2度目の"最後のソロレッスン"
「今日は炎天下になりそう」
朝のバスの中、携帯を見ながらマイは呟いた。
「熱中症気をつけないとね」
「暑いの苦手〜」
昨年と同じく朝から学校で最後の調整をしてから会場に向かう。
そういえば、去年は調整を終えて部員たちが梱包作業や運搬をする中、1人呼び出されてソロのレッスンをした。今年はどうなるか、しかし1年生の頃と同じことをしては成長した心地がしないし、1年前の自分ほど不安定ではないはず。呼び出されることはきっとないのだろう。そう思い、気付いたら右手の指が動いていた。
「はぁ、いよいよ今日か」
「合宿までしてあんなに時間かけたんだもの。どんなに不安なところがあろうとも、今日は自信を持って演奏するだけだよ。きっと関西、いける」
爪を見ながらさらっとそう言った麻由に、凛奈たち3人は目を丸くする。
「な、なに。なんかおかしいこと言った?」
「麻由ちんも変わったなーって!」
1年生の頃の麻由なら、きっとこんな返答はしなかった。
去年の文化祭での1、2年生の練習中、叱責され音楽室に取り残された同級生たちの中で真っ先に練習に向かったのは麻由だった。「練習してない自分たちが悪い」、と夢跳愛を連れて吐き捨てたあの頃の麻由は、どこか遠くて、近付けるようではなかったのに。1年でこんなにも変わってしまうなんて、とくすりと笑う。
『……あれ、』
同時に、なんだか心にもやがかかったようになる。
『なんか、……気持ち悪い、』
不穏に渦巻く謎の違和感に、3人の会話を聞きながら静かに俯いた。
当日最後の音の調整が終わった。ここからは梱包に運搬だ。
調整と言っても、対して凛奈は楽器を吹いていなかった。いわゆる体力温存である。今ここで吹きすぎて本番のタイミングで調子を崩しては元も子もないからだ。
「じゃあ打楽器梱包始めます!トラックもう来てくださっているので、管楽器は大きい順に積んでいきます!」
「「はい」」
運搬係の指示に、部員たちが動き出し、はっとなる。
そうだ、自分は皆が運搬しているタイミングで小林に最後のレッスンを受けた去年と違い役割がある。早く楽器をしまってトラックの荷台に向かわなくては。少しだけ寂しくて、思わず小林の方に目をやった。しかし思わず目が合ってしまい、慌てて逸らした。
「やるか?」
え、と声を出して顔を上げると、小林は凛奈の隣に立っていた。
「まだ楽器片付けてないだろ。向こうに着いてから時間はないから、やるなら今。やるか?」
「え、えっと、……」
何を、とは聞けなかった。しかし、少し考えてから、大きく目を開き、そして細めた。
「……はい」
「じゃあ、渡り廊下で」
急いで茉莉花に積み込みの役割を変わって欲しい、と伝えに行く。
その時の凛奈の顔はとても酷いもので、茉莉花は笑っていた。
「泣かなくていいんだよ」
泣いていない。そう言いきれなかったのは、涙は流していなくとも、心の中では泣いていたから。
楽器と楽譜を持って渡り廊下まで走る。しかし、運搬が始まってしまっているので遠回りするしかなかった。もどかしい気持ちと苛立ちを抑えながら、反対側の階段へと回る。どんどん歩く歩幅が大きくなりながら、早くなっていく。気付けば走っていた。
走っていると脳裏にいろんなことが浮かぶ。
"香坂!ちょっと楽器持って渡り廊下来い!"
"だから、凛奈が来年うちら3年の分まで頑張ってくれたらそれで十分だって。来年絶対関西行きなよ!"
"俺と付き合わない?"
"ごめんね、頼りないリーダーで"
"お前に、頼んでもいいか?"
"経験者に私の気持ちがわかるわけないよ! あんたは経験者なんだから! "
"天瀬 柚子!中学2年生で、クラリネットやってます! 吹部の子だよね?"
"トクベツじゃなくても、俺がいるから"
"後悔なんて、捨てた───はずなのに"
"私……。凛奈に嫉妬してたんだ"
"嫌なんです、小林先生ではなく私の口から告げられることで、パートがバラバラになるのが"
"私……認められたいんです"
"下で頑張ってる人を抜いているくせに、私でいいんでしょうか、それって失礼だと思わない?"
"ほら、人とちょっと違うことするって楽しいよ"
"人の心を動かせないロボットには、関西なんて到底無理だよ"
"大丈夫だから。私を信じて"
"まだ終わらないからな。安心しろ"
"大丈夫。間違ってないよ、君の音。だから、県大会は大丈夫だよ、心配しなくても"
"ねえ凛奈ちゃん。あたしは、どうしたら凛奈ちゃんみたいになれる?"
"お前、いい加減にしろ。ああやってどんだけ他人に思わせて悩ませてんだよ"
"母さんね、ほんとはあなたをこんな子に育てるつもりはなかった"
"きっと関西、いける"
"やるなら今。やるか?"
この1年間のことが、脳裏に浮かぶ。映画のエンドロールみたいでなんだかとても嫌だ。小林に渡り廊下で呼び出された1年前から、今朝のことまで。あれから1年、人生の中のたった1年かもしれないが、なんだか色々な事が重なりすぎた1年だった。わからない、なぜ自分がこんなにも泣いているのか。
「ごめんなさい、おそく、なりました、」
汗を流して息を切らしてたどり着くと、小林は可笑しくて仕方ないような顔をしていた。
「疲れすぎ。まだコンクール終わってもないのに泣くな」
「泣いてない、はずなんですけどね、……」
そう言って笑顔が下手なりに笑って見せた。
小林は、凛奈が涙を流していないにも関わらず茉莉花と同じくそう言った。
小林は手を当てて日差しを抑える。
「昨年のお前とは、だいぶ変わったんじゃないか、音も、モチベーションも」
「どうなんでしょう、気付いたら1年経ってて、気付いたら数時間後に本番で……。あっという間で、でも1年間この日のためだけに頑張ったかって聞かれると、そうじゃないんです、たぶん。上手く言えないけど……きっとコンクールのためだけの部活じゃなかったです。それで、なんだか、怖くなってきて。怖くて、上手くいかなかったらどうしようって、ずっと思っちゃうんです」
朝からのあの気分の悪さはきっとこれだった。
「香坂」
久しぶりに苗字で呼ばれて、どきりとした。
今は莉々奈がいるから下の名前で呼ばれている。まるで、入部した当初みたいだ。
はい、と震える声で返事をする。
「大事なことを、どうか忘れないように」
なんだか悲しいような表情でそう言うと、ほら、と正面を向く。
「これが、"最後のソロレッスンだ"」
1年前のあの日と声が重なる。しかし、小林の表情は昨年よりも穏やかだった。
「県大会最後の、ですよね、」
「それは、もちろん」
汗に混じって、一筋涙が零れた。
「関西に行ったら、また"最後のソロレッスン"をしてやる」
そう言って微笑み、凛奈は楽器をかまえた。




