残り1週間
合宿翌日。午前はゆっくりと体を休め、午後からの練習となっていた。
「こんにちは」
「ああ、凛奈ちゃん」
「やっほー。あっついねぇ」
夏休みに入ってから、幹部4人で小林と練習メニューを決めるようになっていた。
いつもの集合場所に来ると、既に奈津とユリカがいた。茉莉花はまだのようだ。
「茉莉花先輩、大丈夫ですかね」
「まあ、あれはメンタルやられるよね。部長が1番必死だから」
「体調、崩してなければいいんだけど……」
そう言って、副部長2人は苦笑いした。
「おふたりは、大丈夫なんですか」
「まあ、なんとかね。もうここまできたら自分のメンタルなんて殺してる。じゃないと、後輩たちにも、同級生にも指示なんて出してらんない」
「うん、まあでも、あたしはまだ綾乃がいるから助かってるかな。自分のことで精一杯なところもあるし……。でも、奈津は昨日の最後の通しなら先生が指揮棒折るのも分からなくなかったんじゃない?」
「うん、だってなんていうか。前もそこ言ったじゃん! てところがいっぱいあった。特にクラリネット」
「連符ばっかり、音域の幅広いし、自由曲苦労しますね」
決して、クラリネットパートの技術が他パートに比べて劣っている訳では無い。吹奏楽は、クラリネットが重要であると言っても過言ではない。そして今年の自由曲は、クラリネットはオクターブやハーモニーが平行した連符や、音圧が要になるところばかりなのだ。そして、合宿を経て新たに加わったパート、アルトクラリネットとE♭クラリネット。音域がとても広い。
「あと1週間、か。なんとかなればいいんだけどね」
「ごめん、遅れた!」
パタパタと足音が聞こえ、そちらに目を向けると、いつもの様に、向日葵みたいに眩しい笑顔の茉莉花が走ってやってきた。
「あ、来たね。よし、職員室行こうか」
茉莉花がとノックをして職員室の扉をゆっくりと開けた。
「失礼します。吹奏楽部部長の泉です。小林先生いらっしゃいますか?」
「4人とも入っていいぞ。暑いだろ」
失礼します、と言って、職員室に足を踏み入れる。
職員室の扉が境目に、空気が変わる。冷房が完備されているのだ。冷えた空気に、体にまとわり着いていた熱気が逃げていき、汗で体が冷えていく気がする。
「お待たせ。ゆっくり休めたか?」
「あ、はい。こんにちは」
茉莉花がそう言って顔を上げると、ぎょっと目を見開いた。奈津はぽかんと口を開けているし、ユリカに関してはぴしりと石のように硬直した。
3人の視線の先を振り返ると思わず口にしてしまった。
「あ、小林先生、今日は眼鏡なんですね」
「ああ、うん。目の調子が悪かったから、コンタクトは諦めた。疲れが取れなかったかな」
こめかみを押さえながら、歳かな、と笑う小林は、いつもよりも堅苦しく見えた。
「イエ、そんなことないデス!」
ぎこちなく否定する3年生たちには、なにかありそうだった。後で聞いてみることにしよう。
「じゃあ、今日の予定。今日は終了を遅らせて6時に練習終わり。これはみんなわかってるよな?」
「はい」
「1時から30分間基礎合奏をして、それから3時まではパート練習にしよう。昨日のトップ練習で合わせたところを要確認して。金管と木管、1番ヤバいところをセクションリーダー、合奏リーダーたちで決めて、4時までセクションしよう。その間パーカッションはパート練習。で、4時15分から2時間合奏。今日はこれでいこう」
「はい」
茉莉花がメモをとる。
「今日は単純なスケジュールだから、その分できることはいっぱいあるだろうから。密度のある練習をするように」
「「はい!」」
*
「失礼しました」
そう言い残し、職員室の扉をまたゆっくりと閉じた。
「あの、せんぱ……」
「こ、怖かったああああ」
「へ? せ、先輩」
ユリカが大袈裟に肩の力を抜いた。
「……1年半ぶりの襲来か」
「あ、待ってあたしトラウマ」
「先生の話全然頭に入んなかった、メモ間違ってないよね? 話の内容黒縁メガネに全部もっていかれたわ」
口々に言葉を発する先輩たちに凛奈は唖然とする。
「な、なにかあったんですか?」
「そっか、凛奈知らないんだね」
「そう、あれは私たちが1年生の時……」
*
「……なるほど」
茉莉花たちの話を聞いてみると。
1年半前、茉莉花たちが1年生だった頃。ちょうど春コンの3日前に、小林が同じように眼鏡をしてきたらしい。そして、3日前にも関わらず、手こずってばかりでなにも改善が見られなかった部員たち───とくに1年生に向かって、なんと小林は怒鳴ってしまったようだ。そして、その日現3年生は最初で最後だった小林の眼鏡を掛けている姿がトラウマのようだ。コンタクトを使用している者からすれば、眼鏡はやはり少し視界がぼやける。なので、小林の目付きも悪かったらしく、小林が眼鏡を掛けている日は現3年生部員たちの脳に厄日として埋め込まれたらしい。
「ま、まあ、私も怒鳴られたことありますし……」
そう自分を指す。そう、去年のソロの演奏に対して小林に喝を入れられたのだった。
「いや、あんなの可愛いもんだよ」
「え」
思わず低い声が漏れる。
「と、とにかく! 私たち幹部と演奏リーダーが率先してやっていくしかありません! 小林先生が眼鏡だろうがなんだろうが、頑張っていきましょう!」
『あれ、』
ニカッと笑って両手に拳を作る。だらだらと汗がこめかみを伝って顎へと流れ落ちる。
『なんか、これ、私が言うのなんか違和感……』
「うん、今日も頑張らなくちゃね」
『もしかして、』
「そうだね、あと1週間頑張らなくちゃ」
『先輩たちも、疲れてる?』




