいです、1人で行きます」

 小林の言葉を遮って、1人蒼が立ち上がる。彼の近くに座っていると紺色のタオルではあるが血が滲み広がっているのがわかる。風馬は呆れたように、しかし怒りを抑えられないように眉間に皺を寄せながらそっぽを向いた。

「やば、こっわ」

 騒然とする中、ひそひそと誰かがそんなことを言うと、本人に聞こえたのか不機嫌そうに蒼は音楽室を後にする。

 雰囲気の悪い音楽室なんてどうでもよかった。考える前に、気付けば立ち上がって、凛奈は蒼を追いかけていた。

「蒼くん!」

 上靴を履くのに手間取って、結局踵を踏んで追いかけた。階段で足を止めて凛奈の声に振り向く蒼は別人のように冷酷な顔をしていた。

「なに」

「なに、って……。私も一緒に保健室行くよ」

 そのまま耳を傾けずに放っていかれそうで、蒼が足を止めている隙に追いついて彼の腕を取る。

「いいって。1人で行くって言ったろ。そんな大した怪我でもないのに、大袈裟」

 少し強引に凛奈の手を振りほどいて、また階段を降りる。

 普通に考えれば彼は今機嫌が悪いのだ。もし普段なら少しそっとしておくが、ただ機嫌が悪いだとか、今はそういうものではない気がして放置するのは違う気がした。

「私が!……一緒に行きたいの」

 足を止めた蒼に、少しほっとしていた。しかし、向けられた視線は冷たいもので、思わず肩が上がってしまった。

「……俺が。1人で行きたいの。もう戻れよ」

 そう言うと、凛奈の返事も待たずに蒼は階段を降りていった。

「ね、待ってよ蒼くん。なんでそんな言い方……。私、蒼くんになんか嫌なことした?花火大会の日」

 走れば追いつく距離。だが、声が震えて、彼と近距離で目を合わせるのが怖くて、その場に立ちすくんだ。

「……血、気持ち悪いだろうからついてこないで」

 凛奈の問いかけに答えることなく、そう言い放って、階段を降りきって1階にたどり着いた蒼は、角を曲がって姿を消した。

「……なにそれ。否定、してくれないんだ……」

 涙が溢れて、階段でたった1人、また泣いている。最近少ししたことですぐに泣いている気がする。泣き虫なんかではなく、泣きたくなるような事ばかりだ。

 彼女であることを否定された気がした。自分が蒼にとってどんな存在であるのか。部員たちにとってどんな存在なのか。誰からも必要とされていない気がして、自分のしていることは誰でもいい気がして、涙を拭ってくれる誰かすらいなくて、それでも時計を見ると休憩が終わるまであと少し。

 自分の気持ちを押し殺して、涙を止めて、音楽室へと戻った。

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