1.なりたいもの
「栄本には、分かんないだろな」
香坂 徹、高校2年の、夏。同じクラスの女子の前で、何かが爆発した。
将来は両親と同じく医療に携わる仕事をする、それが当然だと思っていた。祖父の開業した小児科クリニックを継いだ父と看護師の母の間に生まれた男3兄弟。少し歳の離れた兄2人も、1人は医大を卒業し実家のクリニックを継ぎ、2番目の兄も同じ医大を卒業し、現在大学病院に新人医師として務めている。そんな兄2人を尊敬するとともに、自分の出来の悪さにうんざりしていた。
目の前にいる女子は、栄本律子。同じクラスで、学級の委員長を務めている。その名前の通り律儀な性格の生徒だった。
「……急にそんなこと言われても分かんないわよ。なんの事よ、せっかく勉強教えてあげてるのに、何その言い草」
そう、徹は今、律子から勉強を教わっていた。事の発端は期末テストの結果と志望校だ。
徹はクラスの中で成績が悪いわけではなかったが、兄たちの通っていた医大には及ばない成績だった。だから、恥を承知で苦手な彼女に勉強を教わっていた。
こんな状況になったのは、彼女の放った一言だった。
「お兄さん達が行ってるからって、無理して同じ大学に行く必要はないんじゃない?」
その言葉は、先日の両親と兄たちと、酷く重なった。
"お前は、お前の好きな道を選んでいいんだぞ"
父は優しくそう言って頭を撫でる。
"あんたはきっと、他の仕事でも活躍できるわよ"
母の言葉には含みがあった。
"このクリニックは、兄ちゃん1家に任せろ"
1番上の兄は、その妻と一緒に誇らしげにそう笑った。
"徹、無理して兄ちゃんたちみたいになろうとするな"
2番目の兄は、そう言ってペンだこのできた手を徹の肩に置いた。
頭を撫でて育てきた三男を、家族たちはそう言って優しく医学から引き離そうとした。
別に医師になりたくない訳でもなければ、流れで自分が選んだわけでもない。そもそも子供は嫌いだ、務めるなら小児科以外が希望だ。
「なによ、何をそんなに怒ってんのよ」
誰も分かってはくれない。周りは無理をするな、と自分を否定し、「違う」、「無理なんてしてない」と訴えるが、伝わらない。
ただ、それで医者になることを諦めてしまえば、それこそ逃げだと思った。
それでも、第三者にまで否定される自分が、惨めで堪らなかった。
「お前、なんでもできるからってなんでも言って許されると思うなよ」
「思ってないわよ!」
荒げられた彼女の声にはっとなる。
「思ってないわよ、そんなこと……。私がなんでもできるなんて、思ってもない」
地雷を踏んだと瞬時に理解した。だが、踏まれたのはこちらも同じだった。
「私は、あんたがお兄さん達に縛られてるように見えたから、行きたい大学を考え直せば?って、言ってんのよ。あんたの、医者になりたい気持ちは、よくわかったから……医者になることをやめろなんて、言ってない」
放課後の教室に入り浸る夕焼けのオレンジに、揺れるセーラー服が染まっていく。
「なりたいあなたになればいいじゃない。お兄さんみたくじゃなくて。私は、そんなあなたの未来が楽しみで仕方がない」
「───そこから、1年半頑張って、結局叔父さんたちと同じ大学に合格した」
「いや、そこは違う大学じゃないの」
がくりと肩を落としたのは、中学2年生になる息子だ。
「で、父さんは俺になんで母さんとの昔の話をしたの」
「……母さんとの馴れ初めを聞いて欲しかっただけ? 合格したって報告したと同時に、告白して、大学もずっと付き合って、お互い職が安定して結婚して、朝緋と凛奈が生まれた」
「惚気かよ……いい歳して。そもそも、高校生の時母さんの事苦手だったんじゃねえの」
「……そうだよ。でも、自分の夢を応援してくれる、と言うよりも楽しみにしてくれている人ほど魅力的な人だったから、気付いたら惚れてた」
「そんな話よく子供の前で堂々とするよな」
そう言って、目の前で夕飯を頬張る息子、朝緋の頭を撫でた。やめて、とすぐに嫌がられてしまったのはきっともう思春期だからだ。
朝緋と、もう1人の娘、凛奈は容姿だけでなく、考えも昔の自分たちにそっくりで、徹は思わず笑ってしまった。




