2.jasmine
泉 茉莉花、8歳の初夏、夕暮れ時。梅雨が明け、久しぶりに晴れとなったので家の裏にある市民公園で友人と遊んだ後、ベンチに忘れ物をした事を思い出し1人で公園に踵を返した。日も落ちかける頃、オレンジがかった空には不釣り合いに、楽器の音が鳴っていた。しかも、目的の場所にどんどん近付くたび、音も大きくなる。
茉莉花たちが遊んでいた場所は、人が少なく、穴場だった。階段を降りた、公園が設立された時に建てられたであろう記念碑のある小さな広場。木に囲まれていて夏でも涼しく、茉莉花のお気に入りだった。1人の時は読書をするし、同級生とお喋りをしたり、少し狭いが体を動かしたり。子供がそんな人気の少ないところで遊んではいけない、と注意されることが多かったが、友人関係が広く浅いタイプの茉莉花にとっては、1人の時間がないと落ち着かない。だから、大人のことなんて耳も傾けずにいた。
階段を降りると、更に音が近付く。嫌な予感が的中した。
───背の高い人影。しかも男性。
最悪のパターンだった。何かされたらどうしよう。そんな考えで頭がいっぱいになった。それでもずらかることが出来なかったのが、忘れ物がどうしても取り戻したい大切な物だった。
後退りをすると、足元で枝が折れる音がした。
「やあ、はじめまして。楽器の音に釣られてきちゃった?」
警戒心丸出しで、ぶんぶんと横に首を振った。
「その、そこのくまさん。それ私の、です」
茉莉花の忘れ物───くまのぬいぐるみは、男性の荷物にたてられていた。
「ああ! 君のだったんだね。ごめんね、どうぞ。この子に観客になってもらってたんだ」
はい、と男性はぬいぐるみを差し出す。ぬいぐるみを取り戻したい。しかし知らない大人に近付くのが怖かった。それを悟った男性は、両手をゆっくりと降ろした。
「っ!だめ、返して───」
「ここに置いておくから。もう暗いし、気を付けて帰ってね」
手を降ろした仕草に、ぬいぐるみを返してくれないと子供ながらに早とちりして恥ずかしく、申し訳なくなる。
紙を下に敷いて、茉莉花の近くの木の根元にぬいぐるみを置く。そして男性は、後ろを向いてまた楽器を吹き出した。
ぬいぐるみを慌てて取り、そしてその紙を拾う。鍵盤ハーモニカぐらいしか吹いたことのない茉莉花でもわかる。これは楽譜だ。ぬいぐるみをそのまま地べたに置くと汚れるから、わざわざ楽譜を敷いたのだ。なんだか悪い気がしてきて、その楽譜を男性に返さないと、と手に取ったが、男性はなかなかこっちを振り向かない。
近付くのが嫌だったはずなのに、楽譜を返さなければと本当に少しずつ距離を詰める。
近くで彼を見て分かったことは、2つ。彼はとても自分の音に集中している。近付く茉莉花に気づかないほどに。そしてもう1つ、彼の横顔はとても整っていて綺麗だということ。茉莉花は諦めて、楽譜を持ったまま帰ることにした。どうせあの場所に紙1枚を置きっぱなしにしていたら、風で飛んでいくだろうから、茉莉花が持っていても変わりないだろう。そう思い、家路を辿ろうと、階段を上った。
「お嬢ちゃん、この辺に住んでる子? 道案内して欲しいのだけど」
道路の端に停まっていた車から誰かが降りてきた。祖母よりは若く、母よりは年上に見える女性が急に茉莉花に話しかける。
「どこに行くんですか」
「ここから1番近いスーパー、わかる?」
「それならこっちに行って、2番目の信号のすぐ左です」
物腰柔らかい女性で、茉莉花は安心しながら道を教える。
「んー、ちょっとよく分からないわね。車に乗って、一緒に来てくれる? お礼にお菓子あげるから」
「えっ、」
丁寧な話し方のまま、強引に茉莉花の細い腕を引っ張り、車内に連れ込もうとする。
完全に油断した。女性だったから油断をした。知らない人には着いていくな、暗くなったら1人で出歩くな。あれだけ厳しく母に言われていたことを守らなかったことを後悔した。必死に抵抗し、足を踏ん張る。抱えていたくまのぬいぐるみを落としたことなんて気にならず、必死に掴まれた側の腕をもう片方の腕で引っ張る。
「やだ、離して───」
ぎゅっと目を瞑って、大声を出そうとしたその瞬間。
「僕の姪に何か用ですか」
先程の声が聞こえ、腕を引っ張られる感覚が弱まった。先程の楽器を吹いていた男性だった。息を切らし、肩で呼吸をしている。
「!あ、ああ……道案内をしてもらってて」
「そうですか、ちなみにどちらへ?」
「ここから1番近いスーパーです、場所は大体わかりましたので。じゃあ、お嬢ちゃん、ありがとうね」
「そうですか、"ナナ"ちゃん、そろそろ帰ろうか」
適当につけられた立場と名前に、うんうんと頷き、手を繋ぐ。それじゃあ、と女性はそそくさと車に乗り、スーパーとは真逆の方向に車を走らせて行った。
「はあああ〜〜っ! よかった、連れていかれるかと思った」
男性は急にしゃがみこみ、肩からずるりと荷物がずり落ちた。自分よりも下にある成人男性の頭に茉莉花は動揺する。何故か走ってもいない茉莉花も息が切れている。
「大丈夫?……ではないか。びっくりしたね。はい、大事な物なんでしょ」
ぬいぐるみについた砂をはらい、先程のように、それでも先程よりも近く、同じ目線でぬいぐるみを差し出してきた。
「よし。危ないから、家まで送るよ。どの辺?」
動揺のあまりに声が出なかった。そして男性はふっと笑い、しゃがんだまま茉莉花の頭に手を乗せた。
「怖かったね。もう大丈夫だから。帰ろっか、帰ろう」
帰ろう。家族でもなんでもない男性からそう言われ、ぬいぐるみを受け取った。
「……っ! ぐす、ぅん、帰る……」
ぐす、ぐすんと鼻をすすり、やっと声を出せた。
「帰ろう。もう帰れるから、泣かないで? ほら、行こう」
気付けばカラスが鳴き渡り、空は赤と青が入り交じり紫になり、なんだか奇妙な色だった。
公園の時計を見れば19時前。目の前にいる彼を見て、どこか懐かしさを感じた。
「暗くなっちゃったね。お家の人、心配してるんじゃない?」
お家の人。何か嫌なことを思い出して、また声を絞り出した。
「ママに、怒られちゃう」
*
最後に父と兄に会ったのは、小学校に入学する前だった。お誕生日おめでとう、そう言って2人は、くまのぬいぐるみと、ジャスミンの花をくれた。
幼かった茉莉花にはよくわからなかったが、母が6つ年の離れた兄をよく怒鳴りつけるようになったことと、両親がよく喧嘩するようになって、しまいには父と兄が出ていってしまったことだけは確かだった。
茉莉花は、父がつけた名前だった。茉莉花は母が好きな花だった。両親の記念日には父が母にジャスミンの香水をプレゼントしたし、茉莉花の誕生日には両親からジャスミンの香りのするハンドクリームをもらう。そして兄と2人で、庭でジャスミンの花を育てる。もちろんジャスミンの花言葉を理解していたし、なによりもその香りが気に入っていた。
「パパとにいには?」
いくら呼んでも、急に帰ってこなくなった父と兄について尋ねると、悲しそうな顔をする訳でもなく冷たく母は言った。
「パパも、にいにも、もう会わないの。茉莉花は、これからこの家で、ママと暮らすの」
そうして、2人で暮らすには広すぎる家は、茉莉花と母を包み込んだ。
*
「お、"ナナ"ちゃん。また来たの」
翌日、同じ場所に彼はまたいた。
「昨日は、ありがとうございました。これ。返そうと思って」
「───ああ、楽譜! わざわざありがとうねぇ」
ぐちゃぐちゃに折れ曲がった楽譜1枚を、必死に真っ直ぐになおしながら差し出す。
本当は返さなくたってよかったのかもしれない。楽譜を返すことを迷いながら、それでも伝えたいことを伝えるために彼の元へ歩み寄った。
「あの、その……昨日、感じ悪くして、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとう」
「君はいい子だね。それに、知らない男の人に近づかれるの、怖いよね。僕の方こそごめんね」
「そんな、いい子なんかじゃ、」
そう言って、両手をいじりながら目を逸らした。頬が少しだけ熱くなるのがわかる。
「ううん。だって、こうやって楽譜を僕の元まで持ってきてくれたじゃないか。優しい子だよ、"ナナ"ちゃんは」
「……茉莉花。ナナちゃんじゃなくて、名前、泉 茉莉花」
「名前、教えてくれるの。ありがとう。僕の名前は国木田 準。プロのサックス奏者だ。──茉莉花、とってもいい響きだ。どんな字で書くの? 友達になろう、茉莉花ちゃん」
思えば知らない大人、しかも男性なのに、彼、国木田の言葉は怖くなかった。
「茉莉花はこういう字。パパがつけてくれたの。お花の名前なんだよ、ジャスミンっていう」
木の枝で地面に書いた字を眺めて、国木田は同年代のようにアーモンドのような目を細めて、無邪気に笑った。
「いい匂いだよね、ジャスミン」
「そうなの! とっても可愛くて、甘くていい匂いなの! だから、とっても、大好きで……」
ジャスミンの香りは、茉莉花のお気に入りだった。しかし、父と兄が家を出ていった後、母は父からプレゼントされたジャスミンの香水を床に叩き割ったのだ。その時、実際にその瞬間を見ていないが、暫く床に染み付いた香水の匂いは残酷にも無駄に甘く、虚しく、食事中は吐き気までしてしまった。
そして、気付いたら茉莉花の部屋の引き出しに入っていたはずのジャスミンの香りのハンドクリームも、消失していたのだ。きっと母が捨てたのだ。
悲しいことを思い出してしまい、また父と兄に会えないだろうか、そして、またジャスミンの香りを纏いたいと無謀な我儘が頭をよぎり、俯いた。
「……甘くて、いい匂いで、それでとっても綺麗なら、きっと音楽で表すと、こんな感じなのかな」
そう言って、彼はサックスに息を吹き込む。彼の容姿のように綺麗で完璧な、美しい音。甘くて、綺麗で。そんなことまで表現出来てしまう音楽とは、なんて美しいのだろうか。
幼い茉莉花は、少しだけオレンジがかった空に溶けていく彼の音色に、目を輝かせた。




