1人じゃだめです。
「……そろそろ行かないとね」
金管セクションで、ユリカがそう告げた。
「「はい」」
時刻は既に4時だ。あと10分でチューニング開始だ。結局、茉莉花は戻ってこなかった。
「たぶんそろそろ戻ってくるだろうから、みんな先に行ってて。あたしここで茉莉花のこと待ってるからさ」
そう言ってにこりとユリカが笑った。他の部員たちは頷き、動き出した。だが凛奈は立ち上がれなかった。
「……凛奈先輩、行かないんですか?」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。行くね」
慌てて楽器と譜面台、荷物をもってそそくさと音楽室に向かう。前にいる先輩や同級生、後輩たちを大股で早歩きで、どんどん抜かして音楽室にたどり着く。合奏はたしか自由曲からだ。既に並べられてある座席に荷物を置き、楽器をスタンドにさしてまたセクションを行っていた教室に戻る。
「ゆ、ユリカ先輩。茉莉花先輩の荷物だけでも、先に持っていきませんか?」
そう言いながら扉を開ける。ぱちぱちと驚いたように瞬きをしたユリカは、茉莉花の譜面や荷物をまとめていた。
「うん、そうしようと思って。……凛奈、茉莉花の楽器、持ってくれる?」
「あっ、……えっと、いいんでしょうか」
「うん、廊下とかぶつける心配なさそうだから、大丈夫だと思うよ」
さすがに、学校の備品ではなく人の私物の楽器となると抵抗がある。だが、ユリカは手が譜面台や鞄で塞がっている。仕方なしに、ゆっくりとユーフォニアムを手に持った。
「……あ、ユリカ、凛奈ちゃん!」
奈津がソプラノサックスを首から掛けたまま、こちらに向かってきた。
「ノノカから、茉莉花途中でセクション抜けたって聞いて。大丈夫……じゃなさそうだね、まだ戻ってきてない?」
沈んだ顔に、頷くことしか出来なかった。
「とりあえず、荷物を戻すから。それからちょっと探しに行こう。でも茉莉花も気持ち切り替えて戻ってくると思うよ」
それだけ言うと、ユリカも凛奈も楽器と荷物を置いて、杏と綾乃、それから樹奈に合奏に遅れるかもしれないと伝えて奈津の元へ戻る。
「そんなに遠くにはいないと思うよ」
「そうだね、5分したら戻ろうか。あたし北館側の校舎見てくるから、奈津、こっち側回ってきて。凛奈はここで待っていてくれる? 合奏始まったら参加しといて構わないから」
「わかった」
「わ、私も探しにいきます」
奈津は同意したが、凛奈はユリカの指示を否定する。
「だーめ。金管のトップが抜けたら困るから。ね? あたしたちも早く戻ってくるし。号令だけお願いするね?」
奈津は凛奈の肩に手を置き、まるで本物の姉のように凛奈に言い聞かせた。普段は長女で、双子の弟と義理の妹がいて、甘えることの出来ない凛奈は奈津の説得にめっぽう弱い。
「わ、わかりました……」
渋々と目を伏せる。それじゃ、と目を合わせ、副部長2人は走って行ってしまった。
「……」
ふと、いつもなら不用心ながらも練習中ならいつも開いている扉が閉まっていることに気付く。
『なんだろう、この違和感』
直感で、ゆっくりと引き扉に手を伸ばす。むわりと熱気が凛奈にまとわりつく。
『いるわけ、ないよね』
楽器庫に入ってすぐ見回すが、彼女の姿は予想通りなさそうだ。当たり前の静けさに、楽器庫を退出しようとしたその時。
「……っう、……」
呻き声のような、嗚咽のような。空耳かどうかも分からないような声に振り向き、もう一度目で誰もいないか確認する。
「ま、茉莉花先輩!?」
そう、よく見たのだ。よく確かめて見れば、ドラムセットの影に隠れて蹲る茉莉花の姿があった。
慌てて駆け寄った。
『ど、どうしよ、どこか具合、悪いのかな』
「……っ、」
長い髪で顔が見えない。1つ分かることと言えば、セーラー服の腹部を握りしめていることだけ。
「ま、茉莉花先輩、私です、凛奈です。だ、大丈夫ですか?」
聞いてみるが、どこからどう見ても大丈夫ではないだろう。馬鹿な自分を自分で殴りたくなった。
「お、お腹痛いですか? ここ暑いから、と、とりあえず保健室行きますか?」
どうしよう、どうしようとおろおろしてしまう。彼女のの弱っている姿なんて滅多に見ない。最後に見たといえば春コン終わりの楽器運搬ぐらいだろう。
「……」
声を押し殺している茉莉花を見て、動ける気がしなかった。
「だ、誰か……せ、先生、先生呼んできます、待っててくださ……ぇわ!?」
背中をさすっていた手を離し、立ち上がった瞬間に、今度は逆に腕をぱしっと掴まれ、バランスを崩して座り込んだ。
「だ、だめ……」
「で、でも」
「大丈夫、だから……誰も、呼ばなくて、大丈夫……」
そう言いながらゆっくり顔を上げた。やっと初めて顔を確認できたと思えば、冷や汗をかいていて顔面蒼白。心配させないようにと無理やり口角を吊り上げて笑っているが、どこからどう見ても大丈夫なはずがない。
「そんな、茉莉花先輩。自分いまどんな顔色してるかわかってますか? 本当にに真っ青なんですよ。不甲斐ないけど私1人じゃ、どうにも出来ません。だから、」
たらたらと自分まで汗が流れ落ちる。どうして、どうして助けを呼んだら駄目なのか。
「や、やめて! みんなに、めいわく……っいた、」
「ほらやっぱり痛いんじゃないですか!お願いします、手、離してください」
後輩に怒鳴られることなんて初めてだろう。もちろん此方だって先輩の怒鳴るのなんて初めてだ。ついに「痛い」と口に出してしまい、顔を顰めて俯いた。
「あっ、」
お願いしますなどと言っておきながら、本当に中学生の女子なのかと疑うほどの握力で握りしめられた手を強引に引き剥がし、振りほどいた。
外に出ると既にチューニングが始まっていた。
「凛奈! 茉莉花戻ってきた?!」
「どこにもいないの」
音の聞こえる扉の反対側から、副部長2人が焦った表情で戻ってきた。
「い、いました! その、楽器庫に」
「楽器庫?」
「あの、お腹痛いみたいで動けな───」
それを聞いた途端、凛奈が最後まで言い終える前に2人は瞬時に動いた。
「茉莉花、ちょっと大丈夫!?」
「どうしたの茉莉花。お腹痛いんだよね、吐き気とかは?」
奈津とユリカは茉莉花の隣にしゃがみ、奈津は手を背中に置いた。
「ユリカ、水分とかとってきてくれる?」
「うん、たしか胃薬私持ってるから、行ってくる」
「お願い」
「ふたり、とも……合奏、始まる、から……」
苦しそうに口を開く。痛みに耐えることに必死できちんと呼吸ができていないのだ。
「なにいってんの、こういう時は、1人じゃ駄目でしょう?」
そう言って、奈津は茉莉花を抱きしめて頭を撫でる。
「……凛奈ちゃん、合奏に戻っといてくれる? 小林先生も呼ばなくて大丈夫だから」
「え、よ、呼びます! 呼んで私もここにいます!」
「駄目、必要以上の人数はいらないよ。茉莉花1人は駄目だけど、たくさんいたら茉莉花も後で落ち込んじゃうし。それに、さっきも言ったけど金管のトップがいなかったら困るから。大丈夫。茉莉花が体調悪いって教えてくれてありがとう。今は私たちがついててあげるから、先生も呼ばなくて大丈夫。茉莉花、気にしちゃうから」
『……それに、部長の弱みを見せて次期部長に変な不安を与える訳にはいかない。茉莉花は特別1人で溜め込むタイプだから……。凛奈ちゃんはまだどう言ったタイプかわからない。だから余計な事を入れ知恵しないのがいまは正解だ』
そう言うと、奈津は空いている方の手で凛奈の背中を押して方向を変えさせ、もう一押しトンと背中を押した。
「大丈夫だから。私を信じて」
落ち着いたその言葉に、凛奈はもう振り向かなかった。
『……私じゃなくても、大丈夫。出しゃばるな、今私にできることは……』
頭の中を切り替えてすぅっと深呼吸をする。
「───はい。みんなを、引っ張ってきます」
そう、自分はトランペットのトップだ。金管のトップだ。2年生リーダーだ。次期部長だ。現副部長から号令を任された。耐性だとか貫禄のない凛奈にとってはそれだけでも怖い1歩だったが、今はやるしかない。自分が今することを考えた瞬間、自然と足が動いた。
「あの子、何に気合い入ってんの?」
水筒や必要なものを取りに行っていたユリカが、すれ違った凛奈をみてぽかんと口を開ける。
「奈、津……」
弱々しい声で、茉莉花は奈津のセーラー服の裾をきゅっと握った。
「はいはい、私もユリカもちゃんといるから。茉莉花、1人になるのは駄目だよ。弱みを見せたくないかもだけど、1人は辛いから、しんどいから駄目だからね」
そう言って、茉莉花の背をさすり続けて凛奈の出ていった方を儚く笑顔で見ていた。




