1人は怖い。
「……よし、切り替え、切り替え……」
そう、何度も自分に言い聞かせ、音楽室の扉の前に立つ。
「チューニング終わったのか」
「ひっ?!」
後ろから声を掛けられて、また間抜けな声を出して驚いてしまった。
「こ、小林先生、紀穂先生……」
「あら、汗だくじゃない」
ひょこっと小林の背後から顔を出し、目をぱちぱちと瞬きさせながら紀穂が言う。
「あ、えっと……」
紀穂の言う通り汗が止まらない。茉莉花の事を報告すべきだろうか。
『奈津先輩誰も先生呼ぶなって言ってたけど……でもさすがに先生何も分かってないのに幹部が3人もいないのは……』
「何かあるのか?」
どんどん曇っていく凛奈の表情。小林はそれを見て目を細める。
「えーっと、その……」
「何もないなら、どいて。邪魔。合奏始まる時間。通るから」
「す、スミマセンッ!」
素早く動く。3つの言葉の矢が心臓に突き刺さる。
『ひいぃぃ、』
心の中でひっそり悲鳴が出た。眼鏡をかけていつもの倍目つきが悪いからだろうか。
「ごめんね〜凛奈ちゃん。……もしかしてやっぱり何かあった?」
小林の後に音楽室に入ろうとしていた紀穂は、曖昧な凛奈が気掛かりらしく、小林に聞こえないようにそっと凛奈に尋ねた。池田紀穂と言う人物が、女神に見えた。
「じ、実は……」
茉莉花は、小林が自分のところに来て合奏の進行を遅らせるのが嫌なのだ。だから、紀穂なら問題ない。そう思い、セクションであった事と、茉莉花の体調が優れないことを説明する。
「なるほどね。私が行くわ。ほら、もう合奏はじまるから、行っておいで」
「先生……ありがとうございます!」
お礼を伝えて、すぐに凛奈も音楽室へと入った。
席へ戻ると、既に部員たちは起立している。
幹部が誰1人居ないことに違和感を感じていたが、何か話しているのだと察した部員たちの視線は凛奈に集まっている。
「部長たちいないから、2年リーダー。挨拶」
「は、はい! よろしくお願いします!」
「「よろしくお願いします」」
「おい、凛奈。大丈夫か?」
慌てて号令をかけ、座る。隣に座っている蒼がひそりと声をかける。おそらく、金管部員を代表しての声だっただろう。ユーフォニアムの3人もこちらを凝視している。
「……大丈夫だから、いまは合奏に集中しよう」
視線を送り返す。頷いたり反応することを待たず、凛奈は前を向いた。
「じゃあ、自由曲。木管はどこやって来たんだっけ?」
「連符の掛け合いのところです」
「金管」
「364からです」
「……先に金管の部分を済ませて、木管をやろうか。じゃあ、364の2小節前から」
「「はい!」」
合図に合わせて、木管楽器が深く空気を吸い込む。
『……あ』
始まったどこか物足りないハーモニー。そこにメロディーが映し出されることはなかった。
そう、そこは本来ならば奈津によるソプラノサックスのソロだった。幹部3人の不在の及ぼす影響は、それだけではなかった。
『……!しまった、』
奈津がいない中始まった寂しい音楽に呆気を取られ、ブレスをするタイミングに出遅れた。
壮大なこの場面では、一瞬でもタイミングを逃すと次のブレスまで息がもつ訳がなかった。仕方なしに、ありえないタイミングでもう一度ブレスをとった。心の中で謝罪をしながら。
『あああああ馬鹿馬鹿馬鹿、なにやってんの……自分が集中しようって言ったのに』
脳内で何度も自分を殴りながら、周りの音を聞いてみる。3人の、特に茉莉花と奈津がいない穴が予想以上に大きかった。
「───はい、そこまで」
クライマックスに入るの直前で、小林が手を挙げ、ピタリと音が鳴り止んだ。
「金管、出だし。何度も言ってるけど、スコア見たら分かるけど、ソプラノサックスのソロはpなんだから、次に来る金管はこの曲を知らない人はもちろんだけど知ってる人も審査員もビビらせるくらいズドンとこないとしらけてダサいと思うけど」
「「はい!」」
正論のパンチが部員たちのメンタルに容赦なく殴りこまれる。
「……今、泉たちがいなくても、出来ることがないわけではない。集中しなさい、目の前のことに」
痛いところを突かれた。幹部の存在がこんなに大きいだなんて、想定以上だった。
奈津が木管の技術を導き引っ張っていったり、合奏中のユリカの小林に叱られない程度のちょっとした小言で悪くなった空気を元通りにすることだったり。さらに茉莉花は奈津のように部員たちを引導できるほどの技術もあり、私語はほぼないが場を和ます雰囲気作りをユリカと同じぐらいわかっている。部長たち3人は、この1年を通して技術的、かつ精神的に大きな支柱となっていた。
3つの支柱がない今、ぐだぐだになっている部員たちを見て、3年生の引退後はこんな感じなのか、と考えてしまう。集中しようと自分から発言し、集中しろと顧問に言われ。それなのに今必要ない余計な思考がブレーキをかけてくれない。
何度も小林の指示に従ってやり直すが、自分が集中出来ていないことにどんどんイライラし始め、音にも影響してしまって挙句の果てにはトランペットに抜けて、と3文字が飛んでしまった。
「茜、ごめんね」
もしトランペットが抜けた理由が自分にあるのなら、とまた別の思考がよぎり、気付けば右にいる茜に謝罪していた。
「いえ、私ももう少し吹きます。先輩、お聞き苦しいんですけどさっきから調子悪いですか?」
「いや、そういう訳では、ないん、だけど……」
口が引き攣り、はは、と情けなく苦笑いする。
茜は顔色ひとつ変えずに、無表情のまま
「そうですか、バテてるなら無理されなくても大丈夫です」
とだけ言った。
「うん、ありがと」
『あ、やばい、泣きそう』
いつの間にか鼻の奥がツンとしていた。少しでも気が緩めば、涙の溜まったダムは決壊しそうだ。
「大丈夫?」
声をかけてきたのはまたしても隣の蒼だった。今彼の顔を見たら完全に泣いてしまうだろう。
「うん」
前を向いたまま、掠れた声で返事して小さく頷いた。涙はギリギリ流していないが、誰がどう見たって凛奈は泣いている様にしか見えないのだ。
「先輩、泣いてる暇なんてありませんよ」
「……」
後輩に淡々とそんなことまで言われてしまうなんて悔しかったが、正論だ。
「いま後輩にそんなこと言われて悔しいなんて思いました?じゃあ少しは先生の話聞いたらどうです」
「ばッか、言い過ぎ」
茜の隣で全て見ていた早苗が茜の頭を軽く叩く。
「……すみません」
「凛奈、あんたもだよ。自分で集中しようとか言っときながらなにそれ」
「ごめんなさい……」
先生にも先輩にも後輩にも怒られて、情けない。マイナス思考は止まらない。
左前に目を向けると、ユーフォニアムの1、2年生も同じような空気だった。いつも向上心を表に出している修斗でさえも、そわそわとどこか落ち着きがない。
「……みんな、気にしてるんだよ、お前だけじゃない。それぐらいあいつらの存在が大きいってことだ。だけどさ、それを今目の前にまで引き摺ってたら、キリなくない?」
「……」
小林がアドバイスをしている最中に、蒼が小声でぽそりと呟き、また楽器を構えた。
茜や蒼、早苗が先程から凛奈に話しかけるのは、励ましだとか、そんなのではない。ただ、集中しろと言う圧だとしか思えなかった。
『……やっぱり、1人は怖い』
自分でも薄々気付いていた。立場的には当たり前なのかもしれないが、他の2年生に比べて抱え込んでいる問題や気になることが莫大なのだ。
もう1人ぐらいいて欲しい。少し前にそんな考えもしたことがあったが、あの時は自分と周りの距離感に穴埋めを求めるように考えていた。だが今は少し違う意味で、もう1人自分と同じ立場の誰かがいて欲しいと感じたのだ。どんどん、自分が1人である気がして怖くなっていく。
「……じゃあ、トランペット入ってきて」
「「はい」」
「は、い」
これ以上考えていると、耐えられなくなる。本能でそう考え、タオルで強引に目元の汗と溜まった涙を拭い、深呼吸をした。
『今は考えるのを、辞めよう』
そう、自分の腕を引っ掻いた。
勝手に1人で感情的になっていく凛奈をみて、小林は小さくため息をついた。
「じゃあ、休憩しようか。15分後に再開で、木管の連符のところから。水分補給しっかりするように」
「「はい」」
いつもより少し早いが、合奏が始まって30分、休憩が挟まれた。
「凛奈、落ち着けよ」
「……ごめんなさい」
無理やり思考をシャットダウンして、小林の言葉だけに耳を傾け、なんとかやり遂げたのはやり遂げた。もちろん納得できるかと言ったら全くで、チラリと視線だけを右に動かすと、いつも自分のことを慕っている後輩はブスリとふてくされていて、水筒を片手に目を伏せた。
「おい」
「え、」
顔を上げると、凛奈の目の前で小林が仁王立ちしていた。
「一緒に来い。頭冷やせ。それと、泉たちはどこだ」
凛奈に返事をする間も与えず、スタスタと音楽室から出ようと歩いた。
「えっ!ちょ、待って……!先輩たちは楽器庫です!」
小林の後を追いかけて、椅子と椅子の間をすり抜けて言った。




