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北原中学校吹奏楽部  作者: 星野 美織
さあ、県大会へ
385/423

舞台の上で、最後まで

【プログラム36番。葉月市立北原中学校吹奏楽部。課題曲3番に続きまして自由曲は、谷端陽久作曲、「海の王者」です】

 セッティングが終了し、小林が客席を向いた。アナウンスと共に明るくなった舞台上の証明は眩しくて、一瞬思わず目を閉じた。

 小林は少しだけ微笑んで、指揮棒を構え、丁寧なブレスを促した。

───翡翠を、"ヒスイ"と読むか、"カワセミ"と読むか。それは演奏する皆さんで決めてください。


 課題曲、翡翠の謎多き作曲者、牧原(まきはら)(かおる)は、課題曲のスコアの作曲者のコメントの部分に、この一言だけを残していた。その意図を考えることは、中高生には難しかった。北原では読み方を"ヒスイ"に統一し、ヒスイとカワセミ、両方を全員で学んでイメージを共有し会ってきた。

 1つずつ、木管楽器の音が重なり合う。ゆっくり、ゆっくり。どれだけ焦れったくなっても、決して音のスピードを早めてはいけない。慎重に、丁寧に、たったの1音に、精神を研ぎ澄ませて、木管楽器が息を吹き込む。耐えて、耐えて、耐え抜いた丁寧なpp(ピアニシモ)を紡ぐ。フェルマータ───そして、フルートのソロが始まる。

 未海の深いブレスが感じられる。装飾音符の多いメロディーはきっとカワセミの鳴き声だ。早いパッセージをそつなくこなすこの姿に、周りの勢いが増してしまいそうになる。

 "抑えろ"

「「!」」

 小林の指揮が、手が、表情が、目が、部員たちにそう訴えた。そうだ、ここはまだ抑える。我慢する。それは合宿の時から、小林が強く言い聞かせていた。トランペットのアンサンブルが始まる。ここも抑えるために、杏と聖菜、そして早苗と最小限の人数で行う。緊張がまとわりつくまま、各々がメロディーを奏でる。トランペットからユーフォニアムにメロディーが移る。茉莉花を筆頭としたユーフォニアム3人のアンサンブル。

 1人居ないだけで、こんなにも寂しい音になるのか。ここに居ない真緒を思い、息を吹き込む茉莉花は、目を細めた。

『もうすぐ、決めのところだ』

 練習でできていなかったことは、本番でもできることはない。それでも1年生のアンサンブルの県大会、綾乃と合うことのなかったメロディーが合ったのだ。これはきっと、練習で"できていなかった"のではなく、練習での"集中力"ではないかと小林に指摘された。

 いつも苦戦しているはずの木管楽器のメロディー。金管楽器のハーモニー。今まで散々抑えて耐えてきたのは、この場面で盛り上がるためだ。

 怖くなった。不自然なほど順調過ぎて、これは奇跡なのではないか、と疑うくらい。ぞくり、と背筋になにかが走る。上手な演奏とは言いきれないが、今までの中で上手くいきすぎている気がした。

 坂道で1度加速した車輪は、どんどん加速していく。美しく鳴り響くカワセミの鳴き声に、アジアの伝統的なハーモニー。ファゴットとバスクラリネットのロングトーンの中でグロッケンの金属的な音に、クラリネットのキンと鳴り響くハーモニー。

 鍵盤のメロディーが、クライマックスを繋ぎ、ゆっくり、静かにデクレッシェンドをしていった。


 課題曲と自由曲の間に拍手をしてはならない。拍手のないこの静かな空間でも、演奏前となにか空気が違うことは明らかだった。客席も、舞台上も、舞台裏も。ごくり、と誰かが喉を鳴らす。笑顔で行こう、なんてあれ程口を揃えていたのに、笑っている部員など誰1人いなかった。こんなに集中している部員たちを見て、凛奈はさらに不安が募っていった。もし、この集中力が途切れでもしたら。

 席を移動して、左手で口元を拭う。その時に光って反射したブレスレットを見て、落ち着こうと何度も呼吸する。

 車輪のブレーキをかける唯一のタイミングはここだ。しかし、ブレーキをかけていいのだろうか。このまま突っ走るべきなのか。

「───大丈夫」

 左隣を向くと、蒼は前を向いたまま小さく笑った。

「"いままでどおり"やるんだよ」

 そう言って、前を向くと、丁度小林が指揮棒を構えた。オーシャンドラムが、会場を海へと導く。ビブラフォンを弦楽器の弓で弾くボウイングがクジラの鳴き声としてホールに響き渡る。

 フルートの優しいメロディーとオーシャンドラムが交わり、柚子の柔らかなアルトクラリネットが、木管楽器を優しく繋ぐ。そして、綾乃が深く息を吸い込んだ。この曲の、最も大切な主題(テーマ)を提示する。朗々と響くホルンが心地よくて、ユリカは思わずそっと目を閉じた。

 綾乃のゆったりとしたメロディーは、海の深さを連想させる。ミュートを付けたトランペットのロングトーン。クラリネットの連符に、ウィンドチャイム。ひとつひとつのパートが、それぞれ"海"を表現している。どんどんテンポが早くなる。それは海上へ向かうクジラだった。

 バチンッ!と音が鳴る。スラップスティックに、タンバリンの皮の音、スネアのリムショット。そしてトムトムが、張り裂けそうな一撃で会場の空気が一変する。クジラが水面に叩きつけられたような衝撃。

 ここからはアップテンポで、パーカッションがテンポをキープする。

 ドク、ドクと心臓がうるさくなる。パーカッションとベースのソリとクラリネットの硬い音が交互にコントラストを描く。柚子のE♭クラリネットが、その輝きを増していた。そして、3拍。たった3拍の沈黙の次に、凛奈は深く息を吸い込み、客席へと目線を指した。

 ファンファーレのように、気持ちよく響き渡るソロ。苦手な跳躍が、怖くてたまらない。でも、それでも、音楽は進んでいくしかない。

『! やば、』

 跳躍を外してしまった。落ち着いて、と何度も自分に言い聞かせる。一瞬だけ怯んでしまって、一気に怖くなった。それでも、とずっと練習し続けたように、指を動かして、1度ソロが終わり、やっと口を離した。木管にメロディーを預けているその短い間に、泣きたくなるような気持ちを抑え、切替える。そして、もう一度ブレスをして、3連符で一気に駆け上がり、ハイトーンをホールにいっぱい響かせたのだった。

 泣きたくなった。しかし、音楽は止まらない。指揮者が腕を下ろし、客席を振り向くまで、終わりなどはしない。残された時間を、音を。

 奈津の心のこもったソプラノサックス。そして、クジラが大きくジャンプをしたことを太鼓が表現し、金管楽器のテーマのサウンドが会場を震わす。

 最後まで、気を抜いてはいけない。逃げてはいけない。チューバの太い音が、ユーフォニアムの柔らかい響きが、ホルンの音の芯が、トロンボーンの勢いが、トランペットのハイトーンが、木管楽器の連符が。海の広大さを表す。

 1度落ち着いて、全員でハーモニーを会場に響かせる。クレッシェンド。もっと、もっと。鍵盤楽器のトリルも、鐘の響きも、シンバルも。全てが一体となって、会場に響く。小林が天に向かって音を切るように拳を上げる。音がどんどん小さくなるに連れて、小林の、部員たちの息が切れているのがわかっていく。ふ、と小林は、無邪気に笑っていた。起立する合図を送り、客席を振り向く指揮者。

 演奏が終わった。凛奈はもう自分たちの演奏がなにがなんだか、どんな演奏だったかさっぱり覚えていなかった。しかし、客席からの拍手が、北原中学校吹奏楽部の演奏がどんなものだったかを、物語っていた。

【ただいまの演奏は、北原中学校吹奏楽部の皆さんでした】


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