11.未練と後悔を追って
「金賞だったよ。……それと、代表になった」
県大会のあの日。帰宅した柚子は、おかえり、と言った母に伝える。
「代表……ってことは、次は関西大会に出るの?」
「そうだよ」
「よかったじゃない」
小学生の頃はすんなり全国大会に出ることが出来てしまったからか、県代表になった事にも母はあまり驚かなくなってしまった。目を合わせずにそう言う母に悪気はない。
「……楽器、買ってくれてありがとう。吹部にまた入るって言った時、あんなに反対してたのに。夏休みに入ってから毎日お弁当も」
皿を手洗いしていた母は水を止めて、手に着いた水を払った。
「……吹奏楽部にいなくても楽器は続けられるし、ずっと続けてきたことだから、これからも続けるんだろうと思って買ってあげたけど、部活、楽しそうね」
「うん、心配しないでよ。もとからみんないい子なの。辞めた時はまだみんなちょっと子供だったって言うか。今は大切な仲間だし、いい関係築いていると思うよ」
「……そう」
着席した柚子に、冷たい麦茶と夕飯を置く。いただきます、と笑顔で手を合わせる我が子に、2年前のことを思い出していた。
*
「もうやだ、部活辞めたい」
2年前の秋、紺色の買ったばかりのカーディガンの裾で涙を何度も拭く娘に、両親は驚いていた。
「どうしたの、何か嫌なことでもあった?」
「嫌なことしかないよ」
歳の割に落ち着いている娘が、あまりにも取り乱すから、相当な事が彼女を苦しめているのだと母は感じた。
「私だって、特別扱いしてほしいなんて思ってないのに……」
木管楽器では数少ない経験者であったため、重宝されていることは知っていた。それが苦であるような顔は今まで一切見せなかった。1年生の中で唯一のリーダーと言う立場になった時、自分がいい部活を作る一員になる、と張り切っていた。
「辞めて後悔しないのなら、辛いことを続ける必要ないだろ」
「お父さんちょっと。もう少しだけ続けてみない?ちゃんとみんなで話し合えば解決できるでしょ?」
一時の感情で即決してしまうのは良くない。そう思い、なんとか説得して次の日もなんとか学校へ送り出すことができた。しかし日に日に表情が暗くなっていく柚子。もう無理、辞めたい、行きたくないと泣きながら訴える毎晩。
本当にもう駄目なのだろう。そう思った母は柚子をリビングのソファに座らせて、父を呼んだ。
「本当に後悔がないなら、辞めていい」
「……後悔なんてない」
これは嘘をついている顔だ。
「本当にないのね」
「……うん、……」
これ以上何を言っても無駄だ。後悔がないのはきっと嘘で、それでもその後悔を消す方法は彼女の中にはないのだろう。
「辞めなければよかったなんて言わないって、約束できる?」
「うん」
「……じゃあ退部届、持ってきなさい。印鑑とお母さんのサイン必要でしょう」
娘が差し出してきた少しだけ皺のある退部届は、何度も消しゴムで消した跡があった。しかし、決意を固めたように、力強くボールペンで「天瀬柚子」と名前が書かれていた。
さらさらと同様にボールペンでサインをして、印鑑を押す。ありがとう、ごめんなさいとぎこちなく笑う娘には何を言っても無駄だ。父も、そのやりとりを見て、静かに自室に戻っていった。
*
「駄目。お母さんは反対よ。なんでわざわざ辛かった所に戻ろうとするの」
「確かにあの時は辛かったけど……でも、みんなから戻ってきて欲しいって、1個下の子からも、一緒に吹きたいって言って貰えたの!」
2年生になってしばらくした頃、柚子はまた楽器ケースを開くようになった。週に数回、学校から帰ってきたら家から少し離れた河川敷でクラリネットを吹く。
最初は両親に知られないようにこそこそとしていたものの、偶然買い物に出かけていた母に呆気なく見つかってしまった。
「なにそれ……柚子あの時言ったよね? 後悔してないって。やっぱり辞めなかったらよかったって言わないって」
「言ったけど……」
「吹部の子たちからちょっといいように都合よく言われたから戻るなんて、単純にも程があるわよ」
「確かにそうかもだけど、違うの! みんなも私も、1年経ってちゃんと大人になったの。奈津と仲直りもしたし、みんな私の事待ってくれてる。小林先生もそう言ってくれたそれなのに戻らないなんて無理だよ」
あの時とは違って、髪も伸びてスカートも短くなった。少しだけ我儘になったように感じるのは、反抗期という事なのだろうか。
「柚子を傷つけたのはその部員の子達でしょ?小林先生も何を考えてるの。戻ってこないかだなんて」
「吹部のこと悪く言わないでよ! お願い、我儘言うのはこれで最後にするから。入部届、サインとはんこして。お願い。お願いします」
頭を下げる柚子。その手は震えていて、顔は見えないが、床にぽたりぽたりといくつもの雫が滴り落ちる。
「……顔を上げなさい」
何も口出しをしなかった父が、口を開く。そして、机に置いてあった入部届けにインクをのせた。
「……お前は1年前、父さんと母さんに嘘ついただろう。ばればれだったんだからな」
「ちょっとお父さん、勝手にサインなんてして……」
「本当は後悔ばっかりなんだろう。柚子も母さんもつまらない意地なんて張るな」
「意地だなんて……」
「父さん、ほんとにいいの……?」
ぼろぼろと涙を拭うことなく流し続ける娘を見て、父は印鑑を開けて押印する。
「お前は、嘘つきだ。だけど、約束はきちんと守っていた。この1年、父さんも母さんも、お前の口から後悔の言葉は一切聞かなかった。……4月から受験生だろう。成績を落とすようなら、すぐに辞めさせるからな」
「うん、うん……。嘘ついてごめんなさい。本当は後悔してばっかだった……。チャンスをくれてありがとう」
「……お母さんは知りません。好きにしなさい。また辞めたいなんて言ったら承知しないからね」
「母さんも、ありがとう」
「……知らないって言ってるでしょ」
娘から目を逸らす。ありがとう、ありがとうと何度も感謝を伝える娘に、母は本当は応援したい気持ちでいっぱいだった。
*
「お盆休みも短いのね」
「関西まで時間ないから、あんまり休んでられないからね」
盆休みが開けて、練習が再開する。毎朝欠かさず飲んでいるカフェラテ。柚子はなんだかいてもたってもいられなくて、いつもより早い時間に目が覚めた。
「もう行くの?練習は9時からでしょう? まだ7時じゃない」
「うん、お盆吹けてなかったアルトとエスクラの練習したくて」
「そう。気をつけていくのよ。今日は特段に暑いみたいだから」
母から差し出された弁当に、毎朝必ずありがとうと感謝を伝える。
「行ってくるね」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「───母さん、」
1度閉めかけたリビングの扉を少しだけ開けて顔を出した。
「なあに」
「……部活、すごく楽しいよ。ありがとね。あと1ヶ月で引退だけど、後悔しないようにやりきるから」
「……そう」
そっけない返事の母に、柚子はにっこりと笑って、満足そうに扉を閉めた。
庭を見ると、からりと乾いた天気に、日差しが差し込んでいた。
「行ってきます!」




