選ばれた者
「乃愛に渡したい物があるんだー」
「え、なになに? もしかして愛のプレゼントですか?」
乃愛と練習室へ向かう途中、パン、パンと手を叩く音と一緒に、おぼつかないクラリネットの音が聴こえてきた。
「……すみません、ほんと全然上達できなくて」
「未羽。そんなの気にしなくていいんだよ。誰だって急には上手くなれない」
クラリネットの未羽と、パートリーダーの和音の声だ。凛奈は思わず影に隠れ、乃愛もその背中にくっついた。
「でも、先輩の練習時間まで削ってしまって……」
「なーに言ってんの。それがパートリーダーの仕事なんだから」
2人の顔は見えないが、未羽は明らかに元気がない。
「どうしたの急に。なにかあった?」
「……その、先輩。本当に、私でいいんでしょうか……」
それを聞いた瞬間、乃愛はピクリと反応し、凛奈の背中を押した。
「え、ちょっ」
何か尋ねる隙もなく、乃愛は凛奈の手を握り、黙って練習室へ走り出した。
*
「待ってよ乃愛。なになに?なんなの?」
「ほんとに、未羽でいいのかな」
「は?」
もやもやしたような表情で、口を尖らせた。
「未羽ちゃんが嫌なの?」
乃愛にそう尋ねると、ぶんぶんと首を振った。
「乃愛は、嫌じゃないですけど……」
ごにょごにょと1人ごちる。
「乃愛も、なにかあったの?」
「なにもなかったですけど……」
キィ、と練習室の扉を開ける。
「なんか、その。都が」
「都? ってパーカッションの?」
と言いつつも、扉を開けた先で練習しているのはそのパーカッションパート。もちろん都はいないが。慌てて、小声で乃愛に尋ねた。
「んー、なにもなかったらいいんですけどねー」
と、結局話を逸らしてしまった。
「もー、なんなのよ」
「せっかくの楽しい合宿だし、終わったら言いまーす!」
と、ストンと自分の席に座った。
「はいはい。わかったよ」
凛奈は追跡しすぎる自分をあまり好まない。
だからそっとしておく。本人達から来ない限り、ずっと。
『自分もなかなか卑怯だな……』
はぁ、と大きなため息をつきながら、自身のかばんを漁った。
「乃愛、これあげる」
取り出して彼女に差し出したのは、額に貼る冷却シートだった。
「わぁ! 冷えピッタンだ! いいんですかー? もらっちゃって」
気分が上がった乃愛はばたばたと足を動かす。
「うん。蒼先輩がね、乃愛は平熱が高いから暑がりって言ってたから。よくパート抜け出して涼みに来てるでしょ?」
「えー、お兄ちゃんそんなこと言ってたんですか」
乃愛はけたけたと笑っている。
「先輩、つけてくださいよー」
「しょうがないなあ」
乃愛が自身の揃った前髪をあげ、額を見せる。
「髪の毛巻き込まないでくださいね」
「はいはいかしこまりました」
やはり兄妹だからだろう、彼女のくっきりとしたカーブの目元は兄に似ていた。
「ひゃ、冷たあー」
なにが可笑しいのか、彼女はまたけたけたと笑っている。
それを見て気持ちが綻んだところで、ハッと我に返った。
「やば、戻らなきゃ」
休憩が始まってから既に30分が経過していた。少し休みすぎたか。
急いで立ち上がる凛奈とは対照的に、乃愛はのろのろゆっくり立ち上がった。
「2人とも遅い!」
その時、練習室の扉が開いた。杏だ。相当起こっている様子だ。びっくりしたのは凛奈と乃愛だけではなく、パーカッションたちも驚いて音がなくなる。
「もう30分経ってるんだよ? 」
なかなか腹を立てない杏だが、30分も練習に戻らなかったら誰だって怒るだろう。
「時間守らないってそれ2人の意識が───どうしたの? 熱?」
コロリと彼女の形相がいつもの“杏”に戻る。そして乃愛に近ずいた。そうか、冷却シートを貼った乃愛の額を見たのだ。
「え、あのいや、これはその……」
「どうしよ……とりあえず先生に相談? あーその前に乃愛ちゃんどっかで休まなきゃ……」
右往左往する先輩に、こちらまで焦ってしまう。
「せ、先輩! 違います、大丈夫ですって。これはその、乃愛、暑がりなんです! だから凛奈先輩に貰って……」
それを聞いた瞬間、ピタリと動きが止まり、へなりと力が抜けていくのが分かった。
「なんだ……てか、紛らわしいことしないでよ。ほら、戻るよ!」
「ぷっ。はーい」
「あ、待って、早苗先輩のチューナー!」
くすくすと笑う2人に、その恥ずかしさを誤魔化すように強引に手を引っ張った。




